2017年01月
2017年01月30日
英語でプレゼン
これまであまり気が乗らなかったことを、ようやくやってみることにしました。
大したことではありません。
ただ講座に参加するだけのことです。
プレゼンテーションの講座。
大学の公開講座でやっているものです。
英語のスピーキング強化、とくに人前で話すという設定で
英語を使うことに慣れておきたいと思い始めました。
どうしても会話形式でスピーキングの練習をしていると
ついペース合わせが多くなってしまって
自分が会話の主導権を握り、話を展開させていくようなことが減ります。
応答がメインになってしまう印象があるわけです。
もちろん、ある程度の量をまとめて話すこともありますが
自分で話の全体像を組み立てながら
流れをとらえてアウトプットするようなことは少ないようです。
場合によっては相手の話を聞いている間に何を言うかを考えて
それから話し始めるようなこともあります。
時間をかけて話す内容を考える印象があって
自然と湧き上がるものを口から出すようなことは少なかった。
なので主体的に英語でのアウトプットをする練習としては
プレゼンが重要だろうと考えているところです。
とはいえ、そういう考えは以前からも何となく持っていました。
プレゼンを練習する必要がある、と。
「自分が日本語でやっていることを英語でもできたらなぁ」と
感じていたこともありますから、その意味でも
英語を使って人前で話す練習は重要だろうと思っていたんです。
しかし実際は二の足を踏んでいました。
英語でのプレゼンの講座に出ることに抵抗があった気がします。
講師は前に、あるテスト対策講座を受けたときの人ですから
こちらとしては面識もありますし、どんな話し方の人かも知っています。
講師のプレゼンの技量も知っているわけです。
それを踏まえると、決して高度な内容ではないだろうと想像できます。
内容的な満足度が低そうなのも関係していたかもしれません。
おそらく、それ以上に引っかかっていたのは
「フィードバックを受ける時間がある」というところのように思います。
仕事として講師とかトレーナーとして人前で話すことをしている。
慣れない英語だとはいえ、それで他者からフィードバックを受けることに
妙なプライドがあるような気がします。
日本語でやるときには意図的にやれることも、
あえてやらないようにしていることも、
「正しいプレゼンの方法」の枠組みで評価されることになると予想されます。
そこに面倒臭い印象を受けていたみたいです。
まぁ、それは「やろうと思えばできますよ」ぐらいの状態にしておけばいい。
そんな風に考えが変わってきました。
むしろ場数をこなすことのほうが価値があると思っています。
こうして振り返ってみると、日本語で何かをやるときには気にならないのに
英語でプレゼンをするとなると「人からどう思われるか」が気になるようです。
厳密には日本語でも気になる部分はあるのかもしれませんが、
日本語のほうには何かしらの自信の根拠があるみたいです。
言い換えると、英語でプレゼンをするのに抵抗があったのは
他者からの評価ではなく、自分自身の評価として
自分のパフォーマンスを厳しく判断してしまうから、とも考えられます。
自分が気づいていないことを言われてショックを受けるというよりも
自分でも分かっている課題を指摘されて「ああ、やっぱり…」みたいなのが
避けたかった部分じゃないか、と。
実際に何が起きるかは参加しながらでないと分かりませんが、
どういう変化が起きるのかを期待しながら参加してみたいと思います。
おそらく内的な課題を扱いつつ進めると効果も上がるでしょうから。
大したことではありません。
ただ講座に参加するだけのことです。
プレゼンテーションの講座。
大学の公開講座でやっているものです。
英語のスピーキング強化、とくに人前で話すという設定で
英語を使うことに慣れておきたいと思い始めました。
どうしても会話形式でスピーキングの練習をしていると
ついペース合わせが多くなってしまって
自分が会話の主導権を握り、話を展開させていくようなことが減ります。
応答がメインになってしまう印象があるわけです。
もちろん、ある程度の量をまとめて話すこともありますが
自分で話の全体像を組み立てながら
流れをとらえてアウトプットするようなことは少ないようです。
場合によっては相手の話を聞いている間に何を言うかを考えて
それから話し始めるようなこともあります。
時間をかけて話す内容を考える印象があって
自然と湧き上がるものを口から出すようなことは少なかった。
なので主体的に英語でのアウトプットをする練習としては
プレゼンが重要だろうと考えているところです。
とはいえ、そういう考えは以前からも何となく持っていました。
プレゼンを練習する必要がある、と。
「自分が日本語でやっていることを英語でもできたらなぁ」と
感じていたこともありますから、その意味でも
英語を使って人前で話す練習は重要だろうと思っていたんです。
しかし実際は二の足を踏んでいました。
英語でのプレゼンの講座に出ることに抵抗があった気がします。
講師は前に、あるテスト対策講座を受けたときの人ですから
こちらとしては面識もありますし、どんな話し方の人かも知っています。
講師のプレゼンの技量も知っているわけです。
それを踏まえると、決して高度な内容ではないだろうと想像できます。
内容的な満足度が低そうなのも関係していたかもしれません。
おそらく、それ以上に引っかかっていたのは
「フィードバックを受ける時間がある」というところのように思います。
仕事として講師とかトレーナーとして人前で話すことをしている。
慣れない英語だとはいえ、それで他者からフィードバックを受けることに
妙なプライドがあるような気がします。
日本語でやるときには意図的にやれることも、
あえてやらないようにしていることも、
「正しいプレゼンの方法」の枠組みで評価されることになると予想されます。
そこに面倒臭い印象を受けていたみたいです。
まぁ、それは「やろうと思えばできますよ」ぐらいの状態にしておけばいい。
そんな風に考えが変わってきました。
むしろ場数をこなすことのほうが価値があると思っています。
こうして振り返ってみると、日本語で何かをやるときには気にならないのに
英語でプレゼンをするとなると「人からどう思われるか」が気になるようです。
厳密には日本語でも気になる部分はあるのかもしれませんが、
日本語のほうには何かしらの自信の根拠があるみたいです。
言い換えると、英語でプレゼンをするのに抵抗があったのは
他者からの評価ではなく、自分自身の評価として
自分のパフォーマンスを厳しく判断してしまうから、とも考えられます。
自分が気づいていないことを言われてショックを受けるというよりも
自分でも分かっている課題を指摘されて「ああ、やっぱり…」みたいなのが
避けたかった部分じゃないか、と。
実際に何が起きるかは参加しながらでないと分かりませんが、
どういう変化が起きるのかを期待しながら参加してみたいと思います。
おそらく内的な課題を扱いつつ進めると効果も上がるでしょうから。
2017年01月27日
今年もDVDを買います
ここ数年、年末年始にかけて毎年していることがありました。
「メンタリスト」のDVDを見ることです。
まとまった時間がとりやすい時期として、
またちょうど発売時期を少し過ぎたあたりだということもあって、
年末から年明けの間、余裕のある時期にまとめて見ていたんです。
レンタルでもいいんですが、
まとめて見るのに気楽なのでDVDボックスを購入していました。
一回目は気軽に日本語字幕で見て、
二回目は英語の勉強のために字幕なしで見ながら
分からないところだけ字幕をつける
…といった工夫も、返却期限を気にしないで済むからやりやすいんです。
年に一度の形で時期を固定していると
自分の英語力の変化も測りやすいと思いますし。
しかしながら、今年はスケジュールの密度を踏まえて
購入する時期を逃してしまっていました。
しかも今シーズンは「ファイナル・シーズン」となっています。
7番目で終了なんです。
そしてなぜかDVDが「全7枚」と。
これまでのシーズンは11枚組だったのに。
DVD1枚当たり2話として、週一のドラマとして22週分ぐらい。
日本のドラマは10週ぐらいで完結することが多く
3か月ごとに番組改編の時期がやってきます。
アメリカのドラマについては知りませんが
今までは半年近くの毎週放送が1シーズンだったんでしょう。
ところがファイナルシーズンは、日本の1シーズン分、つまり
約3か月分で完結しているわけです。
途中で終わったのか、人気がなかったのか、
そもそももう終盤に入っていて、オマケのような扱いだったのか…。
確かにシーズン6で山場は越えたフシはありました。
いずれにしても、
きっちり1シーズン分含まれていないだけの理由があるんじゃないか?
そんな風に、なんだか物足りなそうな印象を持ってしまったんです。
それがイマイチ魅力を下げてしまって、購入を見送っていたところがありました。
ですが、ちょうど最近、購入したい洋書があったので
そのついでにDVDボックスも買ってみることにしました。
一気に見る時間的余裕は今のところありませんが、
もしかしたらそれぐらいで丁度いいかもしれませんし。
ほどほどに見てみようかと思っています。
期待値が下がっている分、もしかしたら逆に
予想以上に楽しめる可能性もあるでしょう。
いや、少し自分の中に寂しい気持ちもあるような気がしてきました。
心とかコミュニケーションとかを勉強し始め、
NLPのトレーナーとして仕事が忙しかったころ
NLP関係の人たちの間で面白いと噂になっていた「メンタリスト」。
話のタネにと見始めて、ずっと見続けている状態です。
それも一区切りを迎える。
感情移入したり、自分の進み方と照らし合わせたり、
思いのほか、自分の中で重要度を高く置いていたようです。
それが終わる寂しさみたいのも感じます。
意外と複雑な感慨をもって見ることになりそうな気がしてきました。
「メンタリスト」のDVDを見ることです。
まとまった時間がとりやすい時期として、
またちょうど発売時期を少し過ぎたあたりだということもあって、
年末から年明けの間、余裕のある時期にまとめて見ていたんです。
レンタルでもいいんですが、
まとめて見るのに気楽なのでDVDボックスを購入していました。
一回目は気軽に日本語字幕で見て、
二回目は英語の勉強のために字幕なしで見ながら
分からないところだけ字幕をつける
…といった工夫も、返却期限を気にしないで済むからやりやすいんです。
年に一度の形で時期を固定していると
自分の英語力の変化も測りやすいと思いますし。
しかしながら、今年はスケジュールの密度を踏まえて
購入する時期を逃してしまっていました。
しかも今シーズンは「ファイナル・シーズン」となっています。
7番目で終了なんです。
そしてなぜかDVDが「全7枚」と。
これまでのシーズンは11枚組だったのに。
DVD1枚当たり2話として、週一のドラマとして22週分ぐらい。
日本のドラマは10週ぐらいで完結することが多く
3か月ごとに番組改編の時期がやってきます。
アメリカのドラマについては知りませんが
今までは半年近くの毎週放送が1シーズンだったんでしょう。
ところがファイナルシーズンは、日本の1シーズン分、つまり
約3か月分で完結しているわけです。
途中で終わったのか、人気がなかったのか、
そもそももう終盤に入っていて、オマケのような扱いだったのか…。
確かにシーズン6で山場は越えたフシはありました。
いずれにしても、
きっちり1シーズン分含まれていないだけの理由があるんじゃないか?
そんな風に、なんだか物足りなそうな印象を持ってしまったんです。
それがイマイチ魅力を下げてしまって、購入を見送っていたところがありました。
ですが、ちょうど最近、購入したい洋書があったので
そのついでにDVDボックスも買ってみることにしました。
一気に見る時間的余裕は今のところありませんが、
もしかしたらそれぐらいで丁度いいかもしれませんし。
ほどほどに見てみようかと思っています。
期待値が下がっている分、もしかしたら逆に
予想以上に楽しめる可能性もあるでしょう。
いや、少し自分の中に寂しい気持ちもあるような気がしてきました。
心とかコミュニケーションとかを勉強し始め、
NLPのトレーナーとして仕事が忙しかったころ
NLP関係の人たちの間で面白いと噂になっていた「メンタリスト」。
話のタネにと見始めて、ずっと見続けている状態です。
それも一区切りを迎える。
感情移入したり、自分の進み方と照らし合わせたり、
思いのほか、自分の中で重要度を高く置いていたようです。
それが終わる寂しさみたいのも感じます。
意外と複雑な感慨をもって見ることになりそうな気がしてきました。
2017年01月24日
飛行機の中で
先日、札幌に出張に行ったとき、帰りがけから雪が強まって
東京行きの飛行機が大幅に遅れる事態に巻き込まれました。
ちょうど一か月前に行ったときも記録的な大雪のタイミングで
多くの便が欠航になった日でしたから
二回続けてということになります。
前回はもう、大雪が続いている影響で
そもそも飛行機が新千歳空港にやってこれない
という状況も起こっていました。
そのため大部分が欠航。
新千歳空港に停まっている飛行機が飛ぶのも遅れが続いていました。
空港内は人でごった返し、
搭乗口で長時間待たなければいけない状況だったんです。
実際、僕が飛行機に乗り込んだのは確か夜11時半ぐらい。
羽田に着いたのは1時を回っていたと思います。
それでも待つ場所が空港内の搭乗口だったというのは
意外と逃げ場が多く、待つことそのもののストレスは小さかった気がします。
(もちろん欠航にならないかどうかは心配でしたが)
一方、今回は雪が強まったタイミングが遅く
事前から心配していたわけではありませんでした。
飛行機に登場するところまでは、ほぼ予定通り。
数十分の遅れはありましたが、まぁそれぐらいは良くある話です。
そして飛行機が滑走路に向かって移動。
時間がかかったのはここからでした。
滑走路付近で離陸待ちをしている間に雪がドンドン強くなり、
前の飛行機の順番待ちが長引きました。
すると、機体や羽にかける融雪剤の効果時間を越えたとかで
もう一度、発着所まで戻ることに。
そのあたりから時間がかかり始め、
滑走路の除雪が追いつかないだとか、燃料補給がどうとか、
色々な理由で飛行機の中で缶詰状態のまま4時間。
こうなると乗客の苛立ちが増してきます。
狭い空間にいることのストレスや、
何もすることができない不満、
一向に進展が見られない状況、
もしかしたら欠航になって飛行機から降ろされるかもしれない可能性、
羽田での乗り継ぎに間に合わないとクレームをいう人、
耐えきれずグズり出す子供…、
徐々に苛立ちが増幅されていったようでした。
同じぐらいの時間を待合室で過ごしていた前回は
ここまでの苛立ちは出ていなかった気がします。
前回は空港到着前から大雪で
遅延に対して心の準備ができていたのが1つでしょう。
そして飛行機の中は制限が多い。
自由にできない感じ、束縛された感じもまた
不満を高めたと思われます。
心の準備というのも、いわば
自ら諦めることで自分のコントロール感を高める行為
と捉えることもできそうです。
いかに人が、コントロールを奪われることに対して
大きな不満を抱くかを実感する出来事でした。
東京行きの飛行機が大幅に遅れる事態に巻き込まれました。
ちょうど一か月前に行ったときも記録的な大雪のタイミングで
多くの便が欠航になった日でしたから
二回続けてということになります。
前回はもう、大雪が続いている影響で
そもそも飛行機が新千歳空港にやってこれない
という状況も起こっていました。
そのため大部分が欠航。
新千歳空港に停まっている飛行機が飛ぶのも遅れが続いていました。
空港内は人でごった返し、
搭乗口で長時間待たなければいけない状況だったんです。
実際、僕が飛行機に乗り込んだのは確か夜11時半ぐらい。
羽田に着いたのは1時を回っていたと思います。
それでも待つ場所が空港内の搭乗口だったというのは
意外と逃げ場が多く、待つことそのもののストレスは小さかった気がします。
(もちろん欠航にならないかどうかは心配でしたが)
一方、今回は雪が強まったタイミングが遅く
事前から心配していたわけではありませんでした。
飛行機に登場するところまでは、ほぼ予定通り。
数十分の遅れはありましたが、まぁそれぐらいは良くある話です。
そして飛行機が滑走路に向かって移動。
時間がかかったのはここからでした。
滑走路付近で離陸待ちをしている間に雪がドンドン強くなり、
前の飛行機の順番待ちが長引きました。
すると、機体や羽にかける融雪剤の効果時間を越えたとかで
もう一度、発着所まで戻ることに。
そのあたりから時間がかかり始め、
滑走路の除雪が追いつかないだとか、燃料補給がどうとか、
色々な理由で飛行機の中で缶詰状態のまま4時間。
こうなると乗客の苛立ちが増してきます。
狭い空間にいることのストレスや、
何もすることができない不満、
一向に進展が見られない状況、
もしかしたら欠航になって飛行機から降ろされるかもしれない可能性、
羽田での乗り継ぎに間に合わないとクレームをいう人、
耐えきれずグズり出す子供…、
徐々に苛立ちが増幅されていったようでした。
同じぐらいの時間を待合室で過ごしていた前回は
ここまでの苛立ちは出ていなかった気がします。
前回は空港到着前から大雪で
遅延に対して心の準備ができていたのが1つでしょう。
そして飛行機の中は制限が多い。
自由にできない感じ、束縛された感じもまた
不満を高めたと思われます。
心の準備というのも、いわば
自ら諦めることで自分のコントロール感を高める行為
と捉えることもできそうです。
いかに人が、コントロールを奪われることに対して
大きな不満を抱くかを実感する出来事でした。
2017年01月21日
フェーズ
流れというか、全体的な傾向というか、僕の中で
色々と取り組んでいることが次のフェーズに進んだような印象を受けます。
ここ2年ほどやってきたフランス語も
この1月末で一区切りを迎えます。
上智大学の公開講座で受講してきた語学コース、
設定されているレベルが一通り終了する予定。
これ以上のコースはないため、他を検討する必要が出てきました。
多くの大学で語学の公開講座は開催されているもので、
英語に限らず様々な言語を安価に勉強できます。
しかし、英語の「上級」と、ほかの言語の「上級」では
実態が大きく違うようです。
日本人にとっての英語は学校で習っていることが前提ですから
「上級」が本当に上級です。
世界的なレベル設定と合わせても「上級」と対応する感じ。
高校卒業レベルで「中級」ぐらいにはなっていますから
そこからスタートするか、その前の復習からスタートするか
そんな傾向のようです。
一方、他の言語の場合、出発点がゼロからになるため
英語よりもレベル設定が低いようなんです。
ただクラスの進行と各クラスで期待できる上達度からすると
それほど各レベルの間を開けることもできないのでしょう。
そしてレベルの呼び名は英語と合わせることになる。
結果として英語で「上級」と呼ばれるクラスと
他の言語の「上級」には大きな差があって、
フランス語の「上級」は英語でいう「中級」ぐらいのものになるようです。
なので英語の上級クラスは沢山用意されているんですが
他の言語の「上級」というレベルは実際には殆どない。
僕は上級のクラスを受けるレベルではありませんが
中級よりも上をトレーニングしたい段階のため
今までの延長では勉強が進まなくなってきたところなんです。
ということでフランス語を勉強する場を探索中です。
また書道に関しても7,8年続けてきて
ちょっとした停滞期のような印象を感じています。
で先生に相談したところ、今までとは違った練習方法を提案してもらいました。
お手本をもらって、それを見て書くだけでは今までと同じですから
お手本は見ないで練習してみる、と。
先に自分で書いてみて、それを手直ししてもらって、
そこからお手本をもらって、再度練習をしてみる。
すると自分の癖と先生のパターンとの違いが浮き彫りになるかもしれません。
練習のハードルは上がりますが、漫然と続けるよりは良さそうに感じます。
行き詰まりをベースに取り組み方を変える必要が出てくる。
それは趣味の世界の話だけではなく、
多くの局面においても共通するように感じます。
今までのやり方が通用しなくなってきたときに
何かを工夫する必要性が「問題」や「行き詰まり」の形で表れる。
そんなものなのかもしれないと改めて思っています。
色々と取り組んでいることが次のフェーズに進んだような印象を受けます。
ここ2年ほどやってきたフランス語も
この1月末で一区切りを迎えます。
上智大学の公開講座で受講してきた語学コース、
設定されているレベルが一通り終了する予定。
これ以上のコースはないため、他を検討する必要が出てきました。
多くの大学で語学の公開講座は開催されているもので、
英語に限らず様々な言語を安価に勉強できます。
しかし、英語の「上級」と、ほかの言語の「上級」では
実態が大きく違うようです。
日本人にとっての英語は学校で習っていることが前提ですから
「上級」が本当に上級です。
世界的なレベル設定と合わせても「上級」と対応する感じ。
高校卒業レベルで「中級」ぐらいにはなっていますから
そこからスタートするか、その前の復習からスタートするか
そんな傾向のようです。
一方、他の言語の場合、出発点がゼロからになるため
英語よりもレベル設定が低いようなんです。
ただクラスの進行と各クラスで期待できる上達度からすると
それほど各レベルの間を開けることもできないのでしょう。
そしてレベルの呼び名は英語と合わせることになる。
結果として英語で「上級」と呼ばれるクラスと
他の言語の「上級」には大きな差があって、
フランス語の「上級」は英語でいう「中級」ぐらいのものになるようです。
なので英語の上級クラスは沢山用意されているんですが
他の言語の「上級」というレベルは実際には殆どない。
僕は上級のクラスを受けるレベルではありませんが
中級よりも上をトレーニングしたい段階のため
今までの延長では勉強が進まなくなってきたところなんです。
ということでフランス語を勉強する場を探索中です。
また書道に関しても7,8年続けてきて
ちょっとした停滞期のような印象を感じています。
で先生に相談したところ、今までとは違った練習方法を提案してもらいました。
お手本をもらって、それを見て書くだけでは今までと同じですから
お手本は見ないで練習してみる、と。
先に自分で書いてみて、それを手直ししてもらって、
そこからお手本をもらって、再度練習をしてみる。
すると自分の癖と先生のパターンとの違いが浮き彫りになるかもしれません。
練習のハードルは上がりますが、漫然と続けるよりは良さそうに感じます。
行き詰まりをベースに取り組み方を変える必要が出てくる。
それは趣味の世界の話だけではなく、
多くの局面においても共通するように感じます。
今までのやり方が通用しなくなってきたときに
何かを工夫する必要性が「問題」や「行き詰まり」の形で表れる。
そんなものなのかもしれないと改めて思っています。
2017年01月18日
足の指のそりかえり
大した話ではないんですが、
もうすっかり足の指が地面に着くようになりました。
以前は立っていてもイスに座っていても、
地面につけた足の指が少し浮いていたんです。
足の指の付け根あたりに重心をかけて
足の裏全体が接地しないようにしていた感じ。
書いていて思い出しましたが、そういえば
小さい頃、親から「偏平足だ」と言われ
それでは良くないという思い込みを持っていた記憶があります。
足の指の付け根あたりと踵だけを地面につける感じにすると
足に緊張感が生まれてアーチが強くなります。
足裏全体がベタっと地面に着くような偏平足ではなくなるだろう、と。
小さいながらにそんな工夫をしていたのかもしれません。
それからもう1つ。
幼稚園とか、もっと小さい頃、どういう理由か分かりませんが
僕は足を泥まみれ、砂まみれにして家に帰ってきていた記憶があります。
砂場で遊んだのか、公園を裸足で駆け回っていたのか…
ともかく家に帰ってきたときに足が汚れていた日がありました。
そうすると母は、家の中が汚れるといって嫌がり
玄関先の水道で足を洗うか、雑巾で拭くか、風呂場に直行するか、
とにかく足を綺麗にする必要がありました。
決して嫌々やっていたわけではなく、何も疑わず
むしろ母を喜ばせようというぐらいの童心から
無邪気に足を洗っていたのを覚えています。
で、冬になると流石に外の水で足を洗うのは嫌。
お湯で足を洗うために、風呂場に直行するときも多かった気がします。
雑巾が毎日用意されているわけではなかったですから
汚れた足で廊下を通って風呂場に行くときが多々あったんです。
このとき、廊下を汚さない精一杯の努力として
足の接地面を減らすようにして歩いていたのを思い出します。
(結局あとから雑巾がけをしていたんですけれど)
踵しかつかないように爪先を上げるとか、
爪先立ちで背伸びをするようにしながら、かつ足の指先も上げるとか。
まさに足の指の付け根部分だけで地面に接していた状態です。
偏平足対策や汚れた足を地面につかない対策が
どれだけ癖になっていたのかは分かりませんが、
少なくとも僕の以前の足は、そのときの状態と似ていました。
別に怒られてやっていたことではないんです。
むしろ善意からやっていたつもりでした。
「幼少期のトラウマ体験が身体に残っていた」なんていう
大それた話ではないかもしれません。
しかし僕の中にあった他者(とくに幼少期は親がメイン)への気遣いは
迷惑をかけないようにする形で色々と身体を緊張させていたように感じます。
自分が力を入れて踏ん張ることで他人に負担をかけない。
そういう発想がベースにあった気がします。
足の指の緊張感は、その一部だったのでしょうけれど
1つの象徴的な部分でしょう。
心身の色々な取り組みを通じて
徐々にそういった緊張感が取れてきたようです。
足の指で地面を掴む感じ、
足全体で地面を押している感触、
足に体重がかかっている印象…、
いずれも以前はなかった体験です。
なんとなく、以前は地球にさえ遠慮をしていたような気もします。
自分の重さを地球に預けることさえ控えて
足を地面につけないように、重心位置を上げるようにしていたような。
そんな子供心の無邪気で無知な心身の癖が
大人になっても沢山残ってるものなのかもしれません。
別に問題でなければ気にしなくてもいいとはいえ、
必要のないことをしている側面もある。
僕はそういうのを整えていく方向性みたいです。
もうすっかり足の指が地面に着くようになりました。
以前は立っていてもイスに座っていても、
地面につけた足の指が少し浮いていたんです。
足の指の付け根あたりに重心をかけて
足の裏全体が接地しないようにしていた感じ。
書いていて思い出しましたが、そういえば
小さい頃、親から「偏平足だ」と言われ
それでは良くないという思い込みを持っていた記憶があります。
足の指の付け根あたりと踵だけを地面につける感じにすると
足に緊張感が生まれてアーチが強くなります。
足裏全体がベタっと地面に着くような偏平足ではなくなるだろう、と。
小さいながらにそんな工夫をしていたのかもしれません。
それからもう1つ。
幼稚園とか、もっと小さい頃、どういう理由か分かりませんが
僕は足を泥まみれ、砂まみれにして家に帰ってきていた記憶があります。
砂場で遊んだのか、公園を裸足で駆け回っていたのか…
ともかく家に帰ってきたときに足が汚れていた日がありました。
そうすると母は、家の中が汚れるといって嫌がり
玄関先の水道で足を洗うか、雑巾で拭くか、風呂場に直行するか、
とにかく足を綺麗にする必要がありました。
決して嫌々やっていたわけではなく、何も疑わず
むしろ母を喜ばせようというぐらいの童心から
無邪気に足を洗っていたのを覚えています。
で、冬になると流石に外の水で足を洗うのは嫌。
お湯で足を洗うために、風呂場に直行するときも多かった気がします。
雑巾が毎日用意されているわけではなかったですから
汚れた足で廊下を通って風呂場に行くときが多々あったんです。
このとき、廊下を汚さない精一杯の努力として
足の接地面を減らすようにして歩いていたのを思い出します。
(結局あとから雑巾がけをしていたんですけれど)
踵しかつかないように爪先を上げるとか、
爪先立ちで背伸びをするようにしながら、かつ足の指先も上げるとか。
まさに足の指の付け根部分だけで地面に接していた状態です。
偏平足対策や汚れた足を地面につかない対策が
どれだけ癖になっていたのかは分かりませんが、
少なくとも僕の以前の足は、そのときの状態と似ていました。
別に怒られてやっていたことではないんです。
むしろ善意からやっていたつもりでした。
「幼少期のトラウマ体験が身体に残っていた」なんていう
大それた話ではないかもしれません。
しかし僕の中にあった他者(とくに幼少期は親がメイン)への気遣いは
迷惑をかけないようにする形で色々と身体を緊張させていたように感じます。
自分が力を入れて踏ん張ることで他人に負担をかけない。
そういう発想がベースにあった気がします。
足の指の緊張感は、その一部だったのでしょうけれど
1つの象徴的な部分でしょう。
心身の色々な取り組みを通じて
徐々にそういった緊張感が取れてきたようです。
足の指で地面を掴む感じ、
足全体で地面を押している感触、
足に体重がかかっている印象…、
いずれも以前はなかった体験です。
なんとなく、以前は地球にさえ遠慮をしていたような気もします。
自分の重さを地球に預けることさえ控えて
足を地面につけないように、重心位置を上げるようにしていたような。
そんな子供心の無邪気で無知な心身の癖が
大人になっても沢山残ってるものなのかもしれません。
別に問題でなければ気にしなくてもいいとはいえ、
必要のないことをしている側面もある。
僕はそういうのを整えていく方向性みたいです。
2017年01月15日
2017作品
今年も展覧会に出品しています。
筆遣いのスムーズさや線質については
長く続けるうちに上達してきている実感はあります。
が、展覧会場に並ぶ2000点ほどの作品の中で
僕の書いたものと同じような傾向の作品は見当たりません。
良くいえば目立つということでしょうが、実態はむしろ
その分野が求めるものと方向性が違う、という意味のような気がします。
しかしながら求められる方向性の基準を見つけるのは大変です。
芸術家なら自分がやりたい表現だけをしていれば良いのでしょうが
僕のやっている程度の書道は芸術にはなっていません。
技術を磨くのが主目的。
その意味で今回の展覧会では大きな収穫がありました。
それは団体の創始者本人(もう亡くなっています)の作品を
一度に10点近く見られたこと。
団体のどの重鎮も辿り着けていない(らしい)最終形ともいえる書家が
どんな作品を書いていたのか?
そこから共通点として見出せる特徴こそが、
この分野で「美」とされる基準だろうと考えられます。
僕は今まで、自分が習っている先生の書きぶりだけを参考にしてきました。
さらに抽象度の高い、書芸術としての基準を知るには
最高峰とされるものを見ておくのが重要だろうと感じます。
そして技術的な観点でも役に立ちそうだったのが
その創始者が実際に書いている様子のDVDが放送されていたこと。
どうやって書いているのかを見られたわけです。
ここにも技術として、筆遣いとして、線質としてのポイントが
集約されているだろうと思われます。
心理業界でいうと、ミルトン・エリクソンの記録を読み、
催眠の動画を見られたような体験です。
ポイントを抽出する作業はこれから長くかかるのでしょうが
必要なポイントが含まれているはずのものを見られたのは
インプットとして重要な意味を持っていると思われます。
筆遣いのスムーズさや線質については
長く続けるうちに上達してきている実感はあります。
が、展覧会場に並ぶ2000点ほどの作品の中で
僕の書いたものと同じような傾向の作品は見当たりません。
良くいえば目立つということでしょうが、実態はむしろ
その分野が求めるものと方向性が違う、という意味のような気がします。
しかしながら求められる方向性の基準を見つけるのは大変です。
芸術家なら自分がやりたい表現だけをしていれば良いのでしょうが
僕のやっている程度の書道は芸術にはなっていません。
技術を磨くのが主目的。
その意味で今回の展覧会では大きな収穫がありました。
それは団体の創始者本人(もう亡くなっています)の作品を
一度に10点近く見られたこと。
団体のどの重鎮も辿り着けていない(らしい)最終形ともいえる書家が
どんな作品を書いていたのか?
そこから共通点として見出せる特徴こそが、
この分野で「美」とされる基準だろうと考えられます。
僕は今まで、自分が習っている先生の書きぶりだけを参考にしてきました。
さらに抽象度の高い、書芸術としての基準を知るには
最高峰とされるものを見ておくのが重要だろうと感じます。
そして技術的な観点でも役に立ちそうだったのが
その創始者が実際に書いている様子のDVDが放送されていたこと。
どうやって書いているのかを見られたわけです。
ここにも技術として、筆遣いとして、線質としてのポイントが
集約されているだろうと思われます。
心理業界でいうと、ミルトン・エリクソンの記録を読み、
催眠の動画を見られたような体験です。
ポイントを抽出する作業はこれから長くかかるのでしょうが
必要なポイントが含まれているはずのものを見られたのは
インプットとして重要な意味を持っていると思われます。
2017年01月12日
語学とペーシング
つくづくペーシングはコミュニケーションに大きな影響を及ぼすものだと感じます。
技術として身体を同調させるのが癖になってきたり、
もともと他者の影響を受けやすい傾向があったりすると、
自然と相手に巻き込まれる形で相手のコミュニケーションに感化されがちです。
知らないうちに相手の表情や姿勢を真似してしまっていたり、
相手の言葉遣いの癖や、話し方のリズム、方言やイントネーションが
移ってしまっている…なんていうのは感化される例でしょう。
メリットは相手との信頼関係とか一体感を生み出すとかだけでなく、
相手の感情に共感して気持ちを察することがしやすい、あるいは
相手の持ち味を自分に反映させることができる、などもあります。
科学的な説明はできませんが、経験的にいって
例えば視覚的にイメージを浮かべるのが得意な人にペーシングすると
会話の最中に普段よりも自分の意識に映像のイメージが浮かびやすくなるとか、
陽気な人と会話をしていると自分まで気分が楽しくなるとか、
そういったことは起きるようです。
逆にデメリットとしては、相手の不快な感情や身体の緊張や硬直につられて
自分の身体の中にも感情や身体の強張りが生まれたりする、などがありそうです。
このペーシング(同調)のメリットは、技術習得に大きく役立ちます。
上手い人のやっていることを真似しやすいわけですし、
頭の中の状態も近づくのだとしたら心構えや注意点、意図的な工夫なども
感じとりやすくなるだろうと考えられます。
語学なんかでは、かなり効果的に働くと感じています。
ネイティブスピーカーにペーシングをしていれば
日本語で考える癖が抑えられますし、
言葉遣い、文章の組み立て方、リズムや発音なども
自然と感化される形で身につきやすいでしょう。
小さい子供が母国語を習得するときと近い形を利用できそうです。
実際、僕が英語を勉強してきたときも、今フランス語をやっているときも
発話のスムーズさはネイティブ相手のときのほうが上がるようです。
日本人の講師を相手にしたり、日本人の受講生同士で話したりするときは
逆にスムーズには言葉が出てきません。
なんとなく考え過ぎてしまう感じになります。
ただしデメリットでもあるのが、相手の持ち味を利用しているという部分。
自分のスピーキング力が相手に依存するわけです。
一人でプレゼンをしたり、語学のスピーキング試験とかになると
ペースを合わせるのが難しくなるため、発話がスムーズでなくなります。
これを「普段よりスムーズでない」と捉えるのか、
「一人で話せるときが本当の実力であって、
ペーシングしたときのスピーキング力は実力以上に上乗せがある」
と捉えるのか、そこは一概には言えないかもしれません。
ともあれ、ペーシングする相手がいなくなると流暢さが落ちるのは実情。
とするとやはり、スピーキングのトレーニングとしては
会話に慣れてきた段階から、独り語りのような形を取るのが望ましそうです。
おそらく僕の日本語力に関しても、プレゼンや人前で話す作業を重ねるうちに
自然と向上してきた部分もあるんではないかと思います。
また相手の持ち味を利用するということは、
相手によっても自分の発話能力が変わるということでもあります。
僕の英語は基本的に学術寄りでトレーニングしてきたものです。
土台作りは化学の論文や教科書を読むところでしたし、
英語を本格的に勉強し始めたのもTOEFLという留学向けの英語試験でした。
その後も英語で大学の授業を取ったり、
普段の英会話でも割と専門性の高い議論を好んでやっていました。
僕自身が英語を鍛えてきた分野が学術寄りだということは
ボキャブラリーについても文章構造についても、
そっちの方面に偏っているという意味でしょう。
しかもペーシングをしながらですから、会話の相手になっていた人達も
学術寄りの論理的な人や、少なくとも論理的なモードで会話をしていたはずです。
そういう意味では、日常会話というか、気軽な会話のほうが慣れていないんです。
気軽な会話を好む人とか、論理的な話や学術的な話題を好まない人、
そもそも論理的な話し方をしない傾向の人が相手になると、
僕がトレーニングしてきていない領域が求められてしまいます。
そこでペーシングまでしようものなら、今度は
今までトレーニングしてきた領域の発話力が使えなくなります。
論理的に話すのが難しくなるのが実感されますし、
ペースに合わせるのが精一杯で、タイミングに合わせながら発話するのが大変。
よほどプレゼンのように自分のペースで話せるほうがスムーズな気がします。
では、そういう人とどうやって会話していくのか?
1つの発想はペーシングせずに、自分のペースで話す練習をする。
相手の持ち味を使わずに自分を保つ方向で頑張るという方向性です。
もう1つは、あえてそっちにペースを合わせ、
日常会話や気軽な会話の能力を上げていく方向性。
どちらかに絞る必要はないでしょうから、ときおり変えながら
・ペースを合わせないで自分主体にして話す能力
・日常のフランクな会話におけるスピーキング力
の両方を鍛えるのが良さそうに感じます。
どちらも今までに本腰を入れなかった分野ですから
これから心がけることになる気がします。
技術として身体を同調させるのが癖になってきたり、
もともと他者の影響を受けやすい傾向があったりすると、
自然と相手に巻き込まれる形で相手のコミュニケーションに感化されがちです。
知らないうちに相手の表情や姿勢を真似してしまっていたり、
相手の言葉遣いの癖や、話し方のリズム、方言やイントネーションが
移ってしまっている…なんていうのは感化される例でしょう。
メリットは相手との信頼関係とか一体感を生み出すとかだけでなく、
相手の感情に共感して気持ちを察することがしやすい、あるいは
相手の持ち味を自分に反映させることができる、などもあります。
科学的な説明はできませんが、経験的にいって
例えば視覚的にイメージを浮かべるのが得意な人にペーシングすると
会話の最中に普段よりも自分の意識に映像のイメージが浮かびやすくなるとか、
陽気な人と会話をしていると自分まで気分が楽しくなるとか、
そういったことは起きるようです。
逆にデメリットとしては、相手の不快な感情や身体の緊張や硬直につられて
自分の身体の中にも感情や身体の強張りが生まれたりする、などがありそうです。
このペーシング(同調)のメリットは、技術習得に大きく役立ちます。
上手い人のやっていることを真似しやすいわけですし、
頭の中の状態も近づくのだとしたら心構えや注意点、意図的な工夫なども
感じとりやすくなるだろうと考えられます。
語学なんかでは、かなり効果的に働くと感じています。
ネイティブスピーカーにペーシングをしていれば
日本語で考える癖が抑えられますし、
言葉遣い、文章の組み立て方、リズムや発音なども
自然と感化される形で身につきやすいでしょう。
小さい子供が母国語を習得するときと近い形を利用できそうです。
実際、僕が英語を勉強してきたときも、今フランス語をやっているときも
発話のスムーズさはネイティブ相手のときのほうが上がるようです。
日本人の講師を相手にしたり、日本人の受講生同士で話したりするときは
逆にスムーズには言葉が出てきません。
なんとなく考え過ぎてしまう感じになります。
ただしデメリットでもあるのが、相手の持ち味を利用しているという部分。
自分のスピーキング力が相手に依存するわけです。
一人でプレゼンをしたり、語学のスピーキング試験とかになると
ペースを合わせるのが難しくなるため、発話がスムーズでなくなります。
これを「普段よりスムーズでない」と捉えるのか、
「一人で話せるときが本当の実力であって、
ペーシングしたときのスピーキング力は実力以上に上乗せがある」
と捉えるのか、そこは一概には言えないかもしれません。
ともあれ、ペーシングする相手がいなくなると流暢さが落ちるのは実情。
とするとやはり、スピーキングのトレーニングとしては
会話に慣れてきた段階から、独り語りのような形を取るのが望ましそうです。
おそらく僕の日本語力に関しても、プレゼンや人前で話す作業を重ねるうちに
自然と向上してきた部分もあるんではないかと思います。
また相手の持ち味を利用するということは、
相手によっても自分の発話能力が変わるということでもあります。
僕の英語は基本的に学術寄りでトレーニングしてきたものです。
土台作りは化学の論文や教科書を読むところでしたし、
英語を本格的に勉強し始めたのもTOEFLという留学向けの英語試験でした。
その後も英語で大学の授業を取ったり、
普段の英会話でも割と専門性の高い議論を好んでやっていました。
僕自身が英語を鍛えてきた分野が学術寄りだということは
ボキャブラリーについても文章構造についても、
そっちの方面に偏っているという意味でしょう。
しかもペーシングをしながらですから、会話の相手になっていた人達も
学術寄りの論理的な人や、少なくとも論理的なモードで会話をしていたはずです。
そういう意味では、日常会話というか、気軽な会話のほうが慣れていないんです。
気軽な会話を好む人とか、論理的な話や学術的な話題を好まない人、
そもそも論理的な話し方をしない傾向の人が相手になると、
僕がトレーニングしてきていない領域が求められてしまいます。
そこでペーシングまでしようものなら、今度は
今までトレーニングしてきた領域の発話力が使えなくなります。
論理的に話すのが難しくなるのが実感されますし、
ペースに合わせるのが精一杯で、タイミングに合わせながら発話するのが大変。
よほどプレゼンのように自分のペースで話せるほうがスムーズな気がします。
では、そういう人とどうやって会話していくのか?
1つの発想はペーシングせずに、自分のペースで話す練習をする。
相手の持ち味を使わずに自分を保つ方向で頑張るという方向性です。
もう1つは、あえてそっちにペースを合わせ、
日常会話や気軽な会話の能力を上げていく方向性。
どちらかに絞る必要はないでしょうから、ときおり変えながら
・ペースを合わせないで自分主体にして話す能力
・日常のフランクな会話におけるスピーキング力
の両方を鍛えるのが良さそうに感じます。
どちらも今までに本腰を入れなかった分野ですから
これから心がけることになる気がします。
2017年01月09日
【セミナー】心の動きを捉えるコミュニケーション
ご案内: 2月5日(日)開催
コミュニケーション講座 〜心の動きを捉えるコミュニケーション〜
2月の講座のご案内です。
内容はコミュニケーション。
テーマは『心の動き』とします。
拙著「心を読み解く技術」の内容の一部を
コミュニケーションで実践的に練習するような形ともいえそうです。
NLPでいうと「パート」の概念に対応しますが、
一般的なNLPのセミナーで扱うやり方とは異なります。
悩みを解消する”スキル”の1つとしてイメージワークをするのではなく、
「パート」という概念を用いた会話的なアプローチを行います。
会話の中で相手の『心の動き』を捉える。
そのときに「パート」という概念を採用する。
もっと日常的な場面で、普段から頻繁に活用できるようにする狙いです。
NLPでも、セラピーでも、カウンセリングでも、心理療法でも、催眠でも、
様々な手法・スキルが扱われますが、その大部分は実際のところ
セラピーやカウンセリングという専門的な場面で使われるのが大半です。
言い換えると、オフィスや喫茶店で使うには不自然なものも多い、と。
その点、パートの考え方を元に相手の心の動きを理解する方法は
日常のコミュニケーションで気軽に使える種類ものです。
NLPを知らない人でも説明を聞けば直感的に納得しやすく、
技術としてトレーニングするにも取りかかりやすいでしょう。
そういう意味でもオススメの内容です。
以下に講座内容のポイントを解説しておきます。
どなたにも実感はあると思いますが、
心は一定の固定されたものではありません。
むしろコロコロとそのときどきで移り変わります。
考えとして浮かぶものも火によって時間によって違いますし、
感情が移ろいでいくことも多いでしょう。
他人を理解するのが難しい理由の1つが
この「心の動き」にあるのではないでしょうか。
実際のところ、「自分」という認識は非常に柔軟です。
自分の中に起きて意識されるものを一通りまとめて「自分」と捉える。
ですから考えや感情に変化があっても、そこまで含めて「自分」となります。
一方、他人は人のことを見えている範囲でしか理解しません。
しかも見えているところを、本人の経験と照らし合わせて評価する。
その人自身の捉え方と、外から見ている他人の捉え方とでは
大きく異なってしまうのが一般的です。
だから他人からすると「誰かのことを誤解」していたり
予想外の対応を受けて「裏切られた」と感じたり、
「なんで急にそんなことをするのか分からない」と思ったりするのでしょう。
その人自身の中では、ごく普通の「自分の心の動き」でしかないものが
他人からすると一貫性の無いものに見えて理解ができない。
「こんな人だとは思わなかった」という事態になるわけです。
他者と関わるときにも、その人の『心の動き』を把握しようとすると
このあたりの理解の幅が広がります。
その人の中の色々な側面が移り変わっていることに気づけます。
その人を一部から捉えるのではなく、全体として把握できるようになります。
まずはここがポイントです。
その次のポイントが「分かってはいるけれど…」という心の状態。
頭では分かっているつもりなのに気持ちが乗らない、
行動に移せない、気が引けてしまう、何か引っかかる…、など。
こうなってくると、その人自身でさえ「自分」に一貫性がないと感じます。
他人からしたら「それなら、こうすればいいじゃないか」と言いたくなりがちですが
その人自身の中だって、何が起きているのか分かっていないのです。
心の中に整理がついていない状態です。
こうした場合も、『心の動き』として捉えていくと理解がスムーズになります。
悩み相談の多くには、このような複雑な心の動きが含まれているものです。
ですから相手の話を聞きながら、その心の動きを捉えられると
相手に共感的な理解をしやすいだけでなく、
悩みを話しているほうも「分かってもらえた」と感じやすいはずです。
悩みの中でモヤモヤと霞がかかったような心の中を
まずはスッキリと見やすくする。
すると話している本人にも、何をしたいのかが気づきやすくなります。
対人コミュニケーションの技術として、このように
相手の心の複雑な動きを言語化し、共感的なメッセージにするわけです。
このとき、複雑な心の動きを許容的に伝えるのが重要です。
「〜な気持ちもあるし、…な気持ちもある」といった感じ。
心の中には、常識的には相容れないような気持ち・考えが
同時に共存していることが当たり前にあるものなんです。
この点を納得できるようにトレーニングしていきます。
それによって相手の話を聞きながら、相手の複雑な気持ちを
どれか1つの考えに偏ったりすることなく均等に受け止められるようになります。
相手を全面的に許容しやすくなるということです。
例えば、「苦しさを分かってもらいたい」気持ちがあるのと同時に
「簡単にこの苦しさを分かったつもりになってもらいたくはない」
という気持ちも共存していたりする。
「自分を変えて、もっと良くなりたい」気持ちがあるのと同時に
「今のままの自分を受け入れたい」気持ちがある。
そういう複雑な心の動きを受容できるように、
・相手の心の動きを捉える練習
・複雑な心の動きを効果的な形で伝え返す練習
とを行います。
さらに、実際の心の動きを「流れ」や「変化」として捉えるトレーニングもします。
どのタイミングで、どんな気持ちが動いたのか?
何をキッカケに気持ちが入れ替わったのか?
ちょうど舞台演劇を見ているように、
心という舞台で役をやっている登場人物たちのやりとりを捉えるイメージです。
誰がこんなことを言うと、次にこのタイミングで別の人が舞台に出てきて
するとさっきまで黙っていた誰かが話しだして…といった感じ。
そんな風に心の中の動きを、「様々な気持ち同士のやりとり」として捉える。
このときに順序やタイミングが重要になってくるんです。
タイミングや順序を捉えられると、それぞれの気持ちを分けて見られます。
区別して捉えることができるわけです。
前述の「〜な気持ちもあるし、…な気持ちもあるし」といったような場合も、
折り合いのついていない2つとして区別しながらピックアップできれば、
それぞれの気持ちごとに考えを深めていくこともできます。
「〜な気持ち」について集中的に事情を聞き、考えの根拠を探れます。
最初に気持ちの種類を区別しておくから、
そちらの気持ちについてのみで話を進められるということです。
一般的な会話のように区別しないままだと
「〜な気持ちもあるし、でも…だし。
○○かなぁとも思うけど、そうすると△△になってしまうから、
やっぱり●●のほう良いかとも思う。
なのに▲▲を気にすると、イマイチ気持ちが乗らなくて。」
のように、話が行ったり来たりするものです。
複雑な心の動きがあるときには、話があちこち飛びやすい、と。
聞いている側としても、相手の言いたいことがハッキリせず混乱しやすい。
そこで最初から気持ちの種類を区別しておいて、
1つの気持ちごとに聞いていけば、聞いていて理解しやすいだけでなく、
話しているほうとしても集中的に自分の気持ちを探れますから
普段よりも深いレベルの気づきが起きやすくなるんです。
ということで、
心の中で起きていることを
「さまざまな気持ちが共存している」という発想のもとで的確に区別し、
それぞれの気持ちごとに理解を深めていく…
のが講座の中心となります。
そのうえで、複雑な気持ち、相容れない気持ち同士で
どうやって折り合いをつけていくのかもトレーニングします。
一度この観点のコツを掴んでおけば、
他の人が何かの作業をしていたり、会話をしていたりする場面は全て
トレーニングの題材として活用できるようになります。
クレームを言っている人を見かければ、
何が火に油を注ぐポイントだったのかも見えてくるでしょう。
よく言われる「地雷」(逆鱗に触れるところ、怒らせてしまうキッカケ)も、
格段に予想をつけやすくなるはずです。
他の人からすると「地雷がよく分からない」ような人物に対しても
パターンが掴めてくると期待されます。
もしかしたら認知症のようなケースでも
一見すると脈絡のない行動が、心の動きとして理解できるかもしれません。
慣れてくると、揉め事の仲裁などには、かなりの効果を発揮すると思います。
コミュニケーションの技術として活用する上でも、
人の「心」というものの性質を理解するうえでも、
実用的なテーマではないでしょうか。
座学は少なく、少人数制の参加型・体験型ワークショップとなります。
グループで意見交換や、コミュニケーション技術の練習をしたりします。
気軽なスタンスで積極的に取り組んで頂ければ幸いです。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
【セミナーの詳細】
≪コミュニケーション講座 〜心の動きを捉える〜≫
【日時】 2017年 2月5日(日)
10:00〜16:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
心理学の歴史の中では、もっとも初期の段階で
構造主義と機能主義という2つの立場がありました。
構造主義は、心を構成する要素を調べようとする立場。
喩えるなら、化学が物質を構成する成分として元素を見つけたように
心にも構成成分があるだろうという発想でしょうか。
もう一方の機能主義は、意識の流れを理解しようとする立場です。
心というのは1つの決まった「もの」ではない。
意識の中に様々なものが表れてくる。
その「流れ」を捉えたい、と。
機能主義のほうは、化学に喩えると化学反応に注目する感じかもしれません。
反応速度とか物質移動とか、定量的な方向性に思えます。
実際のところ、初期の心理学ではどちらも上手くいかなかったようです。
客観的に説明できる手法が見つからなかったのでしょう。
少なくとも共通認識としてお互いに理解し合えるような着眼点がなく、
主観的な話で終始してしまっていた。
心理学そのものは、そこから客観的に測定可能なものを重視するようになり
科学としての側面を強めていくことになります。
それから時を隔て、NLPが再び構造主義的なアプローチをとります。
心の構成要素を調べ始めたんです。
主観的な体験を説明しようとする行為ですから
客観的なデータとはいえません。
その意味でNLPは科学としての心理学にはなりえません。
それでも初期の心理学で構造主義がやろうとしていたことを
かなり詳しいレベルでできるようにしたとは言えそうです。
そして共通認識として複数の人が、主観的な体験をシェアできるようになった。
それによってモデリングができるようになったわけです。
心の構成要素がどのような組み合わせになっていると
どのような体験が生まれるのか?
そこを調べるのがNLPの重要な側面だということです。
NLPの言葉でいうと、サブモダリティとかがこちらです。
さらにNLPはパートの概念を使い始めます。
心を部分化して、普段意識していないところに気づいていくやり方です。
この着眼点で丁寧に心の中を眺めていくと
「意識の流れ」が見えてきます。
こちらも客観的なデータにはできませんし、数式化することも難しいですが
それでも、ある人の心の動きを共通認識としてシェアすることは可能です。
心を1つのものとして見ている限り説明できない心の動き(意識の流れ)が、
パートという「心の機能1つ分」に注目して
どんなパート(機能)が移り変わっていっているのかを記述することで
言葉として説明できるようになるわけです。
実際のNLPの資格取得コースでは、
心の構成要素を細かく見ていくアプローチも
心の機能のプロセスを追いかけていくアプローチも、
いずれも丁寧にやられることはありません。
盛りだくさんの講座の中で、そこまでかける時間がないのでしょう。
NLPをスキルや手法の寄せ集めとして捉え
自分が使えそうなものを利用していくという方針であれば、
確かにそこまで心の「しくみ」を気にする必要はないのかもしれません。
一方で、心やコミュニケーションに興味を持つ人の多くには
「相手を理解したい」、「人の気持ちを分かりたい」
といった率直な願望もあるのではないかと思います。
方法や手順ではなく、目の前のその人に関心があるからこそ
湧きあがってくる願望ではないでしょうか。
N偶然なのか意図的なのか、
NLPは心理学の初期に議論されていた「心を理解する着眼点」の両方を
それなりに上手く扱えるようにしてくれます。
データとして扱えなかったとしても、
相手の心の内側を共有するところまではできそうです。
心の仕組みを説明し、それに沿って相手の気持ちを理解する。
そういうことを可能にしてくれました。
昔の人がやろうとしてできなかったことに近づいたとも言えそうです。
その意味でも有意義なアプローチのような気がします。
ご興味がありましたらお越しください。
コミュニケーション講座 〜心の動きを捉えるコミュニケーション〜
2月の講座のご案内です。
内容はコミュニケーション。
テーマは『心の動き』とします。
拙著「心を読み解く技術」の内容の一部を
コミュニケーションで実践的に練習するような形ともいえそうです。
NLPでいうと「パート」の概念に対応しますが、
一般的なNLPのセミナーで扱うやり方とは異なります。
悩みを解消する”スキル”の1つとしてイメージワークをするのではなく、
「パート」という概念を用いた会話的なアプローチを行います。
会話の中で相手の『心の動き』を捉える。
そのときに「パート」という概念を採用する。
もっと日常的な場面で、普段から頻繁に活用できるようにする狙いです。
NLPでも、セラピーでも、カウンセリングでも、心理療法でも、催眠でも、
様々な手法・スキルが扱われますが、その大部分は実際のところ
セラピーやカウンセリングという専門的な場面で使われるのが大半です。
言い換えると、オフィスや喫茶店で使うには不自然なものも多い、と。
その点、パートの考え方を元に相手の心の動きを理解する方法は
日常のコミュニケーションで気軽に使える種類ものです。
NLPを知らない人でも説明を聞けば直感的に納得しやすく、
技術としてトレーニングするにも取りかかりやすいでしょう。
そういう意味でもオススメの内容です。
以下に講座内容のポイントを解説しておきます。
どなたにも実感はあると思いますが、
心は一定の固定されたものではありません。
むしろコロコロとそのときどきで移り変わります。
考えとして浮かぶものも火によって時間によって違いますし、
感情が移ろいでいくことも多いでしょう。
他人を理解するのが難しい理由の1つが
この「心の動き」にあるのではないでしょうか。
実際のところ、「自分」という認識は非常に柔軟です。
自分の中に起きて意識されるものを一通りまとめて「自分」と捉える。
ですから考えや感情に変化があっても、そこまで含めて「自分」となります。
一方、他人は人のことを見えている範囲でしか理解しません。
しかも見えているところを、本人の経験と照らし合わせて評価する。
その人自身の捉え方と、外から見ている他人の捉え方とでは
大きく異なってしまうのが一般的です。
だから他人からすると「誰かのことを誤解」していたり
予想外の対応を受けて「裏切られた」と感じたり、
「なんで急にそんなことをするのか分からない」と思ったりするのでしょう。
その人自身の中では、ごく普通の「自分の心の動き」でしかないものが
他人からすると一貫性の無いものに見えて理解ができない。
「こんな人だとは思わなかった」という事態になるわけです。
他者と関わるときにも、その人の『心の動き』を把握しようとすると
このあたりの理解の幅が広がります。
その人の中の色々な側面が移り変わっていることに気づけます。
その人を一部から捉えるのではなく、全体として把握できるようになります。
まずはここがポイントです。
その次のポイントが「分かってはいるけれど…」という心の状態。
頭では分かっているつもりなのに気持ちが乗らない、
行動に移せない、気が引けてしまう、何か引っかかる…、など。
こうなってくると、その人自身でさえ「自分」に一貫性がないと感じます。
他人からしたら「それなら、こうすればいいじゃないか」と言いたくなりがちですが
その人自身の中だって、何が起きているのか分かっていないのです。
心の中に整理がついていない状態です。
こうした場合も、『心の動き』として捉えていくと理解がスムーズになります。
悩み相談の多くには、このような複雑な心の動きが含まれているものです。
ですから相手の話を聞きながら、その心の動きを捉えられると
相手に共感的な理解をしやすいだけでなく、
悩みを話しているほうも「分かってもらえた」と感じやすいはずです。
悩みの中でモヤモヤと霞がかかったような心の中を
まずはスッキリと見やすくする。
すると話している本人にも、何をしたいのかが気づきやすくなります。
対人コミュニケーションの技術として、このように
相手の心の複雑な動きを言語化し、共感的なメッセージにするわけです。
このとき、複雑な心の動きを許容的に伝えるのが重要です。
「〜な気持ちもあるし、…な気持ちもある」といった感じ。
心の中には、常識的には相容れないような気持ち・考えが
同時に共存していることが当たり前にあるものなんです。
この点を納得できるようにトレーニングしていきます。
それによって相手の話を聞きながら、相手の複雑な気持ちを
どれか1つの考えに偏ったりすることなく均等に受け止められるようになります。
相手を全面的に許容しやすくなるということです。
例えば、「苦しさを分かってもらいたい」気持ちがあるのと同時に
「簡単にこの苦しさを分かったつもりになってもらいたくはない」
という気持ちも共存していたりする。
「自分を変えて、もっと良くなりたい」気持ちがあるのと同時に
「今のままの自分を受け入れたい」気持ちがある。
そういう複雑な心の動きを受容できるように、
・相手の心の動きを捉える練習
・複雑な心の動きを効果的な形で伝え返す練習
とを行います。
さらに、実際の心の動きを「流れ」や「変化」として捉えるトレーニングもします。
どのタイミングで、どんな気持ちが動いたのか?
何をキッカケに気持ちが入れ替わったのか?
ちょうど舞台演劇を見ているように、
心という舞台で役をやっている登場人物たちのやりとりを捉えるイメージです。
誰がこんなことを言うと、次にこのタイミングで別の人が舞台に出てきて
するとさっきまで黙っていた誰かが話しだして…といった感じ。
そんな風に心の中の動きを、「様々な気持ち同士のやりとり」として捉える。
このときに順序やタイミングが重要になってくるんです。
タイミングや順序を捉えられると、それぞれの気持ちを分けて見られます。
区別して捉えることができるわけです。
前述の「〜な気持ちもあるし、…な気持ちもあるし」といったような場合も、
折り合いのついていない2つとして区別しながらピックアップできれば、
それぞれの気持ちごとに考えを深めていくこともできます。
「〜な気持ち」について集中的に事情を聞き、考えの根拠を探れます。
最初に気持ちの種類を区別しておくから、
そちらの気持ちについてのみで話を進められるということです。
一般的な会話のように区別しないままだと
「〜な気持ちもあるし、でも…だし。
○○かなぁとも思うけど、そうすると△△になってしまうから、
やっぱり●●のほう良いかとも思う。
なのに▲▲を気にすると、イマイチ気持ちが乗らなくて。」
のように、話が行ったり来たりするものです。
複雑な心の動きがあるときには、話があちこち飛びやすい、と。
聞いている側としても、相手の言いたいことがハッキリせず混乱しやすい。
そこで最初から気持ちの種類を区別しておいて、
1つの気持ちごとに聞いていけば、聞いていて理解しやすいだけでなく、
話しているほうとしても集中的に自分の気持ちを探れますから
普段よりも深いレベルの気づきが起きやすくなるんです。
ということで、
心の中で起きていることを
「さまざまな気持ちが共存している」という発想のもとで的確に区別し、
それぞれの気持ちごとに理解を深めていく…
のが講座の中心となります。
そのうえで、複雑な気持ち、相容れない気持ち同士で
どうやって折り合いをつけていくのかもトレーニングします。
一度この観点のコツを掴んでおけば、
他の人が何かの作業をしていたり、会話をしていたりする場面は全て
トレーニングの題材として活用できるようになります。
クレームを言っている人を見かければ、
何が火に油を注ぐポイントだったのかも見えてくるでしょう。
よく言われる「地雷」(逆鱗に触れるところ、怒らせてしまうキッカケ)も、
格段に予想をつけやすくなるはずです。
他の人からすると「地雷がよく分からない」ような人物に対しても
パターンが掴めてくると期待されます。
もしかしたら認知症のようなケースでも
一見すると脈絡のない行動が、心の動きとして理解できるかもしれません。
慣れてくると、揉め事の仲裁などには、かなりの効果を発揮すると思います。
コミュニケーションの技術として活用する上でも、
人の「心」というものの性質を理解するうえでも、
実用的なテーマではないでしょうか。
座学は少なく、少人数制の参加型・体験型ワークショップとなります。
グループで意見交換や、コミュニケーション技術の練習をしたりします。
気軽なスタンスで積極的に取り組んで頂ければ幸いです。
◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
【セミナーの詳細】
≪コミュニケーション講座 〜心の動きを捉える〜≫
【日時】 2017年 2月5日(日)
10:00〜16:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 303集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
心理学の歴史の中では、もっとも初期の段階で
構造主義と機能主義という2つの立場がありました。
構造主義は、心を構成する要素を調べようとする立場。
喩えるなら、化学が物質を構成する成分として元素を見つけたように
心にも構成成分があるだろうという発想でしょうか。
もう一方の機能主義は、意識の流れを理解しようとする立場です。
心というのは1つの決まった「もの」ではない。
意識の中に様々なものが表れてくる。
その「流れ」を捉えたい、と。
機能主義のほうは、化学に喩えると化学反応に注目する感じかもしれません。
反応速度とか物質移動とか、定量的な方向性に思えます。
実際のところ、初期の心理学ではどちらも上手くいかなかったようです。
客観的に説明できる手法が見つからなかったのでしょう。
少なくとも共通認識としてお互いに理解し合えるような着眼点がなく、
主観的な話で終始してしまっていた。
心理学そのものは、そこから客観的に測定可能なものを重視するようになり
科学としての側面を強めていくことになります。
それから時を隔て、NLPが再び構造主義的なアプローチをとります。
心の構成要素を調べ始めたんです。
主観的な体験を説明しようとする行為ですから
客観的なデータとはいえません。
その意味でNLPは科学としての心理学にはなりえません。
それでも初期の心理学で構造主義がやろうとしていたことを
かなり詳しいレベルでできるようにしたとは言えそうです。
そして共通認識として複数の人が、主観的な体験をシェアできるようになった。
それによってモデリングができるようになったわけです。
心の構成要素がどのような組み合わせになっていると
どのような体験が生まれるのか?
そこを調べるのがNLPの重要な側面だということです。
NLPの言葉でいうと、サブモダリティとかがこちらです。
さらにNLPはパートの概念を使い始めます。
心を部分化して、普段意識していないところに気づいていくやり方です。
この着眼点で丁寧に心の中を眺めていくと
「意識の流れ」が見えてきます。
こちらも客観的なデータにはできませんし、数式化することも難しいですが
それでも、ある人の心の動きを共通認識としてシェアすることは可能です。
心を1つのものとして見ている限り説明できない心の動き(意識の流れ)が、
パートという「心の機能1つ分」に注目して
どんなパート(機能)が移り変わっていっているのかを記述することで
言葉として説明できるようになるわけです。
実際のNLPの資格取得コースでは、
心の構成要素を細かく見ていくアプローチも
心の機能のプロセスを追いかけていくアプローチも、
いずれも丁寧にやられることはありません。
盛りだくさんの講座の中で、そこまでかける時間がないのでしょう。
NLPをスキルや手法の寄せ集めとして捉え
自分が使えそうなものを利用していくという方針であれば、
確かにそこまで心の「しくみ」を気にする必要はないのかもしれません。
一方で、心やコミュニケーションに興味を持つ人の多くには
「相手を理解したい」、「人の気持ちを分かりたい」
といった率直な願望もあるのではないかと思います。
方法や手順ではなく、目の前のその人に関心があるからこそ
湧きあがってくる願望ではないでしょうか。
N偶然なのか意図的なのか、
NLPは心理学の初期に議論されていた「心を理解する着眼点」の両方を
それなりに上手く扱えるようにしてくれます。
データとして扱えなかったとしても、
相手の心の内側を共有するところまではできそうです。
心の仕組みを説明し、それに沿って相手の気持ちを理解する。
そういうことを可能にしてくれました。
昔の人がやろうとしてできなかったことに近づいたとも言えそうです。
その意味でも有意義なアプローチのような気がします。
ご興味がありましたらお越しください。
2017年01月05日
今年は…
2016年の末に、数年間レッスンを受け続けてきた英会話の先生が
退職することになりました。
まぁ、何かを習うというよりは、スピーキングのトレーニングとして
とにかく発話に慣れるのが事実上の目的だったと思います。
自分が考えとして持っている頭の中の情報の繋がりを
英語という言語と結びつけていく作業が中心でした。
ボキャブラリーや表現の範囲を含めて、
自分に親しみのある分野のほうがスムーズに話せる。
これは外国語でも母国語でも同じようです。
ですから外国語学習において、話し慣れた分野を作っておくのが
会話をスムーズにしてくれる効果的な手段だと考えられます。
その意味で、その先生のレッスンは会話のトピックが幅広く、
しかも僕の興味に合った範囲で話を弾ませることができたので
とても有意義な時間だったんです。
科学的な観点でも、芸術的な観点でも、哲学的なところまで
かなり深く考えをアウトプットさせてもらえました。
年齢のこともあり、余生を考えて辞めることにしたそうです。
とはいえ、僕が英会話をやめるわけではありません。
英語を使う時間は欲しい。
マンツーマンの英会話スクールなので他にも先生はいます。
同じような会話ができる先生は滅多にいないでしょうから
今後レッスンを受ける先生を選ぶ基準は別のところになると思います。
テスト対策なんかも興味はありますが、テストを受けるタイミングが合いません。
(だいたいのテストは週末に行われているのでセミナーと重なってしまう)
文法を復習したり、スピーキングの際の正確さを意識したりも良さそうですが、
この辺の基準を満たす英会話講師となると、そちらも限られるはずです。
今のところ、無難な範囲としてイギリス発音に慣れる目的で
イギリス人の先生を選ぼうかと考えています。
今までの先生はアメリカ人で、ペーシングをしながら話していると
ついアメリカ発音とイギリス発音が混ぜこぜになってしまうことがありました。
だいぶイギリス発音に慣れてきたところなので
定着させるにはイギリス人講師だけを選ぶのも良いような気がしています。
英語のトレーニングは続けていくことになると思いますが
特定の目標があるわけではないですし、
一生懸命にボキャブラリーを増やそうというつもりもありません。
その時その場で興味があることと、活用できる環境とを加味して
流れに任せるような形になるんでしょう。
思い返してみると、いつの頃からかこうやって
ハッキリした目標を立てなくなってきたようです。
英会話に行けば1月頃だと、たいてい「新年の誓い」について質問されます。
年の初めに一年の目標を立てるのは、欧米文化の1つみたいです。
そういうときに改めて意識させられます。
あまり方向性を設定していないんだ、と。
予定として設定しているものはあります。
もちろん予定が変更になることもありますから
あくまで「やるつもりのこと」です。
「やりたいこと」という意味での目標と
実情はそれほど変わらないような気もします。
予定が変更になるのと、目標を達成できないのも
中身としては似たようなものでしょう。
捉え方が違うだけかもしれません。
長期的な目標に関しても、「こうなりたい」と方向性を設定するよりは
「なんか、こっちのほうに進んでいきそうだな」と予想している感じです。
例えば英語についてなら、イギリス発音への興味が続いていますし
トレーニングをする環境が限られていることから、
「海外のコーチにスカイプレッスンを受けてみようかな」
という気持ちが湧き始めていることを自覚しています。
これが大きくなっていきそうな予想をしているので、
今年はどこかで、そんなスカイプレッスンを始めるかもしれません。
ただ、そのスカイプレッスンは「やりたいこと」というほど強くもないし
頑張ってチャレンジするような「新年の誓い」や「目標」でもないんです。
ヤル気が大きくなったら、そのときにやる。
現状は、そのヤル気が大きくなりそうな予感を持っているけれど、
今は始めるタイミングでもなさそうに感じている。
だからやっていない。
そんな風に、流れに身をゆだねるような雰囲気が高まっているみたいです。
なので、長くレッスンをとってきた英会話の先生が退職したのは残念でしたが
方向性の変化という意味で受けるショックはありませんでした。
単純に寂しいだけ。
深い話をする相手がいなくなって寂しいだけ。
友人に会えなくなるのは寂しいけれど、そういうものでしょう。
避けられないものについては事前に覚悟をしています。
何が起きるか分からないことについては
気楽に流れへ委ねるスタイルになっていました。
かといって何もヤル気がないわけではないんです。
目の前に楽しみなことがやってくればヤル気は高まります。
方向性を決めて、そっちに向かって頑張ることが減ったという話です。
目標に向けてガムシャラに頑張るのも懐かしいですが、
先に何が起こるのかを楽しみにしておくのも悪くないと感じています。
ということで、ここに今年の目標を書くことはできませんが、少なくとも
年末に一年を振り返って感想を書くことにはなるでしょう。
それが多分、一番確実性の高い予想だと思います。
退職することになりました。
まぁ、何かを習うというよりは、スピーキングのトレーニングとして
とにかく発話に慣れるのが事実上の目的だったと思います。
自分が考えとして持っている頭の中の情報の繋がりを
英語という言語と結びつけていく作業が中心でした。
ボキャブラリーや表現の範囲を含めて、
自分に親しみのある分野のほうがスムーズに話せる。
これは外国語でも母国語でも同じようです。
ですから外国語学習において、話し慣れた分野を作っておくのが
会話をスムーズにしてくれる効果的な手段だと考えられます。
その意味で、その先生のレッスンは会話のトピックが幅広く、
しかも僕の興味に合った範囲で話を弾ませることができたので
とても有意義な時間だったんです。
科学的な観点でも、芸術的な観点でも、哲学的なところまで
かなり深く考えをアウトプットさせてもらえました。
年齢のこともあり、余生を考えて辞めることにしたそうです。
とはいえ、僕が英会話をやめるわけではありません。
英語を使う時間は欲しい。
マンツーマンの英会話スクールなので他にも先生はいます。
同じような会話ができる先生は滅多にいないでしょうから
今後レッスンを受ける先生を選ぶ基準は別のところになると思います。
テスト対策なんかも興味はありますが、テストを受けるタイミングが合いません。
(だいたいのテストは週末に行われているのでセミナーと重なってしまう)
文法を復習したり、スピーキングの際の正確さを意識したりも良さそうですが、
この辺の基準を満たす英会話講師となると、そちらも限られるはずです。
今のところ、無難な範囲としてイギリス発音に慣れる目的で
イギリス人の先生を選ぼうかと考えています。
今までの先生はアメリカ人で、ペーシングをしながら話していると
ついアメリカ発音とイギリス発音が混ぜこぜになってしまうことがありました。
だいぶイギリス発音に慣れてきたところなので
定着させるにはイギリス人講師だけを選ぶのも良いような気がしています。
英語のトレーニングは続けていくことになると思いますが
特定の目標があるわけではないですし、
一生懸命にボキャブラリーを増やそうというつもりもありません。
その時その場で興味があることと、活用できる環境とを加味して
流れに任せるような形になるんでしょう。
思い返してみると、いつの頃からかこうやって
ハッキリした目標を立てなくなってきたようです。
英会話に行けば1月頃だと、たいてい「新年の誓い」について質問されます。
年の初めに一年の目標を立てるのは、欧米文化の1つみたいです。
そういうときに改めて意識させられます。
あまり方向性を設定していないんだ、と。
予定として設定しているものはあります。
もちろん予定が変更になることもありますから
あくまで「やるつもりのこと」です。
「やりたいこと」という意味での目標と
実情はそれほど変わらないような気もします。
予定が変更になるのと、目標を達成できないのも
中身としては似たようなものでしょう。
捉え方が違うだけかもしれません。
長期的な目標に関しても、「こうなりたい」と方向性を設定するよりは
「なんか、こっちのほうに進んでいきそうだな」と予想している感じです。
例えば英語についてなら、イギリス発音への興味が続いていますし
トレーニングをする環境が限られていることから、
「海外のコーチにスカイプレッスンを受けてみようかな」
という気持ちが湧き始めていることを自覚しています。
これが大きくなっていきそうな予想をしているので、
今年はどこかで、そんなスカイプレッスンを始めるかもしれません。
ただ、そのスカイプレッスンは「やりたいこと」というほど強くもないし
頑張ってチャレンジするような「新年の誓い」や「目標」でもないんです。
ヤル気が大きくなったら、そのときにやる。
現状は、そのヤル気が大きくなりそうな予感を持っているけれど、
今は始めるタイミングでもなさそうに感じている。
だからやっていない。
そんな風に、流れに身をゆだねるような雰囲気が高まっているみたいです。
なので、長くレッスンをとってきた英会話の先生が退職したのは残念でしたが
方向性の変化という意味で受けるショックはありませんでした。
単純に寂しいだけ。
深い話をする相手がいなくなって寂しいだけ。
友人に会えなくなるのは寂しいけれど、そういうものでしょう。
避けられないものについては事前に覚悟をしています。
何が起きるか分からないことについては
気楽に流れへ委ねるスタイルになっていました。
かといって何もヤル気がないわけではないんです。
目の前に楽しみなことがやってくればヤル気は高まります。
方向性を決めて、そっちに向かって頑張ることが減ったという話です。
目標に向けてガムシャラに頑張るのも懐かしいですが、
先に何が起こるのかを楽しみにしておくのも悪くないと感じています。
ということで、ここに今年の目標を書くことはできませんが、少なくとも
年末に一年を振り返って感想を書くことにはなるでしょう。
それが多分、一番確実性の高い予想だと思います。
2017年01月02日
年始のご挨拶
あけましておめでとうございます。
今年もNLP関連のセミナーが多くなりそうだと予想していますが
機会を見て、こちらでも独自の講座をやってみようと思っています。
年末から年始にかけて、ゆっくりと湯船につかりながら
内面を統合するワークを一人で何度もやっていました。
環境が変わり、接する相手が変わり、経験するものが変わってくると
知らないうちに自分の中に変化が生まれてくるものです。
それが上手く機能していれば気にしなくてもいいのでしょうが
いつのまにか少しずつ不調和を生み出してくることもあるようです。
その意味でも、定期的に自分の内側を見つめる時間をとるのは、
気づかないうちに心のバランスを崩していく可能性を減らせますし、
普段は意識しないレベルでの心の癖を調えて楽に過ごしやすくする上でも
なかなか意味のある時間だと感じます。
そういう系統のワークを中心にした講座なども
どこかのタイミングでやってみようかと考えています。
まずは2月5日の講座について、近日中にご案内を出す予定です。
今年一年何をするかは、あまり決めていませんが
何か展開が広がっていくと良いなぁとは思っています。
本年もよろしくお願いします。
今年もNLP関連のセミナーが多くなりそうだと予想していますが
機会を見て、こちらでも独自の講座をやってみようと思っています。
年末から年始にかけて、ゆっくりと湯船につかりながら
内面を統合するワークを一人で何度もやっていました。
環境が変わり、接する相手が変わり、経験するものが変わってくると
知らないうちに自分の中に変化が生まれてくるものです。
それが上手く機能していれば気にしなくてもいいのでしょうが
いつのまにか少しずつ不調和を生み出してくることもあるようです。
その意味でも、定期的に自分の内側を見つめる時間をとるのは、
気づかないうちに心のバランスを崩していく可能性を減らせますし、
普段は意識しないレベルでの心の癖を調えて楽に過ごしやすくする上でも
なかなか意味のある時間だと感じます。
そういう系統のワークを中心にした講座なども
どこかのタイミングでやってみようかと考えています。
まずは2月5日の講座について、近日中にご案内を出す予定です。
今年一年何をするかは、あまり決めていませんが
何か展開が広がっていくと良いなぁとは思っています。
本年もよろしくお願いします。