2016年12月
2016年12月29日
基準が見えてこない
1月上旬に開催される書道展の審査結果が届きました。
今年も秀作。
何%かは忘れましたが、中の上ぐらいの評価といった印象でしょうか。
7回目の出品で、佳作1回、秀作5回、準特選1回となっています。
ここ3年は連続して秀作。
選抜展というのも一度出品しましたが、
こちらは全員分が展示されるのではなく選ばれた半数ぐらいが陳列される仕組み。
陳列された時点で秀作と同等の評価とされているらしいです。
なので計8回、平均するとピッタリ秀作となります。
ずっと中の上ぐらいということ。
別に、良い賞が欲しいわけではありません。
客観的な評価基準を自分の中に取り入れていくために
審査をしてもらってポイントを知りたいんです。
初めて出品したときからほぼ毎回秀作ということは
上手くなっていないんじゃないか?という気がしなくもありません。
厳密に言うと、自分としては上手くなっているつもりでも
自分が理解している「上手さ」、「上達」は
書道の基準からズレているという可能性はあり得ます。
評価のポイントと違うところで頑張っているんじゃないだろうか?と。
そこが気になりますし、もどかしくもあります。
芸術家として表現のために書をやるのであれば
他者からの評価は二の次かもしれません。
しかし書道の場合、大半は歴史的に積み上げられてきた美の基準があって
そこを土台として表現の幅を出していくことになるようです。
好き勝手にやっていいわけではない。
そこが他のアートと毛色が違うと感じます。
だからこそ基準となるポイントを身につけたいんです。
もちろん、賞としての評価が変わらなくても
少しずつ上達している可能性はあります。
大部分の人は継続的に出品していますから
全員が上達していて相対的な評価としての賞は同じぐらいに落ち着く。
そういうことかもしれません。
1つの賞でも受賞人数はそれなりにいます(数十人から数百人)。
仮に100人だとして、その中で変動があるのかもしれません。
例えば、中の中から、中の上ぐらいにはなっている、とか。
そんな実情までは分かりませんし、ある程度の偶然性もあるものでしょう。
一方で、二年連続で特選(一番上の賞)を取るような人もいます。
と考えると、やっぱり基準に合っているかどうかの影響は大きいはず。
おそらく僕の書きぶりは何かしらの癖があって
書芸術としての美の基準と沿わないところがあると思われます。
なかなかそこが掴めません。
練習の仕方、取り組み方を工夫する必要がありそうです。
今年も秀作。
何%かは忘れましたが、中の上ぐらいの評価といった印象でしょうか。
7回目の出品で、佳作1回、秀作5回、準特選1回となっています。
ここ3年は連続して秀作。
選抜展というのも一度出品しましたが、
こちらは全員分が展示されるのではなく選ばれた半数ぐらいが陳列される仕組み。
陳列された時点で秀作と同等の評価とされているらしいです。
なので計8回、平均するとピッタリ秀作となります。
ずっと中の上ぐらいということ。
別に、良い賞が欲しいわけではありません。
客観的な評価基準を自分の中に取り入れていくために
審査をしてもらってポイントを知りたいんです。
初めて出品したときからほぼ毎回秀作ということは
上手くなっていないんじゃないか?という気がしなくもありません。
厳密に言うと、自分としては上手くなっているつもりでも
自分が理解している「上手さ」、「上達」は
書道の基準からズレているという可能性はあり得ます。
評価のポイントと違うところで頑張っているんじゃないだろうか?と。
そこが気になりますし、もどかしくもあります。
芸術家として表現のために書をやるのであれば
他者からの評価は二の次かもしれません。
しかし書道の場合、大半は歴史的に積み上げられてきた美の基準があって
そこを土台として表現の幅を出していくことになるようです。
好き勝手にやっていいわけではない。
そこが他のアートと毛色が違うと感じます。
だからこそ基準となるポイントを身につけたいんです。
もちろん、賞としての評価が変わらなくても
少しずつ上達している可能性はあります。
大部分の人は継続的に出品していますから
全員が上達していて相対的な評価としての賞は同じぐらいに落ち着く。
そういうことかもしれません。
1つの賞でも受賞人数はそれなりにいます(数十人から数百人)。
仮に100人だとして、その中で変動があるのかもしれません。
例えば、中の中から、中の上ぐらいにはなっている、とか。
そんな実情までは分かりませんし、ある程度の偶然性もあるものでしょう。
一方で、二年連続で特選(一番上の賞)を取るような人もいます。
と考えると、やっぱり基準に合っているかどうかの影響は大きいはず。
おそらく僕の書きぶりは何かしらの癖があって
書芸術としての美の基準と沿わないところがあると思われます。
なかなかそこが掴めません。
練習の仕方、取り組み方を工夫する必要がありそうです。
2016年12月27日
今年はセミナーが多かった印象があります
2016年も最後のセミナーが終わりました。
今年は出張が多く、セミナーの内容もNLPが中心となった一年でした。
数年前は、同じ内容を繰り返し行うことがあまり好きではなく
NLPのセミナーは内容が決まり過ぎていて物足りなく感じていた記憶があります。
特に例えば「講座の3日目」が複数会場で続いたりすると
何度も同じことをしている退屈さが気になってもいたんです。
もちろん、セミナーが始まってしまえば意識には上がらなくなりますが
セミナー会場に向かうまでの間、「また同じか…」という気がしていたのは
正直なところです。
なので勉強会とか自分の講座で、何か新鮮なことをやりたい気持ちがありました。
最近はもう、そういう気も起きません。
NLP以外の講座が減っているのはスケジュールの兼ね合いがメインとはいえ、
いざ開催するとなると、内容を選ぶのには時間がかかるのも実情。
自分の中から湧いてくる関心やアイデアを形にする意味で
セミナーのテーマが決まってくるということは少なくなってしまいました。
興味を失ったと言われれば否定はできません。
より正確には、「自分の中で理解がまとまったから欲がなくなった」
というほうが近いでしょう。
その分、目の前の受講生・クライアントに意識が向きやすくなり
講座の内容が「(トレーナーとしての)自分にとって」繰り返されているかではなく、
その内容で交流するのが初めての「相手(受講生)にとって」を中心に
取り組めるようになったような気もしています。
なので同じテキストを使った同じ内容の講座をやっても
繰り返しの印象を感じることもなくなったみたいです。
それを成長と捉えるのか、進歩がなくなって停滞していると捉えるのか、
判断は分かれるところかもしれません。
個人的には、成長に対するポジティブな意味づけも薄れたようで
現状を肯定的にも否定的にも捉えていないようなんですが。
それから今年は、珍しく自分がセミナーを受ける立場としても
NLP関連のワークショップに参加しました。
たまには受講生も良いものだなぁと感じました。
そしてそれ以降、自分で内面と向き合うワークなんかにも取り組んでいます。
自分の身体に気づきながら講座を進められるようになってきたようで
疲労感が少し減ってきた気もします。
その分、五感の感受性は上がってしまったようで
移動の際の電車や新幹線、飛行機など、滞在先のホテルや自宅で
音や臭い、揺れなどにストレスを感じやすくなってしまったみたいです。
変化は必ずしも良いものではないのかもしれませんが
なんとなく移り変わり続けてはいるのでしょう。
来年も色々と何かしらの変化が起こっていくんだろうと想像しています。
充実したものであると良いなぁと思います。
今年は出張が多く、セミナーの内容もNLPが中心となった一年でした。
数年前は、同じ内容を繰り返し行うことがあまり好きではなく
NLPのセミナーは内容が決まり過ぎていて物足りなく感じていた記憶があります。
特に例えば「講座の3日目」が複数会場で続いたりすると
何度も同じことをしている退屈さが気になってもいたんです。
もちろん、セミナーが始まってしまえば意識には上がらなくなりますが
セミナー会場に向かうまでの間、「また同じか…」という気がしていたのは
正直なところです。
なので勉強会とか自分の講座で、何か新鮮なことをやりたい気持ちがありました。
最近はもう、そういう気も起きません。
NLP以外の講座が減っているのはスケジュールの兼ね合いがメインとはいえ、
いざ開催するとなると、内容を選ぶのには時間がかかるのも実情。
自分の中から湧いてくる関心やアイデアを形にする意味で
セミナーのテーマが決まってくるということは少なくなってしまいました。
興味を失ったと言われれば否定はできません。
より正確には、「自分の中で理解がまとまったから欲がなくなった」
というほうが近いでしょう。
その分、目の前の受講生・クライアントに意識が向きやすくなり
講座の内容が「(トレーナーとしての)自分にとって」繰り返されているかではなく、
その内容で交流するのが初めての「相手(受講生)にとって」を中心に
取り組めるようになったような気もしています。
なので同じテキストを使った同じ内容の講座をやっても
繰り返しの印象を感じることもなくなったみたいです。
それを成長と捉えるのか、進歩がなくなって停滞していると捉えるのか、
判断は分かれるところかもしれません。
個人的には、成長に対するポジティブな意味づけも薄れたようで
現状を肯定的にも否定的にも捉えていないようなんですが。
それから今年は、珍しく自分がセミナーを受ける立場としても
NLP関連のワークショップに参加しました。
たまには受講生も良いものだなぁと感じました。
そしてそれ以降、自分で内面と向き合うワークなんかにも取り組んでいます。
自分の身体に気づきながら講座を進められるようになってきたようで
疲労感が少し減ってきた気もします。
その分、五感の感受性は上がってしまったようで
移動の際の電車や新幹線、飛行機など、滞在先のホテルや自宅で
音や臭い、揺れなどにストレスを感じやすくなってしまったみたいです。
変化は必ずしも良いものではないのかもしれませんが
なんとなく移り変わり続けてはいるのでしょう。
来年も色々と何かしらの変化が起こっていくんだろうと想像しています。
充実したものであると良いなぁと思います。
2016年12月24日
体の具合の変化
そういえば、ずっと忘れていたんですが
気づいたら、首がコキコキ(ポキポキ?)鳴らなくなっていました。
以前は首をひねると、整体でよくあるようなイメージ通りの
ポキポキッといった音が鳴っていたんです。
首が凝ってくると、ほぐすつもりでやっていたのか
首を鳴らすことが頻繁にありました。
今は鳴りません。
というよりも鳴るかどうかを気にしていませんでした。
そうやって首をほぐすようなことがなくなっていたからでしょう。
先日、首のストレッチをしているときに、そのことをふと思い出しました。
「あれ、前は首をポキポキ鳴らしていたよなぁ…」と。
それで前のような感じで動かしてみたんですが、鳴らなかった。
いつの間にか、首の状態だけでなく
行動パターンも変わっていたようです。
定期的に施術を受け入ていた影響だと思われます。
姿勢が変わってきているのも自覚していますし、
身体の使い方も変わってきているはずです。
ですが、自分で頑張って心がけて変えた感じではないんです。
良い姿勢にするのは重要でしょう。
何度も指摘されたことがあります。
それでも何年もかけて染みつけてきた体の使い方の癖を直すのは
それほど簡単なことではなかったようです。
よほど真剣に、いつも心がけるぐらいのつもりでないと
意図的に姿勢を整えていくのは難しい気がします。
ちょうど、ダイエットのために食習慣を変えようとしても
ついつい間食をしてしまうようなものかもしれません。
このあたりは習慣や癖を変えるという点で
多くのことに共通しているところでしょう。
病気になって医者や栄養士から食事の指導を受ける。
必要性は分かっているけれど、なかなかやれない。
健康のために運動したほうがいいと言われ、重要性は自分でも分かっている。
それなのに運動をする機会を作っていない。
勉強しなきゃと思うのに、なかなかヤル気にならない。
やっても継続しない。
本人が問題意識をもって、変えることに対して真剣になって
変える方法を自ら学びに行ったり、トレーニングしに行ったりすれば
そこから先はそれほど難しいことではないようです。
コミュニケーション技術の講座をやっていても、受けに来る時点で
問題意識を持っていて、変えようという意欲がありますから
それなりに効果は出やすいと思われます。
これを例えば会社の研修でやったりすると
問題意識を持っていない人も「参加させられる」ことになるので
それほどの効果は期待しずらくなるでしょう。
「運動したほうが良いよ」
「ストレッチするといいですよ」
「その食事では問題です」
「その座り方だと肩コリになりますよ」
…などと指摘されているのと同じようなものです。
日々の中で繰り返される習慣や行動パターン、
言動、身体の使い方や考え方などは
毎日自然と使ってしまうからこそ、よほど意図的に取り組まないと
変えていくことは大変だと考えられます。
効果的な方法を知っているかどうかや
そのやり方を上手くできるかどうかよりも、
「その方法を続けられるかどうか」が重要になる、と。
このヤル気がある人であれば変化はスムーズでしょう。
その意味では、
「習慣を変えるために続けよう」という気持ちになってもらうのが
最も高いハードルなのかもしれません。
実際、例えば語学を勉強しようとするときでも、
自分からスクールを探して、必要性を感じて、ヤル気になって始めたのに
毎日コツコツと課題をこなす人と、そうでない人とには分かれます。
毎日やったほうが身につくと分かっていても
どれぐらい心がけて取り組めるかは別問題だということです。
僕は姿勢を直す必要性を知っていたつもりですし、
身体をケアしたほうが良いのも頭では分かっていました。
それでも毎日それを気にするほどのヤル気は無かったんです。
ストレッチを教わっても、ヨガをやってみても、続けるほどのヤル気になれず
常日頃から体の使い方を心がけるほどでもありませんでした。
それが施術を受けていくうちに自然とバランスが変わってきたようです。
身体が良い状態になっていくと、不快な状態を避けたくなってきます。
結果としてストレッチをしたい気分になる。
姿勢を整えようとする。
もちろん意図的に心がけて姿勢や体の使い方を整えたり
運動やストレッチをしたほうが、もっと効果も出るんでしょう。
とはいえ、それを心がけられるかどうかは
日々の優先度の中で変わってくる気もします。
コミュニケーションの技法を勉強して、講座中に練習したとしても
日々の忙しさの中で心がけて使えるかどうかとなると、それは
どれだけ心がけることに注意を向けられるかという優先度の話になります。
だからこそ、僕の姿勢や首を鳴らす習慣が自然と変わっていったように、
コミュニケーションのトレーニングにおいても
日々の生活で頑張って心がけなくても効果が出るように
内面のバランスを整えるような部分が重要じゃないかと感じます。
身体が良い状態になったことで、自然と姿勢や身体の使い方が変わる。
内面のバランスが整うことで、自然と言葉遣いや考え方、
相手への関心の向け方が変わる。
自ら心がける必要のあるところだけでなく
自然と変わっていくような側面へのアプローチも効果的だろうという話です。
自分の身体を振り返って、そのことを改めて実感します。
気づいたら、首がコキコキ(ポキポキ?)鳴らなくなっていました。
以前は首をひねると、整体でよくあるようなイメージ通りの
ポキポキッといった音が鳴っていたんです。
首が凝ってくると、ほぐすつもりでやっていたのか
首を鳴らすことが頻繁にありました。
今は鳴りません。
というよりも鳴るかどうかを気にしていませんでした。
そうやって首をほぐすようなことがなくなっていたからでしょう。
先日、首のストレッチをしているときに、そのことをふと思い出しました。
「あれ、前は首をポキポキ鳴らしていたよなぁ…」と。
それで前のような感じで動かしてみたんですが、鳴らなかった。
いつの間にか、首の状態だけでなく
行動パターンも変わっていたようです。
定期的に施術を受け入ていた影響だと思われます。
姿勢が変わってきているのも自覚していますし、
身体の使い方も変わってきているはずです。
ですが、自分で頑張って心がけて変えた感じではないんです。
良い姿勢にするのは重要でしょう。
何度も指摘されたことがあります。
それでも何年もかけて染みつけてきた体の使い方の癖を直すのは
それほど簡単なことではなかったようです。
よほど真剣に、いつも心がけるぐらいのつもりでないと
意図的に姿勢を整えていくのは難しい気がします。
ちょうど、ダイエットのために食習慣を変えようとしても
ついつい間食をしてしまうようなものかもしれません。
このあたりは習慣や癖を変えるという点で
多くのことに共通しているところでしょう。
病気になって医者や栄養士から食事の指導を受ける。
必要性は分かっているけれど、なかなかやれない。
健康のために運動したほうがいいと言われ、重要性は自分でも分かっている。
それなのに運動をする機会を作っていない。
勉強しなきゃと思うのに、なかなかヤル気にならない。
やっても継続しない。
本人が問題意識をもって、変えることに対して真剣になって
変える方法を自ら学びに行ったり、トレーニングしに行ったりすれば
そこから先はそれほど難しいことではないようです。
コミュニケーション技術の講座をやっていても、受けに来る時点で
問題意識を持っていて、変えようという意欲がありますから
それなりに効果は出やすいと思われます。
これを例えば会社の研修でやったりすると
問題意識を持っていない人も「参加させられる」ことになるので
それほどの効果は期待しずらくなるでしょう。
「運動したほうが良いよ」
「ストレッチするといいですよ」
「その食事では問題です」
「その座り方だと肩コリになりますよ」
…などと指摘されているのと同じようなものです。
日々の中で繰り返される習慣や行動パターン、
言動、身体の使い方や考え方などは
毎日自然と使ってしまうからこそ、よほど意図的に取り組まないと
変えていくことは大変だと考えられます。
効果的な方法を知っているかどうかや
そのやり方を上手くできるかどうかよりも、
「その方法を続けられるかどうか」が重要になる、と。
このヤル気がある人であれば変化はスムーズでしょう。
その意味では、
「習慣を変えるために続けよう」という気持ちになってもらうのが
最も高いハードルなのかもしれません。
実際、例えば語学を勉強しようとするときでも、
自分からスクールを探して、必要性を感じて、ヤル気になって始めたのに
毎日コツコツと課題をこなす人と、そうでない人とには分かれます。
毎日やったほうが身につくと分かっていても
どれぐらい心がけて取り組めるかは別問題だということです。
僕は姿勢を直す必要性を知っていたつもりですし、
身体をケアしたほうが良いのも頭では分かっていました。
それでも毎日それを気にするほどのヤル気は無かったんです。
ストレッチを教わっても、ヨガをやってみても、続けるほどのヤル気になれず
常日頃から体の使い方を心がけるほどでもありませんでした。
それが施術を受けていくうちに自然とバランスが変わってきたようです。
身体が良い状態になっていくと、不快な状態を避けたくなってきます。
結果としてストレッチをしたい気分になる。
姿勢を整えようとする。
もちろん意図的に心がけて姿勢や体の使い方を整えたり
運動やストレッチをしたほうが、もっと効果も出るんでしょう。
とはいえ、それを心がけられるかどうかは
日々の優先度の中で変わってくる気もします。
コミュニケーションの技法を勉強して、講座中に練習したとしても
日々の忙しさの中で心がけて使えるかどうかとなると、それは
どれだけ心がけることに注意を向けられるかという優先度の話になります。
だからこそ、僕の姿勢や首を鳴らす習慣が自然と変わっていったように、
コミュニケーションのトレーニングにおいても
日々の生活で頑張って心がけなくても効果が出るように
内面のバランスを整えるような部分が重要じゃないかと感じます。
身体が良い状態になったことで、自然と姿勢や身体の使い方が変わる。
内面のバランスが整うことで、自然と言葉遣いや考え方、
相手への関心の向け方が変わる。
自ら心がける必要のあるところだけでなく
自然と変わっていくような側面へのアプローチも効果的だろうという話です。
自分の身体を振り返って、そのことを改めて実感します。
2016年12月22日
パートは「教える」のか?
ずっと気になっていたことがあって、原典を調べてみようとしています。
NLPでいうところの「パートの肯定的意図」についてです。
パートについて、肯定的意図については
書籍「心を読み解く技術」で詳しく解説していますが、
日本で見かけるNLPのテキストの類には
少し気になるところがあるんです。
パートとは端的にいうと、心を構成するプログラムを擬人化したもの。
プログラムの担当者のようなイメージです。
プログラムが作られるのは大体の場合、幼少期ですから
その場をしのぐために、あまり効果的ではない方法が選択されがちです。
ベストとは言い難いやり方で問題の状況を乗り切ってしまう。
とりあえず何とか期待する結果が出たわけなので、
その後もその方法を使い続けることになります。
そして繰り返すうちに、その方法が定着して
ワンパターンの対応が自動的に起こるようになります。
自動化された頃になると、最初に期待していたような内容は
すっかり意識に上がらなくなっていく。
こうして、元々は期待していたことが無自覚になって
理由も分からないままに繰り返していることが多いんです。
で、
・この元々期待していたものは何か?
そして
・期待した通りになったときに自分のどんな価値観が満たされると思っていたのか?
…という部分が『肯定的意図』となります。
その方法(=プログラム)を使う目的はそもそも何だったのか?という話です。
ポイントになるのは、こうした意図・目的の部分が
意識にあがりにくくなってきているということ。
すっかり忘れ去られてしまっているところです。
そのため普段とは違った方法で自分の内面を探ります。
いつもとは違うルートで記憶を探索するわけです。
記憶にあがる際の原則は、思い出すキッカケがあること。
それによって連想されたことが意識化されます。
普段の考え方だと、普段通りの連想のルートでしか記憶の探索が起きません。
出てくる発想も普段通りのものに落ち着いてしまう。
だからこそ、普段とは違った連想で記憶を探れるように
思い出すキッカケとして少し変わった問いかけをするんです。
それが「パート」という形で自分の内面を擬人化して、
そのパートに自ら質問を投げかける、という方法。
普段は「なぜこんなことをしてしまうんだろう?」と原因分析をしがちなところ、
「なんのために、これをしてくれているの?」と目的や意図の観点で、
しかも質問を投げかける形をとるようにします。
誰かに質問されるて新しい考えが浮かんでくる
といった経験は、多くの人に共通でしょう。
質問されると自動的に答えを探し始める動きが始まります。
だから自ら答えを考えるのではなく、質問されたときの状態を作り出す。
それで勝手に答えが出てくるのを期待するわけです。
ということで、パートという担当者を想定して
自分がそのパートに目的や意図を尋ねる質問を投げかける
という方法が有効なんです。
普段とは違った発想が出やすく、
無自覚になってしまっていた記憶の中から
プログラムの肯定的意図が引き出されやすくなります。
その意味で、どんな質問を投げかけるかが重要です。
質問のフレーズによって効果が変わりかねないんです。
調べてみると、英語では最もスタンダードなフレーズが
「What do you want for me?」
という形。
僕はこれを
「私のために何をしようとしてくれていたの?」
と訳していますが、
人によっては「しようとしてくれていた」の部分が
言語的に情報過多になる場合があります。
その場合「本当は何をしてくれていたの?」ぐらいにすることもありますが、
肯定的意図は期待していたこと、つまり「良かれと思って」の部分なので
必ずしも期待通りの結果が出ているとは限らないのが注意点。
同様に「何が得られますか?」という質問も
”得られている”想定で受け取られることがあって誤解を招く場合があります。
「何を得ようとしていたの?」も良いかもしれませんが、
口頭で「えようとしていた」というフレーズを聞いたとき
「得る」という意味がすぐに浮かばないこともあるみたいです。
かといって「何を手に入れようとしていたの?」だと
「手に入れる=get」のニュアンスが高まってしまいます。
これだと本人の内面ではなく、外から何かを入手する意味が出がちです。
肯定的意図は最終的に、内面の状態を深める方向になりますから
「手に入れる」というフレーズも避けたいところでしょう。
もしかしたら直訳に近く
「私のために何を求めていたの?」
「私のために何を願っていたの?」
ぐらいでも良いのかもしれません。
”求める”もやはり口語的ではないですが
”得る”よりは捉えやすい気がします。
”願う”は少し意味が弱いですが肯定的な雰囲気は伝わりやすそうです。
以上のように、日本語に訳すときにも
肯定的意図が浮かびやすい形の質問として工夫するのは重要なはずです。
そもそもの英語のフレーズが注意深く設定されていそうなのも
僕にその辺りを慎重にさせる要因の1つでしょう。
ところが、です。
僕が見てきた日本のNLPのテキストには
「パートは何を教えてくれていますか?」
という質問が見受けられるんです。
この出所が分からない。
英語で探しても、まだ元になりそうな質問が見つかっていません。
確かに会話的にパートとコミュニケーションしたとき
擬人化されたパートが語りかけてくるような体験も多々あります。
そうするとパートの返答がアドバイス的になることもあります。
「もっとこうしたほうが良いよ」みたいな感じ。
その前提でいくと「何を教えてくれていますか?」も悪くはないんでしょう。
一方で、「何を教えてくれていますか?」という質問は
パートに対する問いかけの形には受け取られないことが多いようなんです。
さらに「教える」という単語が知的な活動を活性化しがちです。
結果として、この質問に対しては普段通りの発想が引き出され、
「パートは何を教えてくれているんだろう?」と分析するケースが見られるんです。
パートの肯定的意図を探る質問のポイントは
いかに普段とは違ったルートで記憶を探索するかにあります。
できるだけ普段の発想は抑えたほうが上手くいきやすいようです。
最初から会話的にパートのメッセージが頭に浮かぶ人なら
「何を教えてくれていますか?」でも問題ないでしょうが、
そういう人は「何をしようとしてくれているの?」でも同じ答えが出てきます。
個人的には「教えてくれていますか?」の質問には
メリットよりもデメリットのほうが多い印象があるぐらいです。
もしかしたら「教える」が「 teach 」ではなく「 tell 」だったのではないか?と
英語でも調べてみてはいるんですが、今のところ何も見つかっていません。
「 tell 」ぐらいのつもりで
「パートは何を伝えてくれていますか?」だったら、まあ無難でしょう。
パートとコミュニケーションするだけであれば
この質問でも成立するとは思います。
とはいえ、肯定的なニュアンス、意図・目的を尋ねるニュアンスは
いずれも含まれていないので、手順に入れる質問としては
それほどオススメする形ではないと思いますが。
「パートは何を教えてくれていますか?」という質問が
いったいどこから出てきたのか?
そこが気になります。
NLPでいうところの「パートの肯定的意図」についてです。
パートについて、肯定的意図については
書籍「心を読み解く技術」で詳しく解説していますが、
日本で見かけるNLPのテキストの類には
少し気になるところがあるんです。
パートとは端的にいうと、心を構成するプログラムを擬人化したもの。
プログラムの担当者のようなイメージです。
プログラムが作られるのは大体の場合、幼少期ですから
その場をしのぐために、あまり効果的ではない方法が選択されがちです。
ベストとは言い難いやり方で問題の状況を乗り切ってしまう。
とりあえず何とか期待する結果が出たわけなので、
その後もその方法を使い続けることになります。
そして繰り返すうちに、その方法が定着して
ワンパターンの対応が自動的に起こるようになります。
自動化された頃になると、最初に期待していたような内容は
すっかり意識に上がらなくなっていく。
こうして、元々は期待していたことが無自覚になって
理由も分からないままに繰り返していることが多いんです。
で、
・この元々期待していたものは何か?
そして
・期待した通りになったときに自分のどんな価値観が満たされると思っていたのか?
…という部分が『肯定的意図』となります。
その方法(=プログラム)を使う目的はそもそも何だったのか?という話です。
ポイントになるのは、こうした意図・目的の部分が
意識にあがりにくくなってきているということ。
すっかり忘れ去られてしまっているところです。
そのため普段とは違った方法で自分の内面を探ります。
いつもとは違うルートで記憶を探索するわけです。
記憶にあがる際の原則は、思い出すキッカケがあること。
それによって連想されたことが意識化されます。
普段の考え方だと、普段通りの連想のルートでしか記憶の探索が起きません。
出てくる発想も普段通りのものに落ち着いてしまう。
だからこそ、普段とは違った連想で記憶を探れるように
思い出すキッカケとして少し変わった問いかけをするんです。
それが「パート」という形で自分の内面を擬人化して、
そのパートに自ら質問を投げかける、という方法。
普段は「なぜこんなことをしてしまうんだろう?」と原因分析をしがちなところ、
「なんのために、これをしてくれているの?」と目的や意図の観点で、
しかも質問を投げかける形をとるようにします。
誰かに質問されるて新しい考えが浮かんでくる
といった経験は、多くの人に共通でしょう。
質問されると自動的に答えを探し始める動きが始まります。
だから自ら答えを考えるのではなく、質問されたときの状態を作り出す。
それで勝手に答えが出てくるのを期待するわけです。
ということで、パートという担当者を想定して
自分がそのパートに目的や意図を尋ねる質問を投げかける
という方法が有効なんです。
普段とは違った発想が出やすく、
無自覚になってしまっていた記憶の中から
プログラムの肯定的意図が引き出されやすくなります。
その意味で、どんな質問を投げかけるかが重要です。
質問のフレーズによって効果が変わりかねないんです。
調べてみると、英語では最もスタンダードなフレーズが
「What do you want for me?」
という形。
僕はこれを
「私のために何をしようとしてくれていたの?」
と訳していますが、
人によっては「しようとしてくれていた」の部分が
言語的に情報過多になる場合があります。
その場合「本当は何をしてくれていたの?」ぐらいにすることもありますが、
肯定的意図は期待していたこと、つまり「良かれと思って」の部分なので
必ずしも期待通りの結果が出ているとは限らないのが注意点。
同様に「何が得られますか?」という質問も
”得られている”想定で受け取られることがあって誤解を招く場合があります。
「何を得ようとしていたの?」も良いかもしれませんが、
口頭で「えようとしていた」というフレーズを聞いたとき
「得る」という意味がすぐに浮かばないこともあるみたいです。
かといって「何を手に入れようとしていたの?」だと
「手に入れる=get」のニュアンスが高まってしまいます。
これだと本人の内面ではなく、外から何かを入手する意味が出がちです。
肯定的意図は最終的に、内面の状態を深める方向になりますから
「手に入れる」というフレーズも避けたいところでしょう。
もしかしたら直訳に近く
「私のために何を求めていたの?」
「私のために何を願っていたの?」
ぐらいでも良いのかもしれません。
”求める”もやはり口語的ではないですが
”得る”よりは捉えやすい気がします。
”願う”は少し意味が弱いですが肯定的な雰囲気は伝わりやすそうです。
以上のように、日本語に訳すときにも
肯定的意図が浮かびやすい形の質問として工夫するのは重要なはずです。
そもそもの英語のフレーズが注意深く設定されていそうなのも
僕にその辺りを慎重にさせる要因の1つでしょう。
ところが、です。
僕が見てきた日本のNLPのテキストには
「パートは何を教えてくれていますか?」
という質問が見受けられるんです。
この出所が分からない。
英語で探しても、まだ元になりそうな質問が見つかっていません。
確かに会話的にパートとコミュニケーションしたとき
擬人化されたパートが語りかけてくるような体験も多々あります。
そうするとパートの返答がアドバイス的になることもあります。
「もっとこうしたほうが良いよ」みたいな感じ。
その前提でいくと「何を教えてくれていますか?」も悪くはないんでしょう。
一方で、「何を教えてくれていますか?」という質問は
パートに対する問いかけの形には受け取られないことが多いようなんです。
さらに「教える」という単語が知的な活動を活性化しがちです。
結果として、この質問に対しては普段通りの発想が引き出され、
「パートは何を教えてくれているんだろう?」と分析するケースが見られるんです。
パートの肯定的意図を探る質問のポイントは
いかに普段とは違ったルートで記憶を探索するかにあります。
できるだけ普段の発想は抑えたほうが上手くいきやすいようです。
最初から会話的にパートのメッセージが頭に浮かぶ人なら
「何を教えてくれていますか?」でも問題ないでしょうが、
そういう人は「何をしようとしてくれているの?」でも同じ答えが出てきます。
個人的には「教えてくれていますか?」の質問には
メリットよりもデメリットのほうが多い印象があるぐらいです。
もしかしたら「教える」が「 teach 」ではなく「 tell 」だったのではないか?と
英語でも調べてみてはいるんですが、今のところ何も見つかっていません。
「 tell 」ぐらいのつもりで
「パートは何を伝えてくれていますか?」だったら、まあ無難でしょう。
パートとコミュニケーションするだけであれば
この質問でも成立するとは思います。
とはいえ、肯定的なニュアンス、意図・目的を尋ねるニュアンスは
いずれも含まれていないので、手順に入れる質問としては
それほどオススメする形ではないと思いますが。
「パートは何を教えてくれていますか?」という質問が
いったいどこから出てきたのか?
そこが気になります。
2016年12月19日
あきらめがつくまで
どういうわけかセミナーの後は塩分が欲しくなります。
塩辛いものが食べたくなる。
で先日も近所のお気に入りのラーメン屋に行ってみました。
この店、それぞれのラーメンの味の構成が良くできていて
店長の立体的に味を組み立てる才能に感服するばかりなんですが、
ラーメン職人としての腕と、経営者・管理者・指導者としての技能は無関係です。
端的に言うと、あまり人が育っていない印象なんです。
以前はセンスがあって、仕事が丁寧な若い店員がいたんですが
しばらく前に独立のために退職してしまっています。
それ以来、ベトナム人の若者が「副店長」として頑張っている模様。
ええ、「頑張って」はいるんだと思います。
しかし僕の基準には合わない。
期待していることと違う方向性で頑張っています。
店長がいるときは麺を茹でたり、スープの準備をしたりといった
調理の全般は店長自身が主に担当しています。
他のスタッフはサポートをする感じ。
副店長のベトナム出身の彼もサポート側に回ります。
店長も週7日、朝の仕込みから夜10時以降の閉店作業まで
ずっと働いているわけにはいかないので、
夜遅くや、曜日によっては副店長に任せて休むシステムみたいです。
で、僕がセミナーの後に立ち寄ると、高確率で店長がいない。
店長がいなくて、副店長が調理をすると
僕の期待する味とは全く別物になってしまうのを知っていますから、
一応入店前に店の中を見て、店長がいるかどうかを確認します。
店長がいないから入らないときもありますが、
塩分を欲している日は、それでも
「もしかしたら副店長だって今日は上手く作れるかも…」と期待して
店に入ることがあるんです。
つまり僕の頭の中で、
「副店長の作るラーメンは、作業が雑だからランダムな要素が大きくて、
店長と同じ作り方になる頻度が低い」
という認識があったわけです。
ですがどうやら、そうではなかったみたいです。
先日セミナーの後、ラーメン屋に入った日のことです。
案の定、店長はいない。
期待は低い。
にもかかわらず、僕の認識は「美味しく作れる確率が低い」という
ランダムさに基づいたものになっていました。
なので「運が良ければ、美味しいのに当たるかもしれない」と考え
宝くじ感覚で店に入ってみたんです。
座った席が、ちょうど調理の様子を真横から一通り見られる場所でした。
一体、その副店長が何をしているのか、観察してみたんです。
そして認識が変わりました。
「これはランダムではない」と。
ちゃんと毎回、同じルーティンで、同じような行動で作業を進めています。
麺を茹でる作業も、湯きりの動作も、麺の茹で加減をチェックする作業も
毎回、同等のクオリティで進んでいます。
”かえし”を丼に測りとるところも、スープを混ぜ合わせるところも、
入れた麺を丼の中で整えるところも、最後に香味油をかけるところも、
手早く同じ動作で行われていました。
いずれも店長とは違う動きです。
僕の判断が細か過ぎるのかもしれませんが、
結果として味が違うんですから、違う作業なんでしょう。
まず麺の茹でるときの作業のせいで、お湯の中で麺がほぐれていない。
お湯が均一に麺と接していないため、熱が加わったところと
熱が届き切っていないところとにムラができるんです。
麺が湯の中で綺麗に踊っていないため、よじれた形で茹であがることも多い。
全体的に茹で時間も短めなようで、副店長が作ると麺がボソボソしています。
半生のような部分もあれば、ヨレヨレに柔らかいところもあったり。
一本一本の麺を一人前の分量だけ茹でているではなく、
一塊の小麦団子のように、ほぐれない形で茹でている印象です。
そして店長と比べると湯きりが甘い。
塊になって茹であがっている上に湯きりが甘いので
茹でたお湯が残ったままスープに投入されます。
副店長が作ると全体的に味が薄くなるのは、お湯が混ざるからでしょう。
さらに一日中、麺を茹で続けているお湯ですから
麺の成分が溶け込んでいるみたいです。
打ち粉の影響だろうと推測されますが、
茹で汁から粉っぽさがラーメンのスープに入ってきてしまいます。
ここも味を落とす原因の1つかと思います。
そしてスープの味が落ちたところに、香味油だけは店長よりも多く入るんです。
粘度の高い油ですから、小さいオタマ一杯分を測りとったとき、
オタマの壁面にくっついた状態で持ちあがってきます。
それが重力で落ちるまで待って、ようやく一杯分の計量になる。
でも副店長の作業は速いので、オタマの壁面についた余分な油まで
丼に加えられることになってしまいます。
結果的に油が多く浮いている状態。
スープが薄く、油が多い。
となると味のバランスは大きく崩れてしまいます。
他にも色々と細かい味の違いは見てとれますが、決定的だったのは、
麺の茹で加減をちゃんと味見していたことです。
副店長の中では、あの茹で加減でOKが出ている。
もう店長の基準とは違ってしまっているわけです。
これでは何回ラーメンを作っても、
そもそも違う味を出そうとしていることになりますから、
店長と同じラーメンになるはずはありません。
「副店長の作業が未熟で、味が安定しない」わけではなかったようです。
毎回、同じように違う味のラーメンを作っていた。
この認識の変化によって、僕の期待は完全にゼロになりました。
「運が良ければ美味しいのに当たるかもしれない…」はあり得なかったんです。
当たりの入っていないクジを何度も引き続けていただけのことでした。
こうなるともう、完全に諦めがつきます。
もう店長のいない日には行かないと思います。
そして残念なのは、このことが改善される見込みが極めて薄いことです。
店長のいる前で調理が行われることはありませんから
もう店長が注意することもないでしょう。
何かしらのアンケートでも取ってくれていれば
僕を含めた何人かが書くかもしれませんが、
そういう経営方針ではないようです。
幸い、副店長しかいない時でも店内は一杯ですし、
人気も衰えていないみたいです。
現場を任せるときには、他人である以上
ある程度避けられないリスクなのかもしれません。
そのことを知った上で、どうやって現場の質を管理していくか。
そこにマネジメントの難しさがあるんでしょう。
以前に軽く
「やっぱり店長が作ったヤツは美味しいですね」
と伝えたことがありましたが、
単なる褒め言葉として受けとられていたようで
含みまでは伝わらなかったみたいでした。
おそらく僕としては、店内を見てから
店に入るかどうかを決めるだけのことになりそうです。
塩辛いものが食べたくなる。
で先日も近所のお気に入りのラーメン屋に行ってみました。
この店、それぞれのラーメンの味の構成が良くできていて
店長の立体的に味を組み立てる才能に感服するばかりなんですが、
ラーメン職人としての腕と、経営者・管理者・指導者としての技能は無関係です。
端的に言うと、あまり人が育っていない印象なんです。
以前はセンスがあって、仕事が丁寧な若い店員がいたんですが
しばらく前に独立のために退職してしまっています。
それ以来、ベトナム人の若者が「副店長」として頑張っている模様。
ええ、「頑張って」はいるんだと思います。
しかし僕の基準には合わない。
期待していることと違う方向性で頑張っています。
店長がいるときは麺を茹でたり、スープの準備をしたりといった
調理の全般は店長自身が主に担当しています。
他のスタッフはサポートをする感じ。
副店長のベトナム出身の彼もサポート側に回ります。
店長も週7日、朝の仕込みから夜10時以降の閉店作業まで
ずっと働いているわけにはいかないので、
夜遅くや、曜日によっては副店長に任せて休むシステムみたいです。
で、僕がセミナーの後に立ち寄ると、高確率で店長がいない。
店長がいなくて、副店長が調理をすると
僕の期待する味とは全く別物になってしまうのを知っていますから、
一応入店前に店の中を見て、店長がいるかどうかを確認します。
店長がいないから入らないときもありますが、
塩分を欲している日は、それでも
「もしかしたら副店長だって今日は上手く作れるかも…」と期待して
店に入ることがあるんです。
つまり僕の頭の中で、
「副店長の作るラーメンは、作業が雑だからランダムな要素が大きくて、
店長と同じ作り方になる頻度が低い」
という認識があったわけです。
ですがどうやら、そうではなかったみたいです。
先日セミナーの後、ラーメン屋に入った日のことです。
案の定、店長はいない。
期待は低い。
にもかかわらず、僕の認識は「美味しく作れる確率が低い」という
ランダムさに基づいたものになっていました。
なので「運が良ければ、美味しいのに当たるかもしれない」と考え
宝くじ感覚で店に入ってみたんです。
座った席が、ちょうど調理の様子を真横から一通り見られる場所でした。
一体、その副店長が何をしているのか、観察してみたんです。
そして認識が変わりました。
「これはランダムではない」と。
ちゃんと毎回、同じルーティンで、同じような行動で作業を進めています。
麺を茹でる作業も、湯きりの動作も、麺の茹で加減をチェックする作業も
毎回、同等のクオリティで進んでいます。
”かえし”を丼に測りとるところも、スープを混ぜ合わせるところも、
入れた麺を丼の中で整えるところも、最後に香味油をかけるところも、
手早く同じ動作で行われていました。
いずれも店長とは違う動きです。
僕の判断が細か過ぎるのかもしれませんが、
結果として味が違うんですから、違う作業なんでしょう。
まず麺の茹でるときの作業のせいで、お湯の中で麺がほぐれていない。
お湯が均一に麺と接していないため、熱が加わったところと
熱が届き切っていないところとにムラができるんです。
麺が湯の中で綺麗に踊っていないため、よじれた形で茹であがることも多い。
全体的に茹で時間も短めなようで、副店長が作ると麺がボソボソしています。
半生のような部分もあれば、ヨレヨレに柔らかいところもあったり。
一本一本の麺を一人前の分量だけ茹でているではなく、
一塊の小麦団子のように、ほぐれない形で茹でている印象です。
そして店長と比べると湯きりが甘い。
塊になって茹であがっている上に湯きりが甘いので
茹でたお湯が残ったままスープに投入されます。
副店長が作ると全体的に味が薄くなるのは、お湯が混ざるからでしょう。
さらに一日中、麺を茹で続けているお湯ですから
麺の成分が溶け込んでいるみたいです。
打ち粉の影響だろうと推測されますが、
茹で汁から粉っぽさがラーメンのスープに入ってきてしまいます。
ここも味を落とす原因の1つかと思います。
そしてスープの味が落ちたところに、香味油だけは店長よりも多く入るんです。
粘度の高い油ですから、小さいオタマ一杯分を測りとったとき、
オタマの壁面にくっついた状態で持ちあがってきます。
それが重力で落ちるまで待って、ようやく一杯分の計量になる。
でも副店長の作業は速いので、オタマの壁面についた余分な油まで
丼に加えられることになってしまいます。
結果的に油が多く浮いている状態。
スープが薄く、油が多い。
となると味のバランスは大きく崩れてしまいます。
他にも色々と細かい味の違いは見てとれますが、決定的だったのは、
麺の茹で加減をちゃんと味見していたことです。
副店長の中では、あの茹で加減でOKが出ている。
もう店長の基準とは違ってしまっているわけです。
これでは何回ラーメンを作っても、
そもそも違う味を出そうとしていることになりますから、
店長と同じラーメンになるはずはありません。
「副店長の作業が未熟で、味が安定しない」わけではなかったようです。
毎回、同じように違う味のラーメンを作っていた。
この認識の変化によって、僕の期待は完全にゼロになりました。
「運が良ければ美味しいのに当たるかもしれない…」はあり得なかったんです。
当たりの入っていないクジを何度も引き続けていただけのことでした。
こうなるともう、完全に諦めがつきます。
もう店長のいない日には行かないと思います。
そして残念なのは、このことが改善される見込みが極めて薄いことです。
店長のいる前で調理が行われることはありませんから
もう店長が注意することもないでしょう。
何かしらのアンケートでも取ってくれていれば
僕を含めた何人かが書くかもしれませんが、
そういう経営方針ではないようです。
幸い、副店長しかいない時でも店内は一杯ですし、
人気も衰えていないみたいです。
現場を任せるときには、他人である以上
ある程度避けられないリスクなのかもしれません。
そのことを知った上で、どうやって現場の質を管理していくか。
そこにマネジメントの難しさがあるんでしょう。
以前に軽く
「やっぱり店長が作ったヤツは美味しいですね」
と伝えたことがありましたが、
単なる褒め言葉として受けとられていたようで
含みまでは伝わらなかったみたいでした。
おそらく僕としては、店内を見てから
店に入るかどうかを決めるだけのことになりそうです。
2016年12月16日
避けられないもの
札幌から帰ってきて、少し風邪を引いたようです。
喉が痛い。
こういうときは、新幹線やホテルの乾燥や空気の悪さが堪えます。
それはさておき、先日、週一回の英会話に行ったときのこと。
次回の予約をしようとスケジュールを確認したところ
いつもの先生の名前とともに「最後のレッスン」の日付が載っていました。
年内で退職するとのことでした。
TOEFLの対策から英語の勉強をスタートし、
ベルリッツ、Gabaでスピーキングのトレーニングをして、
その後に通い始めた英会話スクールで出会った先生。
英語での会話を楽しめる先生だったんです。
知識の範囲も広く、日本語でも話す機会の少ない話題で
会話そのものが楽しい時間となっていました。
4年ぐらいは毎週のように話していたと思います。
そろそろ年金をもらい始めるような年齢の人ですから
退職というのも無理のない話でしょう。
そう遠くないフシは以前から会話の端々に表れていました。
覚悟はしていたとはいえ、思ったよりも早かった。
寂しくなります。
いい先生と巡り合う機会はそれほど多くないようですので。
仕方がない。
ありがたい。
同時に、やっぱり寂しい。
そんなものなんでしょうね。
喉が痛い。
こういうときは、新幹線やホテルの乾燥や空気の悪さが堪えます。
それはさておき、先日、週一回の英会話に行ったときのこと。
次回の予約をしようとスケジュールを確認したところ
いつもの先生の名前とともに「最後のレッスン」の日付が載っていました。
年内で退職するとのことでした。
TOEFLの対策から英語の勉強をスタートし、
ベルリッツ、Gabaでスピーキングのトレーニングをして、
その後に通い始めた英会話スクールで出会った先生。
英語での会話を楽しめる先生だったんです。
知識の範囲も広く、日本語でも話す機会の少ない話題で
会話そのものが楽しい時間となっていました。
4年ぐらいは毎週のように話していたと思います。
そろそろ年金をもらい始めるような年齢の人ですから
退職というのも無理のない話でしょう。
そう遠くないフシは以前から会話の端々に表れていました。
覚悟はしていたとはいえ、思ったよりも早かった。
寂しくなります。
いい先生と巡り合う機会はそれほど多くないようですので。
仕方がない。
ありがたい。
同時に、やっぱり寂しい。
そんなものなんでしょうね。
2016年12月12日
白黒反転
札幌の雪景色は、道外からやってきた立場として見ている分には
なんとも不思議に心を奪われるものでした。
(住んでいたら大変だと思いますが)
特に空が白くなり、遠くが見えなくなるほどの降雪となると
あたりはもう一面が白く見えます。
日中ですから太陽光は届くわけなので薄明るさはある。
ただ前面が均一に近い形で、うっすらと白く明るい。
こうなると色味の強いものはグレースケールのように黒っぽく見えます。
実際は中間色のグレーは目立たず、白黒二色のような感じでした。
これが興味深いんです。
雪国で育っていたら違うのかもしれませんが
雪景色を見慣れていない環境で育った僕には少なくとも、
光と影なら光のほうに目を向ける癖があります。
明るいところに注目がいくというか、
物体を光の反射で認識しているというか、
明るさのコントラストや色味の変化で形を認識する感じがあるようです。
ところが一面が真っ白の景色となると、明るい部分は雪に覆われていて
その白さが背景の白さと溶け込んでしまう感じになります。
明るさのコントラストが輪郭を作ってくれない。
普段通りに光に注目していると形が分からなくなるんです。
一方、樹木なんかは幹や枝のうち、雪の積もっていないところだけが
真黒な線として樹の形を示しています。
一応は樹木があることを認識できる。
その景色の中で光に注目する癖は残っていますから
つい白い部分全体のほうを見てしまって
樹木の形は黒く抜け落ちた部分のように認識されたんです。
普段の見方であれば背景の中に、前景として「樹木がある」と認識しますが、
目は一面の白さに向いてしまっています。
背景であるはずの一面の白さをメインで前景として見てしまって
物体として際立っているはずの樹木が背景のように見える。
前景と背景が反転している感じがしました。
よほど写真にとって白黒反転したほうが自然に認識できそうなほどです。
普段とは違った認識の仕方でした。
ちょっと不思議な感じ。
書道をやっている僕としては白黒の着眼点として勉強になった気もします。
雪景色の中で黒く埋もれている木々は、背景として認識された状態のようです。
書道の場合は、白い紙の中で黒い文字が前景として認識される。
書道でも白い紙の部分を前景として、文字を黒の背景のように捉えられれば
文字の形という物体の認識を離れて、単純な白黒のバランスだけに注目できます。
文字の持つ意味を離れて、白黒だけで美しさを表現するのが芸術だとしたら
黒の部分を背景として見られるぐらいの認識の仕方も重要だと思われます。
その意味で、雪景色は前景と背景を反転する見方を経験するのに有意義でした。
意味づけした物体や概念を捉えるのではなく、
全体の光の特徴だけを捉えるという知覚の仕方。
意味づけの少ないニュートラルな受け取り方の練習にもなるような気がします。
なんとも不思議に心を奪われるものでした。
(住んでいたら大変だと思いますが)
特に空が白くなり、遠くが見えなくなるほどの降雪となると
あたりはもう一面が白く見えます。
日中ですから太陽光は届くわけなので薄明るさはある。
ただ前面が均一に近い形で、うっすらと白く明るい。
こうなると色味の強いものはグレースケールのように黒っぽく見えます。
実際は中間色のグレーは目立たず、白黒二色のような感じでした。
これが興味深いんです。
雪国で育っていたら違うのかもしれませんが
雪景色を見慣れていない環境で育った僕には少なくとも、
光と影なら光のほうに目を向ける癖があります。
明るいところに注目がいくというか、
物体を光の反射で認識しているというか、
明るさのコントラストや色味の変化で形を認識する感じがあるようです。
ところが一面が真っ白の景色となると、明るい部分は雪に覆われていて
その白さが背景の白さと溶け込んでしまう感じになります。
明るさのコントラストが輪郭を作ってくれない。
普段通りに光に注目していると形が分からなくなるんです。
一方、樹木なんかは幹や枝のうち、雪の積もっていないところだけが
真黒な線として樹の形を示しています。
一応は樹木があることを認識できる。
その景色の中で光に注目する癖は残っていますから
つい白い部分全体のほうを見てしまって
樹木の形は黒く抜け落ちた部分のように認識されたんです。
普段の見方であれば背景の中に、前景として「樹木がある」と認識しますが、
目は一面の白さに向いてしまっています。
背景であるはずの一面の白さをメインで前景として見てしまって
物体として際立っているはずの樹木が背景のように見える。
前景と背景が反転している感じがしました。
よほど写真にとって白黒反転したほうが自然に認識できそうなほどです。
普段とは違った認識の仕方でした。
ちょっと不思議な感じ。
書道をやっている僕としては白黒の着眼点として勉強になった気もします。
雪景色の中で黒く埋もれている木々は、背景として認識された状態のようです。
書道の場合は、白い紙の中で黒い文字が前景として認識される。
書道でも白い紙の部分を前景として、文字を黒の背景のように捉えられれば
文字の形という物体の認識を離れて、単純な白黒のバランスだけに注目できます。
文字の持つ意味を離れて、白黒だけで美しさを表現するのが芸術だとしたら
黒の部分を背景として見られるぐらいの認識の仕方も重要だと思われます。
その意味で、雪景色は前景と背景を反転する見方を経験するのに有意義でした。
意味づけした物体や概念を捉えるのではなく、
全体の光の特徴だけを捉えるという知覚の仕方。
意味づけの少ないニュートラルな受け取り方の練習にもなるような気がします。
2016年12月10日
雪国
札幌出張はこれまでにも何度もありましたし、
冬に来ることも当然ありました。
雪の積もった中を歩いたときもあれば
雪の降る中に到着したときも。
ところが雪が積もる過程を体験したのは今回が初めてでした。
深夜に到着して次の日の朝には相当な積雪。
そのあとも日中、吹雪のように降り続け
雪の降りやんだセミナー終了時には、もうこんもりと
数十センチを超える積もり方をしていました。
風が吹く方向が一定なのか、街路樹の側面に雪が積もっていたり
雪の粒が風に舞うため丸みを帯びた形に雪が残っていたり、
東京では見られない景色ばかりです。
風で雪が移動するからでしょうが、
砂漠のように空気が流れた後が積もった雪にも見てとれます。
いわゆる吹雪とかホワイトアウトと呼ばれるような光景も
ある意味では貴重な体験だったみたいです。
ほとんどの物が白く覆われ、黒く影になった部分が際立って目に映る景色は
まるでグレースケールの白黒写真を見ているようで不思議な感じもします。
彩度がないんです。
カラフルなほうが明るい気持ちになる人は多いようですから
北国の冬で気持ちが暗くなる人がいても納得できそうなほど。
北欧だと日照時間の少なさと光の暗さからウツ傾向が増えて(季節性ウツ)
光を浴びるセラピー(光療法)での治療が知られています。
もちろん光そのものの影響もあるでしょうが、内面への影響としては
環境から色が失われ、世界が薄暗いモノトーンになることも関係しそうです。
実際、赤道に近いあたりのほうが文化的に陽気な傾向もある気がしますが
同時に太陽の明るさと自然のカラフルさも際立っています。
暑いところのほうが体もダラッとしやすく、
寒ければ筋肉を緊張させやすくもなります。
気温もまた内面に影響するでしょう。
赤や黄色のハッキリした花、常緑樹の緑色の葉っぱ、
青い空と海、光を反射する白い砂浜…
そんなカラフルで明るい景色が一年中つづく暖かい場所と、
薄暗いモノトーンの景色の寒い場所とでは
放っておいても内面の状態は異なってくるだろうと考えられます。
とはいえ、僕は好みの問題として
ギラギラしたカラフルなものよりも
シンプルに白黒のものが好きなところもあるので、
雪の積もったモノトーンの景色には逆に心を奪われたりもするんです。
一般論として内面に影響を及ぼす要因と、
個人的な好みや慣れと、両方があるんでしょう。
僕の場合は好みの影響が上回るようですが。
白黒だけが強調される景色を見ていると
版画で景色を写しとってみたくなります。
冬に来ることも当然ありました。
雪の積もった中を歩いたときもあれば
雪の降る中に到着したときも。
ところが雪が積もる過程を体験したのは今回が初めてでした。
深夜に到着して次の日の朝には相当な積雪。
そのあとも日中、吹雪のように降り続け
雪の降りやんだセミナー終了時には、もうこんもりと
数十センチを超える積もり方をしていました。
風が吹く方向が一定なのか、街路樹の側面に雪が積もっていたり
雪の粒が風に舞うため丸みを帯びた形に雪が残っていたり、
東京では見られない景色ばかりです。
風で雪が移動するからでしょうが、
砂漠のように空気が流れた後が積もった雪にも見てとれます。
いわゆる吹雪とかホワイトアウトと呼ばれるような光景も
ある意味では貴重な体験だったみたいです。
ほとんどの物が白く覆われ、黒く影になった部分が際立って目に映る景色は
まるでグレースケールの白黒写真を見ているようで不思議な感じもします。
彩度がないんです。
カラフルなほうが明るい気持ちになる人は多いようですから
北国の冬で気持ちが暗くなる人がいても納得できそうなほど。
北欧だと日照時間の少なさと光の暗さからウツ傾向が増えて(季節性ウツ)
光を浴びるセラピー(光療法)での治療が知られています。
もちろん光そのものの影響もあるでしょうが、内面への影響としては
環境から色が失われ、世界が薄暗いモノトーンになることも関係しそうです。
実際、赤道に近いあたりのほうが文化的に陽気な傾向もある気がしますが
同時に太陽の明るさと自然のカラフルさも際立っています。
暑いところのほうが体もダラッとしやすく、
寒ければ筋肉を緊張させやすくもなります。
気温もまた内面に影響するでしょう。
赤や黄色のハッキリした花、常緑樹の緑色の葉っぱ、
青い空と海、光を反射する白い砂浜…
そんなカラフルで明るい景色が一年中つづく暖かい場所と、
薄暗いモノトーンの景色の寒い場所とでは
放っておいても内面の状態は異なってくるだろうと考えられます。
とはいえ、僕は好みの問題として
ギラギラしたカラフルなものよりも
シンプルに白黒のものが好きなところもあるので、
雪の積もったモノトーンの景色には逆に心を奪われたりもするんです。
一般論として内面に影響を及ぼす要因と、
個人的な好みや慣れと、両方があるんでしょう。
僕の場合は好みの影響が上回るようですが。
白黒だけが強調される景色を見ていると
版画で景色を写しとってみたくなります。
2016年12月08日
技術で味を追加する
最近の食品加工技術はスゴイと思います。
長期保存を可能にするための加工でありながら
食べる状態での味を想定していることがあるようです。
レトルトや冷凍食品であれば、食べる直前の加温で
調理の全てが完成するように調整してある。
単純に出来あがった料理を保存して、温め直して食べるわけではないんです。
一見するとただの温め直しに見える加熱工程を調理の一部として想定している。
美味しく食べることを第一に考えて作られているんでしょう。
家庭用の調理家電でも、いかに美味しくできるかが計算されているそうです。
もはや家電は、伝統的で正当な調理方法の代替ではないんでしょう。
出来立てを食べ損ねたときに、それを補うように
「せめて簡単に温め直して食べる」というのが
元々の調理家電の大部分だった気がします。
揚げ物を電子レンジで温めれば、べチャッとなって味は落ちる。
でも、冷たいままよりはマシ。
そういう発想があった気がします。
最近の家電は、そういった味の低下を防ぐ工夫に満ちています。
それどころか、「揚げる」という工程そのものを代替することさえできるそうです。
トースターにしても、焼きたてパンのように加熱できるものまであるんだとか。
こうなってくると調理家電は、従来の伝統的な調理方法を補うための手段ではなく
新たな美味しさを生み出すための新たな調理方法の1つにも感じられます。
長期保存のための手法だった密閉や乾燥にしても
ただの保存が目的なのではなく、
その工程で生まれる味の変化を料理方法として活かしてさえもいるようです。
レトルトや缶詰は密閉状態にしてから加温調理することで
内部を滅菌して、腐らないようにしているわけですが、
この密閉状態での加温という方法そのものが1つの調理方法になっている、と。
煮汁からの味の染み込み度合いでいったら、おそらく
密閉状態での加熱のほうが効果的でしょう。
乾燥にしたって、乾燥させることで味が濃縮されます。
常温あるいは高温での乾燥は味の成分が変わりやすいのが特徴です。
この辺は伝統的な乾物の特徴でもあって、加温乾燥の過程で
タンパク質が分解されて旨味成分のアミノ酸が増えるメリットがあります。
しかし同時に干物特有の匂いが出てきたり、
元の素材そのものとは違った味に変化したりするデメリットも含まれます。
ドライフルーツには独特の味わいがあって
それはそれで生の果物とは違った美味しさがあると思われますが、
元の果物とは違った食べ物になるぐらいに差が生まれるのも実情。
その点、最近のフリーズドライ技術は、かなり多くの食品を
味の成分を変えないままに水分だけ飛ばして乾燥させることが可能です。
純粋に味が濃縮される方向になるわけです。
イチゴやトマトなど、酸味がフレッシュさを感じさせる果物であっても
フリーズドライなら甘酸っぱさの全てと香り成分をまとめて濃縮できます。
新たな食感で、かつ濃密な味わいのドライフルーツになる。
これは、干物(常温乾燥)や燻製(高温乾燥)につぐ
新たな乾燥調理法の1つともいえるんじゃないでしょうか。
伝統的な調理方法で作られたものには本格的な魅力があると思います。
その一方で、科学技術を利用した最近の調理方法にも
これまでにはない新たな魅力が出ていると感じます。
そもそも伝統的な調理方法の中にも、当時の科学的な知見を使った
保存のための調理技術が含まれています。
発酵、干物、燻製などはその代表です。
そこに加工のための機械が使われているかどうかは違いますが
美味しさの追加と長期保存を両立させるための工夫があるのは共通しています。
そんな観点で見ていくと、スーパーやコンビニに並ぶ加工食品に
新たな魅力が見つかってくるような気がします。
ちなみに、こちらは最近コンビニで売られている
フリーズドライのイカの塩辛。
塩辛をそのままに濃縮した感じで、
イカのワタの味わいは更に強くなっています。
そして手でつまんで食べられる。
イカの塩辛がご飯のお供に、というイメージだとしたら
こちらのほうが、酒のつまみに向いているのかもしれません。
…僕はお酒を飲みませんが。
美味しさを追加する食品加工技術の一例のような気がします。
長期保存を可能にするための加工でありながら
食べる状態での味を想定していることがあるようです。
レトルトや冷凍食品であれば、食べる直前の加温で
調理の全てが完成するように調整してある。
単純に出来あがった料理を保存して、温め直して食べるわけではないんです。
一見するとただの温め直しに見える加熱工程を調理の一部として想定している。
美味しく食べることを第一に考えて作られているんでしょう。
家庭用の調理家電でも、いかに美味しくできるかが計算されているそうです。
もはや家電は、伝統的で正当な調理方法の代替ではないんでしょう。
出来立てを食べ損ねたときに、それを補うように
「せめて簡単に温め直して食べる」というのが
元々の調理家電の大部分だった気がします。
揚げ物を電子レンジで温めれば、べチャッとなって味は落ちる。
でも、冷たいままよりはマシ。
そういう発想があった気がします。
最近の家電は、そういった味の低下を防ぐ工夫に満ちています。
それどころか、「揚げる」という工程そのものを代替することさえできるそうです。
トースターにしても、焼きたてパンのように加熱できるものまであるんだとか。
こうなってくると調理家電は、従来の伝統的な調理方法を補うための手段ではなく
新たな美味しさを生み出すための新たな調理方法の1つにも感じられます。
長期保存のための手法だった密閉や乾燥にしても
ただの保存が目的なのではなく、
その工程で生まれる味の変化を料理方法として活かしてさえもいるようです。
レトルトや缶詰は密閉状態にしてから加温調理することで
内部を滅菌して、腐らないようにしているわけですが、
この密閉状態での加温という方法そのものが1つの調理方法になっている、と。
煮汁からの味の染み込み度合いでいったら、おそらく
密閉状態での加熱のほうが効果的でしょう。
乾燥にしたって、乾燥させることで味が濃縮されます。
常温あるいは高温での乾燥は味の成分が変わりやすいのが特徴です。
この辺は伝統的な乾物の特徴でもあって、加温乾燥の過程で
タンパク質が分解されて旨味成分のアミノ酸が増えるメリットがあります。
しかし同時に干物特有の匂いが出てきたり、
元の素材そのものとは違った味に変化したりするデメリットも含まれます。
ドライフルーツには独特の味わいがあって
それはそれで生の果物とは違った美味しさがあると思われますが、
元の果物とは違った食べ物になるぐらいに差が生まれるのも実情。
その点、最近のフリーズドライ技術は、かなり多くの食品を
味の成分を変えないままに水分だけ飛ばして乾燥させることが可能です。
純粋に味が濃縮される方向になるわけです。
イチゴやトマトなど、酸味がフレッシュさを感じさせる果物であっても
フリーズドライなら甘酸っぱさの全てと香り成分をまとめて濃縮できます。
新たな食感で、かつ濃密な味わいのドライフルーツになる。
これは、干物(常温乾燥)や燻製(高温乾燥)につぐ
新たな乾燥調理法の1つともいえるんじゃないでしょうか。
伝統的な調理方法で作られたものには本格的な魅力があると思います。
その一方で、科学技術を利用した最近の調理方法にも
これまでにはない新たな魅力が出ていると感じます。
そもそも伝統的な調理方法の中にも、当時の科学的な知見を使った
保存のための調理技術が含まれています。
発酵、干物、燻製などはその代表です。
そこに加工のための機械が使われているかどうかは違いますが
美味しさの追加と長期保存を両立させるための工夫があるのは共通しています。
そんな観点で見ていくと、スーパーやコンビニに並ぶ加工食品に
新たな魅力が見つかってくるような気がします。
ちなみに、こちらは最近コンビニで売られている
フリーズドライのイカの塩辛。
塩辛をそのままに濃縮した感じで、
イカのワタの味わいは更に強くなっています。
そして手でつまんで食べられる。
イカの塩辛がご飯のお供に、というイメージだとしたら
こちらのほうが、酒のつまみに向いているのかもしれません。
…僕はお酒を飲みませんが。
美味しさを追加する食品加工技術の一例のような気がします。
2016年12月06日
都会のヤモリ
先日の出張帰り、最寄駅から雨の中を歩いていたところ
地面にヤモリがいました。
指がプックリしていて、なかなか可愛らしかったです。
セミナーで人の内面にばかり注意を向けて
色々な匂いが入り混じった新幹線でグッタリした後だったので、
人間以外の動物がなんとも穏やかに見えたものです。
都会のアスファルトの上を歩くのは、一般的なヤモリの生態からすれば
あまり望ましい環境とはいえないのかもしれません。
それでも不平不満とは無関係に、ただ偶然めぐりあったその環境で
ただ生きているヤモリの姿には、世間一般の人間とは違った魅力を感じます。
目標や夢を抱いたり、問題を解決したり、自己成長したり…と
置かれた状況を打破しようとするスタンスが多い世の中だからこそ、
その場所で生きるだけのヤモリに、多少の憧れも抱いてしまうのかもしれません。
地面にヤモリがいました。
指がプックリしていて、なかなか可愛らしかったです。
セミナーで人の内面にばかり注意を向けて
色々な匂いが入り混じった新幹線でグッタリした後だったので、
人間以外の動物がなんとも穏やかに見えたものです。
都会のアスファルトの上を歩くのは、一般的なヤモリの生態からすれば
あまり望ましい環境とはいえないのかもしれません。
それでも不平不満とは無関係に、ただ偶然めぐりあったその環境で
ただ生きているヤモリの姿には、世間一般の人間とは違った魅力を感じます。
目標や夢を抱いたり、問題を解決したり、自己成長したり…と
置かれた状況を打破しようとするスタンスが多い世の中だからこそ、
その場所で生きるだけのヤモリに、多少の憧れも抱いてしまうのかもしれません。