2017年04月
2017年04月27日
物の価値を判断するところ
パソコンを新しくしました。
メインのやつをです。
おそらくメモリが足りなくて
常にCPUが100%で動いていたため、
冷却が追い付かなくなっていました。
さすがにVISTAを使い続けるのも安全ではないでしょうから
まあ、ちょうどいいタイミングだったのではないかと思います。
持ち運びを想定はしていなかったので
キーボードとコストパフォーマンスを重視して、
初めて受注生産のやつを選んでみました。
先の問題点を踏まえてメモリを多めにしてみたおかげか、
パフォーマンスはいい感じです。
滞りもなく、ファンも動かないぐらい余裕があるようです。
これまではWebページを複数開くと広告の自動更新で
かなりの負担になっていた様子でしたが、今はそんなこともありません。
これぐらいスムーズだと写真加工のアプリケーションとかを入れて
書道作品の写真ぐらいはチョット調整してみたくもなります。
キー入力もさほど違和感ないですし、
あとは初期不良とか想定外のトラブルが起こらないことを期待しています。
しかしながら、きっとこういう日用的なものは
すぐに新鮮さを失って、当たり前に感じられてくるんでしょう。
今のところは比較としてスムーズさを感じているパフォーマンスも
これに慣れてきたころには「普通」の基準に移ってしまって、
むしろ別のPCを「遅い」と感じるようになるかもしれません。
性能や能力というのは、そんな風に
比較で認識されやすいもののようです。
一方、そうしたツールや装置を使って「体験する」内容のほうは
その都度、その内容そのものを味わえます。
例えば、このパソコンで検索してでてきた情報をインプットするとき、
「新しいものを知る楽しさ」や「好奇心が満たされる驚き」などを
毎回違った形で感じることができます。
インプットするものが変われば、毎回別の体験になるわけです。
僕の部屋にはシンプルなブルーレイディスクプレイヤーがありますが
これも何の映画やドラマを見るかによって、毎度の楽しみが得られます。
一方、そのブルーレイプレイヤーの性能に関しては
それほど気になりもしません。
確かに安価な分、作りは安っぽいですし、
センサーの範囲が狭く、リモコンの反応もよくありません。
ディスクを入れてから再生されるまでの時間も早くはない気もします。
しかし目的とする内容、つまり映画やドラマを見られる限り
僕の求めるものは得られているんだと思われます。
仮にもっと高性能であったとしても、
特別気にしないような気がします。
パソコンの性能気になっていたのは、僕にとっては
あくまで不具合が出ていたからに過ぎません。
突然パソコンの電源が落ちてしまったりすると
書いていたものが消えてしまいますし、
メモリ不足で反応が悪くなると
頭に浮かんだものを書き出す段階で待たないといけなくなります。
余計なものが挟まってくるわけです。
ここでは「パソコンで書く」という体験に、ある種の喜びが含まれます。
頭が整理されていく感じや、必要な資料や文書ができ上っていく感じ。
その喜びが損なわれるのが嫌だから
妨げられない程度の性能が必要になった、といえます。
つまり僕にとって性能の高さのほうでは、どれだけ高くても
いつか慣れてしまって分からなくなる(満足感がない)のに対し、
性能の低さのほうは不具合が起きたときに不満を感じる形で意識される
という話です。
基準を下回ると不満だけれど、
基準に達したら、それ以上高くても満足感には影響を与えない。
僕は性能に対して、そういうタイプの価値判断をしているようです。
(結構な人がそうではないかと思いますが)
一方、書くことに伴った喜びは、書く内容が毎回異なっている以上
当然、毎回別物として体験されますから、
慣れてしまって薄まっていくものではありません。
その都度、別の体験として新鮮さを伴いながら
「その瞬間に体験している」喜びに意識を向けるタイプの満足感なんです。
DVDで映画を見るのも、インターネットで新しい情報を得るのも、
本で勉強するのも、ご飯を食べて美味しいと思うのも…、
多くの「内容」レベルの満足感がこちらのタイプでしょう。
その内容を妨げないようにするのが「性能」になりやすい気がします。
書籍であれば重さとか字の見やすさとかでしょうか。
電子書籍に求められる性能も、まさに
本を読む体験を妨げないものが中心じゃないかと思います。
料理の場合は、包丁の切れ味とかコンロの火力とかでしょうか。
ものすごく高性能だと、硬いものを切ってみたくなったり
素早くチャーハンを作ってみたくなったりするかもしれませんが、
実際にその性能が求められる機会は少ないものでしょう。
ちょうど高性能のパソコンを買ったけど、
そこまで負荷のかかる動画編集みたいな作業はしないようなものです。
そして「性能によって可能になる体験内容」とは別のところで
付加的な体験によっても満足を感じることがあります。
主に「美」と関連した体験です。
美しいとか、カッコイイとか、カワイイとか。
見た目でも音でも体験されるものですが、
これらもコダワリのある部分については毎瞬のように意識されます。
例えばパソコンでいえばデザインとか、素材とか、色とか
キーボードのバックライトとか、細かい作りの丁寧さとか。
包丁でも、形とか金属の光沢とか、仕上げの繊細さとかは
「美」と関連した体験で満足感を追加してくれます。
洋服とか鞄とか、身に着けるものの多くは
性能よりも美のほうが重視されているかもしれません。
車の場合、加速感とか、エンジン音とか、ボディのデザインとか。
逆にトランクの広さは「基準に満たないと不満な性能」のほうでしょう。
車のエンジン性能は、加速感に対して美的な印象を受けなければ
「坂道で遅いと困る」ような最低基準のある性能として認識されそうです。
性能として認識された場合、最低基準にさえ達していればいいので
そんなに高いものを求めることはなくなりがちです。
が、美的な観点から認識された場合、上に限度はありません。
そうすると、いわゆる『高級品』の方向性になると思われます。
よく言われる「付加価値」というのは、美と関連したことが多く
五感レベルで毎瞬の「体験」として味わえるものと考えられます。
比較でしか認識できない「性能」は慣れてしまって
基準を下回った時に不満として自覚されるだけですが、
美に近い体験として認識されるほうは
その感じに注意を向けるたびに毎回、満足感をもたらしてくれる。
道具や機械を、求める体験内容を得るための手段としてしか捉えないと
必要最低限の性能だけを気にしておけばよくなるんでしょう。
この種の性能はすぐに慣れてしまって満足感が薄れやすいですから。
一方、同じ道具や機械でも、そこに美に近い付加的な体験を求めれば
長い間、その美を保っている限り、繰り返し満足感が得られます。
(当然、それだけ値段も上がっていくわけですが)
僕はあまり、この「美」の側面を重視してきませんでしたが
そちらの満足感を意識したら、物へのコダワリも上がる気がします。
良いものを大切に手入れしながら長く使う…なんていう発想も
少しは理解できそうです。
メインのやつをです。
おそらくメモリが足りなくて
常にCPUが100%で動いていたため、
冷却が追い付かなくなっていました。
さすがにVISTAを使い続けるのも安全ではないでしょうから
まあ、ちょうどいいタイミングだったのではないかと思います。
持ち運びを想定はしていなかったので
キーボードとコストパフォーマンスを重視して、
初めて受注生産のやつを選んでみました。
先の問題点を踏まえてメモリを多めにしてみたおかげか、
パフォーマンスはいい感じです。
滞りもなく、ファンも動かないぐらい余裕があるようです。
これまではWebページを複数開くと広告の自動更新で
かなりの負担になっていた様子でしたが、今はそんなこともありません。
これぐらいスムーズだと写真加工のアプリケーションとかを入れて
書道作品の写真ぐらいはチョット調整してみたくもなります。
キー入力もさほど違和感ないですし、
あとは初期不良とか想定外のトラブルが起こらないことを期待しています。
しかしながら、きっとこういう日用的なものは
すぐに新鮮さを失って、当たり前に感じられてくるんでしょう。
今のところは比較としてスムーズさを感じているパフォーマンスも
これに慣れてきたころには「普通」の基準に移ってしまって、
むしろ別のPCを「遅い」と感じるようになるかもしれません。
性能や能力というのは、そんな風に
比較で認識されやすいもののようです。
一方、そうしたツールや装置を使って「体験する」内容のほうは
その都度、その内容そのものを味わえます。
例えば、このパソコンで検索してでてきた情報をインプットするとき、
「新しいものを知る楽しさ」や「好奇心が満たされる驚き」などを
毎回違った形で感じることができます。
インプットするものが変われば、毎回別の体験になるわけです。
僕の部屋にはシンプルなブルーレイディスクプレイヤーがありますが
これも何の映画やドラマを見るかによって、毎度の楽しみが得られます。
一方、そのブルーレイプレイヤーの性能に関しては
それほど気になりもしません。
確かに安価な分、作りは安っぽいですし、
センサーの範囲が狭く、リモコンの反応もよくありません。
ディスクを入れてから再生されるまでの時間も早くはない気もします。
しかし目的とする内容、つまり映画やドラマを見られる限り
僕の求めるものは得られているんだと思われます。
仮にもっと高性能であったとしても、
特別気にしないような気がします。
パソコンの性能気になっていたのは、僕にとっては
あくまで不具合が出ていたからに過ぎません。
突然パソコンの電源が落ちてしまったりすると
書いていたものが消えてしまいますし、
メモリ不足で反応が悪くなると
頭に浮かんだものを書き出す段階で待たないといけなくなります。
余計なものが挟まってくるわけです。
ここでは「パソコンで書く」という体験に、ある種の喜びが含まれます。
頭が整理されていく感じや、必要な資料や文書ができ上っていく感じ。
その喜びが損なわれるのが嫌だから
妨げられない程度の性能が必要になった、といえます。
つまり僕にとって性能の高さのほうでは、どれだけ高くても
いつか慣れてしまって分からなくなる(満足感がない)のに対し、
性能の低さのほうは不具合が起きたときに不満を感じる形で意識される
という話です。
基準を下回ると不満だけれど、
基準に達したら、それ以上高くても満足感には影響を与えない。
僕は性能に対して、そういうタイプの価値判断をしているようです。
(結構な人がそうではないかと思いますが)
一方、書くことに伴った喜びは、書く内容が毎回異なっている以上
当然、毎回別物として体験されますから、
慣れてしまって薄まっていくものではありません。
その都度、別の体験として新鮮さを伴いながら
「その瞬間に体験している」喜びに意識を向けるタイプの満足感なんです。
DVDで映画を見るのも、インターネットで新しい情報を得るのも、
本で勉強するのも、ご飯を食べて美味しいと思うのも…、
多くの「内容」レベルの満足感がこちらのタイプでしょう。
その内容を妨げないようにするのが「性能」になりやすい気がします。
書籍であれば重さとか字の見やすさとかでしょうか。
電子書籍に求められる性能も、まさに
本を読む体験を妨げないものが中心じゃないかと思います。
料理の場合は、包丁の切れ味とかコンロの火力とかでしょうか。
ものすごく高性能だと、硬いものを切ってみたくなったり
素早くチャーハンを作ってみたくなったりするかもしれませんが、
実際にその性能が求められる機会は少ないものでしょう。
ちょうど高性能のパソコンを買ったけど、
そこまで負荷のかかる動画編集みたいな作業はしないようなものです。
そして「性能によって可能になる体験内容」とは別のところで
付加的な体験によっても満足を感じることがあります。
主に「美」と関連した体験です。
美しいとか、カッコイイとか、カワイイとか。
見た目でも音でも体験されるものですが、
これらもコダワリのある部分については毎瞬のように意識されます。
例えばパソコンでいえばデザインとか、素材とか、色とか
キーボードのバックライトとか、細かい作りの丁寧さとか。
包丁でも、形とか金属の光沢とか、仕上げの繊細さとかは
「美」と関連した体験で満足感を追加してくれます。
洋服とか鞄とか、身に着けるものの多くは
性能よりも美のほうが重視されているかもしれません。
車の場合、加速感とか、エンジン音とか、ボディのデザインとか。
逆にトランクの広さは「基準に満たないと不満な性能」のほうでしょう。
車のエンジン性能は、加速感に対して美的な印象を受けなければ
「坂道で遅いと困る」ような最低基準のある性能として認識されそうです。
性能として認識された場合、最低基準にさえ達していればいいので
そんなに高いものを求めることはなくなりがちです。
が、美的な観点から認識された場合、上に限度はありません。
そうすると、いわゆる『高級品』の方向性になると思われます。
よく言われる「付加価値」というのは、美と関連したことが多く
五感レベルで毎瞬の「体験」として味わえるものと考えられます。
比較でしか認識できない「性能」は慣れてしまって
基準を下回った時に不満として自覚されるだけですが、
美に近い体験として認識されるほうは
その感じに注意を向けるたびに毎回、満足感をもたらしてくれる。
道具や機械を、求める体験内容を得るための手段としてしか捉えないと
必要最低限の性能だけを気にしておけばよくなるんでしょう。
この種の性能はすぐに慣れてしまって満足感が薄れやすいですから。
一方、同じ道具や機械でも、そこに美に近い付加的な体験を求めれば
長い間、その美を保っている限り、繰り返し満足感が得られます。
(当然、それだけ値段も上がっていくわけですが)
僕はあまり、この「美」の側面を重視してきませんでしたが
そちらの満足感を意識したら、物へのコダワリも上がる気がします。
良いものを大切に手入れしながら長く使う…なんていう発想も
少しは理解できそうです。
2017年04月24日
ストレスチェックの義務化
2015年12月から義務化されたストレスチェック。
労働者が50人以上の事業所では年に一回の検査が必要になっています。
僕自身はフリーランスですし、主に関わっている人たちも
そこまでの人数の組織ではなさそうですから、
直接的にストレスチェックを気にする立場ではないと言えそうです。
しかし、受講生としてお越し下さる方々の中には
もちろんストレスチェックを受けている人も、さらには
人事としてストレスチェックを使う側の立場の人もいる可能性があります。
ということで先日、ストレスチェックについての講座を受けてきました。
講師はアメリカでカウンセラーをやっていた人で、
日本でも心理臨床の立場として病院に入ったり
企業と契約して従業員のカウンセリングを受けたりしていたそうです。
実際に本人がどれぐらいストレスチェックと関わっていたのかは分かりませんが
人事としてストレスチェックを「やらなければならない」人たちとは
接点があるようで、実情も交えた講義を聞けました。
多くの人事担当者は、このシステムを運用する義務に対して
新たなストレスを感じているという話でした、皮肉なことに。
どうやら原則的には、従業員個人のためのシステムという想定みたいです。
自分で自分のストレスに気づき対処する、と。
相談窓口を告知したり、ストレスを自覚した人たちが
気軽に社内で相談できるような環境を整えたりするのが
人事側としてできることではないか、という説明でした。
しっかりと個人を把握している人事であれば
誰にストレスがかかっているかは、本人の非言語メッセージや
周りからの評判などから想像がつくだろうから、
人事側から個別に「働きかける」には良く知っている必要がある…。
そんな話もしていましたが、そうなったらストレスチェックは関係ない気もします。
組織としてストレスチェックをどう活かすかを良く話し合うと良いと言われても、
そこに一生懸命になるマネジメント層がいれば、そもそも
従業員全体としてのストレスレベルが過剰に高いことも少なそうです。
僕としては、せっかくのチェック内容なので
組織全体として活かす方向性はないものかとも考えてしまいますが、
情報は従業員本人のみに知らされる前提ですから
上司として何をするかとか、人員配置に活かすとか、
マネジメント側として組織を変えていくとか、
そういう方向には繋げようという趣旨ではないようです。
そのため、講座の内容も個人対応のものが中心でした。
「(現状としてかかっている)ストレスにどう対処していくか?」
を解説してもらったり、話し合ったりしました。
講師がカウンセラーだということも関係しているかもしれません。
目の前の一人が苦しんでいる。
その苦しさをどう楽にするか。
そういう発想があると、
「現状でかかっているストレスにどう対処するか?」
の部分に関心が向きやすいんでしょう。
そこの手伝いをするのが本人の専門分野でもあるようでしたし。
一方、僕は「ストレスがかからないようにするには、どうしたらいいか?」
のほうにも関心が出てきます。
家族療法的な視点からすると、ストレスを抱える人は
たまたまそこに症状として表れているだけで、
グループ全体に歪みができていると考えられます。
従業員のストレスチェックをやって、仮に
ストレスを抱えていた従業員全員が上手くストレスに対処できるようになって、
過剰に仕事を抱え込まなくなったり、長時間労働を断れるようになったり、
有給休暇もしっかりと取れるようになったりしたとします。
従業員全員が自分のストレスを自覚して、自分に無理をかけなくなる。
翌年のストレスチェックでは、皆がストレスを報告しなくなった、と。
カウンセリングを受けにくる人もいなくなって、
サポートする側としては大成功に思えるかもしれません。
しかし、おそらくそのとき、仕事は以前のような形では回っていません。
全員の労働時間が減っているのですから、こなせる業務の量も減るでしょう。
よほど仕事の効率化を図れていなければ業務のほうに皺寄せが来る。
結果として、部署単位・事業所単位での責任を果たそうとして
「従業員」ではない「管理職」側に負担が出ているかもしれません。
従業員のストレスを下げようとした分、業績が下がり
その責任を管理職が問われるようになる…。
そうなれば次にストレスが表面化するのは管理職のほうです。
ここで管理職のほうが自分のマネジメント能力をトレーニングしたり
仕事の成果を上げるべく学んだり工夫したりするようになれば
それもまた1つの成果と呼べるのかもしれません。
逆にただ管理職層のストレスだけが過剰になってきて
マネジメント層を中心に離職者が増えてきたりすれば、
組織全体として大きなダメージでしょう。
組織自体が破たんしてしまうか、
その前に経営者が異常事態だと気づき、経営を何とかしようとするか。
つまるところ、従業員にストレスが強く出ているということは
組織全体の運営がスムーズではない、ということかもしれません。
人員が従業員→管理職と、順にストレスを減らすようにスタンスを変えたら
最終的な歪みはトップのところに表れてくるはずです。
だったら最初から組織全体として向き合っても良さそうな気もします。
表面上はストレスチェックというシステムの話ですが
関わっているのは経営の問題とか、経済や文化のところにも及びそうです。
とてもアンケートだけやって済む話ではなさそうに感じました。
あまりにも事態が複雑過ぎる。
ジレンマの部分を強く意識させられた講座でした。
労働者が50人以上の事業所では年に一回の検査が必要になっています。
僕自身はフリーランスですし、主に関わっている人たちも
そこまでの人数の組織ではなさそうですから、
直接的にストレスチェックを気にする立場ではないと言えそうです。
しかし、受講生としてお越し下さる方々の中には
もちろんストレスチェックを受けている人も、さらには
人事としてストレスチェックを使う側の立場の人もいる可能性があります。
ということで先日、ストレスチェックについての講座を受けてきました。
講師はアメリカでカウンセラーをやっていた人で、
日本でも心理臨床の立場として病院に入ったり
企業と契約して従業員のカウンセリングを受けたりしていたそうです。
実際に本人がどれぐらいストレスチェックと関わっていたのかは分かりませんが
人事としてストレスチェックを「やらなければならない」人たちとは
接点があるようで、実情も交えた講義を聞けました。
多くの人事担当者は、このシステムを運用する義務に対して
新たなストレスを感じているという話でした、皮肉なことに。
どうやら原則的には、従業員個人のためのシステムという想定みたいです。
自分で自分のストレスに気づき対処する、と。
相談窓口を告知したり、ストレスを自覚した人たちが
気軽に社内で相談できるような環境を整えたりするのが
人事側としてできることではないか、という説明でした。
しっかりと個人を把握している人事であれば
誰にストレスがかかっているかは、本人の非言語メッセージや
周りからの評判などから想像がつくだろうから、
人事側から個別に「働きかける」には良く知っている必要がある…。
そんな話もしていましたが、そうなったらストレスチェックは関係ない気もします。
組織としてストレスチェックをどう活かすかを良く話し合うと良いと言われても、
そこに一生懸命になるマネジメント層がいれば、そもそも
従業員全体としてのストレスレベルが過剰に高いことも少なそうです。
僕としては、せっかくのチェック内容なので
組織全体として活かす方向性はないものかとも考えてしまいますが、
情報は従業員本人のみに知らされる前提ですから
上司として何をするかとか、人員配置に活かすとか、
マネジメント側として組織を変えていくとか、
そういう方向には繋げようという趣旨ではないようです。
そのため、講座の内容も個人対応のものが中心でした。
「(現状としてかかっている)ストレスにどう対処していくか?」
を解説してもらったり、話し合ったりしました。
講師がカウンセラーだということも関係しているかもしれません。
目の前の一人が苦しんでいる。
その苦しさをどう楽にするか。
そういう発想があると、
「現状でかかっているストレスにどう対処するか?」
の部分に関心が向きやすいんでしょう。
そこの手伝いをするのが本人の専門分野でもあるようでしたし。
一方、僕は「ストレスがかからないようにするには、どうしたらいいか?」
のほうにも関心が出てきます。
家族療法的な視点からすると、ストレスを抱える人は
たまたまそこに症状として表れているだけで、
グループ全体に歪みができていると考えられます。
従業員のストレスチェックをやって、仮に
ストレスを抱えていた従業員全員が上手くストレスに対処できるようになって、
過剰に仕事を抱え込まなくなったり、長時間労働を断れるようになったり、
有給休暇もしっかりと取れるようになったりしたとします。
従業員全員が自分のストレスを自覚して、自分に無理をかけなくなる。
翌年のストレスチェックでは、皆がストレスを報告しなくなった、と。
カウンセリングを受けにくる人もいなくなって、
サポートする側としては大成功に思えるかもしれません。
しかし、おそらくそのとき、仕事は以前のような形では回っていません。
全員の労働時間が減っているのですから、こなせる業務の量も減るでしょう。
よほど仕事の効率化を図れていなければ業務のほうに皺寄せが来る。
結果として、部署単位・事業所単位での責任を果たそうとして
「従業員」ではない「管理職」側に負担が出ているかもしれません。
従業員のストレスを下げようとした分、業績が下がり
その責任を管理職が問われるようになる…。
そうなれば次にストレスが表面化するのは管理職のほうです。
ここで管理職のほうが自分のマネジメント能力をトレーニングしたり
仕事の成果を上げるべく学んだり工夫したりするようになれば
それもまた1つの成果と呼べるのかもしれません。
逆にただ管理職層のストレスだけが過剰になってきて
マネジメント層を中心に離職者が増えてきたりすれば、
組織全体として大きなダメージでしょう。
組織自体が破たんしてしまうか、
その前に経営者が異常事態だと気づき、経営を何とかしようとするか。
つまるところ、従業員にストレスが強く出ているということは
組織全体の運営がスムーズではない、ということかもしれません。
人員が従業員→管理職と、順にストレスを減らすようにスタンスを変えたら
最終的な歪みはトップのところに表れてくるはずです。
だったら最初から組織全体として向き合っても良さそうな気もします。
表面上はストレスチェックというシステムの話ですが
関わっているのは経営の問題とか、経済や文化のところにも及びそうです。
とてもアンケートだけやって済む話ではなさそうに感じました。
あまりにも事態が複雑過ぎる。
ジレンマの部分を強く意識させられた講座でした。
2017年04月21日
選ぶ作業
いざ身体のために運動を、と考え始めると
施設選びにも迷ってしまうものですね。
当初は最寄りで24時間営業のところが良いかと思っていましたが
他も調べてみると、プールがあるのが魅力的に見えてきます。
全身運動という観点で水泳は良さそうな気がするんです。
水に入っているだけでリラックスできるところもありそうですし。
一方、プールを利用するのは少しだけハードルが高い。
子供の頃の記憶から、所要時間が長くなる印象があるんです。
しかも「せっかく来たから、ついでに他の運動も」なんて考えたら
全体としての時間は、まとめてそれなりのものになるんじゃないか、と。
休日にタップリと時間を取って、運動のための日を作る…
そんな必要性を感じてしまいます。
それはそれで有意義な休日の過ごし方としてイメージできます。
デメリットは頻度が落ちるところでしょう。
まとめてしっかり、と思うと気軽に立ち寄る感じにはならなそうです。
その点、マシントレーニングぐらいを24時間営業のところでと想定すると、
立ち寄るのも気軽になりますし、時間も気にせずに
かつ夜遅くにでも行けそうなのは助かります。
僕の趣旨は、身体のメンテナンス目的にありますから
セミナーの後に有酸素運動をしてリフレッシュしたい気もするんです。
するとやはり24時間営業は嬉しい。
土日に夜遅くまでやっているのもありがたいです。
一回当たりの時間を短くして高頻度にしたい気持ちも加味すると
やはりプールがあっても営業時間が限られているのは残念。
こうして考えてみると、どうも24時間営業のほうに軍配が上がりそうです。
ちなみに、これを書く前の段階では迷っていましたが、
書いているうちに気持ちが整理されて結論に近づけた気がします。
書きながら考えを整理するのも1つの効果的な方法のようです。
施設選びにも迷ってしまうものですね。
当初は最寄りで24時間営業のところが良いかと思っていましたが
他も調べてみると、プールがあるのが魅力的に見えてきます。
全身運動という観点で水泳は良さそうな気がするんです。
水に入っているだけでリラックスできるところもありそうですし。
一方、プールを利用するのは少しだけハードルが高い。
子供の頃の記憶から、所要時間が長くなる印象があるんです。
しかも「せっかく来たから、ついでに他の運動も」なんて考えたら
全体としての時間は、まとめてそれなりのものになるんじゃないか、と。
休日にタップリと時間を取って、運動のための日を作る…
そんな必要性を感じてしまいます。
それはそれで有意義な休日の過ごし方としてイメージできます。
デメリットは頻度が落ちるところでしょう。
まとめてしっかり、と思うと気軽に立ち寄る感じにはならなそうです。
その点、マシントレーニングぐらいを24時間営業のところでと想定すると、
立ち寄るのも気軽になりますし、時間も気にせずに
かつ夜遅くにでも行けそうなのは助かります。
僕の趣旨は、身体のメンテナンス目的にありますから
セミナーの後に有酸素運動をしてリフレッシュしたい気もするんです。
するとやはり24時間営業は嬉しい。
土日に夜遅くまでやっているのもありがたいです。
一回当たりの時間を短くして高頻度にしたい気持ちも加味すると
やはりプールがあっても営業時間が限られているのは残念。
こうして考えてみると、どうも24時間営業のほうに軍配が上がりそうです。
ちなみに、これを書く前の段階では迷っていましたが、
書いているうちに気持ちが整理されて結論に近づけた気がします。
書きながら考えを整理するのも1つの効果的な方法のようです。
2017年04月19日
次回の講座は6月25日の予定
次回の講座は
6/25 (日)
を予定しています。
内容はコミュニケーション技術寄りのものです。
具体的なテーマとしては
『言語表現を向上させる』
ことを扱う予定です。
結構、リクエストというか
「どうしたら言葉を上手く使えるようになりますか?」
といった趣旨の質問をもらったり、
「もっと上手く伝えられるようになりたい」
といった願望を聞いたりすることがあります。
こういう「伝え方」や「表現の仕方」について問題意識が出る場合、
実際のところは非常に多くの要素が混ざり込んでいます。
例えば、「伝え方」を気にしているようでいて
実のところ「部下に言うことを聞かせられるような伝え方を知りたい」
などと、「他人を思い通りに動かしたい」願望がメインのこともあります。
他者に動いてもらうのは、依頼や商談、教育・指導など
多くの場面で求められるコミュニケーションの要素ですが、
技術としての重要度は必ずしも「言葉の使い方」が高いわけではありません。
相手のニーズを把握していなければ動機づけはできませんし、
相手と価値観が根本的に異なっていたら動いてもらうのは難しいでしょう。
最終的な決断は相手に委ねられますから、
全ての結果をコントロールするのは不可能かと思います。
結果を良くしたいのであれば、「自分が何を言うか」の前に
むしろ「相手は何を望んでいるのか」を理解できるようになるほうが
ずっと効果的かもしれません。
ニーズ把握のプロセスを技術として身につけておくと
相手のニーズに合わせた対応をしやすくなるので
商品やサービスの提供でも、指導やアドバイスでも
満足してもらいやすくなるはずです。
この「ニーズ把握」の重要性を分かった上で、相手に合わせて
新しい考え方や行動案、商品などを提案する。
その段階で初めて「言葉の選び方」そのものに意義が出てきます。
相手のニーズは分かった。
相手に満足してもらえそうな提案内容がある。
ポイントは分かっている。
なんとなく言いたい趣旨は決まっている…。
そこから自分の想い・アイデアを言葉として表現する。
この段階で困難を感じる人がいるようなんです。
今回のポイントは、ここです。
会話の途中で、的確なポイントが掴めたとき、
「伝えたいこと、趣旨は決まっている。
こういう観点で、こういう方向性で、
こんな感じのことを言えれば上手くいきそうだ。
…でも、これを何て言葉にすればいいんだ?
表現力が足りないから上手く言えない。」
とか。
あるいは相手の気持ちを理解して、分かったことを伝え返そうとしたとき
「なるほど、そういうことですか!
はあはあ。ええ、おっしゃることは多分、伝わっています。
なんていうんでしょう、あの、あれですよね?
結局、ホラ、なんか、こういう感じですよね。
ちょっと上手く言えないんですけど、納得しています。」
のように、
なかなか適切な言葉が見つからないとか。
もしくは、
相手の悩みの元になる考え方の癖が分かって、
こういう物の見方をすれば悩みから解決されそうだと見立てがある。
でも上手いリフレーミングの言葉が出てこない、とか。
頭の中には良いアイデアやイメージ、大事なポイントが出来上がっているけれど
それが言葉として表現しきれていない段階です。
少し専門的に言うと、
「内的表象を的確な言葉に置き換える」プロセス。
ここをトレーニングします。
そういう意味では、「言葉による表現力を磨く」とも言い換えられそうです。
自分の気持ちを上手く表した言葉に置き換える能力。
ここを磨こうという趣旨です。
コミュニケーションのトレーニングをしていると、この段階で
もどかしさを感じる人がいるようなんです。
最初のステップとして「何をすればいいのか?」が分かって、
次の段階で「どのような言葉に表したらいいのか?」が課題となる。
もちろん母国語として日本語を使えれば
ある程度の表現は可能です。
相手が汲み取れるだけの言語表現になっていれば
相手との信頼関係が築かれている限り、
相手のほうから理解しようとしてもくれます。
そこそこの表現になっていれば伝わるんです。
まして伝える側に想いの強さがあれば、非言語メッセージのほうから
大切な想いの部分だけは伝わることもあります。
言葉の表現は、その意味で、決して高いとは言えません。
それでも上手く言い表せていなかっただけの理由で
今一歩のところで伝わらない場合もあるわけです。
あくまで伝わりやすくするため、伝わる確率を上げるため、
せっかくのアイデアや想いが空回りする勿体なさを減らすため、
言葉の表現の段階でもできることがあります。
日本語力として伝えたいことを的確な言葉にする趣旨で
コミュニケーションのトレーニングをやってみようという話です。
詳しい案内は一か月前ぐらいに出すと思いますが
興味があれば予定を検討してみてください。
6/25 (日)
を予定しています。
内容はコミュニケーション技術寄りのものです。
具体的なテーマとしては
『言語表現を向上させる』
ことを扱う予定です。
結構、リクエストというか
「どうしたら言葉を上手く使えるようになりますか?」
といった趣旨の質問をもらったり、
「もっと上手く伝えられるようになりたい」
といった願望を聞いたりすることがあります。
こういう「伝え方」や「表現の仕方」について問題意識が出る場合、
実際のところは非常に多くの要素が混ざり込んでいます。
例えば、「伝え方」を気にしているようでいて
実のところ「部下に言うことを聞かせられるような伝え方を知りたい」
などと、「他人を思い通りに動かしたい」願望がメインのこともあります。
他者に動いてもらうのは、依頼や商談、教育・指導など
多くの場面で求められるコミュニケーションの要素ですが、
技術としての重要度は必ずしも「言葉の使い方」が高いわけではありません。
相手のニーズを把握していなければ動機づけはできませんし、
相手と価値観が根本的に異なっていたら動いてもらうのは難しいでしょう。
最終的な決断は相手に委ねられますから、
全ての結果をコントロールするのは不可能かと思います。
結果を良くしたいのであれば、「自分が何を言うか」の前に
むしろ「相手は何を望んでいるのか」を理解できるようになるほうが
ずっと効果的かもしれません。
ニーズ把握のプロセスを技術として身につけておくと
相手のニーズに合わせた対応をしやすくなるので
商品やサービスの提供でも、指導やアドバイスでも
満足してもらいやすくなるはずです。
この「ニーズ把握」の重要性を分かった上で、相手に合わせて
新しい考え方や行動案、商品などを提案する。
その段階で初めて「言葉の選び方」そのものに意義が出てきます。
相手のニーズは分かった。
相手に満足してもらえそうな提案内容がある。
ポイントは分かっている。
なんとなく言いたい趣旨は決まっている…。
そこから自分の想い・アイデアを言葉として表現する。
この段階で困難を感じる人がいるようなんです。
今回のポイントは、ここです。
会話の途中で、的確なポイントが掴めたとき、
「伝えたいこと、趣旨は決まっている。
こういう観点で、こういう方向性で、
こんな感じのことを言えれば上手くいきそうだ。
…でも、これを何て言葉にすればいいんだ?
表現力が足りないから上手く言えない。」
とか。
あるいは相手の気持ちを理解して、分かったことを伝え返そうとしたとき
「なるほど、そういうことですか!
はあはあ。ええ、おっしゃることは多分、伝わっています。
なんていうんでしょう、あの、あれですよね?
結局、ホラ、なんか、こういう感じですよね。
ちょっと上手く言えないんですけど、納得しています。」
のように、
なかなか適切な言葉が見つからないとか。
もしくは、
相手の悩みの元になる考え方の癖が分かって、
こういう物の見方をすれば悩みから解決されそうだと見立てがある。
でも上手いリフレーミングの言葉が出てこない、とか。
頭の中には良いアイデアやイメージ、大事なポイントが出来上がっているけれど
それが言葉として表現しきれていない段階です。
少し専門的に言うと、
「内的表象を的確な言葉に置き換える」プロセス。
ここをトレーニングします。
そういう意味では、「言葉による表現力を磨く」とも言い換えられそうです。
自分の気持ちを上手く表した言葉に置き換える能力。
ここを磨こうという趣旨です。
コミュニケーションのトレーニングをしていると、この段階で
もどかしさを感じる人がいるようなんです。
最初のステップとして「何をすればいいのか?」が分かって、
次の段階で「どのような言葉に表したらいいのか?」が課題となる。
もちろん母国語として日本語を使えれば
ある程度の表現は可能です。
相手が汲み取れるだけの言語表現になっていれば
相手との信頼関係が築かれている限り、
相手のほうから理解しようとしてもくれます。
そこそこの表現になっていれば伝わるんです。
まして伝える側に想いの強さがあれば、非言語メッセージのほうから
大切な想いの部分だけは伝わることもあります。
言葉の表現は、その意味で、決して高いとは言えません。
それでも上手く言い表せていなかっただけの理由で
今一歩のところで伝わらない場合もあるわけです。
あくまで伝わりやすくするため、伝わる確率を上げるため、
せっかくのアイデアや想いが空回りする勿体なさを減らすため、
言葉の表現の段階でもできることがあります。
日本語力として伝えたいことを的確な言葉にする趣旨で
コミュニケーションのトレーニングをやってみようという話です。
詳しい案内は一か月前ぐらいに出すと思いますが
興味があれば予定を検討してみてください。
2017年04月15日
花粉症が改善した理由
花粉のシーズンもピークを過ぎてきたのでしょうか、
マスク姿の人を見かける頻度が減っている気がします。
他にも、インフルエンザのピークが過ぎたり
気候が暖かくなってきたことでマスクをつけるのが暑かったり、
いろいろな要因があるかもしれませんが。
とはいえ、僕自身の実感としては
4月を過ぎると花粉症の症状は減ってくるようです。
実態として症状が強めに感じられるのは3月ぐらいかもしれません。
しかしながら、僕の花粉症のレベルは随分と下がっています。
年々下がっているかは定かではありませんが、
10年前とは比べ物になりません。
病院に行けば「酷いレベル」と言われるほどでしたし、
医者の処方薬をいろいろと試し、時には市販薬も併用したり、
目薬も欠かせない感じでシーズンを乗り切っていたものです。
1月末ぐらいから準備を始め、6月はじめぐらいまで
なんとなく症状を引きずるような感じでした。
ヒノキのアレルギーもあったらしく、梅雨入り前までは
かゆみと鼻水・鼻づまりに苦しんでいました。
そういえば、山口に住んでいたころは楽だった記憶があります。
西のほうは杉が少ないらしいので、その影響でしょう。
ゴールデンウィークに東京に戻るとき、
飛行機に乗った瞬間から花粉症の症状が出始め
東京から運ばれてきた花粉を強く実感したのを覚えています。
寝て起きれば目ヤニで瞼がくっついてしまっているとか、
鼻の奥や喉の奥が痒くて困っていたとか、
鼻をかんでも鼻水が出てこないぐらいに鼻が詰まっているとか、
そういうのが当たり前だったんです。
それが今は、ほとんど気にならないレベルです。
最近は毎年、2月の中頃から薬を飲み始め、
5月に入るぐらいまでは一応、薬を飲むようにはしていますが、
どうしても服用が必要なわけでもありません。
飲み忘れても大して困ることはなく、
鼻をかむ頻度が増えるのと、軽く鼻が詰まった感じがするのと
気にすると目が痒いような気分があるぐらいなもの。
薬を飲むとそれがピタッと止まります。
鼻の通りが快適になって呼吸がしやすいので
少しでも呼吸をスムーズにする目的で薬を飲む感じです。
実際には1日2回の薬を、1日1回で大丈夫なぐらい。
ピークの時期だけ念のため1日2回にしてはいますが。
薬を飲んでも鼻をズルズルさせていた頃と比べると
もうすっかり良くなっている印象です。
最近は薬を飲まなくても、ホコリで鼻がムズムズするのと同程度で、
もしかすると花粉よりもハウスダストのほうが
身体は嫌がっているようにさえ感じられます。
ただ、何をして改善したかというと、定かではないんです。
NLPや催眠をやり始めてからも症状は残っていました。
症状をコントロールできることを知って程度は減っていたものの、
それでもある程度は残っていた記憶があります。
1つ大きそうなのは、意識の範囲が広がったことでしょうか。
以前、僕の意識は常に、目と鼻のあたりにありました。
目は一生懸命に見ようとするため(視覚情報を重視するため)、
鼻は厳密にいうと口から鼻の奥にかけてなので
味覚・嗅覚を重視するためだったと思われます。
僕にとって意識の中心は常に、頭の中…
目から鼻にかけての範囲で、顔の奥に入ったあたりにありました。
常にその場所から全身を見ているような感じ。
まるで目と鼻の奥のところにコクピットがあって
そこから巨大ロボを運転しているようなイメージです。
それが身体の使い方が上達してきたあたりから
意識の及ぶ範囲が広がっていったんです。
身体のケアをするようになって、
身体への意識が敏感になったのも関係していると思います。
それ以上に、意識の範囲を拡大できるようになったのが効いていそうです。
目に意識を集中すれば、目のあたりの感覚刺激が強く自覚されます。
結果、そこの痒みや不快感が強く意識され、さらに意識が集まるようになる。
意識が集まると血流も集まりやすくなって、余計に感覚刺激が強まる。
痒みを意識するほど、どんどん痒くなっていくという悪循環です。
だいたい花粉症の症状が強く表れる部位は、
その人が意識を集めているところになっているものです。
視覚をよく使う人は目を痒がる。
皮膚感覚の強い人は、花粉のアレルギーも肌の痒みになるようです。
その意味では、僕は意識の範囲を拡大できたことによって
目や鼻の反応だけに集中してしまう悪循環から抜けられたのかもしれません。
即効性のある手法で花粉症が治ったというわけではなさそうですが、
時間をかけて取り組んできたことが、思わぬ好影響を及ぼしたみたいです。
マスク姿の人を見かける頻度が減っている気がします。
他にも、インフルエンザのピークが過ぎたり
気候が暖かくなってきたことでマスクをつけるのが暑かったり、
いろいろな要因があるかもしれませんが。
とはいえ、僕自身の実感としては
4月を過ぎると花粉症の症状は減ってくるようです。
実態として症状が強めに感じられるのは3月ぐらいかもしれません。
しかしながら、僕の花粉症のレベルは随分と下がっています。
年々下がっているかは定かではありませんが、
10年前とは比べ物になりません。
病院に行けば「酷いレベル」と言われるほどでしたし、
医者の処方薬をいろいろと試し、時には市販薬も併用したり、
目薬も欠かせない感じでシーズンを乗り切っていたものです。
1月末ぐらいから準備を始め、6月はじめぐらいまで
なんとなく症状を引きずるような感じでした。
ヒノキのアレルギーもあったらしく、梅雨入り前までは
かゆみと鼻水・鼻づまりに苦しんでいました。
そういえば、山口に住んでいたころは楽だった記憶があります。
西のほうは杉が少ないらしいので、その影響でしょう。
ゴールデンウィークに東京に戻るとき、
飛行機に乗った瞬間から花粉症の症状が出始め
東京から運ばれてきた花粉を強く実感したのを覚えています。
寝て起きれば目ヤニで瞼がくっついてしまっているとか、
鼻の奥や喉の奥が痒くて困っていたとか、
鼻をかんでも鼻水が出てこないぐらいに鼻が詰まっているとか、
そういうのが当たり前だったんです。
それが今は、ほとんど気にならないレベルです。
最近は毎年、2月の中頃から薬を飲み始め、
5月に入るぐらいまでは一応、薬を飲むようにはしていますが、
どうしても服用が必要なわけでもありません。
飲み忘れても大して困ることはなく、
鼻をかむ頻度が増えるのと、軽く鼻が詰まった感じがするのと
気にすると目が痒いような気分があるぐらいなもの。
薬を飲むとそれがピタッと止まります。
鼻の通りが快適になって呼吸がしやすいので
少しでも呼吸をスムーズにする目的で薬を飲む感じです。
実際には1日2回の薬を、1日1回で大丈夫なぐらい。
ピークの時期だけ念のため1日2回にしてはいますが。
薬を飲んでも鼻をズルズルさせていた頃と比べると
もうすっかり良くなっている印象です。
最近は薬を飲まなくても、ホコリで鼻がムズムズするのと同程度で、
もしかすると花粉よりもハウスダストのほうが
身体は嫌がっているようにさえ感じられます。
ただ、何をして改善したかというと、定かではないんです。
NLPや催眠をやり始めてからも症状は残っていました。
症状をコントロールできることを知って程度は減っていたものの、
それでもある程度は残っていた記憶があります。
1つ大きそうなのは、意識の範囲が広がったことでしょうか。
以前、僕の意識は常に、目と鼻のあたりにありました。
目は一生懸命に見ようとするため(視覚情報を重視するため)、
鼻は厳密にいうと口から鼻の奥にかけてなので
味覚・嗅覚を重視するためだったと思われます。
僕にとって意識の中心は常に、頭の中…
目から鼻にかけての範囲で、顔の奥に入ったあたりにありました。
常にその場所から全身を見ているような感じ。
まるで目と鼻の奥のところにコクピットがあって
そこから巨大ロボを運転しているようなイメージです。
それが身体の使い方が上達してきたあたりから
意識の及ぶ範囲が広がっていったんです。
身体のケアをするようになって、
身体への意識が敏感になったのも関係していると思います。
それ以上に、意識の範囲を拡大できるようになったのが効いていそうです。
目に意識を集中すれば、目のあたりの感覚刺激が強く自覚されます。
結果、そこの痒みや不快感が強く意識され、さらに意識が集まるようになる。
意識が集まると血流も集まりやすくなって、余計に感覚刺激が強まる。
痒みを意識するほど、どんどん痒くなっていくという悪循環です。
だいたい花粉症の症状が強く表れる部位は、
その人が意識を集めているところになっているものです。
視覚をよく使う人は目を痒がる。
皮膚感覚の強い人は、花粉のアレルギーも肌の痒みになるようです。
その意味では、僕は意識の範囲を拡大できたことによって
目や鼻の反応だけに集中してしまう悪循環から抜けられたのかもしれません。
即効性のある手法で花粉症が治ったというわけではなさそうですが、
時間をかけて取り組んできたことが、思わぬ好影響を及ぼしたみたいです。
2017年04月12日
夏になる前に
パソコンが熱で落ちるようになってきてしまいました。
今使っているメインのヤツです。
これが一番古く、8年ぐらい前のもの。
Windows Vistaなのもサポート範囲外になってきていますし
そろそろ買い替えないといけなそうです。
その1つ後に買ったヤツは台湾を本社とする某メーカーのもので、
結構良い物だったはずなんですが、シンプルに初期不良。
電源部分のマザーボードとの接触が悪く、
設計レベルでのミスのため修理や交換もままならないものでした。
ときどきこちらを使うこともあるものの、長時間は使えません。
一度電源が落ちたら、もう二度と電源を入れられない状態だからです。
電源キーが働いていないんです。
なのでスリープと再起動だけで誤魔化して使っていました。
軽量薄型だったので、持ち運び用として使うぐらいには充分
という判断でした。
その後、軽量ながら低パフォーマンスの安価なものを昨年に購入。
こちらを文字を打ったり、ネットに繋ぐぐらいなら問題ないので
今はこっちのほうが持ち運び用の「サブマシン」という位置づけです。
その意味では、電源キーが効かないけれど新し目のほうを
メインとして使っていく選択もありそうではあるんです。
とはいえ、そちらをメインにしたら、今度
何かしらの理由で止まったり電源が落ちたりしたときに
もう対処のしようがなくなってしまいます。
言い換えると、二台の主要パソコンが長期使用に耐えない状態だ
ということででしょう。
これはやっぱり新しいものを購入する必要がありそうです。
データの受け渡しをする相手がMacユーザーということもあり
Macも視野には入れてみたりもするんですが、
仕事上はWindowsのほうが無難な気がしています。
選択肢が多すぎて、なかなか選べず困っているところです。
持ち運べなくて良いので軽い必要はなく、
かといって画面の都合上、デスクトップは苦手。
15インチを越える大型のノートになるとテンキーがつくために
キーボードの位置が中心からずれるのも嫌なんです。
あまり悠長に選んでいる時間もなさそうなので
早めに判断してしまいたいところです。
丁度いいのが見つかるといいんですが。
家電量販店の店員とはスムーズなコミュニケーションが期待しにくいので
自力で頑張ってみることになる予感。
今使っているメインのヤツです。
これが一番古く、8年ぐらい前のもの。
Windows Vistaなのもサポート範囲外になってきていますし
そろそろ買い替えないといけなそうです。
その1つ後に買ったヤツは台湾を本社とする某メーカーのもので、
結構良い物だったはずなんですが、シンプルに初期不良。
電源部分のマザーボードとの接触が悪く、
設計レベルでのミスのため修理や交換もままならないものでした。
ときどきこちらを使うこともあるものの、長時間は使えません。
一度電源が落ちたら、もう二度と電源を入れられない状態だからです。
電源キーが働いていないんです。
なのでスリープと再起動だけで誤魔化して使っていました。
軽量薄型だったので、持ち運び用として使うぐらいには充分
という判断でした。
その後、軽量ながら低パフォーマンスの安価なものを昨年に購入。
こちらを文字を打ったり、ネットに繋ぐぐらいなら問題ないので
今はこっちのほうが持ち運び用の「サブマシン」という位置づけです。
その意味では、電源キーが効かないけれど新し目のほうを
メインとして使っていく選択もありそうではあるんです。
とはいえ、そちらをメインにしたら、今度
何かしらの理由で止まったり電源が落ちたりしたときに
もう対処のしようがなくなってしまいます。
言い換えると、二台の主要パソコンが長期使用に耐えない状態だ
ということででしょう。
これはやっぱり新しいものを購入する必要がありそうです。
データの受け渡しをする相手がMacユーザーということもあり
Macも視野には入れてみたりもするんですが、
仕事上はWindowsのほうが無難な気がしています。
選択肢が多すぎて、なかなか選べず困っているところです。
持ち運べなくて良いので軽い必要はなく、
かといって画面の都合上、デスクトップは苦手。
15インチを越える大型のノートになるとテンキーがつくために
キーボードの位置が中心からずれるのも嫌なんです。
あまり悠長に選んでいる時間もなさそうなので
早めに判断してしまいたいところです。
丁度いいのが見つかるといいんですが。
家電量販店の店員とはスムーズなコミュニケーションが期待しにくいので
自力で頑張ってみることになる予感。
2017年04月09日
身体の具合が
1か月前ぐらいに、近所に新しいスポーツジムができました。
それまでの最寄りは徒歩20分ぐらいだったのが、
新しいほうは徒歩10分ぐらいのところ。
しかも24時間営業です。
健康のために通ってみようかなぁ、などと考えているところです。
なんて考えていたら、先日、出張先で軽く転びました。
キャリーバッグと手持ちのビジネスバッグとを両手それぞれに持ち、
地下道に降りていこうと階段を歩いているときです。
左足の爪先が上がり切らず、着地を失敗してしまったんです。
数段分だけ滑り落ちた感じなだけで、どこも痛めませんでしたし
持ち物や衣類にも影響はありませんでしたが、
自覚しているよりも足が動いていなかったのは困りものです。
下半身のトレーニングの必要性を実感しました。
過去の経験から走るのは好きじゃないので、
エアロバイクぐらいはやりたいなぁという想いで
近々見学に足を運んでみるつもりです。
そんな折、ちょうど受講生から「初動負荷トレーニング」の話が出てきて
少し気になったので調べてみました。
都内でも何箇所かあって、行けそうな場所にあるようです。
筋力を鍛えたいわけではないので、もしかすると
こっちのほうが向いているのかも…などと気になっています。
色々な兼ね合いがありそうですが、
いずれにしても何か始めようと考え中です。
それまでの最寄りは徒歩20分ぐらいだったのが、
新しいほうは徒歩10分ぐらいのところ。
しかも24時間営業です。
健康のために通ってみようかなぁ、などと考えているところです。
なんて考えていたら、先日、出張先で軽く転びました。
キャリーバッグと手持ちのビジネスバッグとを両手それぞれに持ち、
地下道に降りていこうと階段を歩いているときです。
左足の爪先が上がり切らず、着地を失敗してしまったんです。
数段分だけ滑り落ちた感じなだけで、どこも痛めませんでしたし
持ち物や衣類にも影響はありませんでしたが、
自覚しているよりも足が動いていなかったのは困りものです。
下半身のトレーニングの必要性を実感しました。
過去の経験から走るのは好きじゃないので、
エアロバイクぐらいはやりたいなぁという想いで
近々見学に足を運んでみるつもりです。
そんな折、ちょうど受講生から「初動負荷トレーニング」の話が出てきて
少し気になったので調べてみました。
都内でも何箇所かあって、行けそうな場所にあるようです。
筋力を鍛えたいわけではないので、もしかすると
こっちのほうが向いているのかも…などと気になっています。
色々な兼ね合いがありそうですが、
いずれにしても何か始めようと考え中です。
2017年04月06日
翻訳作業の難しさ
今までに何度か翻訳のお手伝いをしたことがありますが、
いずれも「英語→日本語」の訳ばかりでした。
最近、「日本語→英語」の翻訳も少しやっています。
随分と印象が違います。
決して『英作文』をやっている感じではないものの
スムーズさには大きな差があるようです。
文法も気にしなければいけませんし、
単語や言い回しが不自然にならないように、といった配慮もあります。
元の意味にできるだけ近い表現を選択しようとしたときにも
ふさわしいものを見つけるのに時間がかかります。
何より、元の日本語を読みながら、
僕自ら英語の文章を作り上げている印象があります。
一方、「英語→日本語」の場合、僕の頭の中は
受動的なモードになっています。
入ってくる英語に対応する意味が日本語で浮かんできて、
それを聞きながら書き起こすような状態です。
英語のまま捉えている意味を意識の片隅に置きつつ、
同時に直訳もしている感じ。
そして両方を組み合わせて、元のニュアンスを踏まえた
ある程度は自然な日本語に変換する作業をしているようです。
やろうと思えば直訳から意訳まで、
程度を調整できそうな印象があるんです。
だから能動的に「書く」印象はなく、
インプットされたものを流していくような体験となります。
まぁ、日本語で文章を書くとき自体も、
自分でアウトプットするというよりは、どちらかというと
浮かんでくるものを頭の中で聞いて書き取っている感じで、
『書く』というよりは『読む』に近い作業ではありますが。
それに対して「日本語→英語」の翻訳は、はるかに能動的です。
自分でライティングをしているような気分さえあります。
元の日本語のニュアンスを理解して、
それをもとに自分の中で一端、伝えるべき内容を整え
それからその頭の中の内容を英語で表現しようとする。
自分の考えを英語でアウトプットするときと似ています。
選択肢が少ないんです。
直訳も無理ではありませんが、関係代名詞などを使った修飾の仕方や
接続詞の使い方のルールなどで制約がかかるところがあって、
なかなかストレートな訳にはできません。
何よりボキャブラリーや表現方法の幅が少ないため
同じようなニュアンスを表すためのバリエーションが出ないんです。
そのため英語訳の幅が限られてしまう。
「英語→日本語」でやるような直訳〜意訳の間で
程度を調整できる範囲が狭いんだと思います。
自分の頭の中で一回理解して、自分なりにアウトプットしなおす
というステップが挟まってしまうようなんです。
この自分なりにアウトプットする感じが能動的な印象となって、
スムーズではないと感じる要因になっているんでしょう。
単純に母国語と外国語の言語能力の差だともいえますが、
日本語と英語のルールの違いにも影響を受けていそうな気もします。
英語のほうが文章構造に対して厳格なのかもしれません。
日本語は助詞を工夫すれば語順は問題ありませんし、
論理展開についても曖昧で通用してしまいます。
そのあたりも加味しながら進めるから
スムーズにならないんでしょうか。
「英語→日本語」はむしろクドくなりがちで、
そこさえ気にしなければ直訳に近い文章はすぐに作れます。
逆に「日本語→英語」は、元の日本語の曖昧さや論理の不足分を
なんとか補おうとしてしまうのかもしれません。
英語を直訳した日本語はヘンテコだけれども
それなりに意味をとらえることはできる。
日本語を直訳した英語は意味が分からなくなる場合がある。
このあたりの性質の違いも関係している気もします。
いずれにしても、僕自身の慣れが足りないところは大きそうですから
経験を積んだ後に、どんな印象が生まれてくるのかは興味があります。
アメリカやイギリス出身で「日本語→英語」の翻訳をしている人がいたら
このあたりのことを聞いてみたいとも思っています。
いずれも「英語→日本語」の訳ばかりでした。
最近、「日本語→英語」の翻訳も少しやっています。
随分と印象が違います。
決して『英作文』をやっている感じではないものの
スムーズさには大きな差があるようです。
文法も気にしなければいけませんし、
単語や言い回しが不自然にならないように、といった配慮もあります。
元の意味にできるだけ近い表現を選択しようとしたときにも
ふさわしいものを見つけるのに時間がかかります。
何より、元の日本語を読みながら、
僕自ら英語の文章を作り上げている印象があります。
一方、「英語→日本語」の場合、僕の頭の中は
受動的なモードになっています。
入ってくる英語に対応する意味が日本語で浮かんできて、
それを聞きながら書き起こすような状態です。
英語のまま捉えている意味を意識の片隅に置きつつ、
同時に直訳もしている感じ。
そして両方を組み合わせて、元のニュアンスを踏まえた
ある程度は自然な日本語に変換する作業をしているようです。
やろうと思えば直訳から意訳まで、
程度を調整できそうな印象があるんです。
だから能動的に「書く」印象はなく、
インプットされたものを流していくような体験となります。
まぁ、日本語で文章を書くとき自体も、
自分でアウトプットするというよりは、どちらかというと
浮かんでくるものを頭の中で聞いて書き取っている感じで、
『書く』というよりは『読む』に近い作業ではありますが。
それに対して「日本語→英語」の翻訳は、はるかに能動的です。
自分でライティングをしているような気分さえあります。
元の日本語のニュアンスを理解して、
それをもとに自分の中で一端、伝えるべき内容を整え
それからその頭の中の内容を英語で表現しようとする。
自分の考えを英語でアウトプットするときと似ています。
選択肢が少ないんです。
直訳も無理ではありませんが、関係代名詞などを使った修飾の仕方や
接続詞の使い方のルールなどで制約がかかるところがあって、
なかなかストレートな訳にはできません。
何よりボキャブラリーや表現方法の幅が少ないため
同じようなニュアンスを表すためのバリエーションが出ないんです。
そのため英語訳の幅が限られてしまう。
「英語→日本語」でやるような直訳〜意訳の間で
程度を調整できる範囲が狭いんだと思います。
自分の頭の中で一回理解して、自分なりにアウトプットしなおす
というステップが挟まってしまうようなんです。
この自分なりにアウトプットする感じが能動的な印象となって、
スムーズではないと感じる要因になっているんでしょう。
単純に母国語と外国語の言語能力の差だともいえますが、
日本語と英語のルールの違いにも影響を受けていそうな気もします。
英語のほうが文章構造に対して厳格なのかもしれません。
日本語は助詞を工夫すれば語順は問題ありませんし、
論理展開についても曖昧で通用してしまいます。
そのあたりも加味しながら進めるから
スムーズにならないんでしょうか。
「英語→日本語」はむしろクドくなりがちで、
そこさえ気にしなければ直訳に近い文章はすぐに作れます。
逆に「日本語→英語」は、元の日本語の曖昧さや論理の不足分を
なんとか補おうとしてしまうのかもしれません。
英語を直訳した日本語はヘンテコだけれども
それなりに意味をとらえることはできる。
日本語を直訳した英語は意味が分からなくなる場合がある。
このあたりの性質の違いも関係している気もします。
いずれにしても、僕自身の慣れが足りないところは大きそうですから
経験を積んだ後に、どんな印象が生まれてくるのかは興味があります。
アメリカやイギリス出身で「日本語→英語」の翻訳をしている人がいたら
このあたりのことを聞いてみたいとも思っています。
2017年04月03日
動画広告の時代
最近、バタバタと気ぜわしい感じになっていた理由の1つは
動画撮影のお手伝いをしていたところにあります。
裏方の作業をやると、見えない部分でどんな大変さがあるのか
意外と見えてきたりして、なかなか興味深いものです。
この頃は、動画を使った広告などが効果を発揮しているらしく
言われてみれば確かにFacebookなんかでも目にすることがあります。
写真だけのものと比べると、内容への興味は別にして
なんとなく見てみようとしてしまうこともありますから、
それなりの広告効果があるんでしょう。
ただ個人的には、動画だからこそ
見てしまった後の評価は厳しくなっている気もするんです。
写真や文章だけの広告であれば、「まだ分からない」という印象が残る。
「これだけでは判断できないなぁ」と。
なので、興味があるものだとしたら、
実際に軽く現物を見てみたい気持ちにもなります。
一度足を運んでしまえば、そのクオリティの満足度がそれほどでないとしても
他に代わりとなるものがないのであれば高確率で購入に繋がる。
「まぁ、他にはないし、これぐらいの程度ならいいだろう」と
僕は判断して購入、申し込みに進むことが多いんです。
しかし、動画の場合、僕は判断基準がかなり変わります。
そこで「イマイチかな」と評価してしまったときは、
それ以降の検討が進みません。
仮の話ですが、僕が受けている(もしくは受けてきた)語学講座でも
事前に講師が動画で模擬クラスか何かをやっていたとしたら
僕の評価は厳しくなって、「これぐらいなら他を探そうかな」と
申し込みを見送っていたものもあったと思うんです。
ホームページや資料の段階で詳しく分からないからこそ、
日程と価格の部分で妥協して、あまり期待せずに申し込みをした
ということです。
動画の場合、体験の情報量が多くなります。
判断をするための量が多い。
現物で判断するのと近くなる。
その分、動画広告段階での評価は
現物を見たときに近づいてしまって、
現物に触れる前から最終判断がなされやすいのではないか?
と感じています。
それは裏を返すと、質の高いものほど良さが伝わりますから、
現物に触れる、購入する、申し込みをする、段階では
すでに良さを知った納得している可能性があります。
先にファンになってもらう目的にはマッチしそうです。
一方、「質が不十分」と判断されて見向きもされなくなる、
むしろ動画広告が逆効果になる場合もあるでしょう。
利用する側、購入する側としては
商品・サービスを良く知ってから検討できますから
消費者側には望ましい話かもしれません。
動画広告をする側には、
諸刃の剣でもあるんじゃないでしょうか。
その意味でいうと、僕が携わった動画は
先にファンになってもらうのに十分過ぎるクオリティ。
音質や画質としても高そうですから、
内容の良さを撮影が邪魔することもなさそうです。
これから動画広告が増えたとすると、
その効果は両極に分かれるかもしれません。
今なら気軽に始められそうに見えますが、
すぐにシビアな世界になるような気がします。
動画撮影のお手伝いをしていたところにあります。
裏方の作業をやると、見えない部分でどんな大変さがあるのか
意外と見えてきたりして、なかなか興味深いものです。
この頃は、動画を使った広告などが効果を発揮しているらしく
言われてみれば確かにFacebookなんかでも目にすることがあります。
写真だけのものと比べると、内容への興味は別にして
なんとなく見てみようとしてしまうこともありますから、
それなりの広告効果があるんでしょう。
ただ個人的には、動画だからこそ
見てしまった後の評価は厳しくなっている気もするんです。
写真や文章だけの広告であれば、「まだ分からない」という印象が残る。
「これだけでは判断できないなぁ」と。
なので、興味があるものだとしたら、
実際に軽く現物を見てみたい気持ちにもなります。
一度足を運んでしまえば、そのクオリティの満足度がそれほどでないとしても
他に代わりとなるものがないのであれば高確率で購入に繋がる。
「まぁ、他にはないし、これぐらいの程度ならいいだろう」と
僕は判断して購入、申し込みに進むことが多いんです。
しかし、動画の場合、僕は判断基準がかなり変わります。
そこで「イマイチかな」と評価してしまったときは、
それ以降の検討が進みません。
仮の話ですが、僕が受けている(もしくは受けてきた)語学講座でも
事前に講師が動画で模擬クラスか何かをやっていたとしたら
僕の評価は厳しくなって、「これぐらいなら他を探そうかな」と
申し込みを見送っていたものもあったと思うんです。
ホームページや資料の段階で詳しく分からないからこそ、
日程と価格の部分で妥協して、あまり期待せずに申し込みをした
ということです。
動画の場合、体験の情報量が多くなります。
判断をするための量が多い。
現物で判断するのと近くなる。
その分、動画広告段階での評価は
現物を見たときに近づいてしまって、
現物に触れる前から最終判断がなされやすいのではないか?
と感じています。
それは裏を返すと、質の高いものほど良さが伝わりますから、
現物に触れる、購入する、申し込みをする、段階では
すでに良さを知った納得している可能性があります。
先にファンになってもらう目的にはマッチしそうです。
一方、「質が不十分」と判断されて見向きもされなくなる、
むしろ動画広告が逆効果になる場合もあるでしょう。
利用する側、購入する側としては
商品・サービスを良く知ってから検討できますから
消費者側には望ましい話かもしれません。
動画広告をする側には、
諸刃の剣でもあるんじゃないでしょうか。
その意味でいうと、僕が携わった動画は
先にファンになってもらうのに十分過ぎるクオリティ。
音質や画質としても高そうですから、
内容の良さを撮影が邪魔することもなさそうです。
これから動画広告が増えたとすると、
その効果は両極に分かれるかもしれません。
今なら気軽に始められそうに見えますが、
すぐにシビアな世界になるような気がします。