2018年11月
2018年11月28日
歯ブラシ買いました
先日、テレビの深夜番組で
歯ブラシの専門店か何かをやっているマニアの人が
色々な歯ブラシについて紹介していたんです。
その中で『エンジェルマイクロブラシ』というのが出ていて
とても興味を惹かれました。
というよりも僕が歯ブラシに対して考えていた不満を
ようやく解決してくれる形の歯ブラシだったんです。
ポイントは一点だけ。
毛の数が多くて、密集している。
筆とか刷毛とかのように、細い毛が隙間なく束ねられています。
そしてそれがブラシの面積全面に。
衣類用のブラシとか、馬のブラッシングをするときのものとか
ときどきブラシ面積全体に毛が密集しているのがありますが
あんな感じになっているわけです。
なぜこれを僕が歯ブラシに求めていたかというと、
一般的な毛の量だと、歯の表面を一回こすっただけでは
毛が触れていないところが出てしまって、
その部分は歯垢がかき出されないような気がするからです。
実際、多くの人はだからこそ、何度もゴシゴシと往復するわけでしょう。
個人的な発想としては、広い面積(といっても歯一本分の表面とか)
から汚れを取る目的だとしたら、不織布か何かを指に巻いて
それで擦ったほうが早く歯垢が取れるような印象があったんです。
歯と歯の隙間は細かい毛の歯ブラシが必要になりますが。
その点、毛が密集して生えている歯ブラシだと
1ストロークで、面積全体をカバーできそうに思えます。
ゆっくりそーっと動かしても汚れを取れるんじゃないか、と。
優しい歯磨きができそうな気がします。
ということで早速、購入してみました。
使ってみると、なかなかいい感じです。
毛は一般的な歯ブラシよりも細くて、柔らかい感じ。
歯と歯茎の境目なんかも安心して扱えそうです。
とはいえ、毛が非常に柔らかいので
早く痛みそうな印象もあります。
あまり急いでゴシゴシやるには向かないかもしれません。
大雑把に一般的な歯ブラシと歯磨き粉で磨いたあと、
丁寧に水だけで磨き残しをカバーするような使い方が
良いのではないかと感じているところです。
一般的な歯ブラシよりも高額ですが、
毎日の作業だと考えると大したことはないでしょう。
それにしてもテレビで紹介されると、
深夜番組でも影響が大きいんですね。
僕も買っている側ですから、人のことは言えませんが
楽天経由で買った店舗からは
「注文が集中して発送が遅れます」
という連絡も来ていました。
在庫の問題というよりは、発送作業の問題だったのでしょう。
人手が追いつかないんだと思われます。
その後、どれぐらいの人が使い続けるのかは分かりませんが
最初に知ってもらう上では、テレビは効果的なようです。
エンジェルマイクロブラシ 1本 キャップ付き 【メール便可 6本まで】
歯ブラシの専門店か何かをやっているマニアの人が
色々な歯ブラシについて紹介していたんです。
その中で『エンジェルマイクロブラシ』というのが出ていて
とても興味を惹かれました。
というよりも僕が歯ブラシに対して考えていた不満を
ようやく解決してくれる形の歯ブラシだったんです。
ポイントは一点だけ。
毛の数が多くて、密集している。
筆とか刷毛とかのように、細い毛が隙間なく束ねられています。
そしてそれがブラシの面積全面に。
衣類用のブラシとか、馬のブラッシングをするときのものとか
ときどきブラシ面積全体に毛が密集しているのがありますが
あんな感じになっているわけです。
なぜこれを僕が歯ブラシに求めていたかというと、
一般的な毛の量だと、歯の表面を一回こすっただけでは
毛が触れていないところが出てしまって、
その部分は歯垢がかき出されないような気がするからです。
実際、多くの人はだからこそ、何度もゴシゴシと往復するわけでしょう。
個人的な発想としては、広い面積(といっても歯一本分の表面とか)
から汚れを取る目的だとしたら、不織布か何かを指に巻いて
それで擦ったほうが早く歯垢が取れるような印象があったんです。
歯と歯の隙間は細かい毛の歯ブラシが必要になりますが。
その点、毛が密集して生えている歯ブラシだと
1ストロークで、面積全体をカバーできそうに思えます。
ゆっくりそーっと動かしても汚れを取れるんじゃないか、と。
優しい歯磨きができそうな気がします。
ということで早速、購入してみました。
使ってみると、なかなかいい感じです。
毛は一般的な歯ブラシよりも細くて、柔らかい感じ。
歯と歯茎の境目なんかも安心して扱えそうです。
とはいえ、毛が非常に柔らかいので
早く痛みそうな印象もあります。
あまり急いでゴシゴシやるには向かないかもしれません。
大雑把に一般的な歯ブラシと歯磨き粉で磨いたあと、
丁寧に水だけで磨き残しをカバーするような使い方が
良いのではないかと感じているところです。
一般的な歯ブラシよりも高額ですが、
毎日の作業だと考えると大したことはないでしょう。
それにしてもテレビで紹介されると、
深夜番組でも影響が大きいんですね。
僕も買っている側ですから、人のことは言えませんが
楽天経由で買った店舗からは
「注文が集中して発送が遅れます」
という連絡も来ていました。
在庫の問題というよりは、発送作業の問題だったのでしょう。
人手が追いつかないんだと思われます。
その後、どれぐらいの人が使い続けるのかは分かりませんが
最初に知ってもらう上では、テレビは効果的なようです。
エンジェルマイクロブラシ 1本 キャップ付き 【メール便可 6本まで】
2018年11月25日
自転車
そういえば、11月の頭に渡米していたとき
久しぶりに自転車に乗ったんです。
よく言う話ですが、運動のやり方は忘れないというのが実感されました。
バランスを取るのも、ハンドル操作も全く問題ありませんでした。
ペダルをこぐのだけは、エアロバイクでやっていますが。
ただ、自転車を借りたのがホテルのもので
無料貸し出しのヤツだったせいか質がよろしくなかったんです。
そんなに滅茶苦茶ボロボロなわけではありません。
どこでもレンタル自転車なんて、そんなに高品質ではないでしょう。
比較として最近増え始めているレンタルサイクルのシステムを見ると
そちらのほうが設備がしっかりしているようではあります。
レンタルサイクルのほうはお金を払うわけですから
維持のためのコストもかけられるはずなので
クオリティが高めになるのは当然かもしれません。
日本にも時々レンタルサイクルのスタンドがありますが
コロラドは特に観光地だったせいか
かなりそちらのレンタルサイクルは量が充実していました。
料金もそこそこする上に、使い勝手はよろしくなくて
とりわけ僕の場合、クレジットカードが対応していないらしく
なぜか支払いができなかったんです。
なのでホテルで無料の自転車を借りられるのは助かりました。
ところが、借りてみると驚いたことに
ブレーキレバーがついていないんです。
置かれている全ての自転車に。
しかしそれを堂々と貸しているということは
法的には問題がない形になっているはず。
ということで駐車場内で試しに乗ってみました。
が、やはり止まりません。
危うく転びかけました。
念のため足を地面について停車できるようにとサドルを下げ、
もう一度挑戦してみることに。
もしかしたら自然にブレーキがかかったりするかも…、と思いきや
どうやらペダルを逆回転させると後輪にロックがかかる仕組みらしい。
いくらか”遊び”がありますから、
ペダルとタイヤが直結なわけではありません。
漕がずに、逆回転もしなければ、フリーの状態になって
慣性で走り続けることもできるようでした。
(だから最初に転びそうになったんですが)
とはいえ、ブレーキをかけるためにペダルを逆回転させるのは
初めての体験です。
厄介なのは、タイヤにロックがかかるということ。
ハンドルについているブレーキであれば
圧の強さを変えることでブレーキの利き具合を調整できます。
ところが、その自転車では「ブレーキ=後輪がロック」なんです。
車でいうと、サイドブレーキみたいなものでしょう。
サイドブレーキだけで車を運転するのは
なかなか怖いものだと想像してもらえるんじゃないかと思います。
結局、こまめにブレーキと解除を繰り返し
徐々にスピードを緩めるという方法に辿り着きました。
慣れるまでには結構な時間がかかりました。
直感的にもハンドルにブレーキが着いていないのは心細くもありましたし。
なんだか体力的なことより、緊張が強くて精神的に疲れた気がします。
もしかしてアメリカの自転車は、このタイプのブレーキが主流なのか?
と走りながら、すれ違う自転車を見てみましたが、結局
ハンドルにブレーキレバーが無い自転車は見かけませんでした。
アメリカでもマイナーなスタイルなんでしょう。
日本でこんな自転車に乗っていたら、多分
警察官に止められると思います。
とはいえ、そんな不思議な仕組みの自転車でも
同じ自転車として乗りこなすことができるというのは
人間の学習能力の汎用性を感じさせてくれました。
原理が同じであれば、一か所ぐらい違っているところがあっても
そこは意識的に取り組むことで対応できるみたいです。
複数個所を心がけないといけなかったとすると
もっと大変だったんじゃないかと想像しています。
なかなか新鮮な体験でした。
まぁ、安全性から言えば
推進力を生み出すペダルの部分と
制止させるためのブレーキの部分は、
別の個所で分割して対応させた方がスムーズでしょう。
手と足で分業する一般的な自転車は
足だけで2つの作業をする種類よりも
理にかなっているんじゃないでしょうか。
久しぶりに自転車に乗ったんです。
よく言う話ですが、運動のやり方は忘れないというのが実感されました。
バランスを取るのも、ハンドル操作も全く問題ありませんでした。
ペダルをこぐのだけは、エアロバイクでやっていますが。
ただ、自転車を借りたのがホテルのもので
無料貸し出しのヤツだったせいか質がよろしくなかったんです。
そんなに滅茶苦茶ボロボロなわけではありません。
どこでもレンタル自転車なんて、そんなに高品質ではないでしょう。
比較として最近増え始めているレンタルサイクルのシステムを見ると
そちらのほうが設備がしっかりしているようではあります。
レンタルサイクルのほうはお金を払うわけですから
維持のためのコストもかけられるはずなので
クオリティが高めになるのは当然かもしれません。
日本にも時々レンタルサイクルのスタンドがありますが
コロラドは特に観光地だったせいか
かなりそちらのレンタルサイクルは量が充実していました。
料金もそこそこする上に、使い勝手はよろしくなくて
とりわけ僕の場合、クレジットカードが対応していないらしく
なぜか支払いができなかったんです。
なのでホテルで無料の自転車を借りられるのは助かりました。
ところが、借りてみると驚いたことに
ブレーキレバーがついていないんです。
置かれている全ての自転車に。
しかしそれを堂々と貸しているということは
法的には問題がない形になっているはず。
ということで駐車場内で試しに乗ってみました。
が、やはり止まりません。
危うく転びかけました。
念のため足を地面について停車できるようにとサドルを下げ、
もう一度挑戦してみることに。
もしかしたら自然にブレーキがかかったりするかも…、と思いきや
どうやらペダルを逆回転させると後輪にロックがかかる仕組みらしい。
いくらか”遊び”がありますから、
ペダルとタイヤが直結なわけではありません。
漕がずに、逆回転もしなければ、フリーの状態になって
慣性で走り続けることもできるようでした。
(だから最初に転びそうになったんですが)
とはいえ、ブレーキをかけるためにペダルを逆回転させるのは
初めての体験です。
厄介なのは、タイヤにロックがかかるということ。
ハンドルについているブレーキであれば
圧の強さを変えることでブレーキの利き具合を調整できます。
ところが、その自転車では「ブレーキ=後輪がロック」なんです。
車でいうと、サイドブレーキみたいなものでしょう。
サイドブレーキだけで車を運転するのは
なかなか怖いものだと想像してもらえるんじゃないかと思います。
結局、こまめにブレーキと解除を繰り返し
徐々にスピードを緩めるという方法に辿り着きました。
慣れるまでには結構な時間がかかりました。
直感的にもハンドルにブレーキが着いていないのは心細くもありましたし。
なんだか体力的なことより、緊張が強くて精神的に疲れた気がします。
もしかしてアメリカの自転車は、このタイプのブレーキが主流なのか?
と走りながら、すれ違う自転車を見てみましたが、結局
ハンドルにブレーキレバーが無い自転車は見かけませんでした。
アメリカでもマイナーなスタイルなんでしょう。
日本でこんな自転車に乗っていたら、多分
警察官に止められると思います。
とはいえ、そんな不思議な仕組みの自転車でも
同じ自転車として乗りこなすことができるというのは
人間の学習能力の汎用性を感じさせてくれました。
原理が同じであれば、一か所ぐらい違っているところがあっても
そこは意識的に取り組むことで対応できるみたいです。
複数個所を心がけないといけなかったとすると
もっと大変だったんじゃないかと想像しています。
なかなか新鮮な体験でした。
まぁ、安全性から言えば
推進力を生み出すペダルの部分と
制止させるためのブレーキの部分は、
別の個所で分割して対応させた方がスムーズでしょう。
手と足で分業する一般的な自転車は
足だけで2つの作業をする種類よりも
理にかなっているんじゃないでしょうか。
2018年11月22日
12/23 コミュニケーション講座
変な時期ですが12/23(日)に
コミュニケーション講座をやります。
正式なご案内は近日中に出すつもりです。
どうも周りを見ていると
もっとコミュニケーションのレベルで工夫できるところが
多いように感じます。
特にメッセージの伝え方。
表現の仕方。
自分がどのように相手へ届けるか、という部分です。
ここで随分と損をしている人が多いのではないでしょうか。
しかも技術や理論を学んだがあまりに、
という残念なケースまで…。
アメリカ由来のコミュニケーション技術の中には
あまりにアメリカ文化で自然で当然なことを前提としていて、
そのせいで、その前提を強調していないことがあります。
例えば、
ポジティブなメッセージを身体的なコンタクトで示す
などです。
これは自然に行われること。
誰もがやる。
日本で言えば、
相手の言葉の行間を想像する
といった感じ。
これは当然やることなので、
日本人同士のコミュニケーションでは
相手の話が論理的に飛躍していたり、省略が多かったりしたら
聞く側が補いながら理解することになっています。
むしろ一字一句丁寧に質問して明確するほうが嫌がられる。
飛躍のない丁寧な説明は、逆にクドイとされる。
アメリカ人からすると、
「それ、どういうこと?」という話も
日本人同士なら聞く側が補って成立するんです。
このやり方が問題なのではありません。
あくまで文化の違いです。
問題は、文化として当然すぎて
その部分をわざわざ「大事なこと」として誰も説明しない、
ということなんです。
日本人がコミュニケーションを教えるときに
「相手の話に自分のわからないことがあったら
自分の経験や知識を利用して、想像しながら補いましょう」
という説明は出てきません。
技術にするのは、それ以外の部分ですし、
この背景だからこそ役に立つ技術が紹介されやすいわけです。
例えば、気持ちを汲み取って代弁するように「ねぎらう」とか。
「どんな気持ちでしたか?」と直接的に質問するのは
アメリカ由来の技術としては自然でも日本文化では、
「汲み取れていない」ことの表明にさえなりかねません。
明らかに悲しそうな様子を示している相手に
「どんな気持ちでしたか?」
ー「悲しかったんです」
「悲しかったんですね」
というのは、
日本文化からすると野暮に受け取られるリスクもあります。
質問することもなく
「それは悲しかったですね」
と気持ちを代弁してもらったほうが
分かってもらえた気持ちが強く感じられやすいのは、
そういう交流が文化に根づいているからでしょう。
あえて自立を促す目的で質問するスタンスもありますが、
分かってもらえる安心感を意図するのだとしたら
汲み取るほうが日本文化には自然かもしれない、
という話です。
同様にアメリカ文化では、愛情や信頼、思いやりを
身体的な接触で示すことがある。
これはわざわざ言わなくても自然とされているので
技術の中には含まれないわけです。
なので、
アメリカからコミュニケーション技術が輸入されるとき
こうしたポジティブなメッセージの示し方は含まれません。
むしろこういうポジティブなメッセージが行われている前提で
自立を促すような言語的メッセージの表現方法が
技術として紹介されるようです。
つまり普段からポジティブなメッセージが多いから
自立を促す言語メッセージがあっても
自立とサポートのバランスが取れる、
という実態が表に出てこない、と。
この前提なしで、
ポジティブなメッセージが少なめの日本文化の中で
自立を促す言語メッセージだけを使うと、
ポジティブなメッセージがないだけに
なんだか「突き離された感じ」が出てしまったり…。
このように文化的な前提を考慮せずに
技術だけを急に使おうとすると
日常では合わないケースも出てきかねません。
だからこそ使いどころの工夫が求められるはずなんです。
この辺りの表現方法の工夫を今回のテーマにする予定です。
適切に伝える方法。
自分の想いを過不足なく表し、
かつ
相手への影響も考慮したメッセージの作り方です。
これができると、揉め事が起きにくくなります。
趣旨に沿ってスムーズに物事が進行しやすくなる。
人に依頼をしたり、指示をしたり、教育したりする場合は
とくに役に立つはずです。
ということで、
相手の技術や能力を育成し
かつ
相手との関係性を向上させる
コミュニケーションの方法、
『育むコミュニケーション』
をテーマとしようと思います。
詳しくはまた後日。
興味があれば12/23をご検討ください。
コミュニケーション講座をやります。
正式なご案内は近日中に出すつもりです。
どうも周りを見ていると
もっとコミュニケーションのレベルで工夫できるところが
多いように感じます。
特にメッセージの伝え方。
表現の仕方。
自分がどのように相手へ届けるか、という部分です。
ここで随分と損をしている人が多いのではないでしょうか。
しかも技術や理論を学んだがあまりに、
という残念なケースまで…。
アメリカ由来のコミュニケーション技術の中には
あまりにアメリカ文化で自然で当然なことを前提としていて、
そのせいで、その前提を強調していないことがあります。
例えば、
ポジティブなメッセージを身体的なコンタクトで示す
などです。
これは自然に行われること。
誰もがやる。
日本で言えば、
相手の言葉の行間を想像する
といった感じ。
これは当然やることなので、
日本人同士のコミュニケーションでは
相手の話が論理的に飛躍していたり、省略が多かったりしたら
聞く側が補いながら理解することになっています。
むしろ一字一句丁寧に質問して明確するほうが嫌がられる。
飛躍のない丁寧な説明は、逆にクドイとされる。
アメリカ人からすると、
「それ、どういうこと?」という話も
日本人同士なら聞く側が補って成立するんです。
このやり方が問題なのではありません。
あくまで文化の違いです。
問題は、文化として当然すぎて
その部分をわざわざ「大事なこと」として誰も説明しない、
ということなんです。
日本人がコミュニケーションを教えるときに
「相手の話に自分のわからないことがあったら
自分の経験や知識を利用して、想像しながら補いましょう」
という説明は出てきません。
技術にするのは、それ以外の部分ですし、
この背景だからこそ役に立つ技術が紹介されやすいわけです。
例えば、気持ちを汲み取って代弁するように「ねぎらう」とか。
「どんな気持ちでしたか?」と直接的に質問するのは
アメリカ由来の技術としては自然でも日本文化では、
「汲み取れていない」ことの表明にさえなりかねません。
明らかに悲しそうな様子を示している相手に
「どんな気持ちでしたか?」
ー「悲しかったんです」
「悲しかったんですね」
というのは、
日本文化からすると野暮に受け取られるリスクもあります。
質問することもなく
「それは悲しかったですね」
と気持ちを代弁してもらったほうが
分かってもらえた気持ちが強く感じられやすいのは、
そういう交流が文化に根づいているからでしょう。
あえて自立を促す目的で質問するスタンスもありますが、
分かってもらえる安心感を意図するのだとしたら
汲み取るほうが日本文化には自然かもしれない、
という話です。
同様にアメリカ文化では、愛情や信頼、思いやりを
身体的な接触で示すことがある。
これはわざわざ言わなくても自然とされているので
技術の中には含まれないわけです。
なので、
アメリカからコミュニケーション技術が輸入されるとき
こうしたポジティブなメッセージの示し方は含まれません。
むしろこういうポジティブなメッセージが行われている前提で
自立を促すような言語的メッセージの表現方法が
技術として紹介されるようです。
つまり普段からポジティブなメッセージが多いから
自立を促す言語メッセージがあっても
自立とサポートのバランスが取れる、
という実態が表に出てこない、と。
この前提なしで、
ポジティブなメッセージが少なめの日本文化の中で
自立を促す言語メッセージだけを使うと、
ポジティブなメッセージがないだけに
なんだか「突き離された感じ」が出てしまったり…。
このように文化的な前提を考慮せずに
技術だけを急に使おうとすると
日常では合わないケースも出てきかねません。
だからこそ使いどころの工夫が求められるはずなんです。
この辺りの表現方法の工夫を今回のテーマにする予定です。
適切に伝える方法。
自分の想いを過不足なく表し、
かつ
相手への影響も考慮したメッセージの作り方です。
これができると、揉め事が起きにくくなります。
趣旨に沿ってスムーズに物事が進行しやすくなる。
人に依頼をしたり、指示をしたり、教育したりする場合は
とくに役に立つはずです。
ということで、
相手の技術や能力を育成し
かつ
相手との関係性を向上させる
コミュニケーションの方法、
『育むコミュニケーション』
をテーマとしようと思います。
詳しくはまた後日。
興味があれば12/23をご検討ください。
2018年11月19日
Web上でミーティング
最近、Zoomというビデオチャットのシステムで
打ち合わせをする機会が増えてきました。
Skypeみたいなものですが、そちらよりも接続が良いとか
音質や画質が良いとか、大人数で使えるとか、
そういったメリットがあるそうです。
また、画面共有だとかもできるようですが、
そこまでしなくてもメールやメッセンジャーでファイルを送って
同じものを見ながら話し合うこともできます。
(こちらはSkypeでもできると思いますが)
特に、僕は自宅のパソコンとしてノート型を使っていて
外付けで大きめのモニターを1つ追加しているので、
片方の画面でZoomを立ち上げながら
もう一方の画面で調べ物をしたりファイルを確認したり、
メモを書き込んだり、といった作業も可能になります。
これはなかなか便利だと感じます。
一方、非言語的なコミュニケーションのことを意識すると
やはりパフォーマンスには若干の差を感じるところも。
Zoomを使ったセミナーとか、オンラインのセッションとか
そういったことをしている人もいるそうですが
対面とは実用面で違いがあるのは避けられないのかもしれません。
特に僕の場合、ノートパソコンをメインに使っていて、
Zoomがビデオチャットのために使用するカメラとマイクの機能も
ノートパソコンに付属しているものとなっていますから、
どうしてもノートパソコン側に向かって対話する必要があります。
すると、実物よりも画面が小さく見えます。
これだとキャッチできる情報量が少ないような気がするんです。
単純に意識が相手に集中しにくいところも関係しそうです。
色々なものに目が移ってしまいがちです。
かといって良く見ようとすると、パソコン画面に近づき過ぎる。
これだと相手の画面には、僕の顔のアップがデカデカと映るはずです。
相手側も顔ばかり見たいわけじゃないでしょうし、
むしろジェスチャーだとかが見られないのはやりにくいでしょう。
相手の画面が大きかったら、相当に威圧感も出てしまいそうですし。
と考えると、僕もZoom用に大型モニターと
そこに設置できるWebカメラを併用してやれば
自分が離れた位置からでも相手の様子を良く見られるかもしれません。
中にはカメラ内蔵のモニターもあるようですし。
アメリカ人がやっているセミナーなどの教育サービスだと
だんだんとオンライン形式が増えているように感じます。
動画配信と質疑応答のWebサイトの組み合わせとか
Zoomミーティングと動画の組み合わせとか。
Zoomにすると離れたところの受講生同士が
ペアでワークをしたりもするみたいです。
アメリカは国土が広いために、電話コーチングから始まり
Skypeセッションとかオンラインセミナーとか
距離の問題を超えられる工夫が速く進んでいるように見えます。
英語が共通語として機能しやすいところも
世界中からのアクセスが可能なオンラインサービスが
進歩しやすい理由なのかもしれません。
僕もオンラインでもキャッチできる情報量を増やして
時代の流れに乗っていく必要がありそうな気がしてきました。
打ち合わせをする機会が増えてきました。
Skypeみたいなものですが、そちらよりも接続が良いとか
音質や画質が良いとか、大人数で使えるとか、
そういったメリットがあるそうです。
また、画面共有だとかもできるようですが、
そこまでしなくてもメールやメッセンジャーでファイルを送って
同じものを見ながら話し合うこともできます。
(こちらはSkypeでもできると思いますが)
特に、僕は自宅のパソコンとしてノート型を使っていて
外付けで大きめのモニターを1つ追加しているので、
片方の画面でZoomを立ち上げながら
もう一方の画面で調べ物をしたりファイルを確認したり、
メモを書き込んだり、といった作業も可能になります。
これはなかなか便利だと感じます。
一方、非言語的なコミュニケーションのことを意識すると
やはりパフォーマンスには若干の差を感じるところも。
Zoomを使ったセミナーとか、オンラインのセッションとか
そういったことをしている人もいるそうですが
対面とは実用面で違いがあるのは避けられないのかもしれません。
特に僕の場合、ノートパソコンをメインに使っていて、
Zoomがビデオチャットのために使用するカメラとマイクの機能も
ノートパソコンに付属しているものとなっていますから、
どうしてもノートパソコン側に向かって対話する必要があります。
すると、実物よりも画面が小さく見えます。
これだとキャッチできる情報量が少ないような気がするんです。
単純に意識が相手に集中しにくいところも関係しそうです。
色々なものに目が移ってしまいがちです。
かといって良く見ようとすると、パソコン画面に近づき過ぎる。
これだと相手の画面には、僕の顔のアップがデカデカと映るはずです。
相手側も顔ばかり見たいわけじゃないでしょうし、
むしろジェスチャーだとかが見られないのはやりにくいでしょう。
相手の画面が大きかったら、相当に威圧感も出てしまいそうですし。
と考えると、僕もZoom用に大型モニターと
そこに設置できるWebカメラを併用してやれば
自分が離れた位置からでも相手の様子を良く見られるかもしれません。
中にはカメラ内蔵のモニターもあるようですし。
アメリカ人がやっているセミナーなどの教育サービスだと
だんだんとオンライン形式が増えているように感じます。
動画配信と質疑応答のWebサイトの組み合わせとか
Zoomミーティングと動画の組み合わせとか。
Zoomにすると離れたところの受講生同士が
ペアでワークをしたりもするみたいです。
アメリカは国土が広いために、電話コーチングから始まり
Skypeセッションとかオンラインセミナーとか
距離の問題を超えられる工夫が速く進んでいるように見えます。
英語が共通語として機能しやすいところも
世界中からのアクセスが可能なオンラインサービスが
進歩しやすい理由なのかもしれません。
僕もオンラインでもキャッチできる情報量を増やして
時代の流れに乗っていく必要がありそうな気がしてきました。
2018年11月16日
もう一度ご案内:札幌セミナー【怒りの取り扱いマニュアル】
もう一か月を切っていますが、
補足としてお知らせをしておきます。
12月8日、9日の土日で
「怒りの取り扱い」をテーマとした講座を札幌で行います。
詳しくはこちらをご覧ください。
内容としては、「怒り」というものの性質を
しっかりと理解し直すところから始める予定です。
これは他人の怒りと関わるうえでも注意すべきポイントになります。
怒りが出ているということは、いったい
心の中で何が起きているからなのか?
それを知っておくだけでも、
何に気をつけて怒っている人と関わればいいか
の方針が見つかります。
また、多くの人は怒りと、その他の類似した感情も
あまり明確に区別していません。
怒りと不満、憤り、苛立ち、敵意などは、どのように違うのか?
性質に違いがあるのですから、対処の仕方にも違いが生まれます。
そのあたりも扱っていく予定です。
さらに、怒りの対処と関連して重要なテーマとして
「ゆるし」も2日目に取り扱います。
実のところ、「ゆるす」ということを実感的に
また知的に、適切な理解をしている人は極めて少ないようです。
例えば、ドラマとか映画とかで登場人物が
「ゆるさないぞ!」なんて言う場面がありますが、
これは「ゆるす」ということについての一般的な理解を
象徴的に示していると思われます。
つまり「ゆるさない」が1つの行為なんです。
「ゆるさない」=「ただでは済まさない、仕返しする」
「ゆるさない」=「償わせる」
といった内容が想定されている、と。
こうした具体的な内容と結びついた「ゆるさない」という動詞に
反対語として「ゆるす」が設定されがちなようです。
つまり「ゆるさない」という動詞が肯定形の表現で存在して
「仕返しする」、「償わせる」と同義になっている。
そして、「ゆるさない」の否定形として「”ゆるさない”をしない」ことが
「ゆるす」となる、と。
ですから「仕返しをしたい気持ちを抑える」とか
「償いを求める気持ちを抑える」といったことが
「ゆるす」という行為として理解されがちなんです。
言い換えると、
表面上に見てとれる具体的な行為として
相手に対して何かを働きかけるのを制止する
ということです。
裏を返せば、行動としては表現していなくても
心の内側には怒りの状態が残っていることが多い、ともいえます。
むしろ「大目に見る」に近い感じ。
これは「手放す」とか「あきらめる」にも言えることですが。
「手放します」という宣言とか、「あきらめよう」といった考えは、
まだ「手放し」や「あきらめ」には辿り着いていない段階に起こります。
「手放せた」「あきらめた」という過去形になったとき
ようやく「手放し」「あきらめ」が起こったと言えますが、
本当にそうなると、そのことは一切気にならなくなるので
今度は「手放し」とか「あきらめ」といったフレーズは使われなくなります。
自分にとって『どうでもいいもの』についてだとしたら
わざわざ意識に上がることさえなくなるはずです。
本当に『どうでもいい』『どっちでもいい』と実感できた状態が
「手放し」「あきらめ」、さらには「ゆるし」だといえます。
ですから「手放し」も「あきらめ」も「ゆるし」も
辿り着いた段階の状態を説明する単語であって、
行為として「手放す」「あきらめる」「ゆるす」ことを行うのは
実際には、まずあり得ません。
むしろ何らかの経験を通って、最終的に
「手放し」「あきらめ」「ゆるし」の境地に辿り着く、
という性質ものです。
ですから「手放し」「あきらめ」「ゆるし」のために作業としてできるのは
その境地に辿り着くためのルートとして、必要な体験を進める
ということになります。
日常生活では偶然の要素を伴いながら、
たまたま起こる体験を重ねるうちに
仕方なく、その境地に辿り着いてしまうことがあります。
それだと、かなり偶然に頼ることになる。
なので「ゆるしの技法」では、イメージワークを使って
「ゆるし」の境地に辿り着くまでの”過程”を体験する作業をするわけです。
これは日常的にやられる作業ではなく、
心理療法的なアプローチの中でもかなり特別な方法でしょう。
そのあたりを体験していただく予定で講座を計画しています。
札幌にまで来るのは大変だという方もいらっしゃることでしょうが
ご興味とご都合が合いましたら、ご一考ください。
https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2
補足としてお知らせをしておきます。
12月8日、9日の土日で
「怒りの取り扱い」をテーマとした講座を札幌で行います。
詳しくはこちらをご覧ください。
内容としては、「怒り」というものの性質を
しっかりと理解し直すところから始める予定です。
これは他人の怒りと関わるうえでも注意すべきポイントになります。
怒りが出ているということは、いったい
心の中で何が起きているからなのか?
それを知っておくだけでも、
何に気をつけて怒っている人と関わればいいか
の方針が見つかります。
また、多くの人は怒りと、その他の類似した感情も
あまり明確に区別していません。
怒りと不満、憤り、苛立ち、敵意などは、どのように違うのか?
性質に違いがあるのですから、対処の仕方にも違いが生まれます。
そのあたりも扱っていく予定です。
さらに、怒りの対処と関連して重要なテーマとして
「ゆるし」も2日目に取り扱います。
実のところ、「ゆるす」ということを実感的に
また知的に、適切な理解をしている人は極めて少ないようです。
例えば、ドラマとか映画とかで登場人物が
「ゆるさないぞ!」なんて言う場面がありますが、
これは「ゆるす」ということについての一般的な理解を
象徴的に示していると思われます。
つまり「ゆるさない」が1つの行為なんです。
「ゆるさない」=「ただでは済まさない、仕返しする」
「ゆるさない」=「償わせる」
といった内容が想定されている、と。
こうした具体的な内容と結びついた「ゆるさない」という動詞に
反対語として「ゆるす」が設定されがちなようです。
つまり「ゆるさない」という動詞が肯定形の表現で存在して
「仕返しする」、「償わせる」と同義になっている。
そして、「ゆるさない」の否定形として「”ゆるさない”をしない」ことが
「ゆるす」となる、と。
ですから「仕返しをしたい気持ちを抑える」とか
「償いを求める気持ちを抑える」といったことが
「ゆるす」という行為として理解されがちなんです。
言い換えると、
表面上に見てとれる具体的な行為として
相手に対して何かを働きかけるのを制止する
ということです。
裏を返せば、行動としては表現していなくても
心の内側には怒りの状態が残っていることが多い、ともいえます。
むしろ「大目に見る」に近い感じ。
これは「手放す」とか「あきらめる」にも言えることですが。
「手放します」という宣言とか、「あきらめよう」といった考えは、
まだ「手放し」や「あきらめ」には辿り着いていない段階に起こります。
「手放せた」「あきらめた」という過去形になったとき
ようやく「手放し」「あきらめ」が起こったと言えますが、
本当にそうなると、そのことは一切気にならなくなるので
今度は「手放し」とか「あきらめ」といったフレーズは使われなくなります。
自分にとって『どうでもいいもの』についてだとしたら
わざわざ意識に上がることさえなくなるはずです。
本当に『どうでもいい』『どっちでもいい』と実感できた状態が
「手放し」「あきらめ」、さらには「ゆるし」だといえます。
ですから「手放し」も「あきらめ」も「ゆるし」も
辿り着いた段階の状態を説明する単語であって、
行為として「手放す」「あきらめる」「ゆるす」ことを行うのは
実際には、まずあり得ません。
むしろ何らかの経験を通って、最終的に
「手放し」「あきらめ」「ゆるし」の境地に辿り着く、
という性質ものです。
ですから「手放し」「あきらめ」「ゆるし」のために作業としてできるのは
その境地に辿り着くためのルートとして、必要な体験を進める
ということになります。
日常生活では偶然の要素を伴いながら、
たまたま起こる体験を重ねるうちに
仕方なく、その境地に辿り着いてしまうことがあります。
それだと、かなり偶然に頼ることになる。
なので「ゆるしの技法」では、イメージワークを使って
「ゆるし」の境地に辿り着くまでの”過程”を体験する作業をするわけです。
これは日常的にやられる作業ではなく、
心理療法的なアプローチの中でもかなり特別な方法でしょう。
そのあたりを体験していただく予定で講座を計画しています。
札幌にまで来るのは大変だという方もいらっしゃることでしょうが
ご興味とご都合が合いましたら、ご一考ください。
https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2
2018年11月11日
好きだったマンガ
高校生ぐらいから好きで読んでいたマンガに
「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」というのがあります。
贋作者の話で、
芸術作品を中心に、法外な値段で
本物と区別できない複製を作る主人公が
様々な依頼を受ける様子が描かれます。
毎回、かなり詳細な時代考証を含めた話が出てきて
ストーリーとしてだけでなく知的好奇心としても楽しんでいました。
基本的には、無茶苦茶なまでの主人公の能力によって
無理難題が解決されてしまう話なんですが、
勧善懲悪的なところもあって痛快でもあったんです。
一目見ただけで全てを記憶してしまったり、
ギャングに目隠しで連行されても音だけで場所が分かったり、
イタコ的に作者になりきって、完全に本物と同じものを複製したり
(作者本人でも複製は無理だと思うんですが、そこはマンガ)…。
世界中の人を相手にしながら事件や問題解決をしますから
ほとんど全ての言語を使いこなせるというのも特徴。
歴史書とか古文書も読みます。
一話分のストーリーで進む時間を考えると
全78巻の話を一人の人物が体験するには膨大な時間がかかりそうですが
マンガなので主人公はずっと同じ年代のままです。
(幼少期や若い頃のエピソードは出てくる)
まぁ、自分も複製してしまえるので、もしかしたら何人もの主人公が
別々の場所で活躍しているという解釈もあるのかもしれません。
ともあれ、僕はこの漫画がかなりお気に入りでした。
影響を受けたともいえるでしょうし、
そもそも心に響くところがあったともいえそうです。
子供の頃から絵は好きでしたし、芸術は全般に興味があるほうでした。
「美味しんぼ」を読んでも、海原雄山が書、画、料理と幅広く
芸術に才能を発揮する様子に憧れていたものです。
なんとなく「〇〇文明」みたいな考古学的な話に興味を持つことも多く
若干オカルト的なピラミッドの謎みたいのも好きでした。
そういう要素が沢山詰まっているマンガだったんです。
ですが今にして思うと、
自分が現時点でやっていることと共通する部分が含まれるのにも気づきます。
例えば、主人公の超人的な五感の感度。
見たもの、聞いたもの、味わったものは正確に区別できて
それを完全に複製できるという能力が描かれています。
もちろん、僕にそんな能力はありませんが
一般よりは五感の感度は高いほうだと思われます。
そういう訓練をしてきましたし、NLPを通じて敏感になってもいます。
また、NLPの中には「モデリング」という
「他の人のやり方から学ぶ」方法があります。
これもできるだけ本人を再現度高く真似するところがポイントです。
モデリングの趣旨の中には「誰かにできることは他の人にもできる」
という発想が含まれていますから、そこには
本物を「複製する」というマンガのコンセプトに近いものを感じます。
マンガの中では「本物だけが心を打つ」という描写もありますが、
僕自身もNLPにおけるサブモダリティの観点で、
どのように人の心を打つのかというのを考えてきたところもあります。
絵画を見るときは画家の視点に立って見るようにしていますし、
知識ではない絵画鑑賞のポイントには結構自信があります。
そういえば海外に行っても観光は好きではないのに
美術館だけは足を運ぶというのも示唆的に思えます。
そして最近は色々と語学をやっています。
当時はさほど気にしていなかった主人公の能力の1つ、
「あらゆる言語を使いこなす」についても
いつのまにか関連性が出てきたような気がしています。
マンガでは当然、記述はすべて日本語に翻訳された設定となりますが
ときどき挨拶とか呼びかけとか、カタカナで外国語が出ていたんです。
ロシアにいくと「ガスパジン・ゼロ」と呼びかけられる、とか。
(ガスパジンはロシア語におけるMr.のような単語。ゼロは主人公の名前。)
そのあたりの部分が何となく心を捉えていたのかもしれません。
そのころは調べもしませんでしたが、
今こうやって外国語表記の部分が思い出されるということは
なんらかの特別な印象を受けるところだったんだろうとは考えられます。
気に入っていたマンガとか映画とかには、自分の持ち味と関連する何かや
自分の心に深く訴えかける要因が含まれているのかもしれません。
もういちど読み返したら、また何か心に響くところとか
当時は理解できなかったものが理解できるようになっていたりとか
新たな発見があるんじゃないかと思い始めました。
さすがに全78巻は多いと感じますが
もう一度読み返したい気持ちが高まっています。
思えば、このころの僕には好きなマンガが多かったものです。
特にこの「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」が連載されていた
スーパージャンプはお気に入りでした。
「ミキストリ」とか
「緋が走る」とか
「企業戦士YAMAZAKI」とか
「人事課長鬼塚」とか…。
いずれも今考えると、どこが心に響いていたのか納得できるものばかり。
そのころは今のような自分になっていることは想像していませんでしたが。
面白いものですね。
「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」というのがあります。
贋作者の話で、
芸術作品を中心に、法外な値段で
本物と区別できない複製を作る主人公が
様々な依頼を受ける様子が描かれます。
毎回、かなり詳細な時代考証を含めた話が出てきて
ストーリーとしてだけでなく知的好奇心としても楽しんでいました。
基本的には、無茶苦茶なまでの主人公の能力によって
無理難題が解決されてしまう話なんですが、
勧善懲悪的なところもあって痛快でもあったんです。
一目見ただけで全てを記憶してしまったり、
ギャングに目隠しで連行されても音だけで場所が分かったり、
イタコ的に作者になりきって、完全に本物と同じものを複製したり
(作者本人でも複製は無理だと思うんですが、そこはマンガ)…。
世界中の人を相手にしながら事件や問題解決をしますから
ほとんど全ての言語を使いこなせるというのも特徴。
歴史書とか古文書も読みます。
一話分のストーリーで進む時間を考えると
全78巻の話を一人の人物が体験するには膨大な時間がかかりそうですが
マンガなので主人公はずっと同じ年代のままです。
(幼少期や若い頃のエピソードは出てくる)
まぁ、自分も複製してしまえるので、もしかしたら何人もの主人公が
別々の場所で活躍しているという解釈もあるのかもしれません。
ともあれ、僕はこの漫画がかなりお気に入りでした。
影響を受けたともいえるでしょうし、
そもそも心に響くところがあったともいえそうです。
子供の頃から絵は好きでしたし、芸術は全般に興味があるほうでした。
「美味しんぼ」を読んでも、海原雄山が書、画、料理と幅広く
芸術に才能を発揮する様子に憧れていたものです。
なんとなく「〇〇文明」みたいな考古学的な話に興味を持つことも多く
若干オカルト的なピラミッドの謎みたいのも好きでした。
そういう要素が沢山詰まっているマンガだったんです。
ですが今にして思うと、
自分が現時点でやっていることと共通する部分が含まれるのにも気づきます。
例えば、主人公の超人的な五感の感度。
見たもの、聞いたもの、味わったものは正確に区別できて
それを完全に複製できるという能力が描かれています。
もちろん、僕にそんな能力はありませんが
一般よりは五感の感度は高いほうだと思われます。
そういう訓練をしてきましたし、NLPを通じて敏感になってもいます。
また、NLPの中には「モデリング」という
「他の人のやり方から学ぶ」方法があります。
これもできるだけ本人を再現度高く真似するところがポイントです。
モデリングの趣旨の中には「誰かにできることは他の人にもできる」
という発想が含まれていますから、そこには
本物を「複製する」というマンガのコンセプトに近いものを感じます。
マンガの中では「本物だけが心を打つ」という描写もありますが、
僕自身もNLPにおけるサブモダリティの観点で、
どのように人の心を打つのかというのを考えてきたところもあります。
絵画を見るときは画家の視点に立って見るようにしていますし、
知識ではない絵画鑑賞のポイントには結構自信があります。
そういえば海外に行っても観光は好きではないのに
美術館だけは足を運ぶというのも示唆的に思えます。
そして最近は色々と語学をやっています。
当時はさほど気にしていなかった主人公の能力の1つ、
「あらゆる言語を使いこなす」についても
いつのまにか関連性が出てきたような気がしています。
マンガでは当然、記述はすべて日本語に翻訳された設定となりますが
ときどき挨拶とか呼びかけとか、カタカナで外国語が出ていたんです。
ロシアにいくと「ガスパジン・ゼロ」と呼びかけられる、とか。
(ガスパジンはロシア語におけるMr.のような単語。ゼロは主人公の名前。)
そのあたりの部分が何となく心を捉えていたのかもしれません。
そのころは調べもしませんでしたが、
今こうやって外国語表記の部分が思い出されるということは
なんらかの特別な印象を受けるところだったんだろうとは考えられます。
気に入っていたマンガとか映画とかには、自分の持ち味と関連する何かや
自分の心に深く訴えかける要因が含まれているのかもしれません。
もういちど読み返したら、また何か心に響くところとか
当時は理解できなかったものが理解できるようになっていたりとか
新たな発見があるんじゃないかと思い始めました。
さすがに全78巻は多いと感じますが
もう一度読み返したい気持ちが高まっています。
思えば、このころの僕には好きなマンガが多かったものです。
特にこの「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」が連載されていた
スーパージャンプはお気に入りでした。
「ミキストリ」とか
「緋が走る」とか
「企業戦士YAMAZAKI」とか
「人事課長鬼塚」とか…。
いずれも今考えると、どこが心に響いていたのか納得できるものばかり。
そのころは今のような自分になっていることは想像していませんでしたが。
面白いものですね。
2018年11月09日
日米の食生活
アメリカ人の食事を見ていると、一食あたりの量は少なめにさえ見えます。
ホテルの朝食だとしたら、日本人観光客のほうが
平均すると2倍近くとっている印象も。
ただし、アメリカ人の炭水化物の比率は非常に高い。
パンとかワッフルとかビスケットみたいのとか、
そういうのがメインに見えますし、
さらにそこへ甘いシロップとかクリームとかがタップリ。
「フルーツが健康に良い」というビリーフでもあるのか、
果物やジュースも追加されます。
で間食にまた果物とかビスケットとか。
そうして肥満率が上がるのかと思いきや
子供は同じような食事をしていても痩せているんです。
20歳を過ぎたあたりから何かが変わり始めるんでしょうか?
身体への意識が低いのは共通して見られる特徴ですが…。
大人になるほど日常的に動く量は減っていきますから、
座り込んで動かない感じが強いほど脂肪がつきやすいのかもしれません。
それは全体的な運動量というよりも、
意識が行き届いていないことと関係しそうな印象を受けます。
だから顔とか首とバランスが取れないぐらい
胴体ばかりが大きくなりやすいのかも、なんて思ったりもします。
顔周りまでは意識が行き届いているのに対して
胴体への意識が極端に下がっているという話です。
まあ、顔の骨の凹凸が大きいから脂肪がついても目立ちにくいとか、
そもそも顔あたりの脂肪細胞の数が少ないとか、
遺伝的な要因もあるのかもしれませんが。
ただ、観察して言えるのは胴体への意識の低さ。
これはもう圧倒的に日本人と違います。
良くいえば力が抜けているとも解釈できるとはいえ
健康問題とリンクしそうにも思えます。
アメリカの医療問題はかなり取り上げられているようでしたし
オーガニックとか非遺伝子組換え食品とかの人気も高いそうです。
でも、そこではないんじゃないか?という気がしてしまいます。
身体への意識が低くて置いてけぼりになっている感じ。
そこに文化的な傾向として、自制の度合いが低いのも追加されます。
感情や考えを表現することについても制御することが少なく
なんでも素直に表すことが多いようです。
さらに土地としても広々としたところに住んでいますから
自然と意識が拡大しやすいのも特徴でしょう。
これは日本から行ってみても感じるところです。
なんとなく開放的になる。
結果的に他者との境界の意識が弱まります。
一体感が起きやすいのはアメリカのイベントを見ていても実感されますが
反面、自他の境界としての体表面に意識が向きにくくなるともいえます。
境界意識が弱いと力が抜けやすくて、
表面がボワッと柔らかくなりやすいようです。
「自分の身体がどこまでか」という設定が弱いわけでもありますから
その設定値に対してのホメオスタシスが働きにくくなって
どこまでも肉がついていってしまうとも考えられるでしょう。
日本人と比較すると真逆の感じです。
日本人は行動的においても感情や考えの表現においても
自制の度合いが非常に高い。
抑え込んでいる傾向が大きいといえます。
そして他者との境界意識が非常に強い。
パーソナルスペースを維持しようとしがちですし、
満員電車におけるスペースの取り合いなんてのは
自他の境界の強さの典型的な表れです。
脇を開けないで肘を体に近づけていることが多かったり、
肩甲骨が背骨に寄るように力が入ることも多いはずです。
身を縮めている、と。
細身の人は特に、体表面の筋肉に力が入って
外側がカチカチの雰囲気もあるぐらいです。
どうしてもピリピリと緊張した感じが出ます。
これぐらい体への意識の使い方が異なっていると、
身体症状として表れるものの意味も
心の問題として表面化するものの内容も
随分と日米で差が出るだろうと思われます。
同じ健康法が通用するとは考えにくそうですし、
アメリカで開発された心の問題へのアプローチが
日本でそのまま通用するかも定かではありません。
大雑把にいえば…。
アメリカの場合、
『我慢や自制をしない』ことで身体の機能の標準的な範囲を超えてしまい
体そのものが自らの機能で維持できなくなってしまう
といった身体的な問題が起きやすい。
また、『我慢や自制をしない』ことで
コミュニケーションにおける衝突が増えたり、
衝動的な言動で行き当たりばったりの対応をして後悔したり、
短期的な報酬に依存してしまったり
といった心の問題が起きることも多そうです。
一方、日本の場合は『我慢や自制をし過ぎる』ことで
限界を超えて頑張り過ぎてストレス症状が表れたり、
自ら自分の身体の一部にダメージを与えたりしてしまう
といった身体的な問題が起きやすいのかもしれません。
コミュニケーションや人間関係においても『過剰な我慢と自制』によって
自分の心の中で葛藤が生まれ、悩みが複雑化しやすかったり、
常に不満や苛立ちを抱え続けていやすかったり、
限界を超えた瞬間に自暴自棄になってしまったり、
といった心の問題に繋がりやすいようにも思えます。
一口に、「癒し」、「回復」、「ケア」などと言っても
実際に何をするかとなると日米では差が出て当然なんじゃないでしょうか。
我慢や自意識が低すぎてトラブルになるアメリカ人、
我慢や自意識が高すぎてストレスを抱える日本人。
ざっくりと一般化してしまえば、そんな傾向。
このあたりの違いが、様々な部分から見てとれます。
食事の仕方だけに注目しても見受けられる特徴といえそうです。
ホテルの朝食だとしたら、日本人観光客のほうが
平均すると2倍近くとっている印象も。
ただし、アメリカ人の炭水化物の比率は非常に高い。
パンとかワッフルとかビスケットみたいのとか、
そういうのがメインに見えますし、
さらにそこへ甘いシロップとかクリームとかがタップリ。
「フルーツが健康に良い」というビリーフでもあるのか、
果物やジュースも追加されます。
で間食にまた果物とかビスケットとか。
そうして肥満率が上がるのかと思いきや
子供は同じような食事をしていても痩せているんです。
20歳を過ぎたあたりから何かが変わり始めるんでしょうか?
身体への意識が低いのは共通して見られる特徴ですが…。
大人になるほど日常的に動く量は減っていきますから、
座り込んで動かない感じが強いほど脂肪がつきやすいのかもしれません。
それは全体的な運動量というよりも、
意識が行き届いていないことと関係しそうな印象を受けます。
だから顔とか首とバランスが取れないぐらい
胴体ばかりが大きくなりやすいのかも、なんて思ったりもします。
顔周りまでは意識が行き届いているのに対して
胴体への意識が極端に下がっているという話です。
まあ、顔の骨の凹凸が大きいから脂肪がついても目立ちにくいとか、
そもそも顔あたりの脂肪細胞の数が少ないとか、
遺伝的な要因もあるのかもしれませんが。
ただ、観察して言えるのは胴体への意識の低さ。
これはもう圧倒的に日本人と違います。
良くいえば力が抜けているとも解釈できるとはいえ
健康問題とリンクしそうにも思えます。
アメリカの医療問題はかなり取り上げられているようでしたし
オーガニックとか非遺伝子組換え食品とかの人気も高いそうです。
でも、そこではないんじゃないか?という気がしてしまいます。
身体への意識が低くて置いてけぼりになっている感じ。
そこに文化的な傾向として、自制の度合いが低いのも追加されます。
感情や考えを表現することについても制御することが少なく
なんでも素直に表すことが多いようです。
さらに土地としても広々としたところに住んでいますから
自然と意識が拡大しやすいのも特徴でしょう。
これは日本から行ってみても感じるところです。
なんとなく開放的になる。
結果的に他者との境界の意識が弱まります。
一体感が起きやすいのはアメリカのイベントを見ていても実感されますが
反面、自他の境界としての体表面に意識が向きにくくなるともいえます。
境界意識が弱いと力が抜けやすくて、
表面がボワッと柔らかくなりやすいようです。
「自分の身体がどこまでか」という設定が弱いわけでもありますから
その設定値に対してのホメオスタシスが働きにくくなって
どこまでも肉がついていってしまうとも考えられるでしょう。
日本人と比較すると真逆の感じです。
日本人は行動的においても感情や考えの表現においても
自制の度合いが非常に高い。
抑え込んでいる傾向が大きいといえます。
そして他者との境界意識が非常に強い。
パーソナルスペースを維持しようとしがちですし、
満員電車におけるスペースの取り合いなんてのは
自他の境界の強さの典型的な表れです。
脇を開けないで肘を体に近づけていることが多かったり、
肩甲骨が背骨に寄るように力が入ることも多いはずです。
身を縮めている、と。
細身の人は特に、体表面の筋肉に力が入って
外側がカチカチの雰囲気もあるぐらいです。
どうしてもピリピリと緊張した感じが出ます。
これぐらい体への意識の使い方が異なっていると、
身体症状として表れるものの意味も
心の問題として表面化するものの内容も
随分と日米で差が出るだろうと思われます。
同じ健康法が通用するとは考えにくそうですし、
アメリカで開発された心の問題へのアプローチが
日本でそのまま通用するかも定かではありません。
大雑把にいえば…。
アメリカの場合、
『我慢や自制をしない』ことで身体の機能の標準的な範囲を超えてしまい
体そのものが自らの機能で維持できなくなってしまう
といった身体的な問題が起きやすい。
また、『我慢や自制をしない』ことで
コミュニケーションにおける衝突が増えたり、
衝動的な言動で行き当たりばったりの対応をして後悔したり、
短期的な報酬に依存してしまったり
といった心の問題が起きることも多そうです。
一方、日本の場合は『我慢や自制をし過ぎる』ことで
限界を超えて頑張り過ぎてストレス症状が表れたり、
自ら自分の身体の一部にダメージを与えたりしてしまう
といった身体的な問題が起きやすいのかもしれません。
コミュニケーションや人間関係においても『過剰な我慢と自制』によって
自分の心の中で葛藤が生まれ、悩みが複雑化しやすかったり、
常に不満や苛立ちを抱え続けていやすかったり、
限界を超えた瞬間に自暴自棄になってしまったり、
といった心の問題に繋がりやすいようにも思えます。
一口に、「癒し」、「回復」、「ケア」などと言っても
実際に何をするかとなると日米では差が出て当然なんじゃないでしょうか。
我慢や自意識が低すぎてトラブルになるアメリカ人、
我慢や自意識が高すぎてストレスを抱える日本人。
ざっくりと一般化してしまえば、そんな傾向。
このあたりの違いが、様々な部分から見てとれます。
食事の仕方だけに注目しても見受けられる特徴といえそうです。
2018年11月05日
アメリカのワークショップらしさ
3日間のワークショップが終わりました。
忘れないうちにメモがてら、感じたことを書いてみようと思います。
全体的にとても深い体験が起こっていたように見えました。
もちろん、扱っている内容そのものが効果的なのもあるでしょうが、
それ以上に場を共有する人たち同士の影響が大きかったように感じます。
講座の構成としても心を開きやすくなる工夫があるとは思えませんし
練られた構成になっているわけでもないようですから
(むしろ、ごく当たり前の積み上げ式)
トレーナーのスタンスの影響が大きいと考えられます。
トレーナー自身がオープンで、意識を全体に拡大させている。
それによって心を開きやすくなる感じ。
同時にアメリカ人の参加者が中心だというのもあるでしょう。
以前に同じワークショップへ参加した時はロンドンでした。
イギリス人のほうが日本人に近いコミュニケーションをしますし
建前や遠慮があったり、他者との距離感を重視したりする傾向ですから
オープンな場が作られにくいところがあったのかもしれません。
トレーナー自身もゲストとしてイギリスに来ている様子があって、
さらにアメリカ人のトレーナーにはイギリス英語が聞き取りにくかったり
予想と違う反応が返ってくることがあったり、
空回りする雰囲気も見て取れていました。
それと比べるとアメリカ人対象はやりやすいんでしょう。
交流もしやすいし、対応の仕方も文化的に熟知している。
何よりトレーナーの地元でやっている”ホームの意識”も
ゲストの時とは大きな違いを生んでいたと思われます。
なので、心を開いた自然体のトレーナーがいることが
参加者にとっても居心地のいい場所を作っていったんだと思われます。
もっというと、参加者もトレーナーも含めて全員で1つのものを作るような
共同作業的な雰囲気を作っていたのも、トレーナー自身の技量なんでしょう。
僕も段々と仲間意識が自分の中に高まっていくのを感じていましたし
自分のこれまでの経験を踏まえて全体のサポートとなるような質問をしたり、と
輪の中に入った時間を過ごすことができた気がします。
参加者の傾向としては日本と大きな違った印象を受けました。
よほどイギリス人のほうが日本人に近いでしょう。
最も心を閉ざしていて、強いストレスに耐えながら頑張って
心の中に複雑な葛藤をため込んでしまいやすいのが日本人。
イギリス人も心は閉ざし気味ですが、文化的に日本よりストレスが小さく
大量の葛藤を抱え込んだ人は少なそうでした。
一方でイギリス人には独特の繊細な感受性があるようで
イギリスでNLPに関心を持つ人はスピリチュアル寄りの傾向が大きそうです。
それは同時に感受性ゆえの傷つきやすさと関係して、結果的に
心に傷を抱えながら、それを出さないように頑張っている苦しさに繋がる。
そういう人が癒しを求めてワークショップに集まっていた気がします。
なので参加者同士の交流というよりも、自分の内側を探る感じが強い、と。
ロンドンの参加者に見られた心を閉ざし気味のスタンスだと
トレーナーの拡大した意識の影響が届きにくくなって(入りにくくなって)
ワークをやるときに本人が自分の力だけで取り組む必要が出てきてしまいます。
ワークの性質上、普段やらない意識の使い方をして
普段と違う範囲に意識を拡大していくことが求められますから、
これは慣れていないとスムーズにいかないこともあるはずなんです。
そこでトレーナーの影響を受け入れればワークがやりやすい。
心が閉ざし気味だと、そうはならないので、実際にロンドンのときには
「やってみたけど何だか分かりませんでした」という人が1,2割いました。
それと比べるとアメリカの参加者は心がオープンです。
アメリカ人は大体がオープンですが、無防備なぐらいの人が集まります。
そして平均年齢がかなり高い。
移民や外国からの参加者が平均年齢を下げますが
現地の人だけでいえば平均で65歳を超えるんじゃないでしょうか。
その意味では過去の心の傷というか、後悔とか、喪失とかが
彼らの動機になっている可能性が高そうです。
オープンでストレートなコミュニケーションの文化があるのも
親しい関係で問題が起きやすいのと関係するはずです。
それもやはり後悔や喪失感に繋がりやすい。
大雑把にいえば「上手くいかない。もうダメだー。」という具合に
1つの大きなトラブルで深刻な苦しみにハマり込む感じに見えます。
だからこそトラウマケア的なワークが重視されるともいえるでしょう。
実際、ワークをやると一回あたりで大きな効果が出るようです。
日本人のように複雑に入り組んだ葛藤があるわけではなさそうで、
その分、シンプルに1つ1つの問題解決が有効になる、と。
心がオープンだからこそ起きやすいシンプルな苦しみと
その鏡合わせのように得られる幸せに対しての大きな喜び。
喜びと苦しみのバランスが取れなくなった時が悩みになるなのかもしれません。
しかしこのオープンさは、ワークをやるうえで、とても有利なようです。
今回のワークショップに関していえば、全員が実りある体験をしたみたいです。
全員がちゃんと意識を拡大できる。
慣れないと戸惑いそうな作業をちゃんとこなせる。
ここはアメリカ特有の部分で、同時にこれが
アメリカ人らしい悩み方にも関係しているといえそうです。
日本人の場合は…、心の中で複雑なことをして悩みを作る傾向がありますし、
心を閉ざしながらも強いストレスを抱えて我慢し続けるところもあります。
これに対してのアプローチと、アメリカ人に対してのアプローチでは
当然やり方も方向性も異なってくるはずです。
それぞれの苦しみ方の特徴に合わせて
効果的な取り組みがあると望ましいのだろうと思いました。
ただ、日本は大変な部類のような気がします。
忘れないうちにメモがてら、感じたことを書いてみようと思います。
全体的にとても深い体験が起こっていたように見えました。
もちろん、扱っている内容そのものが効果的なのもあるでしょうが、
それ以上に場を共有する人たち同士の影響が大きかったように感じます。
講座の構成としても心を開きやすくなる工夫があるとは思えませんし
練られた構成になっているわけでもないようですから
(むしろ、ごく当たり前の積み上げ式)
トレーナーのスタンスの影響が大きいと考えられます。
トレーナー自身がオープンで、意識を全体に拡大させている。
それによって心を開きやすくなる感じ。
同時にアメリカ人の参加者が中心だというのもあるでしょう。
以前に同じワークショップへ参加した時はロンドンでした。
イギリス人のほうが日本人に近いコミュニケーションをしますし
建前や遠慮があったり、他者との距離感を重視したりする傾向ですから
オープンな場が作られにくいところがあったのかもしれません。
トレーナー自身もゲストとしてイギリスに来ている様子があって、
さらにアメリカ人のトレーナーにはイギリス英語が聞き取りにくかったり
予想と違う反応が返ってくることがあったり、
空回りする雰囲気も見て取れていました。
それと比べるとアメリカ人対象はやりやすいんでしょう。
交流もしやすいし、対応の仕方も文化的に熟知している。
何よりトレーナーの地元でやっている”ホームの意識”も
ゲストの時とは大きな違いを生んでいたと思われます。
なので、心を開いた自然体のトレーナーがいることが
参加者にとっても居心地のいい場所を作っていったんだと思われます。
もっというと、参加者もトレーナーも含めて全員で1つのものを作るような
共同作業的な雰囲気を作っていたのも、トレーナー自身の技量なんでしょう。
僕も段々と仲間意識が自分の中に高まっていくのを感じていましたし
自分のこれまでの経験を踏まえて全体のサポートとなるような質問をしたり、と
輪の中に入った時間を過ごすことができた気がします。
参加者の傾向としては日本と大きな違った印象を受けました。
よほどイギリス人のほうが日本人に近いでしょう。
最も心を閉ざしていて、強いストレスに耐えながら頑張って
心の中に複雑な葛藤をため込んでしまいやすいのが日本人。
イギリス人も心は閉ざし気味ですが、文化的に日本よりストレスが小さく
大量の葛藤を抱え込んだ人は少なそうでした。
一方でイギリス人には独特の繊細な感受性があるようで
イギリスでNLPに関心を持つ人はスピリチュアル寄りの傾向が大きそうです。
それは同時に感受性ゆえの傷つきやすさと関係して、結果的に
心に傷を抱えながら、それを出さないように頑張っている苦しさに繋がる。
そういう人が癒しを求めてワークショップに集まっていた気がします。
なので参加者同士の交流というよりも、自分の内側を探る感じが強い、と。
ロンドンの参加者に見られた心を閉ざし気味のスタンスだと
トレーナーの拡大した意識の影響が届きにくくなって(入りにくくなって)
ワークをやるときに本人が自分の力だけで取り組む必要が出てきてしまいます。
ワークの性質上、普段やらない意識の使い方をして
普段と違う範囲に意識を拡大していくことが求められますから、
これは慣れていないとスムーズにいかないこともあるはずなんです。
そこでトレーナーの影響を受け入れればワークがやりやすい。
心が閉ざし気味だと、そうはならないので、実際にロンドンのときには
「やってみたけど何だか分かりませんでした」という人が1,2割いました。
それと比べるとアメリカの参加者は心がオープンです。
アメリカ人は大体がオープンですが、無防備なぐらいの人が集まります。
そして平均年齢がかなり高い。
移民や外国からの参加者が平均年齢を下げますが
現地の人だけでいえば平均で65歳を超えるんじゃないでしょうか。
その意味では過去の心の傷というか、後悔とか、喪失とかが
彼らの動機になっている可能性が高そうです。
オープンでストレートなコミュニケーションの文化があるのも
親しい関係で問題が起きやすいのと関係するはずです。
それもやはり後悔や喪失感に繋がりやすい。
大雑把にいえば「上手くいかない。もうダメだー。」という具合に
1つの大きなトラブルで深刻な苦しみにハマり込む感じに見えます。
だからこそトラウマケア的なワークが重視されるともいえるでしょう。
実際、ワークをやると一回あたりで大きな効果が出るようです。
日本人のように複雑に入り組んだ葛藤があるわけではなさそうで、
その分、シンプルに1つ1つの問題解決が有効になる、と。
心がオープンだからこそ起きやすいシンプルな苦しみと
その鏡合わせのように得られる幸せに対しての大きな喜び。
喜びと苦しみのバランスが取れなくなった時が悩みになるなのかもしれません。
しかしこのオープンさは、ワークをやるうえで、とても有利なようです。
今回のワークショップに関していえば、全員が実りある体験をしたみたいです。
全員がちゃんと意識を拡大できる。
慣れないと戸惑いそうな作業をちゃんとこなせる。
ここはアメリカ特有の部分で、同時にこれが
アメリカ人らしい悩み方にも関係しているといえそうです。
日本人の場合は…、心の中で複雑なことをして悩みを作る傾向がありますし、
心を閉ざしながらも強いストレスを抱えて我慢し続けるところもあります。
これに対してのアプローチと、アメリカ人に対してのアプローチでは
当然やり方も方向性も異なってくるはずです。
それぞれの苦しみ方の特徴に合わせて
効果的な取り組みがあると望ましいのだろうと思いました。
ただ、日本は大変な部類のような気がします。
2018年11月02日
ボウルダーにつきました
セミナー参加のためコロラドにやってきました。
ロスアンゼルスで乗り継ぎがあった上に、出発が遅れて
コロラドのデンバー空港に着いたのは、現地時間で8時ごろ。
地平線が広がる真っ平な土地の中に、ときどき電気のついた区画が表れます。
その中の一つがデンバーでした。
それにしてもロスアンゼルスまでの10時間といい、
トランジット待ちの4時間といい、
慣れてくるとそれなりに短く感じるものですね。
結局、飛行機の中は寝られなくて、それなりの退屈さを感じますが
寝ようとしないで本を読んだりすれば気にならないのかもしれません。
そして初めて降り立ったデンバーの空港。
国際空港でもあるらしく、それなりの大きさで
しかも形が分かりにくい。
特に地上交通への出口が複数あるのが厄介でした。
バスで行こうか、シャトルバスを使うか、
タクシーで行こうか、Uberを呼ぶか。
バスは1時間に一本しかなく、空港の案内を聞いた時点から
バスの出発時刻が1分後というタイミング。
料金の支払いも、切符の買い方も分からない状態だったので
これは諦めることにしました。
タクシーは圧倒的に高額になるので無駄な気がして避けました。
じゃあ、ということでシャトルバスを調べると
今度は聞く人によって情報が錯綜して時間ばかりが過ぎていきます。
しかも値段が当初の話よりなぜか高い。
それぐらいの値段なら直行してくれるUberのほうが便利だろう、と。
と思ったらUberの車が到着してくれる場所がどの出口なのか分からない始末。
そうこうするうちに時間が過ぎていって
結局バスの出発時間まで25分ぐらいになってしまいました。
そこからバス乗り場に移動して、料金システムを調べて
乗り場に着いたら出発20分前の時点でバスが待機してくれていました。
なので1時間も待ってから空港を後にすることになってしまいました。
バスがボウルダーの街について、そこからさらにホテルへ移動して
結局ホテル到着は現地時間で22時30分ぐらい。
随分と移動に時間がかかってしまい、少し反省したところです。
もうちょっと下調べをするとか、到着便を昼間にするとか
工夫はしたほうがよかったのかもしれません。
それでも次の日は一日かけてボウルダー市内を見て回る予定だったので
ゆっくりと時間をかけることができました。
まずは朝の散歩。
朝食前に、と思ったら日の出が7時30分ぐらい。
食べ終わって、少し日が出てきたのがこちら。
そして散歩の途中に日が昇ってきて
明るいボウルダーの景色を見ることができました。
夜には街灯も少なくて何も見えなかったんですが
まぁまぁ建物も店も多く、人が住む場所だというのは分かります。
それでも少し周りに目をやると、すぐに切り立った山肌が見えます。
ロッキー山脈側ですね。
日本にはない種類の山だというものもちろんですが、
景色の見え方が日本とは全く違います。
空気が澄んでいて遠くまでクッキリ見えるんです。
絵みたいな印象でした。
そして一旦ホテルに戻って準備を整え、今度はボウルダーの中心地へ。
自転車を借りようと思ったら、なぜかカード支払いができず
諦めて全部歩くことにしました。
とはいえ十分に歩ける距離だったと感じます。
メインストリートも決して栄えてはおらず、
むしろ商店街の路地の端っこのような印象。
交通としてのメインは別の大きな通りなんでしょう。
そして道の両サイドに並ぶ店が増えてくるあたりから
パールストリートモールと呼ばれる街の中心地へ。
非常に静かで落ち着いた雰囲気。
人気が少ないのは時期なのか分かりませんが、
賑やかさを感じません。
一切BGMがかかっていないというのも新鮮です。
車の走る音と風の音。
あとは人の話し声とストリートミュージシャンの演奏ぐらい。
なんだか音の量が少ない感じがしました。
標高1600mぐらいのところらしいので気圧の関係もあるかもしれません。
そして通りを二本ぐらい移動すると、住宅街とか高校とかが出てきて
サイクリングコースにもなっている小川が見えてきます。
自然が多いというか、自然の中に街が入り込んでいる感じ。
人もゆったりしていて、街の中も商売っ気がないというか
どうやって経済が成り立っているのか分からないぐらいの印象。
つつましく暮らす人と、リタイアした人と…といったところでしょうか。
そして街の大部分を占めるコロラド大学ボウルダー校。
広々としていて、のどかでストレスが少なそうな土地です。
ヨガとか、オーガニックとかが盛んなようですし。
いるだけで少し体と心が緩む感じもします。
こういうところでやるNLPは
日本とは随分と違った位置づけになるんじゃないでしょうか。
これからいよいよセミナーです。
ロンドンで受けたのと同じ内容に、少し先の内容が含まれる予定。
とはいえ、人が違う、街が違う、となると
体験されることも違ってきそうな気がしています。
ロスアンゼルスで乗り継ぎがあった上に、出発が遅れて
コロラドのデンバー空港に着いたのは、現地時間で8時ごろ。
地平線が広がる真っ平な土地の中に、ときどき電気のついた区画が表れます。
その中の一つがデンバーでした。
それにしてもロスアンゼルスまでの10時間といい、
トランジット待ちの4時間といい、
慣れてくるとそれなりに短く感じるものですね。
結局、飛行機の中は寝られなくて、それなりの退屈さを感じますが
寝ようとしないで本を読んだりすれば気にならないのかもしれません。
そして初めて降り立ったデンバーの空港。
国際空港でもあるらしく、それなりの大きさで
しかも形が分かりにくい。
特に地上交通への出口が複数あるのが厄介でした。
バスで行こうか、シャトルバスを使うか、
タクシーで行こうか、Uberを呼ぶか。
バスは1時間に一本しかなく、空港の案内を聞いた時点から
バスの出発時刻が1分後というタイミング。
料金の支払いも、切符の買い方も分からない状態だったので
これは諦めることにしました。
タクシーは圧倒的に高額になるので無駄な気がして避けました。
じゃあ、ということでシャトルバスを調べると
今度は聞く人によって情報が錯綜して時間ばかりが過ぎていきます。
しかも値段が当初の話よりなぜか高い。
それぐらいの値段なら直行してくれるUberのほうが便利だろう、と。
と思ったらUberの車が到着してくれる場所がどの出口なのか分からない始末。
そうこうするうちに時間が過ぎていって
結局バスの出発時間まで25分ぐらいになってしまいました。
そこからバス乗り場に移動して、料金システムを調べて
乗り場に着いたら出発20分前の時点でバスが待機してくれていました。
なので1時間も待ってから空港を後にすることになってしまいました。
バスがボウルダーの街について、そこからさらにホテルへ移動して
結局ホテル到着は現地時間で22時30分ぐらい。
随分と移動に時間がかかってしまい、少し反省したところです。
もうちょっと下調べをするとか、到着便を昼間にするとか
工夫はしたほうがよかったのかもしれません。
それでも次の日は一日かけてボウルダー市内を見て回る予定だったので
ゆっくりと時間をかけることができました。
まずは朝の散歩。
朝食前に、と思ったら日の出が7時30分ぐらい。
食べ終わって、少し日が出てきたのがこちら。
そして散歩の途中に日が昇ってきて
明るいボウルダーの景色を見ることができました。
夜には街灯も少なくて何も見えなかったんですが
まぁまぁ建物も店も多く、人が住む場所だというのは分かります。
それでも少し周りに目をやると、すぐに切り立った山肌が見えます。
ロッキー山脈側ですね。
日本にはない種類の山だというものもちろんですが、
景色の見え方が日本とは全く違います。
空気が澄んでいて遠くまでクッキリ見えるんです。
絵みたいな印象でした。
そして一旦ホテルに戻って準備を整え、今度はボウルダーの中心地へ。
自転車を借りようと思ったら、なぜかカード支払いができず
諦めて全部歩くことにしました。
とはいえ十分に歩ける距離だったと感じます。
メインストリートも決して栄えてはおらず、
むしろ商店街の路地の端っこのような印象。
交通としてのメインは別の大きな通りなんでしょう。
そして道の両サイドに並ぶ店が増えてくるあたりから
パールストリートモールと呼ばれる街の中心地へ。
非常に静かで落ち着いた雰囲気。
人気が少ないのは時期なのか分かりませんが、
賑やかさを感じません。
一切BGMがかかっていないというのも新鮮です。
車の走る音と風の音。
あとは人の話し声とストリートミュージシャンの演奏ぐらい。
なんだか音の量が少ない感じがしました。
標高1600mぐらいのところらしいので気圧の関係もあるかもしれません。
そして通りを二本ぐらい移動すると、住宅街とか高校とかが出てきて
サイクリングコースにもなっている小川が見えてきます。
自然が多いというか、自然の中に街が入り込んでいる感じ。
人もゆったりしていて、街の中も商売っ気がないというか
どうやって経済が成り立っているのか分からないぐらいの印象。
つつましく暮らす人と、リタイアした人と…といったところでしょうか。
そして街の大部分を占めるコロラド大学ボウルダー校。
広々としていて、のどかでストレスが少なそうな土地です。
ヨガとか、オーガニックとかが盛んなようですし。
いるだけで少し体と心が緩む感じもします。
こういうところでやるNLPは
日本とは随分と違った位置づけになるんじゃないでしょうか。
これからいよいよセミナーです。
ロンドンで受けたのと同じ内容に、少し先の内容が含まれる予定。
とはいえ、人が違う、街が違う、となると
体験されることも違ってきそうな気がしています。