2016年11月
2016年11月28日
2016年11月25日
地域の名産
出張が増えて面白いと感じるのは、
さまざまな所で地方色が感じられることです。
なかでもコンビニは同じように見えるからこそ
その中身の違いに気づくことができます。
もちろんコンビニの種類そのものにも地方色があるようです。
札幌にはセイコーマートという北海道を起点とするチェーンがあるようですし、
名古屋はサークルKが他よりも多い印象があります。
それ以上に品揃えの違いが興味深いんです。
名古屋では自然と、いわゆる「名古屋メシ」の種類のものが目につきます。
パンのコーナーにも小倉マーガリンがよく見られたり、
赤味噌系のものも見受けられたりします。
豚汁なんかも赤味噌なのは、いかにも名古屋という感じでしょうか。
大阪はレジ横の揚げ物コーナーに種類が多いようです。
とり天とか、ちくわ天とか、天ぷらものも並んでいます。
もしかすると麺類の味付けなんかも違うのかもしれません。
食べる機会がないので分かりませんが。
札幌の場合、ほかの地域にはないぐらいバリエーションが豊富です。
羊羹パンとか、ガラナとか、ラーメンサラダとか、やきそば弁当とか
地域色の強いものもコンビニにありますが、
セブンイレブンのオリジナル商品でも種類が多いんです。
パンなんかは他では見ないものが色々。
なんでも新商品を試す場所でもあるんだという話を聞きました。
さらに、他と同じ商品でも名称が違っている場合があります。
トウモロコシは「とうきび」と表記されています。
から揚げは「ザンギ」です。
あとは原材料の産地で北海道が強調されていたり。
「十勝産あずき」なんてのは良く見かけます。
そういえば山口に住んでいた時は
広島近辺で有力な「ポプラ」というコンビニが沢山あったものです。
地域ごとの文化の違いは、コンビニでも見て取れるようです。
輸送の手間を考えれば、地域ごとに基点を作って展開するのが妥当でしょうから
各地に合わせたものが生まれてくるんだろうと思います。
店内を見ているだけでも意外と楽しいものです。
さまざまな所で地方色が感じられることです。
なかでもコンビニは同じように見えるからこそ
その中身の違いに気づくことができます。
もちろんコンビニの種類そのものにも地方色があるようです。
札幌にはセイコーマートという北海道を起点とするチェーンがあるようですし、
名古屋はサークルKが他よりも多い印象があります。
それ以上に品揃えの違いが興味深いんです。
名古屋では自然と、いわゆる「名古屋メシ」の種類のものが目につきます。
パンのコーナーにも小倉マーガリンがよく見られたり、
赤味噌系のものも見受けられたりします。
豚汁なんかも赤味噌なのは、いかにも名古屋という感じでしょうか。
大阪はレジ横の揚げ物コーナーに種類が多いようです。
とり天とか、ちくわ天とか、天ぷらものも並んでいます。
もしかすると麺類の味付けなんかも違うのかもしれません。
食べる機会がないので分かりませんが。
札幌の場合、ほかの地域にはないぐらいバリエーションが豊富です。
羊羹パンとか、ガラナとか、ラーメンサラダとか、やきそば弁当とか
地域色の強いものもコンビニにありますが、
セブンイレブンのオリジナル商品でも種類が多いんです。
パンなんかは他では見ないものが色々。
なんでも新商品を試す場所でもあるんだという話を聞きました。
さらに、他と同じ商品でも名称が違っている場合があります。
トウモロコシは「とうきび」と表記されています。
から揚げは「ザンギ」です。
あとは原材料の産地で北海道が強調されていたり。
「十勝産あずき」なんてのは良く見かけます。
そういえば山口に住んでいた時は
広島近辺で有力な「ポプラ」というコンビニが沢山あったものです。
地域ごとの文化の違いは、コンビニでも見て取れるようです。
輸送の手間を考えれば、地域ごとに基点を作って展開するのが妥当でしょうから
各地に合わせたものが生まれてくるんだろうと思います。
店内を見ているだけでも意外と楽しいものです。
2016年11月23日
こだわりの方向性が変わる
コミュニケーションとかNLPとかのトレーナーをやっていると
他人の相談を受けたり、悩みに取り組むお手伝いをしたりすることが増えます。
最近は個人的にカウンセリングを受ける機会を減らす方向にしていて
その代わりに、講座の途中で質問に応える形で
内面的な取り組みのサポートをしたりすることが増えたようです。
セミナー中のメタファーもご参加の方のお悩みを踏まえながら選んで
講座の内容とは直接関係の薄いところで
内面的な課題にアプローチするようなスタンスになった気がします。
以前は、休憩時間中の質問から
「それについてはセミナーの内容の範囲を超えているので
個人セッションをお勧めします」
なんて返答することもそれなりにあったんですが。
おそらく悩み解決のお手伝いを仕事にしたい気持ちが強かったんでしょう。
このあたりに関していうと、
セミナー中のデモのスタイルにも反映されていたようです。
技術をとにかく身につけたくて、いろいろと試してみたかった時期は
個人セッションも積極的に受けようと頑張っていた頃でもありますが、同時に
効果を最大限に高めるために多くのことを色々と詰め込もうとしていた気がします。
知っているワーク、効果がありそうな技法などを沢山盛り込むことで
一度のセッションや一日のセミナーを豪華で凄いものにしようとしていた感じ。
中華料理でいうと満漢全席を振る舞おうとするかのようなイメージでしょうか。
当時はセミナー中のデモであっても、テキスト通りではないことをしたり
効果がありそうなワークを思いついたらやってみようとしたり、
とにかく色々とやってみたかったんだと思います。
セミナーにも数多く参加して、手法を色々と知りたかった時期でもあります。
この頃の経験を通じてワークの原則や、どのようにして変容が起こるかなど
人の心の仕組みを理解するための経験を積ませてもらいました。
料理一品あたりの仕上がりは低くても豪華なメニューだったとは感じています。
その後、セミナー中の内容を出し惜しみする時期がやってきました。
なんでもかんでも詰め込むのではなく、
セミナーのカリキュラムとして決まっていることを
丁寧にやっていく感じです。
この頃はセミナーそのものの分かりやすさ、内容の伝わりやすさを重視していて
あまりテキストから大きく逸れたことをしないようにしていました。
他のセミナーに参加したり、本やビデオを見たりして学んだ技法も
ストックとしては色々と持っていたと記憶していますが、
沢山持ってはいても使おうとはしていなかったようです。
逆に言うと、原理や原則のようなものが掴めていたのかもしれません。
色々とやらなくても原理が分かっていれば効果の出るものを
やたらと詰め込まなくても大丈夫だと思っていたようです。
1つのセミナーでは決まった内容だけに絞っておいて
他の手法は別の機会で紹介する。
そういう割り切りもありました。
その分、個人セッションでは柔軟性を発揮して、
目の前の相手にとって効果の高そうな方法を
その場で工夫していくようなことを好んでいた気がします。
「深入りした内容は個人セッションで」というスタンスもこの時期です。
中華料理でいうと、いくつかコースメニューがあって
コースの範囲で一番美味しく作れるように努力する感じでしょうか。
その一方で日替わりメニューとか、一品もののアラカルトもあるようなイメージ。
見た目の豪華さは減ったものの、コースメニュー全体のバランスを考えたり
1つ1つの料理の味を高めたりはできてきた頃だと感じます。
それから人の心の変容について、本質が掴めてきたような印象が出て
変容が起こるのに派手なワークは必ずしも必要ではないと思い始めました。
セミナーの内容がどんなものであっても、
個人的な内面の課題を扱わないコミュニケーションのセミナーであっても、
セミナーという場で人と人が関わることを通して
気持ちが楽になったり悩みが減ったりしていくことを見てきたんです。
それから技法へのこだわりは小さくなりました。
中華料理の喩えだと、料理が美味しいかどうかに注意を向けていたけれど
どんな栄養が摂れるかも大事だったんだと思い始めた感じです。
漢方とか医食同源を気にし始めたイメージでしょうか。
足りなかった心の栄養を補う。
そのための工夫に気持ちが向いてきた気がします。
セミナーの内容や形、関わりの立場なども
あまり気にしなくなったようです。
最近はセミナーの種類が限定されてきていて
同じような構成のものを繰り返すことが日常となっています。
以前は同じ内容を何度もやるのは嫌だったんですが
それも工夫したい気持ちの表れだったんでしょう。
内容や形が重要ではないと実感してきたからこそ
同じ内容であっても気にすることなく取り組めるようになったのかもしれません。
中華料理でいえば、決まったコースメニューを繰り返していますが
医食同源のスタンスから、その座席のお客さんの健康状態に合わせ
少しだけ素材や調理方法をアレンジしてお届けする感じ。
一品ものや日替わりなどのアラカルトは
さまざまな制約から控えている状態でしょうか。
以前のように自信の一品を食べてもらいたい欲求はなく、
むしろ決まったコースメニューでもベストを工夫できる分
わざわざ特別な機会を必要としなくなったとも言えますから、
アラカルトを我慢しているわけではありません。
提供したいとは感じていないだけのことのようです。
ですからセミナーのスタイルは、いたって決まった通りの内容を
テキストに沿った流れで進める感じだと思います。
流れを大きく外れることはしないようにしていますし、
実習の時間がスムーズになるように分かりやすいデモを心がけています。
とはいえ、以前に割り切ってカリキュラムだけをやっていた頃とは
気を配っている範疇が違っていると思います。
今はカリキュラム通りにやっても、その場での交流を通して
心の栄養補給という観点から効果を出そうとしている感じです。
説明部分ではメタファーに工夫をしたり
一人一人のワークの実感度合いが上がるようにサポートをしたり
前よりも繊細なお手伝いの形になっている気がします。
欲張らずにベストを尽くせるようになったのかもしれません。
コースメニューはありきたりな中華のセットでも、
高級食材をふんだんに使ったセレブな中華料理店でもありませんが、
1つ1つの料理には丁寧な仕事がなされているようなイメージでしょうか。
ただのシンプルなチャーハンや餃子だけれど、ちゃんと美味しい。
そんな感じを心がけているように感じます。
随分と移り変わってきたみたいです。
他人の相談を受けたり、悩みに取り組むお手伝いをしたりすることが増えます。
最近は個人的にカウンセリングを受ける機会を減らす方向にしていて
その代わりに、講座の途中で質問に応える形で
内面的な取り組みのサポートをしたりすることが増えたようです。
セミナー中のメタファーもご参加の方のお悩みを踏まえながら選んで
講座の内容とは直接関係の薄いところで
内面的な課題にアプローチするようなスタンスになった気がします。
以前は、休憩時間中の質問から
「それについてはセミナーの内容の範囲を超えているので
個人セッションをお勧めします」
なんて返答することもそれなりにあったんですが。
おそらく悩み解決のお手伝いを仕事にしたい気持ちが強かったんでしょう。
このあたりに関していうと、
セミナー中のデモのスタイルにも反映されていたようです。
技術をとにかく身につけたくて、いろいろと試してみたかった時期は
個人セッションも積極的に受けようと頑張っていた頃でもありますが、同時に
効果を最大限に高めるために多くのことを色々と詰め込もうとしていた気がします。
知っているワーク、効果がありそうな技法などを沢山盛り込むことで
一度のセッションや一日のセミナーを豪華で凄いものにしようとしていた感じ。
中華料理でいうと満漢全席を振る舞おうとするかのようなイメージでしょうか。
当時はセミナー中のデモであっても、テキスト通りではないことをしたり
効果がありそうなワークを思いついたらやってみようとしたり、
とにかく色々とやってみたかったんだと思います。
セミナーにも数多く参加して、手法を色々と知りたかった時期でもあります。
この頃の経験を通じてワークの原則や、どのようにして変容が起こるかなど
人の心の仕組みを理解するための経験を積ませてもらいました。
料理一品あたりの仕上がりは低くても豪華なメニューだったとは感じています。
その後、セミナー中の内容を出し惜しみする時期がやってきました。
なんでもかんでも詰め込むのではなく、
セミナーのカリキュラムとして決まっていることを
丁寧にやっていく感じです。
この頃はセミナーそのものの分かりやすさ、内容の伝わりやすさを重視していて
あまりテキストから大きく逸れたことをしないようにしていました。
他のセミナーに参加したり、本やビデオを見たりして学んだ技法も
ストックとしては色々と持っていたと記憶していますが、
沢山持ってはいても使おうとはしていなかったようです。
逆に言うと、原理や原則のようなものが掴めていたのかもしれません。
色々とやらなくても原理が分かっていれば効果の出るものを
やたらと詰め込まなくても大丈夫だと思っていたようです。
1つのセミナーでは決まった内容だけに絞っておいて
他の手法は別の機会で紹介する。
そういう割り切りもありました。
その分、個人セッションでは柔軟性を発揮して、
目の前の相手にとって効果の高そうな方法を
その場で工夫していくようなことを好んでいた気がします。
「深入りした内容は個人セッションで」というスタンスもこの時期です。
中華料理でいうと、いくつかコースメニューがあって
コースの範囲で一番美味しく作れるように努力する感じでしょうか。
その一方で日替わりメニューとか、一品もののアラカルトもあるようなイメージ。
見た目の豪華さは減ったものの、コースメニュー全体のバランスを考えたり
1つ1つの料理の味を高めたりはできてきた頃だと感じます。
それから人の心の変容について、本質が掴めてきたような印象が出て
変容が起こるのに派手なワークは必ずしも必要ではないと思い始めました。
セミナーの内容がどんなものであっても、
個人的な内面の課題を扱わないコミュニケーションのセミナーであっても、
セミナーという場で人と人が関わることを通して
気持ちが楽になったり悩みが減ったりしていくことを見てきたんです。
それから技法へのこだわりは小さくなりました。
中華料理の喩えだと、料理が美味しいかどうかに注意を向けていたけれど
どんな栄養が摂れるかも大事だったんだと思い始めた感じです。
漢方とか医食同源を気にし始めたイメージでしょうか。
足りなかった心の栄養を補う。
そのための工夫に気持ちが向いてきた気がします。
セミナーの内容や形、関わりの立場なども
あまり気にしなくなったようです。
最近はセミナーの種類が限定されてきていて
同じような構成のものを繰り返すことが日常となっています。
以前は同じ内容を何度もやるのは嫌だったんですが
それも工夫したい気持ちの表れだったんでしょう。
内容や形が重要ではないと実感してきたからこそ
同じ内容であっても気にすることなく取り組めるようになったのかもしれません。
中華料理でいえば、決まったコースメニューを繰り返していますが
医食同源のスタンスから、その座席のお客さんの健康状態に合わせ
少しだけ素材や調理方法をアレンジしてお届けする感じ。
一品ものや日替わりなどのアラカルトは
さまざまな制約から控えている状態でしょうか。
以前のように自信の一品を食べてもらいたい欲求はなく、
むしろ決まったコースメニューでもベストを工夫できる分
わざわざ特別な機会を必要としなくなったとも言えますから、
アラカルトを我慢しているわけではありません。
提供したいとは感じていないだけのことのようです。
ですからセミナーのスタイルは、いたって決まった通りの内容を
テキストに沿った流れで進める感じだと思います。
流れを大きく外れることはしないようにしていますし、
実習の時間がスムーズになるように分かりやすいデモを心がけています。
とはいえ、以前に割り切ってカリキュラムだけをやっていた頃とは
気を配っている範疇が違っていると思います。
今はカリキュラム通りにやっても、その場での交流を通して
心の栄養補給という観点から効果を出そうとしている感じです。
説明部分ではメタファーに工夫をしたり
一人一人のワークの実感度合いが上がるようにサポートをしたり
前よりも繊細なお手伝いの形になっている気がします。
欲張らずにベストを尽くせるようになったのかもしれません。
コースメニューはありきたりな中華のセットでも、
高級食材をふんだんに使ったセレブな中華料理店でもありませんが、
1つ1つの料理には丁寧な仕事がなされているようなイメージでしょうか。
ただのシンプルなチャーハンや餃子だけれど、ちゃんと美味しい。
そんな感じを心がけているように感じます。
随分と移り変わってきたみたいです。
2016年11月21日
寝心地と夢
最近気付いたんですが、
どうもホテルに泊まると悪夢を見る確率が高いんです。
覚えている夢の多くが、日中に意識へ上がった内容から
連想されるようなものだなのに対して、
なぜかホテルだと変な夢が多いようです。
僕にとっての「悪夢」は、だいたいが虫の類い。
ウジャウジャした感じ。
…今こうして「ウジャウジャ」という文字を書いても
不快な気分になるぐらいなので、
夢に見た後の目覚めは良くありません。
まあ、そもそもホテルでは熟睡できていない気がしますし、
途中で起きるとこが多いのも関係するかもしれません。
ふと思ったのは、
隣の部屋からの騒音の影響もあるかもしれない
ということ。
イビキや水回りの男が漏れ聞こえてくると
そこから不快なイメージが連想されるんじゃないか?と。
寝返りも打ちにくかったり、
乾燥も酷かったり、
寝起きで身体が痛いことも多いですから、
悪夢が加わると体力が回復しない感じがします。
近頃はホテルの予約も取りづらいようなので
あまり贅沢は言えませんが、
疲れを溜める要因は避けたいものです。
どうもホテルに泊まると悪夢を見る確率が高いんです。
覚えている夢の多くが、日中に意識へ上がった内容から
連想されるようなものだなのに対して、
なぜかホテルだと変な夢が多いようです。
僕にとっての「悪夢」は、だいたいが虫の類い。
ウジャウジャした感じ。
…今こうして「ウジャウジャ」という文字を書いても
不快な気分になるぐらいなので、
夢に見た後の目覚めは良くありません。
まあ、そもそもホテルでは熟睡できていない気がしますし、
途中で起きるとこが多いのも関係するかもしれません。
ふと思ったのは、
隣の部屋からの騒音の影響もあるかもしれない
ということ。
イビキや水回りの男が漏れ聞こえてくると
そこから不快なイメージが連想されるんじゃないか?と。
寝返りも打ちにくかったり、
乾燥も酷かったり、
寝起きで身体が痛いことも多いですから、
悪夢が加わると体力が回復しない感じがします。
近頃はホテルの予約も取りづらいようなので
あまり贅沢は言えませんが、
疲れを溜める要因は避けたいものです。
2016年11月18日
予想外の感情
身体の固まったところには感情が溜まっているという考え方があります。
ライヒの『筋肉の鎧』という言葉を使っていたそうですし、
ハリウッドでやられる演技のトレーニングの中にも
個人の感情的な癖を取り除くために体の緊張に意識を向けて
そこを緩めていくものがあるらしいです。
実際、体の緊張した部位に注意を向けて、思い出される記憶を探っていくと
様々な感情的な出来事がよみがえってきます。
マッサージのような施術を受けていても
身体の固まりが緩むときに感情が沸いてきたり
昔の記憶がよみがえったりする経験があります。
自分で感情のわだかまりを解消しようとしたら
身体の緊張に意識を向けていくやり方もあるわけですが、
実際のところ、体の強張りに気づきにくい部位もあります。
そもそも体が固まるということは、その部分への意識の度合いが低く
普段から注意が向いていないから動かさないままで固まってしまい、
固まっていることにも気づきにくくなっている、というのが実情でしょう。
ですから「固まっている部分に意識を向ける」作業そのものが
それほど簡単ではないと思われます。
固まっている部分や緊張している部分を緩めようとしても
そもそも本当に固まっているところほど自覚すらできず、
緩める以前の段階で止まってしまいがちだ、と。
その点、マッサージのような施術を受けるのは効果的だと感じます。
自分では気づくことさえできない強張りを外からほぐしてもらえますから。
ただこの場合、本当にガチガチに固まっていることもあるようで、
「こんなところがこんなにも強張っていたのか!」と驚くほどです。
そして、強く押されると凄く痛い。
マッサージにおいて痛みを感じるほどの圧をかけるのかどうかには
流派や考え方によって違いがあるようですが、
自覚しずらい部位となると少しの刺激でも痛みが感じられるようです。
僕が最近発見したのは、脇のあたり(肩や腕の付け根近辺)には
自覚しにくいレベルで相当な固まりがあるということ。
しかも他の場所と違って、痛みの質が耐え難かったんです。
おそらく、ここには感情的なわだかまりも追加されていた気がします。
溜め込んでいた感情が強く結びついている場所。
ゆるめるときに感情が蘇る程度も大きかったようです。
他では感じたことのない「苛立ち」や「不満」が意識に上がりました。
別の場所だと痛みを堪えることもできますし、
痛くても気持ちがいい感じの場所もあれば、
痛くて逃げたくなるようなときも、謝りたくなるようなときもあります。
でも痛みに苛立ちが混ざったのは初めての体験でした。
どうも「脇のあたり」という場所が関係している気がします。
脇には内面の状態が色濃く表れるものです。
特に、生存レベルでの安心度合いが関係しそうな印象があります。
不安げな人や自信の小さい人ほど脇をしめている傾向が見受けられます。
ときにはギュッと脇の下の空間を閉めて、隙間をなくすようなことも。
逆に、地位や権力、格闘的な強さ、経済力などに自信がある人は
脇の下に空間を作っていたりします。
やってみると感じられるかもしれませんが、
脇の下を開けておくというのは意外と心細い感じがするものです。
実際、緊張した時には両肩が首の方向に近づくように力が入り、
脇の間がすぼまるようなことが頻繁に見受けられます。
おそらく僕の場合も、脇のあたりの強張りは
何らかの内面的な反応を反映していたんでしょう。
そこを緩めたときに苛立ちが出てきたということから推測すると
不満などを我慢して、グッと耐えていたような部分があったのかもしれません。
不満を感じても表に出さずに堪えるような傾向が
脇のあたりの痛みと連動した苛立ちに関係していた気がします。
自覚しずらい部分から出てきた反応だからこそ
普段は意識している以上の感情にも気づけたのだろうと思います。
自分だけで全てに気づくというのは難しいものだと実感しました。
ライヒの『筋肉の鎧』という言葉を使っていたそうですし、
ハリウッドでやられる演技のトレーニングの中にも
個人の感情的な癖を取り除くために体の緊張に意識を向けて
そこを緩めていくものがあるらしいです。
実際、体の緊張した部位に注意を向けて、思い出される記憶を探っていくと
様々な感情的な出来事がよみがえってきます。
マッサージのような施術を受けていても
身体の固まりが緩むときに感情が沸いてきたり
昔の記憶がよみがえったりする経験があります。
自分で感情のわだかまりを解消しようとしたら
身体の緊張に意識を向けていくやり方もあるわけですが、
実際のところ、体の強張りに気づきにくい部位もあります。
そもそも体が固まるということは、その部分への意識の度合いが低く
普段から注意が向いていないから動かさないままで固まってしまい、
固まっていることにも気づきにくくなっている、というのが実情でしょう。
ですから「固まっている部分に意識を向ける」作業そのものが
それほど簡単ではないと思われます。
固まっている部分や緊張している部分を緩めようとしても
そもそも本当に固まっているところほど自覚すらできず、
緩める以前の段階で止まってしまいがちだ、と。
その点、マッサージのような施術を受けるのは効果的だと感じます。
自分では気づくことさえできない強張りを外からほぐしてもらえますから。
ただこの場合、本当にガチガチに固まっていることもあるようで、
「こんなところがこんなにも強張っていたのか!」と驚くほどです。
そして、強く押されると凄く痛い。
マッサージにおいて痛みを感じるほどの圧をかけるのかどうかには
流派や考え方によって違いがあるようですが、
自覚しずらい部位となると少しの刺激でも痛みが感じられるようです。
僕が最近発見したのは、脇のあたり(肩や腕の付け根近辺)には
自覚しにくいレベルで相当な固まりがあるということ。
しかも他の場所と違って、痛みの質が耐え難かったんです。
おそらく、ここには感情的なわだかまりも追加されていた気がします。
溜め込んでいた感情が強く結びついている場所。
ゆるめるときに感情が蘇る程度も大きかったようです。
他では感じたことのない「苛立ち」や「不満」が意識に上がりました。
別の場所だと痛みを堪えることもできますし、
痛くても気持ちがいい感じの場所もあれば、
痛くて逃げたくなるようなときも、謝りたくなるようなときもあります。
でも痛みに苛立ちが混ざったのは初めての体験でした。
どうも「脇のあたり」という場所が関係している気がします。
脇には内面の状態が色濃く表れるものです。
特に、生存レベルでの安心度合いが関係しそうな印象があります。
不安げな人や自信の小さい人ほど脇をしめている傾向が見受けられます。
ときにはギュッと脇の下の空間を閉めて、隙間をなくすようなことも。
逆に、地位や権力、格闘的な強さ、経済力などに自信がある人は
脇の下に空間を作っていたりします。
やってみると感じられるかもしれませんが、
脇の下を開けておくというのは意外と心細い感じがするものです。
実際、緊張した時には両肩が首の方向に近づくように力が入り、
脇の間がすぼまるようなことが頻繁に見受けられます。
おそらく僕の場合も、脇のあたりの強張りは
何らかの内面的な反応を反映していたんでしょう。
そこを緩めたときに苛立ちが出てきたということから推測すると
不満などを我慢して、グッと耐えていたような部分があったのかもしれません。
不満を感じても表に出さずに堪えるような傾向が
脇のあたりの痛みと連動した苛立ちに関係していた気がします。
自覚しずらい部分から出てきた反応だからこそ
普段は意識している以上の感情にも気づけたのだろうと思います。
自分だけで全てに気づくというのは難しいものだと実感しました。
2016年11月15日
親子の伝承
以前から知っていたものだけど
改めて興味が高まる時期というのがあるのかもしれません。
最近、ふと『コア・トランスフォーメーション』について
色々と見直していました。
特に日本語でやった場合、どうしても翻訳の都合で
多少のニュアンスの違いが生じます。
開発者のコニリー・アンドレアスは言葉選びに敏感で
意図する方向で受け取ってもらいやすい質問や
意図しないニュアンスで解釈されないための言葉遣いを
物凄く慎重に選んでスクリプトを作るようです。
その部分をきちんと理解しておこうという気になったので
英語で調べてみることにしました。
その過程で、
マーク・アンドレアスというトレーナーを見つけました。
コア・トランスフォーメーションのセミナーを担当していたり、
NLPや催眠療法のセミナーもやっていたりするようです。
おそらくコニリーの息子でしょう。
年齢としても、見た目としても、そんな雰囲気。
父親は有名なNLPトレーナーのスティーブ・アンドレアス。
両親がトレーナーをしていると、
同じ道に進みたくなるものなんでしょうか。
何より興味深いのが、その話し方。
動画で見た感じですが、両親の特長が両方表れています。
全体に滑舌が悪く、アクセントのある母音をかなり伸ばし
弱化したところはボソボソ言う。
特に副詞や形容詞の強調の仕方がスティーブに似ています。
一方、文章の組み立てなど、全体的なところは
母親のコニリーに近い感じ。
中でも受講生のコメントに対する受け応えは
もうコニリーそっくり。
親子というのは話し方でも似てくるものなんだと感じました。
まあ、親としてコミュニケーションの見本になっただけでなく
トレーナーとしてのロールモデルでもあるわけですから
影響が強くても当然かもしれませんが。
おそらく僕の中にも両親の話し方の影響があるのでしょうし
教わってきた先生たちの影響も出ていると思います。
英語を客観的に分類できるほどの知見はないですが、
きっとネイティヴから見たら
誰かの影響があることが見て取れるんじゃないでしょうか。
知らず知らずのうちに受け継がれるものは
意外と多いんだろうと感じました。
改めて興味が高まる時期というのがあるのかもしれません。
最近、ふと『コア・トランスフォーメーション』について
色々と見直していました。
特に日本語でやった場合、どうしても翻訳の都合で
多少のニュアンスの違いが生じます。
開発者のコニリー・アンドレアスは言葉選びに敏感で
意図する方向で受け取ってもらいやすい質問や
意図しないニュアンスで解釈されないための言葉遣いを
物凄く慎重に選んでスクリプトを作るようです。
その部分をきちんと理解しておこうという気になったので
英語で調べてみることにしました。
その過程で、
マーク・アンドレアスというトレーナーを見つけました。
コア・トランスフォーメーションのセミナーを担当していたり、
NLPや催眠療法のセミナーもやっていたりするようです。
おそらくコニリーの息子でしょう。
年齢としても、見た目としても、そんな雰囲気。
父親は有名なNLPトレーナーのスティーブ・アンドレアス。
両親がトレーナーをしていると、
同じ道に進みたくなるものなんでしょうか。
何より興味深いのが、その話し方。
動画で見た感じですが、両親の特長が両方表れています。
全体に滑舌が悪く、アクセントのある母音をかなり伸ばし
弱化したところはボソボソ言う。
特に副詞や形容詞の強調の仕方がスティーブに似ています。
一方、文章の組み立てなど、全体的なところは
母親のコニリーに近い感じ。
中でも受講生のコメントに対する受け応えは
もうコニリーそっくり。
親子というのは話し方でも似てくるものなんだと感じました。
まあ、親としてコミュニケーションの見本になっただけでなく
トレーナーとしてのロールモデルでもあるわけですから
影響が強くても当然かもしれませんが。
おそらく僕の中にも両親の話し方の影響があるのでしょうし
教わってきた先生たちの影響も出ていると思います。
英語を客観的に分類できるほどの知見はないですが、
きっとネイティヴから見たら
誰かの影響があることが見て取れるんじゃないでしょうか。
知らず知らずのうちに受け継がれるものは
意外と多いんだろうと感じました。
2016年11月12日
期間限定だから
今年の書道作品制作シーズンも残りわずかとなりました。
幅80cm、長さ180cmぐらいの紙に書くので
部屋中に大きく広げられるスペースが必要になります。
下敷きも大きいものを用意しますし、墨も多く使います。
準備がそれなりにかかる印象があるんです。
場所も取るので、常に出しっぱなしという余裕もありません。
なので作品の期間中は、書道用の物が部屋の端っこに置かれ続けます。
それなりに場所をとって、目につきやすいんです。
そして作品として提出した段階で、一通りの物を片づける。
スッキリもしますが、反面、なんだか寂しい印象にもなるものです。
普段の生活をしていると季節の移り変わりは急激に感じられず
気がついたら季節が変わっていたような印象を受けがちです。
夏と冬は2,3か月の間ずっと暑かったり寒かったりして変化を意識しませんが
春と秋は特に、知らない間に通り過ぎていたように感じているようです。
春や秋が暑い時期と寒い時期の通り道になっているイメージでしょうか。
春の入り口は寒くて冬と繋がっていて、春の終わりは暑くなって夏と変わらない。
秋も同様です。
いかにも春らしい・秋らしい時期というのは短いものなのかもしれませんし、
逆に常に移ろいでいくのが春や秋の特徴なのかもしれません。
その意味でいうと、僕の書道作品の制作シーズンは
まさに秋の期間に当てはまっているようで、
季節の移り変わりをしみじみと感じさせてくれるんです。
大体9月中旬から作品の準備に入る。
9月下旬あたりから書き始め、先生の指導を受けながら書き直し
仕上がるのが11月の中頃から下旬にかけて。
始まったあたりは、まだ夏の名残があって暑いぐらいなんです。
冷房をつけながら書いていて、少し汗ばんでいたのを覚えています。
ところが締め切りが近づいてくるあたりになると
もうすっかり寒さを感じるようになっていて、
暖房が必要になってきています。
墨の乾き方さえ違いを感じるほどです。
セミナーの仕事をしていると、いつも通りの終了時間が
明るかったり暗かったりして日照時間の変化を教えてくれます。
ここでも季節の移り変わりを感じますが
通年の変化でコンスタントに移り変わっていくため、
春や秋の印象は決して強くないみたいです。
「日が長くなった」、「日が短くなった」の二択といった感じ。
その点、秋の気温の変化を追いかけられるのが
僕にとっては、毎年の書道作品のシーズンとなっているんです。
秋の期間とピッタリ重なっているからこそ
移り変わりの大きい秋の時期を実感できるのかもしれません。
仕事の場合、一年中、似たような生活が続きますから
比較対象として際立って記憶に残ることが少ないのでしょう。
一年のうち、2か月程度。
それも秋という気温変化の大きい時期。
始まりと終わりのハッキリしていることが
違いを際立たせてくれると思われます。
意外と、僕が季節を実感する一番の要因が
書道の作品制作とかかわっているような気がしています。
幅80cm、長さ180cmぐらいの紙に書くので
部屋中に大きく広げられるスペースが必要になります。
下敷きも大きいものを用意しますし、墨も多く使います。
準備がそれなりにかかる印象があるんです。
場所も取るので、常に出しっぱなしという余裕もありません。
なので作品の期間中は、書道用の物が部屋の端っこに置かれ続けます。
それなりに場所をとって、目につきやすいんです。
そして作品として提出した段階で、一通りの物を片づける。
スッキリもしますが、反面、なんだか寂しい印象にもなるものです。
普段の生活をしていると季節の移り変わりは急激に感じられず
気がついたら季節が変わっていたような印象を受けがちです。
夏と冬は2,3か月の間ずっと暑かったり寒かったりして変化を意識しませんが
春と秋は特に、知らない間に通り過ぎていたように感じているようです。
春や秋が暑い時期と寒い時期の通り道になっているイメージでしょうか。
春の入り口は寒くて冬と繋がっていて、春の終わりは暑くなって夏と変わらない。
秋も同様です。
いかにも春らしい・秋らしい時期というのは短いものなのかもしれませんし、
逆に常に移ろいでいくのが春や秋の特徴なのかもしれません。
その意味でいうと、僕の書道作品の制作シーズンは
まさに秋の期間に当てはまっているようで、
季節の移り変わりをしみじみと感じさせてくれるんです。
大体9月中旬から作品の準備に入る。
9月下旬あたりから書き始め、先生の指導を受けながら書き直し
仕上がるのが11月の中頃から下旬にかけて。
始まったあたりは、まだ夏の名残があって暑いぐらいなんです。
冷房をつけながら書いていて、少し汗ばんでいたのを覚えています。
ところが締め切りが近づいてくるあたりになると
もうすっかり寒さを感じるようになっていて、
暖房が必要になってきています。
墨の乾き方さえ違いを感じるほどです。
セミナーの仕事をしていると、いつも通りの終了時間が
明るかったり暗かったりして日照時間の変化を教えてくれます。
ここでも季節の移り変わりを感じますが
通年の変化でコンスタントに移り変わっていくため、
春や秋の印象は決して強くないみたいです。
「日が長くなった」、「日が短くなった」の二択といった感じ。
その点、秋の気温の変化を追いかけられるのが
僕にとっては、毎年の書道作品のシーズンとなっているんです。
秋の期間とピッタリ重なっているからこそ
移り変わりの大きい秋の時期を実感できるのかもしれません。
仕事の場合、一年中、似たような生活が続きますから
比較対象として際立って記憶に残ることが少ないのでしょう。
一年のうち、2か月程度。
それも秋という気温変化の大きい時期。
始まりと終わりのハッキリしていることが
違いを際立たせてくれると思われます。
意外と、僕が季節を実感する一番の要因が
書道の作品制作とかかわっているような気がしています。
2016年11月10日
他人は変えられない
心理やコミュニケーションの分野、自己啓発なんかで有名なフレーズとして
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
といったようなものがあります。
詳しくは知りませんが、元々は
交流分析の創始者エリック・バーンの言葉だそうです。
最初に誰が言ったかはともかくとして
その内容は至極まっとうで、堅実なものだと思われます。
それによってハッとさせられるほどのインパクトはないとしても
自分が変えられるところにフォーカスする心がけとして有効でしょう。
ただし、この言葉の「他人は変えられない」の部分を
どれぐらい真正面から受け止められるかは、人それぞれなようです。
多くの場合、
他人を変えようとしてアドバイスをしたり操作しようとしたりせず、
自分にコントロールできる範囲を明確にして、自分が努力するほうがいい
といった程度の意味合いに見受けられます。
例えば、「子供に勉強をさせたい」は他人を変えようとしているから
「子供が勉強してくれるような関わり方をしたい」のように
自分の行動として心がけるようにする、といった具合です。
しかしながら、厳密にいえば「子供が勉強してくれるような」という発想は
すでに「他人に変わってもらう」ことを想定していることになります。
自分に都合よく誰かを変えようとすることに対しては慎重になる人でも、
誰かを幸せにしようとしたり、笑顔になってもらおうとしたりはする。
世界を平和にしたり、笑顔を増やしたり、社会を明るくしようとしたり、
組織をイキイキさせようとしたり、地域を活性化しようとたり…。
世間一般で「良い」とされることだって、厳密にいえば他人が関係していて
その他者を変えようとしている側面はあるわけです。
「良い方向に変えようとしているんだから構わない」とか
「喜んでもらえるんだから良いじゃないか」といった考え方もあるでしょう。
その一方で、
「誰かの人生を良くしてあげたとしたら
本人が自分自身で人生を良くするチャンスを奪ったことになる」
という発想だって成り立つはずです。
他人に人生に介入しようとしている点では同じだろうということです。
実際、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
という言葉を大切にしていて、そういうメッセージを発信している人が、
同時に「世の中をもっと良くしたい」、「皆が笑顔でいられる世界にしたい」
のように、他人を含んだ世の中を変える夢を語るケースも目にします。
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」と言いながら
他人に対して貢献することを重視したり、
世の中を変えるような使命・天命を語ったりする場合もあります。
人間関係を上手くいかせるコツとして、
「他人を”無理に”変えようとするよりも
自分から変わってしまったほうがスムーズなことが多い」
という心がけをしておくのは現実的に役立つでしょう。
そのぐらいの意味合いで
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
と捉えておくのも効果的だとは思います。
もしかしたらエリック・バーン自身も、そういうニュアンスだったかもしれません。
しかし、本当に、本気で、真正面から
「他人は変えられない」ことを受け止めると、
生き方のスタンスは変わるような気がします。
それを受け入れるのはショッキングですし、
なかなか諦め切れるものでもないみたいですが、
大きな転換点ではないでしょうか。
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
といったようなものがあります。
詳しくは知りませんが、元々は
交流分析の創始者エリック・バーンの言葉だそうです。
最初に誰が言ったかはともかくとして
その内容は至極まっとうで、堅実なものだと思われます。
それによってハッとさせられるほどのインパクトはないとしても
自分が変えられるところにフォーカスする心がけとして有効でしょう。
ただし、この言葉の「他人は変えられない」の部分を
どれぐらい真正面から受け止められるかは、人それぞれなようです。
多くの場合、
他人を変えようとしてアドバイスをしたり操作しようとしたりせず、
自分にコントロールできる範囲を明確にして、自分が努力するほうがいい
といった程度の意味合いに見受けられます。
例えば、「子供に勉強をさせたい」は他人を変えようとしているから
「子供が勉強してくれるような関わり方をしたい」のように
自分の行動として心がけるようにする、といった具合です。
しかしながら、厳密にいえば「子供が勉強してくれるような」という発想は
すでに「他人に変わってもらう」ことを想定していることになります。
自分に都合よく誰かを変えようとすることに対しては慎重になる人でも、
誰かを幸せにしようとしたり、笑顔になってもらおうとしたりはする。
世界を平和にしたり、笑顔を増やしたり、社会を明るくしようとしたり、
組織をイキイキさせようとしたり、地域を活性化しようとたり…。
世間一般で「良い」とされることだって、厳密にいえば他人が関係していて
その他者を変えようとしている側面はあるわけです。
「良い方向に変えようとしているんだから構わない」とか
「喜んでもらえるんだから良いじゃないか」といった考え方もあるでしょう。
その一方で、
「誰かの人生を良くしてあげたとしたら
本人が自分自身で人生を良くするチャンスを奪ったことになる」
という発想だって成り立つはずです。
他人に人生に介入しようとしている点では同じだろうということです。
実際、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
という言葉を大切にしていて、そういうメッセージを発信している人が、
同時に「世の中をもっと良くしたい」、「皆が笑顔でいられる世界にしたい」
のように、他人を含んだ世の中を変える夢を語るケースも目にします。
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」と言いながら
他人に対して貢献することを重視したり、
世の中を変えるような使命・天命を語ったりする場合もあります。
人間関係を上手くいかせるコツとして、
「他人を”無理に”変えようとするよりも
自分から変わってしまったほうがスムーズなことが多い」
という心がけをしておくのは現実的に役立つでしょう。
そのぐらいの意味合いで
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
と捉えておくのも効果的だとは思います。
もしかしたらエリック・バーン自身も、そういうニュアンスだったかもしれません。
しかし、本当に、本気で、真正面から
「他人は変えられない」ことを受け止めると、
生き方のスタンスは変わるような気がします。
それを受け入れるのはショッキングですし、
なかなか諦め切れるものでもないみたいですが、
大きな転換点ではないでしょうか。
2016年11月07日
旅の物語
NLPに関連するものとして「ヒーローズ・ジャーニー」というのが知られています。
ジョゼフ・キャンベルという神話学者が
世界各国の神話に共通するストーリー展開として
「英雄の旅」というパターンを見つけた、と。
スターウォーズがこの流れを取り入れたストーリーとして有名で、
人間に普遍的なものだからこそ多くの人の心に響く、というわけです。
NLPにおいては、
自分の人生を「英雄の旅」になぞらえることで
生き方の態度を見直したり、方向性を発見したり、
行き詰った現状を打破したり、必要な課題を見つけたり…
という形で役立てようとしているようです。
まぁ、どんなストーリーでも自分の置かれている状況へのヒントにはなりますから
汎用性の高いメタファーのパターンとして有効だとは言えそうです。
ただし英雄の旅が、全ての神話に共通するパターンではないわけですし、
キャンベル自身も「ヒーローの物語」についての法則として調べたのでしょうから、
なんでもかんでもヒーローになぞらえるべきということでもない気がします。
実際、同じように「旅に出る」ストーリーの神話や逸話の中でも
ヒーロー的な話ではないものも数多くあるようです。
キャンベルがヒーローに興味を持っていたから「英雄の旅」をピックアップしたのか
それとも、他のパターンも見つけながら「英雄の旅」だけが有名になったのか、
そのあたりについては詳しくありませんが、
明らかに英雄の旅とは真逆の方向性の話も沢山あるんです。
つまり、
主人公が何かを思い立って旅に出て、
大事なものを見つけようと探究を続け、
自らの誤りを思い知らされる出来事に遭遇して、
本当に大事なものは最初から家にあったと気づく…、
そして家に帰ってきて大事なものに満たされて過ごす
といった感じの流れ。
両者の共通点を探せば
旅に出る
課題に遭遇する
帰ってくる
という部分で似ています。
しかし、
何かを達成するのか
それとも
勘違いに気づくのか
という点では大きく異なります。
旅の目的を達成するほうに主眼が置かれているのが英雄の旅。
一方で、旅を通して「本当に求めているものは最初からあった」と
当初の目標設定の誤りを思い知らされるパターンもあるようなんです。
英雄の旅のほうでは、達成までのストーリーが魅力的で
帰ってくるあたりはエピローグ的な印象を受けますが、
別のパターンでは帰ってきてからのほうが
いよいよ素晴らしい展開に進もうとする感じでしょうか。
確かにアメリカンドリームに代表されるように
「手に入れる」、「達成する」の方向性が
魅力的に映る文化もあるんでしょう。
世の中には様々な神話・逸話があって、
ある段階の人に響くメタファーとして
いくつものパターンが語り継がれて来たんだと思われます。
ヒーローに心が躍るタイミングであれば
旅に出て使命を達成する展開に注目する。
一方で、ホームに戻るタイミングもあり、
その時期には英雄の旅とは違ったストーリーが響く。
そんなバリエーションがありそうです。
ジョゼフ・キャンベルという神話学者が
世界各国の神話に共通するストーリー展開として
「英雄の旅」というパターンを見つけた、と。
スターウォーズがこの流れを取り入れたストーリーとして有名で、
人間に普遍的なものだからこそ多くの人の心に響く、というわけです。
NLPにおいては、
自分の人生を「英雄の旅」になぞらえることで
生き方の態度を見直したり、方向性を発見したり、
行き詰った現状を打破したり、必要な課題を見つけたり…
という形で役立てようとしているようです。
まぁ、どんなストーリーでも自分の置かれている状況へのヒントにはなりますから
汎用性の高いメタファーのパターンとして有効だとは言えそうです。
ただし英雄の旅が、全ての神話に共通するパターンではないわけですし、
キャンベル自身も「ヒーローの物語」についての法則として調べたのでしょうから、
なんでもかんでもヒーローになぞらえるべきということでもない気がします。
実際、同じように「旅に出る」ストーリーの神話や逸話の中でも
ヒーロー的な話ではないものも数多くあるようです。
キャンベルがヒーローに興味を持っていたから「英雄の旅」をピックアップしたのか
それとも、他のパターンも見つけながら「英雄の旅」だけが有名になったのか、
そのあたりについては詳しくありませんが、
明らかに英雄の旅とは真逆の方向性の話も沢山あるんです。
つまり、
主人公が何かを思い立って旅に出て、
大事なものを見つけようと探究を続け、
自らの誤りを思い知らされる出来事に遭遇して、
本当に大事なものは最初から家にあったと気づく…、
そして家に帰ってきて大事なものに満たされて過ごす
といった感じの流れ。
両者の共通点を探せば
旅に出る
課題に遭遇する
帰ってくる
という部分で似ています。
しかし、
何かを達成するのか
それとも
勘違いに気づくのか
という点では大きく異なります。
旅の目的を達成するほうに主眼が置かれているのが英雄の旅。
一方で、旅を通して「本当に求めているものは最初からあった」と
当初の目標設定の誤りを思い知らされるパターンもあるようなんです。
英雄の旅のほうでは、達成までのストーリーが魅力的で
帰ってくるあたりはエピローグ的な印象を受けますが、
別のパターンでは帰ってきてからのほうが
いよいよ素晴らしい展開に進もうとする感じでしょうか。
確かにアメリカンドリームに代表されるように
「手に入れる」、「達成する」の方向性が
魅力的に映る文化もあるんでしょう。
世の中には様々な神話・逸話があって、
ある段階の人に響くメタファーとして
いくつものパターンが語り継がれて来たんだと思われます。
ヒーローに心が躍るタイミングであれば
旅に出て使命を達成する展開に注目する。
一方で、ホームに戻るタイミングもあり、
その時期には英雄の旅とは違ったストーリーが響く。
そんなバリエーションがありそうです。
2016年11月04日
訂正してもらう
読書時間が少なくなってきた僕にとって意外と貴重なのが
出張の移動時間です。
帰りは体力的にボロボロで、ほとんど本が読めませんから
行きの新幹線や飛行機が、本を読む主な時間になっています。
羽田空港にはモノレールで行くのがいつものルートなので
途中、浜松町にある「文教堂(ブックストア談)」で
本を買ったり、購入予定の目星をつけたり。
以前、山口県に住んでいたときも、
お盆休みや年末年始で東京に帰ってきたら
飛行機で山口に戻る途中に、よくこの本屋に立ち寄っていたものです。
で、最近買った中で面白かったのがこちら。
それほど新しい本ではありませんが
英語教育や英語学習の内容として楽しめます。
主に大学生の英作文指導を例として、
日本人英語学習者が陥りがちなミスを紹介してくれています。
しかも、そのルーツが中学校英語の教科書にあるというのを
実際に文章を引用しながら示している。
日本の英語教育の出発点が、かなり不自然なことを教えている
というのをまざまざと見せつけられる感じでした。
明らかな文法間違いをそのまま教科書に載せてしまっているケースもあれば、
カリキュラムの都合上、誤った文法で誤魔化したものが教科書に載ったケース、
そもそも教科書作成者がネイティブではないために不自然になったケースなど、
色々とおかしなポイントが指摘されています。
冠詞の使い分けや、動詞のイメージなど
ネイティヴでなければ掴みにくい内容もあって、
この辺りは教育の問題点というよりも
外国語学習では避けられない言語上のギャップにも思えました。
個人的に勉強になったのは接続詞のあたり。
アメリカ人の論理の感性を
「私ならこう伝える」という形で補足してくれます。
例として挙げられる日本人大学生の英文で
論理展開に飛躍が大きいのは、文化的にも仕方ない気もします。
学校教育でも論理のトレーニングはなされないし、
相手の考えの理由を汲み取るのを受け取り手の責任とするのも
文脈を汲み取る日本語コミュニケーションの特徴のようです。
著者は中学英語の教科書や大学生の英作文から
論理の問題点を指摘して、(英語)教育の問題のように
見ているように受け取れましたが、
この点は日本人全体に根づいた文化とも言えそうな気がします。
ともあれ、色々と興味深い指摘があって楽しめる本でした。
英語学習として役に立つ度合いとしては、
「このような問題点にいつ取り組むか?」
という点で考えさせられます。
もちろん初期教育から気にしていれば
後から苦労しなくて済む部分でしょう。
一方、ネイティヴの感性と結びついた部分は
身につけるのが大変な部分でもありそうです。
多少不自然でも、そこそこ使える…
というのも役には立つと思われます。
既に日本の学校教育で英語を勉強した人からすると、
ネイティヴにとって自然な英語に修正するのは
意外と骨の折れる作業かもしれません。
自然さにこだわるより、
そこそこコミュニケーションできるのが必要なこともある。
そう考えると、英文や単語のシンプルさに反して
意外と高度な内容の本なのかもしれません。
日常会話ですぐに気をつけられるものもありましたし、
使っていた教科書の問題を指摘してもらえるのは
「えー、そうだったんだ!」という驚きもあって
誰でも楽しめる本だとは思います。
ただし、それを自分で役立てるとなると
対象は限定されそうな印象も受けました。
ちなみに僕としては
間違った文章を例として挙げて
それを訂正する
という本の形式が参考になりました。
正しいやり方、効果的な方法だけでなく
ありがちな間違いを指摘する形だと、
自分が添削されている気分になって
記憶に定着しそうな気がします。
出張の移動時間です。
帰りは体力的にボロボロで、ほとんど本が読めませんから
行きの新幹線や飛行機が、本を読む主な時間になっています。
羽田空港にはモノレールで行くのがいつものルートなので
途中、浜松町にある「文教堂(ブックストア談)」で
本を買ったり、購入予定の目星をつけたり。
以前、山口県に住んでいたときも、
お盆休みや年末年始で東京に帰ってきたら
飛行機で山口に戻る途中に、よくこの本屋に立ち寄っていたものです。
で、最近買った中で面白かったのがこちら。
それほど新しい本ではありませんが
英語教育や英語学習の内容として楽しめます。
主に大学生の英作文指導を例として、
日本人英語学習者が陥りがちなミスを紹介してくれています。
しかも、そのルーツが中学校英語の教科書にあるというのを
実際に文章を引用しながら示している。
日本の英語教育の出発点が、かなり不自然なことを教えている
というのをまざまざと見せつけられる感じでした。
明らかな文法間違いをそのまま教科書に載せてしまっているケースもあれば、
カリキュラムの都合上、誤った文法で誤魔化したものが教科書に載ったケース、
そもそも教科書作成者がネイティブではないために不自然になったケースなど、
色々とおかしなポイントが指摘されています。
冠詞の使い分けや、動詞のイメージなど
ネイティヴでなければ掴みにくい内容もあって、
この辺りは教育の問題点というよりも
外国語学習では避けられない言語上のギャップにも思えました。
個人的に勉強になったのは接続詞のあたり。
アメリカ人の論理の感性を
「私ならこう伝える」という形で補足してくれます。
例として挙げられる日本人大学生の英文で
論理展開に飛躍が大きいのは、文化的にも仕方ない気もします。
学校教育でも論理のトレーニングはなされないし、
相手の考えの理由を汲み取るのを受け取り手の責任とするのも
文脈を汲み取る日本語コミュニケーションの特徴のようです。
著者は中学英語の教科書や大学生の英作文から
論理の問題点を指摘して、(英語)教育の問題のように
見ているように受け取れましたが、
この点は日本人全体に根づいた文化とも言えそうな気がします。
ともあれ、色々と興味深い指摘があって楽しめる本でした。
英語学習として役に立つ度合いとしては、
「このような問題点にいつ取り組むか?」
という点で考えさせられます。
もちろん初期教育から気にしていれば
後から苦労しなくて済む部分でしょう。
一方、ネイティヴの感性と結びついた部分は
身につけるのが大変な部分でもありそうです。
多少不自然でも、そこそこ使える…
というのも役には立つと思われます。
既に日本の学校教育で英語を勉強した人からすると、
ネイティヴにとって自然な英語に修正するのは
意外と骨の折れる作業かもしれません。
自然さにこだわるより、
そこそこコミュニケーションできるのが必要なこともある。
そう考えると、英文や単語のシンプルさに反して
意外と高度な内容の本なのかもしれません。
日常会話ですぐに気をつけられるものもありましたし、
使っていた教科書の問題を指摘してもらえるのは
「えー、そうだったんだ!」という驚きもあって
誰でも楽しめる本だとは思います。
ただし、それを自分で役立てるとなると
対象は限定されそうな印象も受けました。
ちなみに僕としては
間違った文章を例として挙げて
それを訂正する
という本の形式が参考になりました。
正しいやり方、効果的な方法だけでなく
ありがちな間違いを指摘する形だと、
自分が添削されている気分になって
記憶に定着しそうな気がします。