2017年12月
2017年12月31日
年の瀬
2017年もお世話になりました。
NLPを始めたのが2005年の秋だったので
干支にして丸一周分の期間が経ったことになります。
また会社を辞めてフリーになったのが2007年の5月でしたから
今年で丸10年、セミナー関連の仕事をしてきたことになります。
思えば、会社を辞めた直後、ビックカメラで
Suicaのオートチャージ付きのポイントカードを作ろうとして
審査が通らなかったことがありました。
会社の後ろ盾が世間的にどれだけ有効なのか思い知ったと同時に
フリーランスの信用の無さを少し実感したときでもありました。
それが今年、昨年から海外に行く機会が出てきたことで
マイルを貯めようと思い始めたとき、
無事にクレジットカードの審査を通ることができたのは
それなりに維持してきた実績なのかとも感じたものです。
個人的には、そういう安定性に関しては興味もありませんし、
むしろ安泰な将来が期待できる職種を信じていないほうだと思いますが、
単純に過去の嫌な思い出として
「もしかしたら審査に通らないかも…」
と心配な気持ちが沸いたのも事実です。
振り返ると、それなりにやってきたのだなぁと懐かしさも感じます。
内面的にも追い求めていた感じに一区切りがついて
気持ち的にはノンビリとしたスタンスで
予測不可能な未来を待てるようになった気がします。
予想もしていなかった展開があったりするのも、なかなか面白いものですね。
2018年に何が起きるのかは見当もつきませんし、
とりたてて何かの目標があるわけでもありませんが、
なんだかバタバタとスケジュールは立て込み始めています。
合間をぬって、語学ぐらいは続けるつもりです。
せっかくなのでロシア語は文法を中心に勉強を続けて、
フランス語は流暢さを上げるためのトレーニングを、
気が向いたらスペイン語も復習してみたい気もします。
おぼろげには、場所としての活動の範囲が広がったら楽しそうだなぁ
とは思い描いているところですので。
語学の勉強会なんかもやってみようかと思ったりしています。
NLPを始めたのが2005年の秋だったので
干支にして丸一周分の期間が経ったことになります。
また会社を辞めてフリーになったのが2007年の5月でしたから
今年で丸10年、セミナー関連の仕事をしてきたことになります。
思えば、会社を辞めた直後、ビックカメラで
Suicaのオートチャージ付きのポイントカードを作ろうとして
審査が通らなかったことがありました。
会社の後ろ盾が世間的にどれだけ有効なのか思い知ったと同時に
フリーランスの信用の無さを少し実感したときでもありました。
それが今年、昨年から海外に行く機会が出てきたことで
マイルを貯めようと思い始めたとき、
無事にクレジットカードの審査を通ることができたのは
それなりに維持してきた実績なのかとも感じたものです。
個人的には、そういう安定性に関しては興味もありませんし、
むしろ安泰な将来が期待できる職種を信じていないほうだと思いますが、
単純に過去の嫌な思い出として
「もしかしたら審査に通らないかも…」
と心配な気持ちが沸いたのも事実です。
振り返ると、それなりにやってきたのだなぁと懐かしさも感じます。
内面的にも追い求めていた感じに一区切りがついて
気持ち的にはノンビリとしたスタンスで
予測不可能な未来を待てるようになった気がします。
予想もしていなかった展開があったりするのも、なかなか面白いものですね。
2018年に何が起きるのかは見当もつきませんし、
とりたてて何かの目標があるわけでもありませんが、
なんだかバタバタとスケジュールは立て込み始めています。
合間をぬって、語学ぐらいは続けるつもりです。
せっかくなのでロシア語は文法を中心に勉強を続けて、
フランス語は流暢さを上げるためのトレーニングを、
気が向いたらスペイン語も復習してみたい気もします。
おぼろげには、場所としての活動の範囲が広がったら楽しそうだなぁ
とは思い描いているところですので。
語学の勉強会なんかもやってみようかと思ったりしています。
2017年12月28日
鹿児島出張
仕事を兼ねて鹿児島に3日間行ってきました。
今までに2,3回、鹿児島には行ったことがありますが
いずれも10年ぐらい前のことだったと思います。
鹿児島中央駅の近辺から、その繁華街である天文館という地域まで
ウロウロしたぐらいだったでしょうか。
なにやら公園のようなところにも行った気がするものの
メインはセミナーだったので大した観光はしていませんでした。
それでも夕飯で入った店は価格帯に関わらず
どこも美味しかったのを覚えています。
魚が美味しく、醤油も関東と違った甘目の味で
これもまた好みに合いました。
そして今回、魚を食べる機会は少なくて(くら寿司だけ)
むしろ肉の美味しさに感動してきました。
黒豚が有名なだけでなく、地鶏や牛肉も
育て方が良いのか、とても美味しかったです。
今回の仕事で滞在したのは、鹿児島市内ではなく霧島市。
桜島は見える位置でも、風向きの関係で火山灰は来ないそうです。
おかげで空気がとても澄んでいて、
高いビルも少ないために見晴らしが良いところでした。
鹿児島の平野部は、かなりフラットな感じに見えます。
すぐに山が表れるのに、平野部分も広いような印象です。
関東や関西の平野と比べると小さい平野なんだと思いますが
山に囲まれている雰囲気はなくて、むしろ広々して見えました。
建物も密集しているわけではないので
アメリカを連想させるような景色でした。
田舎という感じもなく、むしろ
街が狭い地域に密集せずに広がっているような感じかもしれません。
やはり地域差というものが色々とあるんでしょう。
山口に住んでいたときに見かけていたファミレスの「Joyful」など
東京では見かけない懐かしい店なんかもあって
チョット感慨深いものがありました。
思い返してみると、僕が訪れたことのあるところは
日本国内でも極めて限られています。
観光そのものは好きではないけれど
各地の雰囲気や傾向を知るために行ってみるのは
意外と楽しいものなのかもしれません。
今回の鹿児島滞在で行った唯一の観光は
朝の神社巡りでした。
知る人ぞ知る神社だったそうです。
朝早起きして、車で連れて行ってもらいました。
少し山の中にあるため、かなり冷え込んでいましたが
その分、空気の静けさや奇麗さが実感できた気がします。
朝焼けから日の出まで、とても美しい景色も見られましたし。
神社を作る人たちは、神秘的な景色が見られて、かつ
木々の清々しさに囲まれたような場所を選ぶのかもしれません。
神社好きな人たちの気持ちが少し感じられたような気もしています。
(写真は神社の鳥居の手前から見られた池を見下ろす景色。
朝焼けの赤は実際、もっと赤々としていました。)
今までに2,3回、鹿児島には行ったことがありますが
いずれも10年ぐらい前のことだったと思います。
鹿児島中央駅の近辺から、その繁華街である天文館という地域まで
ウロウロしたぐらいだったでしょうか。
なにやら公園のようなところにも行った気がするものの
メインはセミナーだったので大した観光はしていませんでした。
それでも夕飯で入った店は価格帯に関わらず
どこも美味しかったのを覚えています。
魚が美味しく、醤油も関東と違った甘目の味で
これもまた好みに合いました。
そして今回、魚を食べる機会は少なくて(くら寿司だけ)
むしろ肉の美味しさに感動してきました。
黒豚が有名なだけでなく、地鶏や牛肉も
育て方が良いのか、とても美味しかったです。
今回の仕事で滞在したのは、鹿児島市内ではなく霧島市。
桜島は見える位置でも、風向きの関係で火山灰は来ないそうです。
おかげで空気がとても澄んでいて、
高いビルも少ないために見晴らしが良いところでした。
鹿児島の平野部は、かなりフラットな感じに見えます。
すぐに山が表れるのに、平野部分も広いような印象です。
関東や関西の平野と比べると小さい平野なんだと思いますが
山に囲まれている雰囲気はなくて、むしろ広々して見えました。
建物も密集しているわけではないので
アメリカを連想させるような景色でした。
田舎という感じもなく、むしろ
街が狭い地域に密集せずに広がっているような感じかもしれません。
やはり地域差というものが色々とあるんでしょう。
山口に住んでいたときに見かけていたファミレスの「Joyful」など
東京では見かけない懐かしい店なんかもあって
チョット感慨深いものがありました。
思い返してみると、僕が訪れたことのあるところは
日本国内でも極めて限られています。
観光そのものは好きではないけれど
各地の雰囲気や傾向を知るために行ってみるのは
意外と楽しいものなのかもしれません。
今回の鹿児島滞在で行った唯一の観光は
朝の神社巡りでした。
知る人ぞ知る神社だったそうです。
朝早起きして、車で連れて行ってもらいました。
少し山の中にあるため、かなり冷え込んでいましたが
その分、空気の静けさや奇麗さが実感できた気がします。
朝焼けから日の出まで、とても美しい景色も見られましたし。
神社を作る人たちは、神秘的な景色が見られて、かつ
木々の清々しさに囲まれたような場所を選ぶのかもしれません。
神社好きな人たちの気持ちが少し感じられたような気もしています。
(写真は神社の鳥居の手前から見られた池を見下ろす景色。
朝焼けの赤は実際、もっと赤々としていました。)
2017年12月25日
ホワイトクリスマス
今年はクリスマスのタイミングで知人を訪問しました。
メインの目的は、その人が飼っている犬に会うことですが。
この写真の犬です。
皆でドッグカフェ(屋内)に行ったときの一枚。
グレートピレニーズという種類で、
体重は45kgぐらいじゃないかと思います。
メスなので少し小さめ。
オスだと60kgぐらいにまでなる犬種です。
ラブラドールやシェパードのように
人間の仕事の手伝いをする種類ではありませんから、
一般にはそれほど賢いとはされていません。
が、この犬はとても穏やかで賢かったです。
マイペースな部分もあるとはいえ
気遣いの部分が大きいように見えました。
この写真のときは、もう一匹のヤンチャな若い犬が
暴れまくっていて飼い主の手を煩わせている最中。
そのヤンチャなほうを大人しくさせるために
遊んであげたりオヤツをあげたりしているところ。
その様子を羨ましそうに眺めた後、
「こっちにはオヤツないの?」
とでも言わんばかりの表情に見えました。
それでも欲しがりはしないし、
飼い主のほうに行こうともしません。
ジッと待つ。
たまにオヤツを貰えていましたし。
犬でもやはり個体差は大きいように感じました。
もちろん年齢的に落ち着きが出てくるとかもありますし
小型のほうがチョコマカした動きが増え、
大型犬のほうが、ゆったりした雰囲気も多い傾向はあるようです。
ただ、それ以上にも個体差があるんじゃないか、と。
この犬はトレーニングに出して躾を受けたそうですが、
もう一匹のヤンチャなほうも同じ訓練をしたらしいので
躾をすれば皆が同じように振る舞うわけではないはずです。
この犬が、個性として、すごく温厚で
周りに気を遣いながら行動するんだろうと思われます。
決して物凄く知的で賢いわけではないのでしょうが
(もっと知的な印象の犬も見たことがあります)
持っている賢さを温厚な気配りに費やしている感じかもしれません。
とても健気な犬だと感じました。
そしてそういう個性、リズムなどがある以上、
人間との関係性・ラポールにおいても相性があるようです。
僕はこっちの白い大型犬については
自分からペースを合わせる必要はありませんでしたが、
もう一匹のヤンチャなほう(オス)には
少しスピードを上げて力強く振る舞うことで
ペースが合うような印象を受けました。
「犬は飼い主に似る」なんて言葉もありますが
ラポールや同調、ペーシングといった観点で考えてみても
人間と犬の関係性は説明できそうな気がします。
ちなみに僕が1つ後悔しているのは、帰りがけに
この犬が一人で脱走していたのを見つけたときのこと。
皆で犬小屋を見学しながら会話をしていたとき
玄関が空いていたせいもあって、
この犬が脱走して向かいの公園のほうに行っていたんです。
たまたま玄関に一番近いところにいた僕が
犬がいなくなっていることに気づき、
外を見に行って公園に大きな白い犬影を発見しました。
「脱走」とはいっても、ただ佇んでいるだけ。
逃げている感じではありません。
僕は咄嗟に、常識で判断して
すぐにその犬を連れて帰りました。
呼んでも来ないので首輪を掴んで連れてくるだけですが。
距離にしたって道一本隔てるぐらいですから数メートルでしょう。
なんとなく寂しそうな雰囲気ではあったんです。
呼んでも来ないところを踏まえても、もしかすると
自分なりの気晴らしだったのかもしれない、と今にして思います。
一日中、気を遣い、もう一匹のヤンチャぶりに付き合わされ、
我慢することが多かったのかなぁ、と。
人間に言われたことを守り、ちゃんと振る舞った一日だったとしたら
少しぐらい気晴らしとして自由な時間が欲しかったのかもしれません。
2,3分でも、外で自由に遊ばせてあげたら良かった気がしています。
犬でも心の動きは人間と共通しているところがあるでしょうから。
メインの目的は、その人が飼っている犬に会うことですが。
この写真の犬です。
皆でドッグカフェ(屋内)に行ったときの一枚。
グレートピレニーズという種類で、
体重は45kgぐらいじゃないかと思います。
メスなので少し小さめ。
オスだと60kgぐらいにまでなる犬種です。
ラブラドールやシェパードのように
人間の仕事の手伝いをする種類ではありませんから、
一般にはそれほど賢いとはされていません。
が、この犬はとても穏やかで賢かったです。
マイペースな部分もあるとはいえ
気遣いの部分が大きいように見えました。
この写真のときは、もう一匹のヤンチャな若い犬が
暴れまくっていて飼い主の手を煩わせている最中。
そのヤンチャなほうを大人しくさせるために
遊んであげたりオヤツをあげたりしているところ。
その様子を羨ましそうに眺めた後、
「こっちにはオヤツないの?」
とでも言わんばかりの表情に見えました。
それでも欲しがりはしないし、
飼い主のほうに行こうともしません。
ジッと待つ。
たまにオヤツを貰えていましたし。
犬でもやはり個体差は大きいように感じました。
もちろん年齢的に落ち着きが出てくるとかもありますし
小型のほうがチョコマカした動きが増え、
大型犬のほうが、ゆったりした雰囲気も多い傾向はあるようです。
ただ、それ以上にも個体差があるんじゃないか、と。
この犬はトレーニングに出して躾を受けたそうですが、
もう一匹のヤンチャなほうも同じ訓練をしたらしいので
躾をすれば皆が同じように振る舞うわけではないはずです。
この犬が、個性として、すごく温厚で
周りに気を遣いながら行動するんだろうと思われます。
決して物凄く知的で賢いわけではないのでしょうが
(もっと知的な印象の犬も見たことがあります)
持っている賢さを温厚な気配りに費やしている感じかもしれません。
とても健気な犬だと感じました。
そしてそういう個性、リズムなどがある以上、
人間との関係性・ラポールにおいても相性があるようです。
僕はこっちの白い大型犬については
自分からペースを合わせる必要はありませんでしたが、
もう一匹のヤンチャなほう(オス)には
少しスピードを上げて力強く振る舞うことで
ペースが合うような印象を受けました。
「犬は飼い主に似る」なんて言葉もありますが
ラポールや同調、ペーシングといった観点で考えてみても
人間と犬の関係性は説明できそうな気がします。
ちなみに僕が1つ後悔しているのは、帰りがけに
この犬が一人で脱走していたのを見つけたときのこと。
皆で犬小屋を見学しながら会話をしていたとき
玄関が空いていたせいもあって、
この犬が脱走して向かいの公園のほうに行っていたんです。
たまたま玄関に一番近いところにいた僕が
犬がいなくなっていることに気づき、
外を見に行って公園に大きな白い犬影を発見しました。
「脱走」とはいっても、ただ佇んでいるだけ。
逃げている感じではありません。
僕は咄嗟に、常識で判断して
すぐにその犬を連れて帰りました。
呼んでも来ないので首輪を掴んで連れてくるだけですが。
距離にしたって道一本隔てるぐらいですから数メートルでしょう。
なんとなく寂しそうな雰囲気ではあったんです。
呼んでも来ないところを踏まえても、もしかすると
自分なりの気晴らしだったのかもしれない、と今にして思います。
一日中、気を遣い、もう一匹のヤンチャぶりに付き合わされ、
我慢することが多かったのかなぁ、と。
人間に言われたことを守り、ちゃんと振る舞った一日だったとしたら
少しぐらい気晴らしとして自由な時間が欲しかったのかもしれません。
2,3分でも、外で自由に遊ばせてあげたら良かった気がしています。
犬でも心の動きは人間と共通しているところがあるでしょうから。
2017年12月22日
お面が怖い
好き嫌いの大部分は、慣れによるところが大きいと考えられます。
食べ物の好みなどは典型的です。
多くの場合、子供の頃から慣れ親しんだ味を求めますし、
逆に初めは嫌だったものでも慣れていくと
美味しく感じてきたりもします。
寝るときの部屋の明るさや、落ち着く環境なんかも
幼少期からの慣れによる部分が大きいでしょう。
例えばザワザワした話し声があるほうが集中できるとか
音楽をかけながらのほうが集中しやすいとか
完全に静かじゃないとダメだとか。
寝るときに部屋の明かりを完全に消すのか、
薄明りぐらいを残しておくのかは、
育った環境の名残りが特に表れがちではないでしょうか。
僕の実家は豆電球(?小さい白熱電球)をつけていました。
ずっとそれが当たり前だと思っていましたが
完全に暗くする人がいるというのも大人になって知りました。
僕は今でも少しは光が入ってくる状況で寝るのが習慣になっています。
その分、明るくても寝られます。
真っ暗でも寝られはしますが、なんとなく心配な感じもしてしまいます。
出張でホテルに泊まるときもフットライトをつけておいたりして
完全な暗闇ではないようにしているのは、大部分が習慣のせいでしょう。
真っ暗だと次の日に起きられるか心配でもありますし。
(暗い方が眠りが深いという意味かもしれませんが)
一方、五感レベルの体験の仕方においても
刺激に対する好みが分かれる場合があります。
これは慣れのように学習されたものというよりも、
生き物としての身体のリズムのように生得的に近いものや、
意識の配分の仕方のように幼少期から変わりにくい癖のようなものが
影響していると考えられます。
例えば話すスピードとか、動作のスピードなど
その人にとって自然なリズムがありますが、
環境にそれとは違ったリズムの音があれば違和感が出やすいようです。
リズムを感じないランダムな音であれば気にならないのに、
一定の周期で鳴る音の場合には妙に気になってしまう、とか。
特にテンポの速さは影響する気がします。
換気扇の音や洗濯機の音、電車の騒音は気にならないけれど
他人のキーボード入力の音や、道路工事の音は気になったり。
僕の場合、建築関係だと、機械の騒音は比較的大丈夫ながら
大工さんが金槌で釘を打つ音は苦手です。
自分とのリズムの違いが際立ってしまうからだと思われます。
またリズムは振動や揺れとしても影響します。
電車や飛行機の揺れがあっても気にせずにパソコンを使える人もいれば
揺れによって全く集中できないなんて人もいるようです。
僕は電車でも新幹線でもパソコン作業の効率は落ちます。
飛行機は比較的大丈夫なんですが。
貧乏ゆすりをしている人がいると、自分のリズムと大きく違うので
物凄く邪魔されたような感じがしてしまいます。
電車で隣の席の人と肩がくっついていると
呼吸のリズムの違いが感じられてしまうので、これも苦手です。
こういった生き物としてのリズムの違いや
五感レベルの刺激に対する反応性などは、
もしかすると色やデザインのパターンについての好みなどにも
関係しているのかもしれません。
それから、上記の2つでも説明がつかないような
「なぜかよくわからないけれど苦手なもの/好きなもの」
というのもあるようです。
僕はなぜか小さい頃から、お面が苦手でした。
お祭りで売っているようなプラスチックのもの(仮面ライダーとか)
なら全く気になりません。
木製や金属製のものが苦手です。
今もです。
金属製のものは兜とか「仮面」に近い捉え方になって
これはこれで怖さを感じるんですが、木製のお面にはもう
1つ別の要素が加わっていることに最近気づきました。
それは「土着」の文化の雰囲気です。
とりわけアジアとか、高温多湿で
植物がグチャグチャに絡み合いながら繁殖している地域に見られがちな
自然と神や悪魔を結びつけた感じの信仰。
あの雰囲気そのものが少し怖いみたいです。
それが東南アジアなどでは、お面に表れている感じがして
余計に怖さを増加させているんだと発見しました。
歴史的な知識もありませんし、
文化や社会の側面から意見を持っているわけでもありません。
ただもう見た目として目に焼き付いて離れない怖さだけがあります。
理由はさっぱり分からないんですが
なぜかよくわからない好みというのもあるんでしょう。
どれだけ頑張って人の心を説明しようとしても
理解できないところもあるものなのかもしれません。
食べ物の好みなどは典型的です。
多くの場合、子供の頃から慣れ親しんだ味を求めますし、
逆に初めは嫌だったものでも慣れていくと
美味しく感じてきたりもします。
寝るときの部屋の明るさや、落ち着く環境なんかも
幼少期からの慣れによる部分が大きいでしょう。
例えばザワザワした話し声があるほうが集中できるとか
音楽をかけながらのほうが集中しやすいとか
完全に静かじゃないとダメだとか。
寝るときに部屋の明かりを完全に消すのか、
薄明りぐらいを残しておくのかは、
育った環境の名残りが特に表れがちではないでしょうか。
僕の実家は豆電球(?小さい白熱電球)をつけていました。
ずっとそれが当たり前だと思っていましたが
完全に暗くする人がいるというのも大人になって知りました。
僕は今でも少しは光が入ってくる状況で寝るのが習慣になっています。
その分、明るくても寝られます。
真っ暗でも寝られはしますが、なんとなく心配な感じもしてしまいます。
出張でホテルに泊まるときもフットライトをつけておいたりして
完全な暗闇ではないようにしているのは、大部分が習慣のせいでしょう。
真っ暗だと次の日に起きられるか心配でもありますし。
(暗い方が眠りが深いという意味かもしれませんが)
一方、五感レベルの体験の仕方においても
刺激に対する好みが分かれる場合があります。
これは慣れのように学習されたものというよりも、
生き物としての身体のリズムのように生得的に近いものや、
意識の配分の仕方のように幼少期から変わりにくい癖のようなものが
影響していると考えられます。
例えば話すスピードとか、動作のスピードなど
その人にとって自然なリズムがありますが、
環境にそれとは違ったリズムの音があれば違和感が出やすいようです。
リズムを感じないランダムな音であれば気にならないのに、
一定の周期で鳴る音の場合には妙に気になってしまう、とか。
特にテンポの速さは影響する気がします。
換気扇の音や洗濯機の音、電車の騒音は気にならないけれど
他人のキーボード入力の音や、道路工事の音は気になったり。
僕の場合、建築関係だと、機械の騒音は比較的大丈夫ながら
大工さんが金槌で釘を打つ音は苦手です。
自分とのリズムの違いが際立ってしまうからだと思われます。
またリズムは振動や揺れとしても影響します。
電車や飛行機の揺れがあっても気にせずにパソコンを使える人もいれば
揺れによって全く集中できないなんて人もいるようです。
僕は電車でも新幹線でもパソコン作業の効率は落ちます。
飛行機は比較的大丈夫なんですが。
貧乏ゆすりをしている人がいると、自分のリズムと大きく違うので
物凄く邪魔されたような感じがしてしまいます。
電車で隣の席の人と肩がくっついていると
呼吸のリズムの違いが感じられてしまうので、これも苦手です。
こういった生き物としてのリズムの違いや
五感レベルの刺激に対する反応性などは、
もしかすると色やデザインのパターンについての好みなどにも
関係しているのかもしれません。
それから、上記の2つでも説明がつかないような
「なぜかよくわからないけれど苦手なもの/好きなもの」
というのもあるようです。
僕はなぜか小さい頃から、お面が苦手でした。
お祭りで売っているようなプラスチックのもの(仮面ライダーとか)
なら全く気になりません。
木製や金属製のものが苦手です。
今もです。
金属製のものは兜とか「仮面」に近い捉え方になって
これはこれで怖さを感じるんですが、木製のお面にはもう
1つ別の要素が加わっていることに最近気づきました。
それは「土着」の文化の雰囲気です。
とりわけアジアとか、高温多湿で
植物がグチャグチャに絡み合いながら繁殖している地域に見られがちな
自然と神や悪魔を結びつけた感じの信仰。
あの雰囲気そのものが少し怖いみたいです。
それが東南アジアなどでは、お面に表れている感じがして
余計に怖さを増加させているんだと発見しました。
歴史的な知識もありませんし、
文化や社会の側面から意見を持っているわけでもありません。
ただもう見た目として目に焼き付いて離れない怖さだけがあります。
理由はさっぱり分からないんですが
なぜかよくわからない好みというのもあるんでしょう。
どれだけ頑張って人の心を説明しようとしても
理解できないところもあるものなのかもしれません。
2017年12月19日
スペイン語が気になってきました
フランス語の勉強を再開して、そろそろ3年ぐらいかと思います。
元々は高校時代の第二外国語がフランス語だったことがあって、
ある程度の文法や単語としてバックグラウンドがあったので
新しく勉強というよりも復習とトレーニングをしてきた感じでした。
最近はよりトレーニングの度合いが強まっている気がしますし、
理解が固まってきているからこそトレーニング効果も表れやすそうな印象です。
そもそも学生時代以来にフランス語を再開したキッカケは
同じく3年前の時期にスペイン語を勉強しようと思ったから。
英語を使って何かを勉強することを続けようとしていたとき
英語でスペイン語を学ぶ講座を見つけたんです。
それでスペイン語を始めてみました。
で、同じラテン語系の言語であれば一気にやったほうが効率が良いかと考え
学生時代にやっていたフランス語もついでに再開してみたんです。
実際にはフランス語のほうがベースの知識を持っていましたし、
それもスペイン語学習に役立つんじゃないかと考えた次第。
結果としては3か月ぐらいのスペイン語学習の末、
継続を止めた形になっています。
理由は先生が合わなかったから。
英語で勉強するスペイン語と言いながら、
先生の英語力が高くなくて説明が分かりにくいだけでなく、
英語の発音の訛りが酷くて聞いているこちら側が理解するために
余分な負担を強いられている状態でした。
そのときの生徒の半分ぐらいは日本人、
あとはアメリカ人とフィリピン人。
もちろん日本国内で開催していますし、先生も日本在住なので
少しは日本語が使えるつもりだったんでしょう。
ときおり日本人向けに日本語での説明を混ぜたりしていたんですが
本人の日本語力が低く誤解もあったりしたおかげで
むしろ余計に分かりにくくなってしまうことが多々ありました。
コスタリカ出身ということでラテンアメリカの文化だったのか、
それとも個人的な性格だったのかは不明ながら、
講座の進め方が適当だったのも続けたくない理由の1つでした。
2時間の講座のうち、自分の個人的な無駄話で30分も余計に使い
その分の30分を延長してやるという独特のスタイル。
しかも夜の時間帯でしたから帰宅時間が遅くなるのも困りものでした。
発音や単語の選び方に関してもスペイン語はバリエーションがあるらしく、
中米のスペイン語は、スペイン語のスペイン語と差があるというのも
ヨーロッパ言語を勉強しようと思っていた僕にとって
モチベーションを下げる要因の1つになっていた記憶があります。
そのあたりのことから、その先生から続きを勉強する気にはなれず
スペイン語の勉強は中断したというのが実情です。
一方、学習を効率化しようと思って再開したフランス語に関しては
フランス語だけでの説明でも授業を追えるようになってきたので
そのまま勉強を続けることにしたんです。
英語で語学をやるという方向性は消えてしまいましたが
外国語学習としては続けてみようと思えたわけです。
ここ最近は、基礎として蓄えてきた文法知識やボキャブラリーを
運用できるものにするために、実用的なトレーニングをしている段階。
勉強段階とトレーニング段階と、ハッキリ分ける必要はないでしょうが
それでも重視する側面が変わってきている実感はあります。
そんな折、来期に勉強するものを探していたところ
ネガティブな思い出を伴っていたスペイン語講座に
今までとの違いがあることに気づいたんです。
担当講師の名前が変わっていました。
英語でスペイン語をやるという点では同じですが
先生がスペイン人になっています。
これはチョット光明が見えた感じ。
スケジュールを見て再検討してみようと思います。
元々は高校時代の第二外国語がフランス語だったことがあって、
ある程度の文法や単語としてバックグラウンドがあったので
新しく勉強というよりも復習とトレーニングをしてきた感じでした。
最近はよりトレーニングの度合いが強まっている気がしますし、
理解が固まってきているからこそトレーニング効果も表れやすそうな印象です。
そもそも学生時代以来にフランス語を再開したキッカケは
同じく3年前の時期にスペイン語を勉強しようと思ったから。
英語を使って何かを勉強することを続けようとしていたとき
英語でスペイン語を学ぶ講座を見つけたんです。
それでスペイン語を始めてみました。
で、同じラテン語系の言語であれば一気にやったほうが効率が良いかと考え
学生時代にやっていたフランス語もついでに再開してみたんです。
実際にはフランス語のほうがベースの知識を持っていましたし、
それもスペイン語学習に役立つんじゃないかと考えた次第。
結果としては3か月ぐらいのスペイン語学習の末、
継続を止めた形になっています。
理由は先生が合わなかったから。
英語で勉強するスペイン語と言いながら、
先生の英語力が高くなくて説明が分かりにくいだけでなく、
英語の発音の訛りが酷くて聞いているこちら側が理解するために
余分な負担を強いられている状態でした。
そのときの生徒の半分ぐらいは日本人、
あとはアメリカ人とフィリピン人。
もちろん日本国内で開催していますし、先生も日本在住なので
少しは日本語が使えるつもりだったんでしょう。
ときおり日本人向けに日本語での説明を混ぜたりしていたんですが
本人の日本語力が低く誤解もあったりしたおかげで
むしろ余計に分かりにくくなってしまうことが多々ありました。
コスタリカ出身ということでラテンアメリカの文化だったのか、
それとも個人的な性格だったのかは不明ながら、
講座の進め方が適当だったのも続けたくない理由の1つでした。
2時間の講座のうち、自分の個人的な無駄話で30分も余計に使い
その分の30分を延長してやるという独特のスタイル。
しかも夜の時間帯でしたから帰宅時間が遅くなるのも困りものでした。
発音や単語の選び方に関してもスペイン語はバリエーションがあるらしく、
中米のスペイン語は、スペイン語のスペイン語と差があるというのも
ヨーロッパ言語を勉強しようと思っていた僕にとって
モチベーションを下げる要因の1つになっていた記憶があります。
そのあたりのことから、その先生から続きを勉強する気にはなれず
スペイン語の勉強は中断したというのが実情です。
一方、学習を効率化しようと思って再開したフランス語に関しては
フランス語だけでの説明でも授業を追えるようになってきたので
そのまま勉強を続けることにしたんです。
英語で語学をやるという方向性は消えてしまいましたが
外国語学習としては続けてみようと思えたわけです。
ここ最近は、基礎として蓄えてきた文法知識やボキャブラリーを
運用できるものにするために、実用的なトレーニングをしている段階。
勉強段階とトレーニング段階と、ハッキリ分ける必要はないでしょうが
それでも重視する側面が変わってきている実感はあります。
そんな折、来期に勉強するものを探していたところ
ネガティブな思い出を伴っていたスペイン語講座に
今までとの違いがあることに気づいたんです。
担当講師の名前が変わっていました。
英語でスペイン語をやるという点では同じですが
先生がスペイン人になっています。
これはチョット光明が見えた感じ。
スケジュールを見て再検討してみようと思います。
2017年12月16日
お気に入り映画
毎年恒例だった年末年始のDVD視聴期間。
今年は残念ながら事情が変わってしまいました。
スケジュール的なことも関係しますが、何よりも大きいのは
見るためのDVDシリーズが見つかっていない、ということです。
これまではDVDボックスの発売時期も合わせて
「ザ・メンタリスト」の最新シリーズを購入して、
それを一気に見ることをしていました。
しかし、それも終了。
ファイナルシーズンとして完結してしまい、
今年は見るものがなくなってしまった感じなんです。
評判のものを見てみるのも良いのかもしれませんが…。
まずはどれを見たいと思えるか、
一巻目を色々と見比べる必要が出てきてしまいそうなところ。
そうやって一巻目を一通り見ているうちに、
DVDをまとめて見られる時期が終わってしまうかもしれません。
ということで今のところ、まだDVDシリーズを見てはいないんです。
反面、DVDを探しに行ったときに、一般的な映画のDVDをレンタルして
結局はシリーズものではなく、話題作をチェックしているような状態。
そんな中で印象に残ったものを1つ書いておこうと思います。
『素晴らしきかな、人生』というタイトルの映画。
ウィル・スミス主演です。
幼い娘を病気で失った主人公が
悲嘆から立ち直っていく様子を描いたもの。
その過程に関わってくるのがチョット不思議な3人の役者。
自暴自棄の演技をさせたらウィル・スミスは絶品ですね。
ネット上のレビューなんかだと評価はイマイチですが、その違いは
ストーリーと登場人物の心情をどれぐらい理解しているか、
そして
そこにどれぐらい感情移入できるか、
という部分に関係しそうです。
実感として知らなければピンとこない部分もあるのかもしれません。
僕はこれを偶然、今年の5月、アメリカ行きの飛行機の中で見て、
とても印象に残っていたので見直してみた次第。
4本借りるとお得になるシステムの数合わせ、最後の4
一度見た映画ではあったけれど見直してみたわけです。
ストーリーを知っているから、どんでん返し的な面白さは減ります。
一方で、気づかなかった伏線が理解できたり、
主人公だけを描かずに重要な登場人物の人生をも描いていたり、
味わいの深さをより実感できた気がします。
ただ、翻訳の難しさがあるのも実情でしょう。
原題は「Collateral Beauty」です。
(コラテラル・ビューティー)
これが「素晴らしきかな、人生」という邦題に変わり、
劇中でもセリフの中に何度か登場する「collateral beauty」が
「幸せのオマケ」と訳されているんです。
確かにこの翻訳は厄介です。
「collateral」は辞書だと
「付帯的な、二次的な」、「直系でない、傍系の」
などと出てきます。
Cambridge Dictionaryでは
「connected but less important, or
of the same family although not directly related」
となっています。
「そのものに結びついているけれど、そのものよりも重要度が低い
あるいは
直接関係してはいないけれど同族の」
といった意味でしょうか。
前半部分が「付帯的な、二次的な」の意味で、
後半部分が「直系でない、傍系の」のほうでしょう。
ここでは前半の意味、つまり
「メインではないけれど、それに伴って起こる」
というニュアンスだと考えられます。
映画中で「collateral beauty」という単語が表れるのは
娘を失ったことへの言葉がけとして、です。
大切な人を失った喪失の悲嘆。
しかし、そこに「collateral」な「beauty」がある、と。
喪失の悲嘆には、伴って起こる「beauty」があるんだ、というわけです。
もちろんそこでのメインは悲嘆の苦しみです。
それを上回って打ち消すような性質のものではない。
あくまで付随的で、
別に「それがあるから絶対に大丈夫なんだ」と言い聞かせるような
気休めの表現でもありません。
苦しみがメインです、
でもそこには「beauty」が伴っていますよ…
といった意味合いで、
「collateral beauty」なんだと思います。
まぁ、その意味では「オマケ」というのは分からなくもない。
でも日本語でいう「オマケ」は、重要度の比率が低すぎる気がします。
例えば、
3000円分の野菜を買ったときに、”オマケ”で
ミカンを3つつけてくれる…
みたいなイメージじゃないかと思うんです。
僕の認識だとメインの10%以下ぐらいが「オマケ」か、と。
(※子供向けの「オマケ付きお菓子」は
お菓子のほうがオマケみたいな位置づけになっていますが
あれは「オマケ」を口実に、玩具売り場ではなくて
食品売り場でオモチャを売ろうというビジネス戦術でしょう)
それに対して「collateral」は、もっと比率が大きい感じがします。
メインと同じ規模までは行かないけれど、
70%ぐらいはありそうな印象。
ですから「幸せの”オマケ”」と言ってしまうと
重要度が低すぎる気がするんです。
そんなに軽いものじゃないだろう、と。
そして「beauty」を「幸せ」と訳すのは
もっと意味が違います。
もちろん「美」そのものではない。
「素晴らしさ」ぐらいの感じでしょうか。
光り輝き、色鮮やかな雰囲気です。
これを「幸せ」と訳してしまうのは、
翻訳の文字数制限もあるでしょうが、それ以上に
「collateral beauty」を実感したことがない人が訳したから
というのが大きい気がします。
苦しみの先には、苦しみを知るからこそ見えてくる
この世の素晴らしさ、彩り、豊かさ、輝きがあるんです。
それは文字通り、
「目に入るものが鮮やかで美しく、瑞々しく見える」
体験になることもあるようです。
別に幸せなわけではありません。
純粋な感動です。
命の喜びです。
でも、これは個人の価値観が満たされるような「幸せ」とは違います。
喪失の苦しみを体験している人にとっては
そんなことぐらいで「幸せ」になんてなれません。
大切なものを失った悲しみは残るでしょう。
ただし、それと並行して、
悲しみとは別の性質のものとして
純粋で大きな喜びが味わえる。
そういう感じが「collateral beauty」のはずです。
「苦しみを知るからこその喜び・味わい・人生の美しさ」
「苦しみの奥の喜び・輝き」
ぐらいの感じかと思います。
字幕上の文字数制限を考慮して無理やり工夫するなら
「幸せのオマケ」で6文字ですから
「苦悩の隣の光」とかでしょうか。
それでも「collateral beauty」のニュアンスは出ていないと感じます。
出来事の流れとして言うと、
時間的には「苦しみの先」、心の内側では「苦しみの奥」に
人生の輝きをもたらしてくれるものがある感じです。
が、「collateral beauty」というセリフを言う人物の心情からすると
そこには「先」というほどの距離感はなくて、
「奥」とか「裏」というほどの見つけにくさもなくて、むしろ
「すぐ隣」にくっついているような気軽さもあるんです。
とはいえ「オマケ」というほど軽々しいものでもない。
そしてその体験は「幸せ」などでは決してなく、その意味では
邦題の「素晴らしきかな、人生」のほうが近そうですが、
だからといって「人生の素晴らしさ」を説明しているのでもありません。
雰囲気としては…。
苦しい時こそ、苦しみから目を背けずに
しっかりと苦しみを見つめてごらん。
すぐそばに、思いもしなかったような美しい味わいがあるから。
そんな気軽さと本質を両立させた一言なんだと思います。
そのあたりのニュアンスを思いながら映画を見てみると
さまざまな面で、見事に描かれたものが感じられる気がします。
今年は残念ながら事情が変わってしまいました。
スケジュール的なことも関係しますが、何よりも大きいのは
見るためのDVDシリーズが見つかっていない、ということです。
これまではDVDボックスの発売時期も合わせて
「ザ・メンタリスト」の最新シリーズを購入して、
それを一気に見ることをしていました。
しかし、それも終了。
ファイナルシーズンとして完結してしまい、
今年は見るものがなくなってしまった感じなんです。
評判のものを見てみるのも良いのかもしれませんが…。
まずはどれを見たいと思えるか、
一巻目を色々と見比べる必要が出てきてしまいそうなところ。
そうやって一巻目を一通り見ているうちに、
DVDをまとめて見られる時期が終わってしまうかもしれません。
ということで今のところ、まだDVDシリーズを見てはいないんです。
反面、DVDを探しに行ったときに、一般的な映画のDVDをレンタルして
結局はシリーズものではなく、話題作をチェックしているような状態。
そんな中で印象に残ったものを1つ書いておこうと思います。
『素晴らしきかな、人生』というタイトルの映画。
ウィル・スミス主演です。
幼い娘を病気で失った主人公が
悲嘆から立ち直っていく様子を描いたもの。
その過程に関わってくるのがチョット不思議な3人の役者。
自暴自棄の演技をさせたらウィル・スミスは絶品ですね。
ネット上のレビューなんかだと評価はイマイチですが、その違いは
ストーリーと登場人物の心情をどれぐらい理解しているか、
そして
そこにどれぐらい感情移入できるか、
という部分に関係しそうです。
実感として知らなければピンとこない部分もあるのかもしれません。
僕はこれを偶然、今年の5月、アメリカ行きの飛行機の中で見て、
とても印象に残っていたので見直してみた次第。
4本借りるとお得になるシステムの数合わせ、最後の4
一度見た映画ではあったけれど見直してみたわけです。
ストーリーを知っているから、どんでん返し的な面白さは減ります。
一方で、気づかなかった伏線が理解できたり、
主人公だけを描かずに重要な登場人物の人生をも描いていたり、
味わいの深さをより実感できた気がします。
ただ、翻訳の難しさがあるのも実情でしょう。
原題は「Collateral Beauty」です。
(コラテラル・ビューティー)
これが「素晴らしきかな、人生」という邦題に変わり、
劇中でもセリフの中に何度か登場する「collateral beauty」が
「幸せのオマケ」と訳されているんです。
確かにこの翻訳は厄介です。
「collateral」は辞書だと
「付帯的な、二次的な」、「直系でない、傍系の」
などと出てきます。
Cambridge Dictionaryでは
「connected but less important, or
of the same family although not directly related」
となっています。
「そのものに結びついているけれど、そのものよりも重要度が低い
あるいは
直接関係してはいないけれど同族の」
といった意味でしょうか。
前半部分が「付帯的な、二次的な」の意味で、
後半部分が「直系でない、傍系の」のほうでしょう。
ここでは前半の意味、つまり
「メインではないけれど、それに伴って起こる」
というニュアンスだと考えられます。
映画中で「collateral beauty」という単語が表れるのは
娘を失ったことへの言葉がけとして、です。
大切な人を失った喪失の悲嘆。
しかし、そこに「collateral」な「beauty」がある、と。
喪失の悲嘆には、伴って起こる「beauty」があるんだ、というわけです。
もちろんそこでのメインは悲嘆の苦しみです。
それを上回って打ち消すような性質のものではない。
あくまで付随的で、
別に「それがあるから絶対に大丈夫なんだ」と言い聞かせるような
気休めの表現でもありません。
苦しみがメインです、
でもそこには「beauty」が伴っていますよ…
といった意味合いで、
「collateral beauty」なんだと思います。
まぁ、その意味では「オマケ」というのは分からなくもない。
でも日本語でいう「オマケ」は、重要度の比率が低すぎる気がします。
例えば、
3000円分の野菜を買ったときに、”オマケ”で
ミカンを3つつけてくれる…
みたいなイメージじゃないかと思うんです。
僕の認識だとメインの10%以下ぐらいが「オマケ」か、と。
(※子供向けの「オマケ付きお菓子」は
お菓子のほうがオマケみたいな位置づけになっていますが
あれは「オマケ」を口実に、玩具売り場ではなくて
食品売り場でオモチャを売ろうというビジネス戦術でしょう)
それに対して「collateral」は、もっと比率が大きい感じがします。
メインと同じ規模までは行かないけれど、
70%ぐらいはありそうな印象。
ですから「幸せの”オマケ”」と言ってしまうと
重要度が低すぎる気がするんです。
そんなに軽いものじゃないだろう、と。
そして「beauty」を「幸せ」と訳すのは
もっと意味が違います。
もちろん「美」そのものではない。
「素晴らしさ」ぐらいの感じでしょうか。
光り輝き、色鮮やかな雰囲気です。
これを「幸せ」と訳してしまうのは、
翻訳の文字数制限もあるでしょうが、それ以上に
「collateral beauty」を実感したことがない人が訳したから
というのが大きい気がします。
苦しみの先には、苦しみを知るからこそ見えてくる
この世の素晴らしさ、彩り、豊かさ、輝きがあるんです。
それは文字通り、
「目に入るものが鮮やかで美しく、瑞々しく見える」
体験になることもあるようです。
別に幸せなわけではありません。
純粋な感動です。
命の喜びです。
でも、これは個人の価値観が満たされるような「幸せ」とは違います。
喪失の苦しみを体験している人にとっては
そんなことぐらいで「幸せ」になんてなれません。
大切なものを失った悲しみは残るでしょう。
ただし、それと並行して、
悲しみとは別の性質のものとして
純粋で大きな喜びが味わえる。
そういう感じが「collateral beauty」のはずです。
「苦しみを知るからこその喜び・味わい・人生の美しさ」
「苦しみの奥の喜び・輝き」
ぐらいの感じかと思います。
字幕上の文字数制限を考慮して無理やり工夫するなら
「幸せのオマケ」で6文字ですから
「苦悩の隣の光」とかでしょうか。
それでも「collateral beauty」のニュアンスは出ていないと感じます。
出来事の流れとして言うと、
時間的には「苦しみの先」、心の内側では「苦しみの奥」に
人生の輝きをもたらしてくれるものがある感じです。
が、「collateral beauty」というセリフを言う人物の心情からすると
そこには「先」というほどの距離感はなくて、
「奥」とか「裏」というほどの見つけにくさもなくて、むしろ
「すぐ隣」にくっついているような気軽さもあるんです。
とはいえ「オマケ」というほど軽々しいものでもない。
そしてその体験は「幸せ」などでは決してなく、その意味では
邦題の「素晴らしきかな、人生」のほうが近そうですが、
だからといって「人生の素晴らしさ」を説明しているのでもありません。
雰囲気としては…。
苦しい時こそ、苦しみから目を背けずに
しっかりと苦しみを見つめてごらん。
すぐそばに、思いもしなかったような美しい味わいがあるから。
そんな気軽さと本質を両立させた一言なんだと思います。
そのあたりのニュアンスを思いながら映画を見てみると
さまざまな面で、見事に描かれたものが感じられる気がします。
2017年12月13日
身体が使えると
ジムで運動するようになって半年ぐらいは経ちました。
だいぶ体が使えるようになってきた印象ですし、
日々の疲労感も減ってきている気もします。
セミナーあとの回復も早そうです。
とはいえ参加者への注意を強く払うタイプのセミナーだと
眼や耳からくる疲れなのか、異質の疲れがあるようで
運動の効果もさほど大きくは出ないみたいです。
セミナーあとに頑張ってジムに行って体を動かすと
確かにその日の眠りは良くなるものの、
次の日に頭が働かない感じや酸欠の感じがについては
あまり改善されないようでした。
やはり睡眠の量と、体をほぐすための運動と、
両方とが必要になるんでしょう。
一方、体を動かすようになった効果は
意識を向ける範囲にも影響が出ているように思います。
背中側を動かす運動を中心にやっているため
身体の裏側を効果的に動かしやすくなってきた印象です。
動作として動かせるようになるのももちろんですし、
肉体疲労が背中側に表れることで、痛みやハリを通じて
背中側に注意が向きやすくなっているのもあると思います。
注意が体の裏側にも配れているというだけで
意識の範囲が広がってきたように感じられるんです。
日常的にも背中や腰、首など、体の裏側で負荷がかかりがちな部位に
疲労がたまってきたときに気づきやすくなったかもしれません。
それ以上に効果があるのは座禅をしているとき。
肉体的なトレーニングの効果として姿勢を維持しやすくなった上、
裏側にも意識の範囲が広がったことで
意識状態そのものにも変化が起きてきた感じがします。
とりわけ先日、座禅をしにいったとき
伝統的なスタイルの指導を少しだけ受けて
姿勢や取り組み方そのものの意義を体で感じられた気がします。
微妙な姿勢の指摘を受けただけですが、それでも
その姿勢の差がもたらす内面の状態の違いは大きく
伝統的に込められてきた意味があるのだろうと思いました。
言葉で伝える内容は伝言ゲームのように正確さが減るでしょうし、
途中に理解のステップが含まれれば、伝達のたびに
個人個人の理解の仕方によって内容が変化する可能性があります。
しかし客観的に観察可能で、思考を通さない「体の使い方」…
つまり姿勢やフォームに関しては、そこに込められた意義を
忠実に伝達していきやすいのかもしれません。
これも体をケアして無理なく色々な姿勢を取れるようになってきたこと、
運動することで肉体への感受性が上がったことなど、
身体に関する取り組みの効果が関わっているように思いました。
「病気にならない」という意味での健康ではなく
「生き物としての活動がスムーズになる」意味での健康は、
「生きる」ということへ向き合う姿勢としても
誠実に関わっていきたいものだと感じています。
だいぶ体が使えるようになってきた印象ですし、
日々の疲労感も減ってきている気もします。
セミナーあとの回復も早そうです。
とはいえ参加者への注意を強く払うタイプのセミナーだと
眼や耳からくる疲れなのか、異質の疲れがあるようで
運動の効果もさほど大きくは出ないみたいです。
セミナーあとに頑張ってジムに行って体を動かすと
確かにその日の眠りは良くなるものの、
次の日に頭が働かない感じや酸欠の感じがについては
あまり改善されないようでした。
やはり睡眠の量と、体をほぐすための運動と、
両方とが必要になるんでしょう。
一方、体を動かすようになった効果は
意識を向ける範囲にも影響が出ているように思います。
背中側を動かす運動を中心にやっているため
身体の裏側を効果的に動かしやすくなってきた印象です。
動作として動かせるようになるのももちろんですし、
肉体疲労が背中側に表れることで、痛みやハリを通じて
背中側に注意が向きやすくなっているのもあると思います。
注意が体の裏側にも配れているというだけで
意識の範囲が広がってきたように感じられるんです。
日常的にも背中や腰、首など、体の裏側で負荷がかかりがちな部位に
疲労がたまってきたときに気づきやすくなったかもしれません。
それ以上に効果があるのは座禅をしているとき。
肉体的なトレーニングの効果として姿勢を維持しやすくなった上、
裏側にも意識の範囲が広がったことで
意識状態そのものにも変化が起きてきた感じがします。
とりわけ先日、座禅をしにいったとき
伝統的なスタイルの指導を少しだけ受けて
姿勢や取り組み方そのものの意義を体で感じられた気がします。
微妙な姿勢の指摘を受けただけですが、それでも
その姿勢の差がもたらす内面の状態の違いは大きく
伝統的に込められてきた意味があるのだろうと思いました。
言葉で伝える内容は伝言ゲームのように正確さが減るでしょうし、
途中に理解のステップが含まれれば、伝達のたびに
個人個人の理解の仕方によって内容が変化する可能性があります。
しかし客観的に観察可能で、思考を通さない「体の使い方」…
つまり姿勢やフォームに関しては、そこに込められた意義を
忠実に伝達していきやすいのかもしれません。
これも体をケアして無理なく色々な姿勢を取れるようになってきたこと、
運動することで肉体への感受性が上がったことなど、
身体に関する取り組みの効果が関わっているように思いました。
「病気にならない」という意味での健康ではなく
「生き物としての活動がスムーズになる」意味での健康は、
「生きる」ということへ向き合う姿勢としても
誠実に関わっていきたいものだと感じています。
2017年12月09日
地域差が際立って見えます
久しぶりに大阪と名古屋にやってきました。
名古屋は9月以来、大阪は7月以来ですから
まだ暑かったころの記憶があります。
毎月のように来ていた時期もあるので
それと比べると随分と間が空いた感じがします。
もちろん見慣れた場所だという認識もありますから
とりたてて違和感はありません。
ただ、間があいたからこそ「いつも通り」という印象が薄らぎ
ちょっと特別な感じ方をしているようにも思えます。
東京での日常と比べて違いが際立って見える感じでしょうか。
とくに今回は大阪、名古屋を一日ずつで移動しているので
東京、大阪、名古屋の3都市の雰囲気の違いを
比較するような形で見ている気がします。
言語的な違いはハッキリしすぎているので置いておくとして
街並みや人の姿、振る舞いの傾向なども違いがあるようです。
駅や店舗の作りなどは街として開けた時期の差とか、
再開発のタイミングなどの影響も大きいと思われますから
それが文化によって生まれたものかどうかは分かりません。
大阪は狭い範囲に多くの物がギュッと詰め込まれた印象というか
いろいろと入り乱れながら賑やかな印象を感じました。
一方、名古屋のほうがスペースが広いような印象を受けます。
実際に歩いている人数も大阪より少ないのかもしれませんし。
心理的にとらえると、むしろそうした環境で過ごしていることが
歩き方や行動のパターンにも影響を与えて
人付き合いやコミュニケーション、街中での振る舞いとして
文化的な傾向に関与しているとも考察できそうです。
「県民性」のようなステレオタイプを考えようということではなく、
多くの人が似た環境で過ごすことで自然と身につける行動パターンとか
他の人を参考にしながら暗黙の了解として共有する人との関わり方とか、
そういった学習が共有されながら受け継がれていく結果として
文化が形作られていくものがあるんじゃないか、という話です。
そして大阪と名古屋の人たちにおける動作スピードの違いは
人の集団が作り出すリズムの特徴にも影響を及ぼすと思われます。
大阪の賑やかな感じ、名古屋のゆったりした感じを僕が受け取るのも
そんなリズムを捉えているからじゃないかと感じました。
東京の通勤ラッシュのときのピリピリした感じとは随分と異なります。
そしてさらに興味深いのが、やはり地域性は
身体的な見た目にも表れそうだというところでしょうか。
東京、大阪、名古屋はいずれも大都市ですし
他の地域との人の交流もありますから、
長年続く地元出身の人だけが住んでいるわけではないでしょう。
それでも、生まれ育った馴染みのある地方に
住み続けようとする人も意外と多いもの。
関西圏、中部、関東と分ければ、各地域に
遺伝的な近さもあるのかもしれません。
見た目の特徴としてもパターンがありそうです。
もちろん、姿勢や表情などは行動パターンとして
自然と他人のものを参考にしていたりしますから
そのあたりでも地域ごとの見た目の違いも生まれるとは思います。
遺伝的なものから生まれる骨格的な特徴と、
共通する行動パターンが生み出す筋肉としての特徴と、
集団に溶け込もうとすることで生まれる流行と、
様々な要素から見た目の共通点もできているのだろうと感じました。
人の特徴を見られるのも、僕にとっては
移動の面白さの1つになっています。
名古屋は9月以来、大阪は7月以来ですから
まだ暑かったころの記憶があります。
毎月のように来ていた時期もあるので
それと比べると随分と間が空いた感じがします。
もちろん見慣れた場所だという認識もありますから
とりたてて違和感はありません。
ただ、間があいたからこそ「いつも通り」という印象が薄らぎ
ちょっと特別な感じ方をしているようにも思えます。
東京での日常と比べて違いが際立って見える感じでしょうか。
とくに今回は大阪、名古屋を一日ずつで移動しているので
東京、大阪、名古屋の3都市の雰囲気の違いを
比較するような形で見ている気がします。
言語的な違いはハッキリしすぎているので置いておくとして
街並みや人の姿、振る舞いの傾向なども違いがあるようです。
駅や店舗の作りなどは街として開けた時期の差とか、
再開発のタイミングなどの影響も大きいと思われますから
それが文化によって生まれたものかどうかは分かりません。
大阪は狭い範囲に多くの物がギュッと詰め込まれた印象というか
いろいろと入り乱れながら賑やかな印象を感じました。
一方、名古屋のほうがスペースが広いような印象を受けます。
実際に歩いている人数も大阪より少ないのかもしれませんし。
心理的にとらえると、むしろそうした環境で過ごしていることが
歩き方や行動のパターンにも影響を与えて
人付き合いやコミュニケーション、街中での振る舞いとして
文化的な傾向に関与しているとも考察できそうです。
「県民性」のようなステレオタイプを考えようということではなく、
多くの人が似た環境で過ごすことで自然と身につける行動パターンとか
他の人を参考にしながら暗黙の了解として共有する人との関わり方とか、
そういった学習が共有されながら受け継がれていく結果として
文化が形作られていくものがあるんじゃないか、という話です。
そして大阪と名古屋の人たちにおける動作スピードの違いは
人の集団が作り出すリズムの特徴にも影響を及ぼすと思われます。
大阪の賑やかな感じ、名古屋のゆったりした感じを僕が受け取るのも
そんなリズムを捉えているからじゃないかと感じました。
東京の通勤ラッシュのときのピリピリした感じとは随分と異なります。
そしてさらに興味深いのが、やはり地域性は
身体的な見た目にも表れそうだというところでしょうか。
東京、大阪、名古屋はいずれも大都市ですし
他の地域との人の交流もありますから、
長年続く地元出身の人だけが住んでいるわけではないでしょう。
それでも、生まれ育った馴染みのある地方に
住み続けようとする人も意外と多いもの。
関西圏、中部、関東と分ければ、各地域に
遺伝的な近さもあるのかもしれません。
見た目の特徴としてもパターンがありそうです。
もちろん、姿勢や表情などは行動パターンとして
自然と他人のものを参考にしていたりしますから
そのあたりでも地域ごとの見た目の違いも生まれるとは思います。
遺伝的なものから生まれる骨格的な特徴と、
共通する行動パターンが生み出す筋肉としての特徴と、
集団に溶け込もうとすることで生まれる流行と、
様々な要素から見た目の共通点もできているのだろうと感じました。
人の特徴を見られるのも、僕にとっては
移動の面白さの1つになっています。
2017年12月06日
振り返りのタイミング
年末が近づくと一年を振り返ることが増えてくるようです。
自分から振り返りたくなるときもあれば
他人から質問される形で振り返るときもあります。
ですが僕の場合、どうも社会的な出来事について関心が低いのか、
個人的な体験と比べると自分にとっての重要度が低いのか、
「今年印象に残ったニュースは何?」などと尋ねられても
2017年に何があったのかを思い出すことも困難です。
それと比べると、自分が今年何をしたかはスムーズに思い出されます。
自分にとってインパクトの大きかったものは特にそうです。
その意味では、今年は僕にとって
少し節目のタイミングだったような気がしてきました。
これまでの流れが一区切りついて
新しいことが始まったような印象です。
NLPを始めて丸12年が経ちましたし。
干支も一周したせいで、そんな風に感じるのでしょうか。
実際、ロシア語やジム通いなど、
新しく始めた小さいものも色々とあります。
それらが直接の「新しいこと」というわけではなく
むしろ新しい動きの一部といったことなのではないかと感じています。
今やっていることが先々でどうなっていくのかは知る由もありませんし、
もちろん、これまでのことをやめるという話でもありません。
それでも「これまでの直接的な延長線上のまま」というよりも、
「今までにないことを始めた」といった雰囲気のようなんです。
語学として新しいものを身につけていく実感や
身体を動かすことで健康度やパフォーマンスが上がる実感など、
実りのありそうなことをやれるのは意外と楽しいものですし。
もっと本格的に努力をしたい気持ちもある一方で、
必要性がないために、それもイマイチ踏み出せていません。
動き始めでフラフラしているような状態なのかもしれません。
焦りはないので、どんなことが起きるのか、
どんな気持ちが自分の中に湧いてくるのか、
自分は何をしたくなるのか…、
そういったところまで幅広く含めて
この先の展開を楽しみにしておきたいと思います。
まずは年末年始の期間で心身のリセットをしておくつもりです。
整体と運動のおかげで、体調を崩すことはなくて済むんじゃないか
と期待しているので、気分のリフレッシュが優先になりそうです。
自分から振り返りたくなるときもあれば
他人から質問される形で振り返るときもあります。
ですが僕の場合、どうも社会的な出来事について関心が低いのか、
個人的な体験と比べると自分にとっての重要度が低いのか、
「今年印象に残ったニュースは何?」などと尋ねられても
2017年に何があったのかを思い出すことも困難です。
それと比べると、自分が今年何をしたかはスムーズに思い出されます。
自分にとってインパクトの大きかったものは特にそうです。
その意味では、今年は僕にとって
少し節目のタイミングだったような気がしてきました。
これまでの流れが一区切りついて
新しいことが始まったような印象です。
NLPを始めて丸12年が経ちましたし。
干支も一周したせいで、そんな風に感じるのでしょうか。
実際、ロシア語やジム通いなど、
新しく始めた小さいものも色々とあります。
それらが直接の「新しいこと」というわけではなく
むしろ新しい動きの一部といったことなのではないかと感じています。
今やっていることが先々でどうなっていくのかは知る由もありませんし、
もちろん、これまでのことをやめるという話でもありません。
それでも「これまでの直接的な延長線上のまま」というよりも、
「今までにないことを始めた」といった雰囲気のようなんです。
語学として新しいものを身につけていく実感や
身体を動かすことで健康度やパフォーマンスが上がる実感など、
実りのありそうなことをやれるのは意外と楽しいものですし。
もっと本格的に努力をしたい気持ちもある一方で、
必要性がないために、それもイマイチ踏み出せていません。
動き始めでフラフラしているような状態なのかもしれません。
焦りはないので、どんなことが起きるのか、
どんな気持ちが自分の中に湧いてくるのか、
自分は何をしたくなるのか…、
そういったところまで幅広く含めて
この先の展開を楽しみにしておきたいと思います。
まずは年末年始の期間で心身のリセットをしておくつもりです。
整体と運動のおかげで、体調を崩すことはなくて済むんじゃないか
と期待しているので、気分のリフレッシュが優先になりそうです。
2017年12月03日
世のため人のため
先日、ある著名な仏教の僧侶の講演会に行ってみました。
医師をやっていた時期があるせいか
講演のスタイルはスライドを使ったプレゼンという感じ。
多くの学術的なデータを示しながら
「いかに瞑想やマインドフルネスが有効か」
を示す趣旨だったように思います。
もちろん、そのあとで実際に瞑想をする時間もありましたが。
そのうえで、生きる上での指針のようなものとして
思いやりや慈しみの重要性も説明していました。
瞑想はそれらを育む手段でもあるような位置づけだったと思います。
いずれにしても「幸せに生きるのに役立つもの」として
瞑想や思いやりを実践していきましょう、という位置づけなんでしょう。
本人は長く修行を積んできているそうですが、
こうした教えの内容を本人がどのように捉えているのかは
聴いているだけでは分かりませんでした。
もしかすると教えていることは一般向けに分かりやすいものだけにして
自分でやっていることは違う可能性もあります。
西洋的な価値基準が一般的になっている社会で
仏教的な内容を伝えようとすると、受け入れてもらうための工夫として
一般的な発想に合わせる形でアピールするのが必要なのではないか、と。
実際の中心的な教えとは異なる部分もあるけれど
多くの人に伝わりやすくするために、あえて入門的なものとして
本来とは違った角度を追加しているかもしれない、ということです。
その顕著な特徴が「役に立つ」という部分。
集中力が上がるとか、仕事の成果が上がるとか、
鬱が回復するとか、病気になりにくいとか、幸福度が上がるとか…。
そういう現実的な『メリット』を強調することで
瞑想に取り組むモチベーションを高める伝え方をしていました。
そういう理由がないと現代社会の人は実践しないでしょう。
興味すら持ってもらえないことが多いと思われます。
また、そうした現実的なメリットの部分を強調しておけば
瞑想やマインドフルネスが『方法』として有効だという話になって
その奥にある教えの部分まで取り入れる必要性は見えなくなります。
大げさに言えば、例えばキリスト教が主流のアメリカ社会だと
仏教として教えを広めようとしたら宗教的な話が避けられないでしょう。
それが瞑想やマインドフルネスという手法の話になれば
信念の部分はそのままにしておくことも可能です。
受け入れてもらいやすいと考えられます。
角度を変えて言えば、それだけ
瞑想やマインドフルネスを広めようとしている
という意図があるとも考えられそうです。
実践すれば本人にとってメリットがある。
幸せになったり、楽になったり、人間関係が良くなったり。
と同時に、それで気づきと思いやりが育まれれば
社会全体にも影響が出るだろう。
そういう話は実際に出ていました。
世の中を変えたいようではあったんです。
だから講演活動にも積極的なのだろうとは窺えます。
現実的なメリットをアピールして動機づけることで
瞑想やマインドフルネスに取り組んでもらって
本人や社会が幸せで思いやりのあるものになってもらいたい…
といった趣旨があるのかもしれません。
実用的な視点があるように感じました。
僕には社会を変えたい想いはありませんが
こういう人たちが活動していることもまた
世の中にとって自然な動きなのだろうと思います。
なんとも色々と考えさせられる機会でした。
医師をやっていた時期があるせいか
講演のスタイルはスライドを使ったプレゼンという感じ。
多くの学術的なデータを示しながら
「いかに瞑想やマインドフルネスが有効か」
を示す趣旨だったように思います。
もちろん、そのあとで実際に瞑想をする時間もありましたが。
そのうえで、生きる上での指針のようなものとして
思いやりや慈しみの重要性も説明していました。
瞑想はそれらを育む手段でもあるような位置づけだったと思います。
いずれにしても「幸せに生きるのに役立つもの」として
瞑想や思いやりを実践していきましょう、という位置づけなんでしょう。
本人は長く修行を積んできているそうですが、
こうした教えの内容を本人がどのように捉えているのかは
聴いているだけでは分かりませんでした。
もしかすると教えていることは一般向けに分かりやすいものだけにして
自分でやっていることは違う可能性もあります。
西洋的な価値基準が一般的になっている社会で
仏教的な内容を伝えようとすると、受け入れてもらうための工夫として
一般的な発想に合わせる形でアピールするのが必要なのではないか、と。
実際の中心的な教えとは異なる部分もあるけれど
多くの人に伝わりやすくするために、あえて入門的なものとして
本来とは違った角度を追加しているかもしれない、ということです。
その顕著な特徴が「役に立つ」という部分。
集中力が上がるとか、仕事の成果が上がるとか、
鬱が回復するとか、病気になりにくいとか、幸福度が上がるとか…。
そういう現実的な『メリット』を強調することで
瞑想に取り組むモチベーションを高める伝え方をしていました。
そういう理由がないと現代社会の人は実践しないでしょう。
興味すら持ってもらえないことが多いと思われます。
また、そうした現実的なメリットの部分を強調しておけば
瞑想やマインドフルネスが『方法』として有効だという話になって
その奥にある教えの部分まで取り入れる必要性は見えなくなります。
大げさに言えば、例えばキリスト教が主流のアメリカ社会だと
仏教として教えを広めようとしたら宗教的な話が避けられないでしょう。
それが瞑想やマインドフルネスという手法の話になれば
信念の部分はそのままにしておくことも可能です。
受け入れてもらいやすいと考えられます。
角度を変えて言えば、それだけ
瞑想やマインドフルネスを広めようとしている
という意図があるとも考えられそうです。
実践すれば本人にとってメリットがある。
幸せになったり、楽になったり、人間関係が良くなったり。
と同時に、それで気づきと思いやりが育まれれば
社会全体にも影響が出るだろう。
そういう話は実際に出ていました。
世の中を変えたいようではあったんです。
だから講演活動にも積極的なのだろうとは窺えます。
現実的なメリットをアピールして動機づけることで
瞑想やマインドフルネスに取り組んでもらって
本人や社会が幸せで思いやりのあるものになってもらいたい…
といった趣旨があるのかもしれません。
実用的な視点があるように感じました。
僕には社会を変えたい想いはありませんが
こういう人たちが活動していることもまた
世の中にとって自然な動きなのだろうと思います。
なんとも色々と考えさせられる機会でした。