2017年06月
2017年06月29日
内省の時間
アメリカに行って座禅をしてきてから
心身ともにリラックスしていられる時間が増えた気がします。
一方で、他人からの影響を受けやすくなったというか
自分の内面を調える時間も必要になってきた印象です。
英語やフランス語のレッスンを受けている間も
先生の苛立ちや不満が強く感じられて面倒くさい。
レッスンの進め方の効果や時間の使い方といった
プロとしての要素については、そもそもの期待が減ったのか
そのことで自分の感情が動くことはなくなったようなんですが、
単純に先生が感情を表出するときが厄介です。
習っていることや会話そのものに集中できなくなります。
そうなると自分の体への意識も下がってしまって
姿勢が悪くなっているに気づきにくくもなるようです。
結果的に終わってから体の強張りを自覚する。
身体のレベルでリラックスさせるのももちろんですが
それとは別のところでケアが必要な感じがします。
今までは「心の癖を修正しておけば日々が楽になる」
というスタンスで内面と向き合う作業をしていたのに対して、
もっとシンプルに、ただの調整目的で内面と向き合うのが
大事になってきたように思えるんです。
いや、実際は元々、日々の調整そのものも
常日頃から重要なものなんでしょう。
ただあまり、これまではそちらに注意が向いていなかっただけ。
リラックスできてきたからこそ、対比として
際立って自覚されているのかもしれません。
身体のストレッチをしたり、お風呂に入って力を抜くように
内面の歪を調整するような時間も大事なように思い始めました。
心の力を抜く。
偏った集中(=緊張)を分散させる。
そんな作業も日々の中で少しずつやってみようかと思います。
心身ともにリラックスしていられる時間が増えた気がします。
一方で、他人からの影響を受けやすくなったというか
自分の内面を調える時間も必要になってきた印象です。
英語やフランス語のレッスンを受けている間も
先生の苛立ちや不満が強く感じられて面倒くさい。
レッスンの進め方の効果や時間の使い方といった
プロとしての要素については、そもそもの期待が減ったのか
そのことで自分の感情が動くことはなくなったようなんですが、
単純に先生が感情を表出するときが厄介です。
習っていることや会話そのものに集中できなくなります。
そうなると自分の体への意識も下がってしまって
姿勢が悪くなっているに気づきにくくもなるようです。
結果的に終わってから体の強張りを自覚する。
身体のレベルでリラックスさせるのももちろんですが
それとは別のところでケアが必要な感じがします。
今までは「心の癖を修正しておけば日々が楽になる」
というスタンスで内面と向き合う作業をしていたのに対して、
もっとシンプルに、ただの調整目的で内面と向き合うのが
大事になってきたように思えるんです。
いや、実際は元々、日々の調整そのものも
常日頃から重要なものなんでしょう。
ただあまり、これまではそちらに注意が向いていなかっただけ。
リラックスできてきたからこそ、対比として
際立って自覚されているのかもしれません。
身体のストレッチをしたり、お風呂に入って力を抜くように
内面の歪を調整するような時間も大事なように思い始めました。
心の力を抜く。
偏った集中(=緊張)を分散させる。
そんな作業も日々の中で少しずつやってみようかと思います。
2017年06月23日
7年ぶりの作品
今年も選抜書展に出品しました。
出品作品のすべてが展示されるわけではない仕組みなので
入選して展示されるだけでも名誉なことだそうです。
初めての出品が7年前。
そのときに選んだ「雁塔聖教序」という古典を
今回も再び選びました。
全く同じものを書いたわけではなく、長い石碑の文面のうち
別の部分を取り上げた形にはしてあります。
ただ、書体としては同じものにしてみたかったんです。
7年前との比較をしたかったからです。
初めての出品のときは技術もおぼつかず、
先生に言われるがまま、ただ一文字ずつ真似だけをして
失敗しないかどうかだけを気にして書いていたものです。
今にして思えば、ヨボヨボの線もあったし
全体の統一感も出せていなかった気がします。
それと比べると今回のほうが安心して筆を運べましたし、
「ここの線が上手くできない」という部分は無くなっていました。
もっと全体のバランスを意識しながら、
書体の特徴を楽しみながら書けるようになったと思います。
先生に指導されるがままではなく、
自分で組み立てたのも大きな違いでしょうか。
それなりに経験を積んできた成果は実感できたつもりです。
たまには出発点に立ち返ってみると、
それまでの過程と変化を見つけられて
なかなか感慨深いものだと感じます。
出品作品のすべてが展示されるわけではない仕組みなので
入選して展示されるだけでも名誉なことだそうです。
初めての出品が7年前。
そのときに選んだ「雁塔聖教序」という古典を
今回も再び選びました。
全く同じものを書いたわけではなく、長い石碑の文面のうち
別の部分を取り上げた形にはしてあります。
ただ、書体としては同じものにしてみたかったんです。
7年前との比較をしたかったからです。
初めての出品のときは技術もおぼつかず、
先生に言われるがまま、ただ一文字ずつ真似だけをして
失敗しないかどうかだけを気にして書いていたものです。
今にして思えば、ヨボヨボの線もあったし
全体の統一感も出せていなかった気がします。
それと比べると今回のほうが安心して筆を運べましたし、
「ここの線が上手くできない」という部分は無くなっていました。
もっと全体のバランスを意識しながら、
書体の特徴を楽しみながら書けるようになったと思います。
先生に指導されるがままではなく、
自分で組み立てたのも大きな違いでしょうか。
それなりに経験を積んできた成果は実感できたつもりです。
たまには出発点に立ち返ってみると、
それまでの過程と変化を見つけられて
なかなか感慨深いものだと感じます。
2017年06月19日
エネルギーを回復するために
セミナーの終わった後、ジムで運動をするようになって
その日の夜から体が軽くなるのは毎回実感できます。
背中のハリも、肩の固まりも取れる。
全身の重苦しさも有酸素運動をするとスッキリしますし。
首だけはジムの運動では動かす機会がないせいか
首のコリは残りやすいですが。
とはいえ、まあそれも肩と背中が楽になっていると
姿勢が回復するタイミングが早まるので
首の負担も徐々に減っていくようではありますから、
間接的には効果があると言えそうです。
しかし。
身体の疲労と、感覚器官レベルの負担とは別なのかもしれません。
明らかに体の重さはないのに、頭だけボーッとする感じ、
五感をシャットアウトしようとする感じは、
相変わらず翌日に表れています。
月曜日はなんとなくボーッとしながら一日が終わる気がします。
ずっと眠いような状態。
静かに動かずに内側に籠っていたい気分です。
そうもいかない事情があって外に出ていくことも多いので
余計にパフォーマンスが低い印象を味わってしまいます。
身体に残る負荷が減ったり
バランスの再調整がしやすくなったりしたとしても、
エネルギーを消費したことには違いがないみたいです。
あくまで回復がスムーズになったというだけなんでしょうか。
むしろ身体に表れる痛みが減った分
回復のプロセスに意識が集中しやすくなって、
身体を休めたい欲求、眠りたい感じ、何もしたくない気分が
自然と自覚されやすくなっているようにも思えます。
それがボーッとした感じや眠気、ヤル気のなさと
関係しているんじゃないか、と。
となると、あとはいかに効率的にエネルギーを回復するか。
睡眠や食べ物、瞑想ぐらいは工夫できそうですが、
睡眠時間を増やすのはスケジュールにもよります。
少し栄養面を気にしてみても良いかもしれません。
色々と試してみようかと思います。
その日の夜から体が軽くなるのは毎回実感できます。
背中のハリも、肩の固まりも取れる。
全身の重苦しさも有酸素運動をするとスッキリしますし。
首だけはジムの運動では動かす機会がないせいか
首のコリは残りやすいですが。
とはいえ、まあそれも肩と背中が楽になっていると
姿勢が回復するタイミングが早まるので
首の負担も徐々に減っていくようではありますから、
間接的には効果があると言えそうです。
しかし。
身体の疲労と、感覚器官レベルの負担とは別なのかもしれません。
明らかに体の重さはないのに、頭だけボーッとする感じ、
五感をシャットアウトしようとする感じは、
相変わらず翌日に表れています。
月曜日はなんとなくボーッとしながら一日が終わる気がします。
ずっと眠いような状態。
静かに動かずに内側に籠っていたい気分です。
そうもいかない事情があって外に出ていくことも多いので
余計にパフォーマンスが低い印象を味わってしまいます。
身体に残る負荷が減ったり
バランスの再調整がしやすくなったりしたとしても、
エネルギーを消費したことには違いがないみたいです。
あくまで回復がスムーズになったというだけなんでしょうか。
むしろ身体に表れる痛みが減った分
回復のプロセスに意識が集中しやすくなって、
身体を休めたい欲求、眠りたい感じ、何もしたくない気分が
自然と自覚されやすくなっているようにも思えます。
それがボーッとした感じや眠気、ヤル気のなさと
関係しているんじゃないか、と。
となると、あとはいかに効率的にエネルギーを回復するか。
睡眠や食べ物、瞑想ぐらいは工夫できそうですが、
睡眠時間を増やすのはスケジュールにもよります。
少し栄養面を気にしてみても良いかもしれません。
色々と試してみようかと思います。
2017年06月16日
5つの声質
ちょっと面白い動画を教えてもらいました。
声のトーンと、その影響・効果を説明しているものです。
プレゼンターはミュージシャンのようなので
声のトーンにはコダワリがあるんでしょう。
主観的な見解であって、学術的な背景があるわけではなさそうですが
直感的に多くの人が納得できそうな区別になっている気がします。
木・火・土・金・水の五行に対応させているのかと思いきや
木の代わりに空気(air)を使っています。
もうちょっと個人的な発想がベースなのかもしれませんし、
ネット情報によると「木の代わりに空気を使う場合もある」らしいので
それがベースなのかもしれません。
西洋の場合は、ギリシャの哲学で 4 elements(四元素)として
火・空気・水・土で考えた歴史があることを踏まえると
五行と四元素をミックスして、木の代わりに空気が入るのも
分からなくはないような気もします。
ともかく声質を、土、火、水、金、空気の5種類に分けて
それぞれの特徴を実演しながら説明しているわけです。
デモは動画の7分過ぎぐらいから始まります。
声のトーンだけでも聞いてみると面白いと思います。
彼女の説明を簡単にまとめると…、
土(地面・地球=earth)は、地に足がついた感じや権威的な雰囲気。
火(= fire)は、情熱やエネルギー。
水(= water)は、心と繋がったもの。
思いやりとか、主張とか、謝罪とか。
金(= metal)は、強調とか増幅。
聞き取りにくい状況で声を届かせるような効果。
空気(= air)は、インスピレーションを与えたり
物語を話したりするのに効果的。
ということだそうです。
確かに声を聴いてみると、納得できる印象を受けます。
もっと重要なのは、おそらく個人によって使う声質が定まっていて
こういう発想で使い分けることが少ないだろう
という部分かと感じました。
自分がどういう声を普段使っているのか、
それが状況や効果とマッチしているのか。
そのあたりのことを自覚して調整するには
こういう基準を想定しておくのも効果がありそうです。
声のトーンと、その影響・効果を説明しているものです。
プレゼンターはミュージシャンのようなので
声のトーンにはコダワリがあるんでしょう。
主観的な見解であって、学術的な背景があるわけではなさそうですが
直感的に多くの人が納得できそうな区別になっている気がします。
木・火・土・金・水の五行に対応させているのかと思いきや
木の代わりに空気(air)を使っています。
もうちょっと個人的な発想がベースなのかもしれませんし、
ネット情報によると「木の代わりに空気を使う場合もある」らしいので
それがベースなのかもしれません。
西洋の場合は、ギリシャの哲学で 4 elements(四元素)として
火・空気・水・土で考えた歴史があることを踏まえると
五行と四元素をミックスして、木の代わりに空気が入るのも
分からなくはないような気もします。
ともかく声質を、土、火、水、金、空気の5種類に分けて
それぞれの特徴を実演しながら説明しているわけです。
デモは動画の7分過ぎぐらいから始まります。
声のトーンだけでも聞いてみると面白いと思います。
彼女の説明を簡単にまとめると…、
土(地面・地球=earth)は、地に足がついた感じや権威的な雰囲気。
火(= fire)は、情熱やエネルギー。
水(= water)は、心と繋がったもの。
思いやりとか、主張とか、謝罪とか。
金(= metal)は、強調とか増幅。
聞き取りにくい状況で声を届かせるような効果。
空気(= air)は、インスピレーションを与えたり
物語を話したりするのに効果的。
ということだそうです。
確かに声を聴いてみると、納得できる印象を受けます。
もっと重要なのは、おそらく個人によって使う声質が定まっていて
こういう発想で使い分けることが少ないだろう
という部分かと感じました。
自分がどういう声を普段使っているのか、
それが状況や効果とマッチしているのか。
そのあたりのことを自覚して調整するには
こういう基準を想定しておくのも効果がありそうです。
2017年06月13日
イングリッシュオンリー
先日参加してきた暗唱の講座では、そのスクールの流儀として
常に英語を使わなければならない決まりがありました。
一般的な英会話のスクールであれば
レベルに応じてクラス分けがあったりしますが、
暗唱をする上では大きな違いがないのか
英語力をベースにしたグループ分けなどはありませんでした。
内容としても、主に課題となるスピーチの決められた部分を
インストラクターからフィードバックを受けつつ
繰り返し練習するだけですから、
それほど「英語しか使えない」ことは問題になりません。
時折、練習の進め方やお互いのフィードバックなどの際に
英語でやり取りをする必要が出てくるぐらい。
あとは休憩中の会話程度でしょうか。
そのスクールも普段の授業では、レベルに応じて
内容を変えたものを扱う機会があるようですが、
メインとなる授業ではレベル分けがないみたいです。
そういう状況での「日本語禁止、英語のみで過ごす」ルールですから
人によっては英語だけでやり取りするのが大変な場合もあるようです。
もちろん、そうして英語漬けにすることで
英語力の向上を早めようという趣旨なんだろうとは思います。
留学していれば当然、英語のみになるわけですから
集中して学習時間を確保するには効率的かもしれません。
英語力にかかわらず英語でコミュニケーションしようとすれば
必要な情報のやり取りのために、必死で話すようになります。
そして伝わるのに必要なパターンを早く習得できるでしょう。
もどかしい思いをしながら辛うじて伝わった表現があれば
それを覚えて次回はスムーズに伝えられるようになる。
あるいは、他の人の表現を聞いて、
それを採用できることもあるはずです。
現状の英語力の範囲内で、アウトプットするスムーズさは
英語のみの環境に身を置くことで上がっていくと考えられます。
一方で、日本人ばかりの環境での「英語のみ」ルールには
デメリットもあるように感じられてしまいました。
それは、ほぼ全ての人が英語学習者だということに起因しそうです。
当たり前の話かもしれませんが、英語関連の試験で
高得点を取ったり、上の級に合格したりする人の割合は
点数が高くなるほど少なくなってくると思われます。
上達してきた後にいつまでも通い続けないかもしれませんし、
英語力が上がってきたからこそ
留学など次の環境を目指す人もいるかもしれません。
元々、単純な統計として日本人の平均的な英語力は
それほど高くないとされている上に、
上達してきた人がスクールから去る可能性を考慮すると、
スクール内の英語力の分布を見ても
いわゆる”上級者”の割合は小さいだろうと推測されます。
大部分の人たちは聞いて理解する力においても
自分の考えを言葉にする力においても
もどかしさを感じている可能性が高そうなんです。
その中で英語のみのコミュニケーションをする。
それもレベル分けをせずに皆で協力して取り組むような授業となれば
”上級者”の人たちも簡単な話し方になるよう工夫することでしょう。
結果として、共通言語としてやりとりされる英語のレベルが
かなり簡単なものに収まりやすいようです。
ときに文法的に成立していなくても、意味が伝わればOK。
発音にしたって何を言いたいかが分かれば問題視されません。
特に日本人は「相手の意見を汲み取る」ことに慣れています。
誰かが上手く英語で言い表せないときには、
聞いている方が理解しようとして汲み取ってくれます。
カタカナ発音だったとしても、日本語のカタカナを知っていれば
日本人特有の発音の癖に合わせて単語を変換して聞き取れる。
すると、文章が多少おかしくても、発音が英語のものでなくても
意思疎通の手段としては成立してきてしまうわけです。
厳密な意味でネイティブが話す「英語」とは全く異質であっても、
日本語以外のコミュニケーション言語として
独自のルールをもったものに性質を変えていく可能性があります。
方言のようなものに近いでしょうか。
ラテン語のように同じルーツを持ちながらも
地域によって別の言語が生まれてきたのと似ていそうです。
元々英語が母国語ではなかった人たちが英語だけの会話を強制されると
独自の表現や発音をもった方言に変化していくのと同様に、
英語ネイティブがいない環境で英語学習者同士が
日本語禁止で会話を続けていくと独自のパターンができてくる。
それがネイティブに通じるのかどうか?という視点がないままに。
ここが厄介そうに感じたんです。
つまり結構な割合の人が、文法を気にせずに話してしまったり、
しっかりと話を組み立てて言葉にする前に
お互いの汲み取りで会話が成立してしまったりする。
暗唱の時には発音やリズムに気をつける人でさえ、
日本人同士の英会話となると急にカタカナ発音に戻ったりするんです。
それで通っていってしまうのは、
いずれ厄介なハードルになりそうな気がしました。
まぁ、英語学習だけが目的のスクールではなさそうでしたし、
その問題に直面した人は別の学習手段や環境を
探し始めるかもしれないので、構わないとも言えそうですが。
語学のトレーニング環境として色々と考えさせられる機会でした。
常に英語を使わなければならない決まりがありました。
一般的な英会話のスクールであれば
レベルに応じてクラス分けがあったりしますが、
暗唱をする上では大きな違いがないのか
英語力をベースにしたグループ分けなどはありませんでした。
内容としても、主に課題となるスピーチの決められた部分を
インストラクターからフィードバックを受けつつ
繰り返し練習するだけですから、
それほど「英語しか使えない」ことは問題になりません。
時折、練習の進め方やお互いのフィードバックなどの際に
英語でやり取りをする必要が出てくるぐらい。
あとは休憩中の会話程度でしょうか。
そのスクールも普段の授業では、レベルに応じて
内容を変えたものを扱う機会があるようですが、
メインとなる授業ではレベル分けがないみたいです。
そういう状況での「日本語禁止、英語のみで過ごす」ルールですから
人によっては英語だけでやり取りするのが大変な場合もあるようです。
もちろん、そうして英語漬けにすることで
英語力の向上を早めようという趣旨なんだろうとは思います。
留学していれば当然、英語のみになるわけですから
集中して学習時間を確保するには効率的かもしれません。
英語力にかかわらず英語でコミュニケーションしようとすれば
必要な情報のやり取りのために、必死で話すようになります。
そして伝わるのに必要なパターンを早く習得できるでしょう。
もどかしい思いをしながら辛うじて伝わった表現があれば
それを覚えて次回はスムーズに伝えられるようになる。
あるいは、他の人の表現を聞いて、
それを採用できることもあるはずです。
現状の英語力の範囲内で、アウトプットするスムーズさは
英語のみの環境に身を置くことで上がっていくと考えられます。
一方で、日本人ばかりの環境での「英語のみ」ルールには
デメリットもあるように感じられてしまいました。
それは、ほぼ全ての人が英語学習者だということに起因しそうです。
当たり前の話かもしれませんが、英語関連の試験で
高得点を取ったり、上の級に合格したりする人の割合は
点数が高くなるほど少なくなってくると思われます。
上達してきた後にいつまでも通い続けないかもしれませんし、
英語力が上がってきたからこそ
留学など次の環境を目指す人もいるかもしれません。
元々、単純な統計として日本人の平均的な英語力は
それほど高くないとされている上に、
上達してきた人がスクールから去る可能性を考慮すると、
スクール内の英語力の分布を見ても
いわゆる”上級者”の割合は小さいだろうと推測されます。
大部分の人たちは聞いて理解する力においても
自分の考えを言葉にする力においても
もどかしさを感じている可能性が高そうなんです。
その中で英語のみのコミュニケーションをする。
それもレベル分けをせずに皆で協力して取り組むような授業となれば
”上級者”の人たちも簡単な話し方になるよう工夫することでしょう。
結果として、共通言語としてやりとりされる英語のレベルが
かなり簡単なものに収まりやすいようです。
ときに文法的に成立していなくても、意味が伝わればOK。
発音にしたって何を言いたいかが分かれば問題視されません。
特に日本人は「相手の意見を汲み取る」ことに慣れています。
誰かが上手く英語で言い表せないときには、
聞いている方が理解しようとして汲み取ってくれます。
カタカナ発音だったとしても、日本語のカタカナを知っていれば
日本人特有の発音の癖に合わせて単語を変換して聞き取れる。
すると、文章が多少おかしくても、発音が英語のものでなくても
意思疎通の手段としては成立してきてしまうわけです。
厳密な意味でネイティブが話す「英語」とは全く異質であっても、
日本語以外のコミュニケーション言語として
独自のルールをもったものに性質を変えていく可能性があります。
方言のようなものに近いでしょうか。
ラテン語のように同じルーツを持ちながらも
地域によって別の言語が生まれてきたのと似ていそうです。
元々英語が母国語ではなかった人たちが英語だけの会話を強制されると
独自の表現や発音をもった方言に変化していくのと同様に、
英語ネイティブがいない環境で英語学習者同士が
日本語禁止で会話を続けていくと独自のパターンができてくる。
それがネイティブに通じるのかどうか?という視点がないままに。
ここが厄介そうに感じたんです。
つまり結構な割合の人が、文法を気にせずに話してしまったり、
しっかりと話を組み立てて言葉にする前に
お互いの汲み取りで会話が成立してしまったりする。
暗唱の時には発音やリズムに気をつける人でさえ、
日本人同士の英会話となると急にカタカナ発音に戻ったりするんです。
それで通っていってしまうのは、
いずれ厄介なハードルになりそうな気がしました。
まぁ、英語学習だけが目的のスクールではなさそうでしたし、
その問題に直面した人は別の学習手段や環境を
探し始めるかもしれないので、構わないとも言えそうですが。
語学のトレーニング環境として色々と考えさせられる機会でした。
2017年06月10日
朗唱トレーニング
スピーチの暗唱をするトレーニングの講座に行ってきました。
丸一日かけて、有名なスピーチの一部分を覚え、
言えるようにする内容です。
事前準備なしでも一日かけて少しずつ繰り返しながら覚えていけば
ある程度まとまりのある内容の範囲は覚えられるもののようです。
決して文面さえ覚えればいいというわけではなく
発音やイントネーション、リズムも含め
スピーチとして形になるようにするのが趣旨。
すると発音やリズム、抑揚など
英語のスピーキングに重要な要素を鍛えられるはずだ、と。
また、ある程度の長さのあるフレーズ単位や文章として覚えることで
スピーキングでもライティングでも、アウトプットの際に
自然と思い浮かぶストックとして蓄積していくこともできる。
そういうのが暗唱(朗唱)トレーニングの効果みたいです。
また、ネイティブがスピーチをしているときの発音を真似しますから
音の省略や弱化など、ネイティブが話すときの癖ごとインプットできて
「この単語の並びは、こういう音に聞こえる」というパターンが
自然と頭の中に残っていくことにもなります。
自分でも発音できるレベルで捉えた音の組み合わせなら
聞いた時にも認識がしやすくなって、
ネイティブの話も聞き取りやすくなると考えられます。
少なくとも、一度暗唱できるようにしたスピーチそのものなら
聞いたときに何を言っているかは文章として理解できるでしょう。
もちろん、そのスピーチ原稿を読むときには
暗唱しているときの声が頭に浮かぶのが一般的ですから、
一生懸命に単語を1つずつ追いかけなくても黙読できるはずです。
そうやって考えると、「話す、書く、聴く、読む」の4技能すべてに
効果がありそうなトレーニングだと考えられます。
真似できるように丁寧に取り組んでいる限り、
やったことが無駄になることはないんじゃないでしょうか。
あとはトレーニングの効率の問題。
やっただけ効果があるという意味では素晴らしいでしょうが、
他のトレーニングと比べたときに
かけた時間に対する効果の比率としてベストかは分かりません。
ただ、ネイティブの中でも英語力には差があるわけですから、
名演説と呼ばれるものを真似できるようにするのは
ほぼ上限なく英語をトレーニングできる素材だとは言えそうです。
やってみた印象としては、
おそらくかなり地味な効果が蓄積されるタイプのもので、
長く続けたあと、それもかなりの英語力がついてきた頃に
暗唱トレーニングした意味がジワジワと出始めるんじゃないか、
と感じています。
講座としては、その暗唱を使いながら
人前でスピーチをするトレーニングも一緒にやってしまおう
というコンセプトになっているようでした。
そうすると人前での度胸もつくし、
色々と自信を高めたり、仲間意識が生まれたり、と
大勢で取り組むメリットが出てくるんでしょう。
ただ個人的には、暗唱を人前でやっても
スピーチそのもののトレーニングにはなりにくそうに感じました。
一般的なスピーチやプレゼンと比べると
あまりにも頭の中で行われる作業が違うんです。
スピーチやプレゼンは自分で考えた内容を話します。
覚えたものを言うにせよ、その場で考えながら話すにせよ、
自分の中から自分の言葉として出てくる印象がある。
一方、暗唱の場合、自分の中を通っている感じがしないんです。
もちろん、素晴らしく感動的な内容の部分は
暗唱しながらでも感情レベルで動かされるものはあります。
ただしそれは、どちらかというと聞きながら感動するのに近い。
歌を聞いて感動する感じです。
もっと正確に言うと、口に出しながら感動するわけですから
心に響く歌を歌っているときに、
歌いながら感極まってくるような状態に近いはずです。
カラオケで歌詞を見ながら歌うのが朗読、
歌詞を覚えて歌うのが暗唱。
そういう関係じゃないでしょうか。
まさに僕が体験してみたときの印象は
歌っているときに近かったんです。
内容が理解できないわけじゃないし、
その内容に心が動かされないわけでもない。
でも自分が話すときとはプロセスが違い過ぎます。
プレゼンのように人前で話すトレーニングをするなら、
暗唱するよりも自分の言葉でやったほうが
効果がありそうに感じました。
繰り返しになりますが、暗唱そのものは
英語力を鍛えるトレーニングとして非常に有効だと思います。
全部を完全に再現できるところまでやらないにしても
文章単位で覚えて言えるようにするだけで
ボキャブラリーや表現の幅を広げていけそうです。
その目的では僕もやってみようかと思っています。
まぁ、フレーズのストックを増やしたり、
英語のリズムを覚えたりする目的であれば
洋楽を覚えても同じだろうとは思われますが。
違いは歌の場合、文法よりも意味が優先されるため
書き言葉や会話とは違った表現になってしまうケースがあったり、
スラングだらけで基礎的な表現を身につけにくかったり、
どの歌を利用するかの差が大きそうだ、ということろでしょうか。
逆に歌になっているとメロディーのおかげで
内容を覚えやすかったり、リズムが掴みやすかったりするのは
メリットになるほうでしょう。
ちなみに歌を覚えて歌うときと近いように感じたのは
講座中にステージの上で発表する場面で、でした。
小学校のときに通っていたピアノ教室の発表会や
中学校の時の全校での合唱コンクールのとき、
ステージの上で覚えたものを披露する場面がありました。
ピアノであれば曲を忘れてしまう状態、
合唱コンクールであれば歌詞を忘れてしまう状態。
いわゆる「飛ぶ」というヤツです。
ああいう感じと良く似ていました。
だからこそ、覚えたものを再現しているだけで
自分の中から出てきていない印象をハッキリ自覚したんです。
実際、かなり短い文章3つぐらいの担当だったのに
僕は見事に「飛んで」しまいました。
覚えたものをキッチリとやらなければいけない…
と考えていた分、緊張も感じていました。
緊張に関しては他の人の影響もあったでしょうが。
普段のセミナーでは緊張しません。
やらなければいけない正しい内容があるわけではないので
上手くやろうという発想が無いのが大きそうです。
また、その場その場で話すことが変わりますから
「飛んで」しまうといった失敗の種類もありません。
ですから、物凄く久しぶりに”失敗”を体験したわけです。
なかなか楽しいものですね。
新鮮な体験ができました。
僕が普段のセミナーでやっているのは対話であって
プレゼンではないと感じていますが、
プレゼンだったら緊張はしても「飛ぶ」ことはありません。
「これじゃないといけない」という正しい内容がないからです。
予定と違うことになっても、その場に応じて
自分の言葉で内容を組み立てる機会が多々あります。
「飛ぶ」経験をしたのは、そこでやっていたのが
対話でもプレゼンでもなく、
『パフォーマンス』だったからでしょう。
暗唱は、歌や楽器演奏、演劇のような
パフォーマンスの部類だと感じられた、という話です。
そう考えると、歌手とかミュージシャンとか舞台役者とか
よくも覚えたものをやり続けられるなぁ、と感心します。
僕はパフォーマンス好きではないようなので、
パフォーマンスとして人前で暗唱したいわけではないみたいです。
あくまで英語力を鍛えるトレーニングとして
取り組んでみようかとは思っているところですが。
丸一日かけて、有名なスピーチの一部分を覚え、
言えるようにする内容です。
事前準備なしでも一日かけて少しずつ繰り返しながら覚えていけば
ある程度まとまりのある内容の範囲は覚えられるもののようです。
決して文面さえ覚えればいいというわけではなく
発音やイントネーション、リズムも含め
スピーチとして形になるようにするのが趣旨。
すると発音やリズム、抑揚など
英語のスピーキングに重要な要素を鍛えられるはずだ、と。
また、ある程度の長さのあるフレーズ単位や文章として覚えることで
スピーキングでもライティングでも、アウトプットの際に
自然と思い浮かぶストックとして蓄積していくこともできる。
そういうのが暗唱(朗唱)トレーニングの効果みたいです。
また、ネイティブがスピーチをしているときの発音を真似しますから
音の省略や弱化など、ネイティブが話すときの癖ごとインプットできて
「この単語の並びは、こういう音に聞こえる」というパターンが
自然と頭の中に残っていくことにもなります。
自分でも発音できるレベルで捉えた音の組み合わせなら
聞いた時にも認識がしやすくなって、
ネイティブの話も聞き取りやすくなると考えられます。
少なくとも、一度暗唱できるようにしたスピーチそのものなら
聞いたときに何を言っているかは文章として理解できるでしょう。
もちろん、そのスピーチ原稿を読むときには
暗唱しているときの声が頭に浮かぶのが一般的ですから、
一生懸命に単語を1つずつ追いかけなくても黙読できるはずです。
そうやって考えると、「話す、書く、聴く、読む」の4技能すべてに
効果がありそうなトレーニングだと考えられます。
真似できるように丁寧に取り組んでいる限り、
やったことが無駄になることはないんじゃないでしょうか。
あとはトレーニングの効率の問題。
やっただけ効果があるという意味では素晴らしいでしょうが、
他のトレーニングと比べたときに
かけた時間に対する効果の比率としてベストかは分かりません。
ただ、ネイティブの中でも英語力には差があるわけですから、
名演説と呼ばれるものを真似できるようにするのは
ほぼ上限なく英語をトレーニングできる素材だとは言えそうです。
やってみた印象としては、
おそらくかなり地味な効果が蓄積されるタイプのもので、
長く続けたあと、それもかなりの英語力がついてきた頃に
暗唱トレーニングした意味がジワジワと出始めるんじゃないか、
と感じています。
講座としては、その暗唱を使いながら
人前でスピーチをするトレーニングも一緒にやってしまおう
というコンセプトになっているようでした。
そうすると人前での度胸もつくし、
色々と自信を高めたり、仲間意識が生まれたり、と
大勢で取り組むメリットが出てくるんでしょう。
ただ個人的には、暗唱を人前でやっても
スピーチそのもののトレーニングにはなりにくそうに感じました。
一般的なスピーチやプレゼンと比べると
あまりにも頭の中で行われる作業が違うんです。
スピーチやプレゼンは自分で考えた内容を話します。
覚えたものを言うにせよ、その場で考えながら話すにせよ、
自分の中から自分の言葉として出てくる印象がある。
一方、暗唱の場合、自分の中を通っている感じがしないんです。
もちろん、素晴らしく感動的な内容の部分は
暗唱しながらでも感情レベルで動かされるものはあります。
ただしそれは、どちらかというと聞きながら感動するのに近い。
歌を聞いて感動する感じです。
もっと正確に言うと、口に出しながら感動するわけですから
心に響く歌を歌っているときに、
歌いながら感極まってくるような状態に近いはずです。
カラオケで歌詞を見ながら歌うのが朗読、
歌詞を覚えて歌うのが暗唱。
そういう関係じゃないでしょうか。
まさに僕が体験してみたときの印象は
歌っているときに近かったんです。
内容が理解できないわけじゃないし、
その内容に心が動かされないわけでもない。
でも自分が話すときとはプロセスが違い過ぎます。
プレゼンのように人前で話すトレーニングをするなら、
暗唱するよりも自分の言葉でやったほうが
効果がありそうに感じました。
繰り返しになりますが、暗唱そのものは
英語力を鍛えるトレーニングとして非常に有効だと思います。
全部を完全に再現できるところまでやらないにしても
文章単位で覚えて言えるようにするだけで
ボキャブラリーや表現の幅を広げていけそうです。
その目的では僕もやってみようかと思っています。
まぁ、フレーズのストックを増やしたり、
英語のリズムを覚えたりする目的であれば
洋楽を覚えても同じだろうとは思われますが。
違いは歌の場合、文法よりも意味が優先されるため
書き言葉や会話とは違った表現になってしまうケースがあったり、
スラングだらけで基礎的な表現を身につけにくかったり、
どの歌を利用するかの差が大きそうだ、ということろでしょうか。
逆に歌になっているとメロディーのおかげで
内容を覚えやすかったり、リズムが掴みやすかったりするのは
メリットになるほうでしょう。
ちなみに歌を覚えて歌うときと近いように感じたのは
講座中にステージの上で発表する場面で、でした。
小学校のときに通っていたピアノ教室の発表会や
中学校の時の全校での合唱コンクールのとき、
ステージの上で覚えたものを披露する場面がありました。
ピアノであれば曲を忘れてしまう状態、
合唱コンクールであれば歌詞を忘れてしまう状態。
いわゆる「飛ぶ」というヤツです。
ああいう感じと良く似ていました。
だからこそ、覚えたものを再現しているだけで
自分の中から出てきていない印象をハッキリ自覚したんです。
実際、かなり短い文章3つぐらいの担当だったのに
僕は見事に「飛んで」しまいました。
覚えたものをキッチリとやらなければいけない…
と考えていた分、緊張も感じていました。
緊張に関しては他の人の影響もあったでしょうが。
普段のセミナーでは緊張しません。
やらなければいけない正しい内容があるわけではないので
上手くやろうという発想が無いのが大きそうです。
また、その場その場で話すことが変わりますから
「飛んで」しまうといった失敗の種類もありません。
ですから、物凄く久しぶりに”失敗”を体験したわけです。
なかなか楽しいものですね。
新鮮な体験ができました。
僕が普段のセミナーでやっているのは対話であって
プレゼンではないと感じていますが、
プレゼンだったら緊張はしても「飛ぶ」ことはありません。
「これじゃないといけない」という正しい内容がないからです。
予定と違うことになっても、その場に応じて
自分の言葉で内容を組み立てる機会が多々あります。
「飛ぶ」経験をしたのは、そこでやっていたのが
対話でもプレゼンでもなく、
『パフォーマンス』だったからでしょう。
暗唱は、歌や楽器演奏、演劇のような
パフォーマンスの部類だと感じられた、という話です。
そう考えると、歌手とかミュージシャンとか舞台役者とか
よくも覚えたものをやり続けられるなぁ、と感心します。
僕はパフォーマンス好きではないようなので、
パフォーマンスとして人前で暗唱したいわけではないみたいです。
あくまで英語力を鍛えるトレーニングとして
取り組んでみようかとは思っているところですが。
2017年06月07日
体力の変化
振り返ってみると、セミナーのスケジュール的に
最も忙しかったのは8年前ぐらいだった気がします。
週に4日、終日のワークショップが入っていて
東京、名古屋、大阪を行ったり来たり。
平日にも出張があったものです。
そのうえで、週に一度ぐらい3時間程度のセミナーもありました。
10時から18時までやった後、19時から22時までとか
あるいは夕方からだけの日とか。
会社員の時は週5日が当然でしたし、
実験の都合で週末に出勤することも当然。
朝も夜も関係なく実験のスケジュールを組んでいたものです。
にもかかわらず疲労度でいえばセミナーのほうが負担は大きい。
8年前ぐらいは腰痛ベルトを巻きながらセミナーをしていました。
それでも、そのスケジュールで何とかこなせていたんです。
今と比べるとパフォーマンスは低かったかもしれませんが…。
乗り切っていた1つの理由として、
ときどき休憩をしていた部分はあると思います。
休憩時間はちゃんと休憩していました。
昼休みもあえて食事に出ていかず、休養を優先したことも。
実習の時間に気を抜いていたこともあったはずです。
今は休憩時間も質問に答えたりしますし、
実習中も意識を配り続けていますから
休憩という自覚はなくなっています。
そしておそらく、以前のほうが鈍感だったというのはありそうです。
自覚できていなかったから騙し騙し続けられた、と。
最近は身体のケアをするようになったことと
意識に上がる範囲が広がってきたこととで
身体への負担に気づきやすくなっていると感じられます。
仮に8年まえのスケジュールのままだったとしたら
どこかで無理が来ていた可能性も否定できなそうです。
そしてもう1つ。
あまり気にしていなかったことですが、
単純に加齢に伴う体力低下があるんじゃないかと思えてきました。
8年まえのほうが体力があった、と。
筋力にしても持久力にしても、心肺機能にしても代謝の効率にしても
年齢を重ねるうちに衰えてきていたような気がします。
いつの頃からか駅の階段を駆け上がった後の息切れが
気になるようになってきていました。
当然、疲労回復のスピードも違ったことでしょう。
普段から全く運動をしないままに過ごしてきていましたから
知らず知らずのうちに体力が全般に衰えていっていたようです。
これを実感したのは最近のこと。
ジムに通うようになって1月ほどですが、
セミナー後の疲労感や回復速度に違いが出てきている印象なんです。
セミナーから帰ってきてから運動をするのも効果を感じますが、
それとは別に、セミナー終了直後での疲労度合いに違いがある。
少し身体への負担が減っているような感じというか、
多少の体力が残っている感じというか。
体力がついてきたことで楽に感じられているようにも思えるんです。
裏を返すと、以前のほうが体力があった可能性がある
ということにもなります。
それが年を重ねるにつれて落ちていっていた。
8年前に今よりもハードなスケジュールをこなせていた理由の1つに
そもそも体力があったから
という部分もあるような気がしてきたわけです。
セミナーの仕事は肉体労働の側面があるように感じます。
プロ野球のピッチャーみたいなイメージです。
「中4日の休養でローテーション」といったような。
実働の日数だけでいえば少なくても
完全休養日がないと成立しない点では
体を休めたりケアしたりするのも重要な要素かもしれません。
そこにもう1つ、体力強化の要素が加わると
今までよりもスムーズに進められそうに思えてきました。
シーズンオフにキャンプをするまではしなくても
体力をつけておくことで乗り切れるものがありそうです。
やっと運動の重要性を実感できてきたみたいです。
最も忙しかったのは8年前ぐらいだった気がします。
週に4日、終日のワークショップが入っていて
東京、名古屋、大阪を行ったり来たり。
平日にも出張があったものです。
そのうえで、週に一度ぐらい3時間程度のセミナーもありました。
10時から18時までやった後、19時から22時までとか
あるいは夕方からだけの日とか。
会社員の時は週5日が当然でしたし、
実験の都合で週末に出勤することも当然。
朝も夜も関係なく実験のスケジュールを組んでいたものです。
にもかかわらず疲労度でいえばセミナーのほうが負担は大きい。
8年前ぐらいは腰痛ベルトを巻きながらセミナーをしていました。
それでも、そのスケジュールで何とかこなせていたんです。
今と比べるとパフォーマンスは低かったかもしれませんが…。
乗り切っていた1つの理由として、
ときどき休憩をしていた部分はあると思います。
休憩時間はちゃんと休憩していました。
昼休みもあえて食事に出ていかず、休養を優先したことも。
実習の時間に気を抜いていたこともあったはずです。
今は休憩時間も質問に答えたりしますし、
実習中も意識を配り続けていますから
休憩という自覚はなくなっています。
そしておそらく、以前のほうが鈍感だったというのはありそうです。
自覚できていなかったから騙し騙し続けられた、と。
最近は身体のケアをするようになったことと
意識に上がる範囲が広がってきたこととで
身体への負担に気づきやすくなっていると感じられます。
仮に8年まえのスケジュールのままだったとしたら
どこかで無理が来ていた可能性も否定できなそうです。
そしてもう1つ。
あまり気にしていなかったことですが、
単純に加齢に伴う体力低下があるんじゃないかと思えてきました。
8年まえのほうが体力があった、と。
筋力にしても持久力にしても、心肺機能にしても代謝の効率にしても
年齢を重ねるうちに衰えてきていたような気がします。
いつの頃からか駅の階段を駆け上がった後の息切れが
気になるようになってきていました。
当然、疲労回復のスピードも違ったことでしょう。
普段から全く運動をしないままに過ごしてきていましたから
知らず知らずのうちに体力が全般に衰えていっていたようです。
これを実感したのは最近のこと。
ジムに通うようになって1月ほどですが、
セミナー後の疲労感や回復速度に違いが出てきている印象なんです。
セミナーから帰ってきてから運動をするのも効果を感じますが、
それとは別に、セミナー終了直後での疲労度合いに違いがある。
少し身体への負担が減っているような感じというか、
多少の体力が残っている感じというか。
体力がついてきたことで楽に感じられているようにも思えるんです。
裏を返すと、以前のほうが体力があった可能性がある
ということにもなります。
それが年を重ねるにつれて落ちていっていた。
8年前に今よりもハードなスケジュールをこなせていた理由の1つに
そもそも体力があったから
という部分もあるような気がしてきたわけです。
セミナーの仕事は肉体労働の側面があるように感じます。
プロ野球のピッチャーみたいなイメージです。
「中4日の休養でローテーション」といったような。
実働の日数だけでいえば少なくても
完全休養日がないと成立しない点では
体を休めたりケアしたりするのも重要な要素かもしれません。
そこにもう1つ、体力強化の要素が加わると
今までよりもスムーズに進められそうに思えてきました。
シーズンオフにキャンプをするまではしなくても
体力をつけておくことで乗り切れるものがありそうです。
やっと運動の重要性を実感できてきたみたいです。
2017年06月04日
疲労回復効果
札幌出張に行ってきました。
気温が随分と違います。
東京と比べると10度ぐらい低そうな感じです。
たまたま今週末は特に気温が低かったそうで
札幌在住の方も寒がっていましたから
気温の変化に体が追い付かないような印象でした。
まぁ僕は、それでも暑いより快適に感じるんですが。
今回は、アメリカで座禅をしてきてから初めての2日間のセミナー。
今までに何度もやってきた内容ではあります。
ただ自分の意識の範囲が大きく変わっていたようで
様々な違いを感じていました。
中でも大きいのは自分の体への意識が高まったことでしょうか。
今までは受講生に対する意識が非常に高く
自分の体のほうは意識から外れるようなところがあった気がします。
身体を放ったらかしにするわけではなかったものの
気を配る優先度を受講生寄りに大きく傾けていた感じです。
そのため体の疲労を意識するのは少なかったんです。
終わってからドッと痛みを感じ始めるような流れでした。
それが今回は講座の最中から体の具合にも気づくようになっていました。
その分、痛みが意識に上がる度合いが大きくなった反面、
こまめに姿勢を整えたり、ストレッチしたりしていた気がします。
講座中にやることが何か変わったわけではないので
もちろん肉体への影響の度合いそのものは相変わらずです。
視覚と聴覚を最大限に使おうとする感じから
三叉神経まわりに負担がかかっているのが実感されますし、
肩と首の固まりも強くなります。
しかし、回復は早かったような気もします。
飛行機に乗っている間には痛みで唸るようなときがあっても
降りてからはそれなりに楽に戻っていた感じでしょうか。
こまめに調整していた効果もあるかもしれません。
それ以上に大きそうなのは、
ジムに通い始めた効果のようにも思えます。
今までは呼吸がしずらくなって
口呼吸でハァハァ言いながら帰ってきていたものでした。
それが減っていました。
運動の効果で、呼吸に使う肋間筋や背中回りが
動きやすくなっていたんじゃないかと思います。
そして帰ってからジムに行きました。
肩と背中回りの運動をすると固まっていたのがほぐれて
姿勢が良くなるのが感じられました。
それからエアロバイクで有酸素運動。
やり始めは足が重くて少し普段より大変でした。
ところが10分もしないうちに足が軽くなってきて
あとはスムーズに運動を続けられたんです。
この足の重さこそが体にかかっていた負荷の部分なのかもしれません。
全身が酸欠に近い感じになっていて重苦しい状態。
以前までは、それが翌日に痛みや重さとして表れていたのでしょう。
それが有酸素運動をしてしまうと全身がスッキリしてきて
身体にエネルギーが戻ってくるような印象がありました。
セミナーのない日に運動をした後と同じような状態になりました。
ほとんどセミナーの影響を感じないぐらいだったわけです。
この疲労回復効果は非常に大きそうです。
とても重要な生活サイクルになる予感。
あとは動かしきれていない首回りについて
ストレッチの必要性はありそうなんですが。
上手く体をケアしながらやっていきたいものだと思います。
ちなみに、こちらの写真は
今回札幌で宿泊したホテルの部屋。
家族用の広い部屋をあてがってもらえました。
安いホテルが見つからず、直前に見つかったプランだったので
おそらく予約が埋まらなかった空き部屋を
ギリギリのタイミングで安く提供してくれたんでしょう。
ちょっとだけラグジュアリーな気分を堪能できました。
気温が随分と違います。
東京と比べると10度ぐらい低そうな感じです。
たまたま今週末は特に気温が低かったそうで
札幌在住の方も寒がっていましたから
気温の変化に体が追い付かないような印象でした。
まぁ僕は、それでも暑いより快適に感じるんですが。
今回は、アメリカで座禅をしてきてから初めての2日間のセミナー。
今までに何度もやってきた内容ではあります。
ただ自分の意識の範囲が大きく変わっていたようで
様々な違いを感じていました。
中でも大きいのは自分の体への意識が高まったことでしょうか。
今までは受講生に対する意識が非常に高く
自分の体のほうは意識から外れるようなところがあった気がします。
身体を放ったらかしにするわけではなかったものの
気を配る優先度を受講生寄りに大きく傾けていた感じです。
そのため体の疲労を意識するのは少なかったんです。
終わってからドッと痛みを感じ始めるような流れでした。
それが今回は講座の最中から体の具合にも気づくようになっていました。
その分、痛みが意識に上がる度合いが大きくなった反面、
こまめに姿勢を整えたり、ストレッチしたりしていた気がします。
講座中にやることが何か変わったわけではないので
もちろん肉体への影響の度合いそのものは相変わらずです。
視覚と聴覚を最大限に使おうとする感じから
三叉神経まわりに負担がかかっているのが実感されますし、
肩と首の固まりも強くなります。
しかし、回復は早かったような気もします。
飛行機に乗っている間には痛みで唸るようなときがあっても
降りてからはそれなりに楽に戻っていた感じでしょうか。
こまめに調整していた効果もあるかもしれません。
それ以上に大きそうなのは、
ジムに通い始めた効果のようにも思えます。
今までは呼吸がしずらくなって
口呼吸でハァハァ言いながら帰ってきていたものでした。
それが減っていました。
運動の効果で、呼吸に使う肋間筋や背中回りが
動きやすくなっていたんじゃないかと思います。
そして帰ってからジムに行きました。
肩と背中回りの運動をすると固まっていたのがほぐれて
姿勢が良くなるのが感じられました。
それからエアロバイクで有酸素運動。
やり始めは足が重くて少し普段より大変でした。
ところが10分もしないうちに足が軽くなってきて
あとはスムーズに運動を続けられたんです。
この足の重さこそが体にかかっていた負荷の部分なのかもしれません。
全身が酸欠に近い感じになっていて重苦しい状態。
以前までは、それが翌日に痛みや重さとして表れていたのでしょう。
それが有酸素運動をしてしまうと全身がスッキリしてきて
身体にエネルギーが戻ってくるような印象がありました。
セミナーのない日に運動をした後と同じような状態になりました。
ほとんどセミナーの影響を感じないぐらいだったわけです。
この疲労回復効果は非常に大きそうです。
とても重要な生活サイクルになる予感。
あとは動かしきれていない首回りについて
ストレッチの必要性はありそうなんですが。
上手く体をケアしながらやっていきたいものだと思います。
ちなみに、こちらの写真は
今回札幌で宿泊したホテルの部屋。
家族用の広い部屋をあてがってもらえました。
安いホテルが見つからず、直前に見つかったプランだったので
おそらく予約が埋まらなかった空き部屋を
ギリギリのタイミングで安く提供してくれたんでしょう。
ちょっとだけラグジュアリーな気分を堪能できました。