2016年11月
2016年11月01日
問題が見つからないとき
NLPだとかカウンセリングなどのセミナーをやっていると
「問題」や「悩み」について話す時間があります。
それは実習の中で題材として扱うためのものであって
問題や悩みを解決するのが目的とは限りませんが、
実習を通じて何かしらの変化が起きる可能性は高いものです。
カウンセリングの実習であれば気分が楽になるとか
考えが整理されて取り組む課題がハッキリするとか。
NLPやセラピー技法であれば心の癖が修正されます。
必ずしも悩んでいなくても効果が出るとはいえるわけです。
一方、「問題」や「悩み」という観点から題材を探そうとすると
なかなか見つからない場合もあります。
それほど悩んでいない、困っていることがない、という場合。
ただし、それは必ずしも全てが順調だという話とは限りません。
普段は気づいていないところで何かしらの課題があるかもしれません。
別に取り組む必要がなければ構わないのですが、
逆の観点として、問題が問題と気づけていない場合もあるようです。
身体の話に喩えるなら、腰痛があるようなものでしょうか。
腰が痛い。
でもそれが当たり前になっていて、多少痛くても気にしない。
痛いといえば痛いけれど、そのことで困っているわけではない。
「大丈夫」な範囲だ、と。
この点でも、まず「大丈夫」の範囲に個人差があります。
一般的には相当な痛みのはずでも我慢できてしまう人がいます。
「これぐらいは耐えられる、だから大丈夫」という判断です。
「困っていることは何ですか?」
−「腰が痛いんです」
とはなりません。
大丈夫なので問題とはならないわけです。
心に関してのテーマでも
「これぐらい耐えられる範囲だから問題ではない」
として困らないことがあります。
また、腰痛の喩えでいうと
痛いことにさえ「気づいていない」場合もあります。
その状態が当たり前になっていて、意識にさえ上がらない。
身体の状態としたら痛くて仕方ない可能性もあるのに
本人としては痛みを自覚しなくなっている。
心に関して言えば、
内側には怒りが湧いているのに自分が怒っていることを自覚していない
とか、
「この問題はもう乗り越えたから大丈夫」と思いながら
内面の奥底では痛みや心の癖が残っている
といったケースでしょうか。
それから問題を問題として捉える視点がないこともあります。
腰痛の元になっている身体の固まりが問題だと知らないし
そのことにも気づいていない。
意識していない、感じていないことが普通になっている状態です。
心の癖があっても、現状では
それが問題を生み出しているわけではない
とか、
ずっと昔に傷ついた部分があるけれど
それが現状に問題を生んでいないからそのままにしてある
とか、
幼少期に身につけた不器用なパターンを
「自分らしさ」として守り続けている
とか…。
こういったケースだと悩みや問題としての自覚は起きません。
とはいえ、自覚していないからといって何もないわけでもない。
自覚してそれでも「別に気にしない」というなら
そのままにしておいてもいいでしょうが、
自覚してみると意外と「やっぱり扱っておこう」
という気になることも良くあるようなんです。
向上心から来る場合もありますし
「その自分が気の毒だ」という思いやりから来ることもあります。
いずれにしても取り組みたい気持ちが湧いてくる可能性があるのに
「悩みも問題も特にない」と感じられるケースがあるんです。
そういうときに
カウンセリング的に話をしながら気づくのも手ですが、
特定の意図をもったワークをやったりするのも効果的みたいです。
例えば「ストレスがかかったときに
自分の気持ちが引っ込んでしまう場合」とか
「何か足りないような気持ちがある場合」とか
「よく分からないけど『帰りたい』気持ちになる場合」とか。
そんな風にワークの方向性を指定しておくと
気づきにくかったテーマが見つかってくることがあります。
ハッキリした目的や問題がなくても
なんとなくワークをやってみるというのは
意外と良いもんだなぁと感じます。
「問題」や「悩み」について話す時間があります。
それは実習の中で題材として扱うためのものであって
問題や悩みを解決するのが目的とは限りませんが、
実習を通じて何かしらの変化が起きる可能性は高いものです。
カウンセリングの実習であれば気分が楽になるとか
考えが整理されて取り組む課題がハッキリするとか。
NLPやセラピー技法であれば心の癖が修正されます。
必ずしも悩んでいなくても効果が出るとはいえるわけです。
一方、「問題」や「悩み」という観点から題材を探そうとすると
なかなか見つからない場合もあります。
それほど悩んでいない、困っていることがない、という場合。
ただし、それは必ずしも全てが順調だという話とは限りません。
普段は気づいていないところで何かしらの課題があるかもしれません。
別に取り組む必要がなければ構わないのですが、
逆の観点として、問題が問題と気づけていない場合もあるようです。
身体の話に喩えるなら、腰痛があるようなものでしょうか。
腰が痛い。
でもそれが当たり前になっていて、多少痛くても気にしない。
痛いといえば痛いけれど、そのことで困っているわけではない。
「大丈夫」な範囲だ、と。
この点でも、まず「大丈夫」の範囲に個人差があります。
一般的には相当な痛みのはずでも我慢できてしまう人がいます。
「これぐらいは耐えられる、だから大丈夫」という判断です。
「困っていることは何ですか?」
−「腰が痛いんです」
とはなりません。
大丈夫なので問題とはならないわけです。
心に関してのテーマでも
「これぐらい耐えられる範囲だから問題ではない」
として困らないことがあります。
また、腰痛の喩えでいうと
痛いことにさえ「気づいていない」場合もあります。
その状態が当たり前になっていて、意識にさえ上がらない。
身体の状態としたら痛くて仕方ない可能性もあるのに
本人としては痛みを自覚しなくなっている。
心に関して言えば、
内側には怒りが湧いているのに自分が怒っていることを自覚していない
とか、
「この問題はもう乗り越えたから大丈夫」と思いながら
内面の奥底では痛みや心の癖が残っている
といったケースでしょうか。
それから問題を問題として捉える視点がないこともあります。
腰痛の元になっている身体の固まりが問題だと知らないし
そのことにも気づいていない。
意識していない、感じていないことが普通になっている状態です。
心の癖があっても、現状では
それが問題を生み出しているわけではない
とか、
ずっと昔に傷ついた部分があるけれど
それが現状に問題を生んでいないからそのままにしてある
とか、
幼少期に身につけた不器用なパターンを
「自分らしさ」として守り続けている
とか…。
こういったケースだと悩みや問題としての自覚は起きません。
とはいえ、自覚していないからといって何もないわけでもない。
自覚してそれでも「別に気にしない」というなら
そのままにしておいてもいいでしょうが、
自覚してみると意外と「やっぱり扱っておこう」
という気になることも良くあるようなんです。
向上心から来る場合もありますし
「その自分が気の毒だ」という思いやりから来ることもあります。
いずれにしても取り組みたい気持ちが湧いてくる可能性があるのに
「悩みも問題も特にない」と感じられるケースがあるんです。
そういうときに
カウンセリング的に話をしながら気づくのも手ですが、
特定の意図をもったワークをやったりするのも効果的みたいです。
例えば「ストレスがかかったときに
自分の気持ちが引っ込んでしまう場合」とか
「何か足りないような気持ちがある場合」とか
「よく分からないけど『帰りたい』気持ちになる場合」とか。
そんな風にワークの方向性を指定しておくと
気づきにくかったテーマが見つかってくることがあります。
ハッキリした目的や問題がなくても
なんとなくワークをやってみるというのは
意外と良いもんだなぁと感じます。