2018年12月
2018年12月30日
一年間お世話になりました
2018年も終わりになりました。
今年はまんまと体調を崩し、3日間寝込んでいました。
実家に帰る予定も変更して。
咳と鼻水が止まらない状態が続き、
喉の痛みから歯茎に痛みが広がるような症状でした。
喉の状態が一向に良くならないので、
全身で苦痛をシェアする感じにしたら
熱が出始め、身体のあちこちが痛み始めました。
その分、喉は比較的早く楽になりましたが、
熱が引くのに3日かかってしまった感じです。
寝込むといっても寝続けることはできませんから
ときおり寝転がったまま瞑想をしたり、ワークをしたり。
寝たままだと身体が固まってくるので座禅をしたり。
とにかく部屋の中で一人、静かに過ごし続ける日々。
体が弱っていると、買い物に外へ出かけても
他人から受ける影響が強まります。
人がいなくても年末特有の空気感は溢れていますし
慌ただしくしている人や酔っ払いは遠くからでも見てとれます。
とりわけ、その人の中に溜まっている感情が意識に上がりやすく…。
一人になって電気を消して、とにかく刺激を遮断するのが
何よりも重要なようでした。
三連休あたりからバタバタしたのも体力的には関係しそうです。
ですが、疲労が溜まっていたの以上に、
ストレスを受けていたのが大きいようでした。
とりわけ年末にストレスの強い人を何人かお手伝いしたのは大きそう。
言いたくても言えない怒りを抱えた人からは
喉のつまりと胸の奥の悲しみが感じられました。
思い通りにならない不満を我慢しながら、行動力を駆使して
力づくで道を切り開こうとする人からは
肩肘はって耐え続けた負荷の大きさが感じられました。
「何もしないで起こることをただ起こさせる」瞑想をしていると
身体の姿勢や強張りに伴った思考が浮かんできます。
その人たちの姿勢と感情と、その人たちのイメージがセットで浮かぶ…
ということは、気づかないうちに自然とペーシングをして
自分の身体の中に取り入れてしまっていたものが残っていた、
と想像されます。
受け取れる情報が増えるほど、
相手に合わせた対応がしやすくなる気がする反面、
1つの身体では処理しきれなくなっていくようにも思えます。
吸い込んで溜め込んだ分をリセットする必要があるんでしょう。
処理しきれずに蓄積し続けたストレスが
一気に出てしまったような、そんな年末になりました。
整体でメンテナンスしてもらうようになって健康度が上がり、
ジムに行くようになって体力がついて、
乗り切りやすくなってきていたように思っていたんですが。
心身がスムーズに機能するようになるほど、
周りから受け取る負荷の量も大きくなるものなのかもしれません。
むしろ体の処理量を超えてくるというか。
ユングが集合意識と呼んでいたヤツについても、
以前は頭でしか理解していなかったのが
最近は体感的に納得できるようにもなってきた気がします。
影響を受けているというよりも、その中の一部として
歪みが強く表れているとでも言った方が近いような感じさえ…。
ともあれ、今年は対処しきれない負荷が溜まってしまっていた
ということは言えそうです。
多くの人にお世話になった一年でしたが、
何よりも僕がお世話になったのは
この身体なのかもしれません。
来年はもう少し、ケアの方法も工夫してみようと思います。
今年はまんまと体調を崩し、3日間寝込んでいました。
実家に帰る予定も変更して。
咳と鼻水が止まらない状態が続き、
喉の痛みから歯茎に痛みが広がるような症状でした。
喉の状態が一向に良くならないので、
全身で苦痛をシェアする感じにしたら
熱が出始め、身体のあちこちが痛み始めました。
その分、喉は比較的早く楽になりましたが、
熱が引くのに3日かかってしまった感じです。
寝込むといっても寝続けることはできませんから
ときおり寝転がったまま瞑想をしたり、ワークをしたり。
寝たままだと身体が固まってくるので座禅をしたり。
とにかく部屋の中で一人、静かに過ごし続ける日々。
体が弱っていると、買い物に外へ出かけても
他人から受ける影響が強まります。
人がいなくても年末特有の空気感は溢れていますし
慌ただしくしている人や酔っ払いは遠くからでも見てとれます。
とりわけ、その人の中に溜まっている感情が意識に上がりやすく…。
一人になって電気を消して、とにかく刺激を遮断するのが
何よりも重要なようでした。
三連休あたりからバタバタしたのも体力的には関係しそうです。
ですが、疲労が溜まっていたの以上に、
ストレスを受けていたのが大きいようでした。
とりわけ年末にストレスの強い人を何人かお手伝いしたのは大きそう。
言いたくても言えない怒りを抱えた人からは
喉のつまりと胸の奥の悲しみが感じられました。
思い通りにならない不満を我慢しながら、行動力を駆使して
力づくで道を切り開こうとする人からは
肩肘はって耐え続けた負荷の大きさが感じられました。
「何もしないで起こることをただ起こさせる」瞑想をしていると
身体の姿勢や強張りに伴った思考が浮かんできます。
その人たちの姿勢と感情と、その人たちのイメージがセットで浮かぶ…
ということは、気づかないうちに自然とペーシングをして
自分の身体の中に取り入れてしまっていたものが残っていた、
と想像されます。
受け取れる情報が増えるほど、
相手に合わせた対応がしやすくなる気がする反面、
1つの身体では処理しきれなくなっていくようにも思えます。
吸い込んで溜め込んだ分をリセットする必要があるんでしょう。
処理しきれずに蓄積し続けたストレスが
一気に出てしまったような、そんな年末になりました。
整体でメンテナンスしてもらうようになって健康度が上がり、
ジムに行くようになって体力がついて、
乗り切りやすくなってきていたように思っていたんですが。
心身がスムーズに機能するようになるほど、
周りから受け取る負荷の量も大きくなるものなのかもしれません。
むしろ体の処理量を超えてくるというか。
ユングが集合意識と呼んでいたヤツについても、
以前は頭でしか理解していなかったのが
最近は体感的に納得できるようにもなってきた気がします。
影響を受けているというよりも、その中の一部として
歪みが強く表れているとでも言った方が近いような感じさえ…。
ともあれ、今年は対処しきれない負荷が溜まってしまっていた
ということは言えそうです。
多くの人にお世話になった一年でしたが、
何よりも僕がお世話になったのは
この身体なのかもしれません。
来年はもう少し、ケアの方法も工夫してみようと思います。
2018年12月27日
フェルメール見てきました
先日、フェルメール展を見に行ってきました。
すごい混雑ぶり。
ピークを外した平日の午後のつもりでしたが甘かったです。
入場時間帯が分けられていても
各時間帯の初めは行列になるとのことで、
少しズラしたタイミングで入場したんですが…。
作品の点数も決して多くなく、
開催の美術館そのものも上野の中では小さいもの。
その割には、一般的な相場を大きく超える価格設定で
フェルメールを8点も集めたら、それだけで
相当な金額を所蔵元の美術館に支払っているのがうかがえます。
通常は数百円支払うことになっている音声ガイドも
無料で全員に配布していて(音声ガイド込みの入場料ともいえますが)、
しかもその音声に石原さとみを起用しているあたりも
なんとかして入場者を集め、元を取ろうという様子が感じられました。
僕は美術館では音声ガイドは使いません。
絵を見に行っているのであって、
絵画の歴史を知りに行っているわけではありませんから。
NLPの観点で、強調されたサブモダリティを見つけ
画家の視点と視線の方向、焦点距離と視野の広さを捉えて、
それで画家が見ていたのと同じ見方を模倣します。
すると絵の中に描こうとしていたものが感じ取れてきます。
一般にはフェルメールの光の描き方が解説されたりしますけれど、
そういう見方をするとフェルメールの絵には
本来は制止した紙の上の絵には表れないはずの
『時空』を描こうとしていた雰囲気が感じられます。
そういう見方をするためには、絵を見る角度と距離が大事になります。
混雑した美術館では、なかなか厳しいものです。
おそらく今回のフェルメール展は、
かなり特殊な展示の仕方になっているのでしょう。
通常よりも作品数が全体的に少なく、
それでも物足りなく見せないためには
美術館のスペースは狭いほうが良い、と。
それでいて経費の元を取るには入場者数は稼がないといけません。
身動きが取れない状況は避けながらも数を入れる。
それには回転は速い方がいいはずです。
日本人は勉強好きが多いのか、美術館で見かける大部分の人は
絵を見るよりも、文字情報に関心が向くようです。
なので音声ガイドで解説を聞きますし、
絵の横に貼られた作品解説を読みます。
この時間が結構かかるんです。
大体、絵の横に貼られた解説の字は小さいですから。
回転をよくするためには、その字を全員に読まれては困る。
だからでしょう。
このフェルメール展には、絵の横に解説が貼られていません。
代わりに展示作品全ての解説が書かれたパンフレットが
無料で全員に配られていました。
とはいえ、決して詳しい解説ではなく
通常は絵の横に貼られている程度の簡易なもの。
絵の横に文字情報を置いてしまうと、
一人ひとりが読むための時間で全体の回転が落ちる。
それを防ぐための工夫だろうと思われます。
音声ガイドは聞いていないので内容は定かではありませんが
ほとんどの人はガイドの解説が終わった瞬間に
次の絵に移動すると想像できます。
全員に音声ガイドを配るのも、全員の動きを均一化して
一定のペースで大勢が回転するのを狙ったものではないでしょうか。
ですが僕は、フェルメールの絵を見に行ったので
そういう全体の流れとは無縁です。
美術館に入るなり、入り口付近の解説文章に
それを読むための人だかりができていましたが、
当然それは無視して通り過ぎます。
しかし一点目、二点目あたりの作品近くから、もう大渋滞。
絵が見えるとか見えないとかのレベルではありませんでした。
通勤ラッシュかと思うほど。
その人ごみから滲み出てくるイライラと不満…、
にもかかわらず、たとえ絵が見えくても音声ガイドは聞く人たち。
その集団に巻き込まれると身体にストレスが起きてくるので
とにかく人ごみを避けるために、奥へと進んでいきました。
最悪の想定として、もう全てが混雑しているのだとしたら
何も見ないで帰ってくるぐらいのつもりで。
それぐらいの混雑ぶりだったんです。
そして出口近くまで一気に進むと、人の数が激減しました。
不思議なことに、そのゾーンにフェルメールが集まっていたのに。
つまり、美術館のルートの最後のあたりに
目玉のフェルメールが集結している構成だったんです。
ですが大部分の人は、入り口付近の絵のところに長く滞在して
丁寧に音声ガイドを全部聞いて渋滞を作り出し、
目玉ではないフェルメール以外の作品近くでラッシュを体験する。
そして先に進むにつれて、人ごみと立ちっぱなしと
見えもしない絵に対する不満と、解説に対しての飽きが出てくるのか…、
徐々に移動スピードを上げていったようです。
絵もチラッと見るだけ。
音声ガイドも全部は聞かずに先へ進む。
だんだんと疲れてきて長く居座るのも嫌になってくる。
そうして最後の目玉、フェルメールの作品が集まった区画に着くころには
もう絵を見る気力も、解説を聞く意欲も失われ始めている、と。
おまけに今回、一番有名だろうと思われる
『牛乳を注ぐ女』のすぐ先には、出口の案内表示と
出口に繋がる光が見えているんです。
薄暗く、狭く、人がひしめき合ったところを通ってきて、
ようやく有名な作品が出口近くにあって、
出口の先には明るい外の世界が予感される状態になっています。
それは早く出たくもなるでしょう。
最後の絵はサラッと見て、もう美術館を出てしまいたい。
解放されたい。
そんな心境の人が多かったのではないでしょうか。
ですからフェルメールの作品が集まった最後の部屋は
意外と人が少なく、流れも良く、強制的に一列に並ばされるムードもなく
割りと普通の美術館と同程度には絵を見ることができました。
なんとも皮肉な話です。
大行列の入場者は「有名なフェルメールだから」と来場したはずなのに
入り口近くの絵でもない文字情報の理解に力を注ぎ、
前半のフェルメールではない絵のところに時間をかけ、
ようやくお目当てのフェルメールに着くころには
絵を見る気力なんてなくなってサッサと出て行ってしまう。
まぁ、そのおかげで、僕はフェルメールの絵のところに直行して
比較的人が少ないゾーンだけに滞在しながら
ちゃんとフェルメールの視点にペーシングしつつ絵を堪能できました。
フェルメール以外は何一つ見てもいませんが、それもいいでしょう。
それにしても本当にすごい人数でした。
美術館は海外が良いなあと痛感します。
すごい混雑ぶり。
ピークを外した平日の午後のつもりでしたが甘かったです。
入場時間帯が分けられていても
各時間帯の初めは行列になるとのことで、
少しズラしたタイミングで入場したんですが…。
作品の点数も決して多くなく、
開催の美術館そのものも上野の中では小さいもの。
その割には、一般的な相場を大きく超える価格設定で
フェルメールを8点も集めたら、それだけで
相当な金額を所蔵元の美術館に支払っているのがうかがえます。
通常は数百円支払うことになっている音声ガイドも
無料で全員に配布していて(音声ガイド込みの入場料ともいえますが)、
しかもその音声に石原さとみを起用しているあたりも
なんとかして入場者を集め、元を取ろうという様子が感じられました。
僕は美術館では音声ガイドは使いません。
絵を見に行っているのであって、
絵画の歴史を知りに行っているわけではありませんから。
NLPの観点で、強調されたサブモダリティを見つけ
画家の視点と視線の方向、焦点距離と視野の広さを捉えて、
それで画家が見ていたのと同じ見方を模倣します。
すると絵の中に描こうとしていたものが感じ取れてきます。
一般にはフェルメールの光の描き方が解説されたりしますけれど、
そういう見方をするとフェルメールの絵には
本来は制止した紙の上の絵には表れないはずの
『時空』を描こうとしていた雰囲気が感じられます。
そういう見方をするためには、絵を見る角度と距離が大事になります。
混雑した美術館では、なかなか厳しいものです。
おそらく今回のフェルメール展は、
かなり特殊な展示の仕方になっているのでしょう。
通常よりも作品数が全体的に少なく、
それでも物足りなく見せないためには
美術館のスペースは狭いほうが良い、と。
それでいて経費の元を取るには入場者数は稼がないといけません。
身動きが取れない状況は避けながらも数を入れる。
それには回転は速い方がいいはずです。
日本人は勉強好きが多いのか、美術館で見かける大部分の人は
絵を見るよりも、文字情報に関心が向くようです。
なので音声ガイドで解説を聞きますし、
絵の横に貼られた作品解説を読みます。
この時間が結構かかるんです。
大体、絵の横に貼られた解説の字は小さいですから。
回転をよくするためには、その字を全員に読まれては困る。
だからでしょう。
このフェルメール展には、絵の横に解説が貼られていません。
代わりに展示作品全ての解説が書かれたパンフレットが
無料で全員に配られていました。
とはいえ、決して詳しい解説ではなく
通常は絵の横に貼られている程度の簡易なもの。
絵の横に文字情報を置いてしまうと、
一人ひとりが読むための時間で全体の回転が落ちる。
それを防ぐための工夫だろうと思われます。
音声ガイドは聞いていないので内容は定かではありませんが
ほとんどの人はガイドの解説が終わった瞬間に
次の絵に移動すると想像できます。
全員に音声ガイドを配るのも、全員の動きを均一化して
一定のペースで大勢が回転するのを狙ったものではないでしょうか。
ですが僕は、フェルメールの絵を見に行ったので
そういう全体の流れとは無縁です。
美術館に入るなり、入り口付近の解説文章に
それを読むための人だかりができていましたが、
当然それは無視して通り過ぎます。
しかし一点目、二点目あたりの作品近くから、もう大渋滞。
絵が見えるとか見えないとかのレベルではありませんでした。
通勤ラッシュかと思うほど。
その人ごみから滲み出てくるイライラと不満…、
にもかかわらず、たとえ絵が見えくても音声ガイドは聞く人たち。
その集団に巻き込まれると身体にストレスが起きてくるので
とにかく人ごみを避けるために、奥へと進んでいきました。
最悪の想定として、もう全てが混雑しているのだとしたら
何も見ないで帰ってくるぐらいのつもりで。
それぐらいの混雑ぶりだったんです。
そして出口近くまで一気に進むと、人の数が激減しました。
不思議なことに、そのゾーンにフェルメールが集まっていたのに。
つまり、美術館のルートの最後のあたりに
目玉のフェルメールが集結している構成だったんです。
ですが大部分の人は、入り口付近の絵のところに長く滞在して
丁寧に音声ガイドを全部聞いて渋滞を作り出し、
目玉ではないフェルメール以外の作品近くでラッシュを体験する。
そして先に進むにつれて、人ごみと立ちっぱなしと
見えもしない絵に対する不満と、解説に対しての飽きが出てくるのか…、
徐々に移動スピードを上げていったようです。
絵もチラッと見るだけ。
音声ガイドも全部は聞かずに先へ進む。
だんだんと疲れてきて長く居座るのも嫌になってくる。
そうして最後の目玉、フェルメールの作品が集まった区画に着くころには
もう絵を見る気力も、解説を聞く意欲も失われ始めている、と。
おまけに今回、一番有名だろうと思われる
『牛乳を注ぐ女』のすぐ先には、出口の案内表示と
出口に繋がる光が見えているんです。
薄暗く、狭く、人がひしめき合ったところを通ってきて、
ようやく有名な作品が出口近くにあって、
出口の先には明るい外の世界が予感される状態になっています。
それは早く出たくもなるでしょう。
最後の絵はサラッと見て、もう美術館を出てしまいたい。
解放されたい。
そんな心境の人が多かったのではないでしょうか。
ですからフェルメールの作品が集まった最後の部屋は
意外と人が少なく、流れも良く、強制的に一列に並ばされるムードもなく
割りと普通の美術館と同程度には絵を見ることができました。
なんとも皮肉な話です。
大行列の入場者は「有名なフェルメールだから」と来場したはずなのに
入り口近くの絵でもない文字情報の理解に力を注ぎ、
前半のフェルメールではない絵のところに時間をかけ、
ようやくお目当てのフェルメールに着くころには
絵を見る気力なんてなくなってサッサと出て行ってしまう。
まぁ、そのおかげで、僕はフェルメールの絵のところに直行して
比較的人が少ないゾーンだけに滞在しながら
ちゃんとフェルメールの視点にペーシングしつつ絵を堪能できました。
フェルメール以外は何一つ見てもいませんが、それもいいでしょう。
それにしても本当にすごい人数でした。
美術館は海外が良いなあと痛感します。
2018年12月24日
帳尻合わせ
例年、12月も終わりに近づくと、セミナーの予定が減ってきて
ゆったりとした過ごし方になっていたんですが、
今年は何やら、バタバタしています。
セミナーもさることながら、色々とお手伝いをしたのもありそうです。
いずれにしても睡眠が十分にとれなかったり、
集中力が必要な作業が続いたりすると負荷がかかってくるんでしょう。
ここ最近は、定期的に整体でメンテナンスしてもらっているおかげと、
去年ぐらいからジムに行き始めたこともあって
風邪を引くことも少なくなってきていた印象がありました。
が、今年はチョット具合がよろしくありません。
最後の追い込みで無理をかけた分、一気に気が抜けたような
そんな体調の悪さが起きています。
それ以上に、近頃は疲れやすくなっている気がするのも引っかかるところ。
体力はついていると思うんです。
それは自信があります。
出がけの慌てているときとか、ちょっと走ったりしても
かなり肉体的には余裕があります。
心肺機能としても足腰としても、かなり頑丈になった印象です。
一方、セミナー一日分の疲労とか
打ち合わせで話し合うときの疲労とか、
他人にペーシングするときの負荷が上がっているようなんです。
肩と首と背中がゴキゴキに固まります。
場合によっては足や腰にも出ます。
混雑した電車の疲労感も上がっていますし、
人が後ろに立っているときの居心地の悪さも
どんな人の近くにいるかで随分と異なっています。
後ろと歩かれると道を開けたり、道順を変えたり
走って逃げたり、意外と面倒臭い対応をしているんです。
臭いに対する感度も気がかりですし、
光が眩しいのとか、人の話し声や騒音から離れようとして
街中や電車の中で居場所を変えるというのも頻繁。
もしかすると、自宅近所で家の建て替えが続いていて
その騒音で熟睡できていないのもあるかもしれません。
冬眠するように静かに休む必要がありそうです。
外から入ってくるものに「弱くなっている」とは
言うつもりはありませんが、
「影響を受けやすくなって」はいるんでしょう。
受けた影響を出すための取り組みが
ますます重要になってきている印象です。
何かリフレッシュになることができたらいいんですが。
ゆったりとした過ごし方になっていたんですが、
今年は何やら、バタバタしています。
セミナーもさることながら、色々とお手伝いをしたのもありそうです。
いずれにしても睡眠が十分にとれなかったり、
集中力が必要な作業が続いたりすると負荷がかかってくるんでしょう。
ここ最近は、定期的に整体でメンテナンスしてもらっているおかげと、
去年ぐらいからジムに行き始めたこともあって
風邪を引くことも少なくなってきていた印象がありました。
が、今年はチョット具合がよろしくありません。
最後の追い込みで無理をかけた分、一気に気が抜けたような
そんな体調の悪さが起きています。
それ以上に、近頃は疲れやすくなっている気がするのも引っかかるところ。
体力はついていると思うんです。
それは自信があります。
出がけの慌てているときとか、ちょっと走ったりしても
かなり肉体的には余裕があります。
心肺機能としても足腰としても、かなり頑丈になった印象です。
一方、セミナー一日分の疲労とか
打ち合わせで話し合うときの疲労とか、
他人にペーシングするときの負荷が上がっているようなんです。
肩と首と背中がゴキゴキに固まります。
場合によっては足や腰にも出ます。
混雑した電車の疲労感も上がっていますし、
人が後ろに立っているときの居心地の悪さも
どんな人の近くにいるかで随分と異なっています。
後ろと歩かれると道を開けたり、道順を変えたり
走って逃げたり、意外と面倒臭い対応をしているんです。
臭いに対する感度も気がかりですし、
光が眩しいのとか、人の話し声や騒音から離れようとして
街中や電車の中で居場所を変えるというのも頻繁。
もしかすると、自宅近所で家の建て替えが続いていて
その騒音で熟睡できていないのもあるかもしれません。
冬眠するように静かに休む必要がありそうです。
外から入ってくるものに「弱くなっている」とは
言うつもりはありませんが、
「影響を受けやすくなって」はいるんでしょう。
受けた影響を出すための取り組みが
ますます重要になってきている印象です。
何かリフレッシュになることができたらいいんですが。
2018年12月20日
伝える技術の重要性
12月23日の講座は、コミュニケーションのトレーニングにおいて
これまで見過ごされてきた部分を扱うことになります。
日本文化は、受け取り手の「汲み取る能力」を評価することが多く
「伝わらない」「分からない」ことがあった場合には、
受け取る側の理解力や「空気を読む」力が足りないと見なされがちです。
学校でもスポーツの世界でも、できないことを叱られたり
ミスをしたことで怒られたりするのを頻繁に耳にします。
学校で成績が悪かったら、生徒の勉強不足が問題だと非難されるんです。
分かるように教えられない先生の問題ではなく。
アメリカの大学だと教授に対しての評価をアンケートにとって
教え方や態度について生徒側から判断されるシステムがあります。
分かるように教えられない先生が問題として学校に扱われるわけです。
西洋文化では「伝える」側の責任が大きいんです。
その一方で、受け取る側が理解できなかったときには
遠慮なく分かるまで質問して聞き返す、という文化もあるようです。
分からないのは説明不足だ、という発想がある。
分かるように伝えられなかったら、分かるまで説明する責任があるため
質問に答えながら説明を工夫する、と。
そこには前提として
「相手の考えは分からない」
「言わなきゃ分からない」
「聞くことで分かり合いたい」
といった考えがあります。
個人をそれぞれ異なった存在として捉えていて
違いがあることを前提としているわけです。
そして違うからこそ、違いを埋めるために
丁寧に情報を言葉にして伝えることを重んじる。
そういう文化です。
逆に日本は、皆がある程度、共通したものを持っている前提です。
「ハイコンテクスト」なんて言われ方もしますが。
言わなくても共有されていることが多い。
輪の中で、いかに調和して、いかに全体に溶け込むか。
輪から弾き出されることが致命的だった背景があるのかもしれません。
全体に合わせるために、周りをよく見て
暗黙のルールに従って調和を崩さないようにする。
そこに「空気を読む」能力が如実に表れます。
全員が共通した土台を持って、常に異変を察知できるようにしておく。
そして言葉で伝えていなくても、配慮して対応しようとする。
一人だけトラブルがあったとき、それを声高に説明するのは
全体から外れてしまうことにもなりかねません。
迷惑をかけないように、と我慢する傾向とも繋がりそうです。
だからこそ、気持ちを汲み取り、配慮してサポートしてくれるのが
優しさとして捉えられやすいのでしょう。
西洋文化だったら自ら主張して、それを理解してもらう。
困ったときにカウンセリングに行くのが文化として定着しているのも
「説明して分かってもらう」という背景が関係するかもしれません。
ですから日本では
「相手に分かりやすく説明する」という技術が
あまりトレーニングされないようです。
むしろ国語のテスト問題なんて、
いかに著者の考えを汲み取るかのほうに重点が置かれます。
世間一般の人と同じような汲み取り方ができるように
行間を読む練習を、高校入試でもやっているといえます。
相手の考えを汲み取って対応できるのが重要だ、と。
当然、社会に出ても、OJTと称して、結局は
周りを見て、空気を読んで、求められていることをやる
という職場への適応の能力が必要になります。
これをやると怒られる。
これをやったらダメらしい。
こうするとスムーズに行く。
…そんなことを汲み取り続けて、
自分のやり方を見つけていくんです。
ですから優秀な社員というのは、
「言わなくてもやってくれる」人になりがちで、
自分で工夫して勝手に成長していく人が評価される。
そんな傾向が見受けられます。
伝える技術をトレーニングしていないから
育てる部分が上手くいきにくいのではないでしょうか。
その意味で、コーチングの技術は部下育成の観点から
組織内のコミュニケーションに取り入れられやすかったようです。
が、同時に聞こえてくる意見として
「コーチングの前にティーチングが必要な段階がある」
というものもあります。
何も知らなかったら、自分で判断することさえ困難です。
不可能ではありませんが、トライアル・アンド・エラーに
ものすごく長い時間を必要とします。
効率的に土台を身につけるなら、ティーチングのほうが望ましい。
では、ティーチングの技術があるのか?
ここにポイントがあるわけです。
小学校のときから教える側の責任が問われていなかった社会です。
教わる側が自ら理解する責任が求められていました。
教える、指導する、というのを
効果的にやっている人と出会う確率が物凄く低いんです。
なのでティーチングをしようとしたときにも、やはり
教え方の技術よりも、相手の理解力のほうに責任が向きやすい。
「物分かりの悪い奴だ」と。
ほとんどの人が「教える」という
伝える側のコミュニケーションを工夫してきていないからこそ
そこに技術として大きく改善できる余地があるわけです。
未開の地です。
フロンティアです。
やりがいのある部分だと思います。
そういう意味でも、有意義なターニングポイントになりそうです。
これまで見過ごされてきた部分を扱うことになります。
日本文化は、受け取り手の「汲み取る能力」を評価することが多く
「伝わらない」「分からない」ことがあった場合には、
受け取る側の理解力や「空気を読む」力が足りないと見なされがちです。
学校でもスポーツの世界でも、できないことを叱られたり
ミスをしたことで怒られたりするのを頻繁に耳にします。
学校で成績が悪かったら、生徒の勉強不足が問題だと非難されるんです。
分かるように教えられない先生の問題ではなく。
アメリカの大学だと教授に対しての評価をアンケートにとって
教え方や態度について生徒側から判断されるシステムがあります。
分かるように教えられない先生が問題として学校に扱われるわけです。
西洋文化では「伝える」側の責任が大きいんです。
その一方で、受け取る側が理解できなかったときには
遠慮なく分かるまで質問して聞き返す、という文化もあるようです。
分からないのは説明不足だ、という発想がある。
分かるように伝えられなかったら、分かるまで説明する責任があるため
質問に答えながら説明を工夫する、と。
そこには前提として
「相手の考えは分からない」
「言わなきゃ分からない」
「聞くことで分かり合いたい」
といった考えがあります。
個人をそれぞれ異なった存在として捉えていて
違いがあることを前提としているわけです。
そして違うからこそ、違いを埋めるために
丁寧に情報を言葉にして伝えることを重んじる。
そういう文化です。
逆に日本は、皆がある程度、共通したものを持っている前提です。
「ハイコンテクスト」なんて言われ方もしますが。
言わなくても共有されていることが多い。
輪の中で、いかに調和して、いかに全体に溶け込むか。
輪から弾き出されることが致命的だった背景があるのかもしれません。
全体に合わせるために、周りをよく見て
暗黙のルールに従って調和を崩さないようにする。
そこに「空気を読む」能力が如実に表れます。
全員が共通した土台を持って、常に異変を察知できるようにしておく。
そして言葉で伝えていなくても、配慮して対応しようとする。
一人だけトラブルがあったとき、それを声高に説明するのは
全体から外れてしまうことにもなりかねません。
迷惑をかけないように、と我慢する傾向とも繋がりそうです。
だからこそ、気持ちを汲み取り、配慮してサポートしてくれるのが
優しさとして捉えられやすいのでしょう。
西洋文化だったら自ら主張して、それを理解してもらう。
困ったときにカウンセリングに行くのが文化として定着しているのも
「説明して分かってもらう」という背景が関係するかもしれません。
ですから日本では
「相手に分かりやすく説明する」という技術が
あまりトレーニングされないようです。
むしろ国語のテスト問題なんて、
いかに著者の考えを汲み取るかのほうに重点が置かれます。
世間一般の人と同じような汲み取り方ができるように
行間を読む練習を、高校入試でもやっているといえます。
相手の考えを汲み取って対応できるのが重要だ、と。
当然、社会に出ても、OJTと称して、結局は
周りを見て、空気を読んで、求められていることをやる
という職場への適応の能力が必要になります。
これをやると怒られる。
これをやったらダメらしい。
こうするとスムーズに行く。
…そんなことを汲み取り続けて、
自分のやり方を見つけていくんです。
ですから優秀な社員というのは、
「言わなくてもやってくれる」人になりがちで、
自分で工夫して勝手に成長していく人が評価される。
そんな傾向が見受けられます。
伝える技術をトレーニングしていないから
育てる部分が上手くいきにくいのではないでしょうか。
その意味で、コーチングの技術は部下育成の観点から
組織内のコミュニケーションに取り入れられやすかったようです。
が、同時に聞こえてくる意見として
「コーチングの前にティーチングが必要な段階がある」
というものもあります。
何も知らなかったら、自分で判断することさえ困難です。
不可能ではありませんが、トライアル・アンド・エラーに
ものすごく長い時間を必要とします。
効率的に土台を身につけるなら、ティーチングのほうが望ましい。
では、ティーチングの技術があるのか?
ここにポイントがあるわけです。
小学校のときから教える側の責任が問われていなかった社会です。
教わる側が自ら理解する責任が求められていました。
教える、指導する、というのを
効果的にやっている人と出会う確率が物凄く低いんです。
なのでティーチングをしようとしたときにも、やはり
教え方の技術よりも、相手の理解力のほうに責任が向きやすい。
「物分かりの悪い奴だ」と。
ほとんどの人が「教える」という
伝える側のコミュニケーションを工夫してきていないからこそ
そこに技術として大きく改善できる余地があるわけです。
未開の地です。
フロンティアです。
やりがいのある部分だと思います。
そういう意味でも、有意義なターニングポイントになりそうです。
2018年12月17日
オシャレのために
外来語を使うとオシャレになる、という日本文化は
これだけ外国人観光客が増えている昨今でも根強いようです。
例えば、スターバックスの商品名なんて
不思議なカタカナ語の羅列になっていたり。
英語とフランス語が混ざって使われていることもありました。
まぁ、そもそもアメリカのスターバックスでも、
サイズ表記はShort, Tall, Grande, Venti, Trentaとなっていて、
Grande以降の大きいサイズはイタリア語になっています。
(Grandeは「大きい」、Ventiは「20」、Trentaは「30」。
Ventiサイズは、20オンスなので約570mlという意味のようです。)
外国語がカッコイイと思うのは、
日本に限ったことではないのかもしれません。
ですが、外国語がカッコイイとしても、それは自国の人にとっての話。
日本人にとっての英語、アメリカ人にとってのイタリア語は
外国語だからカッコよく映るんでしょう。
外国語が使われているけれど、その表記を目にする対象は
主に現地の人であって、外国人ではないわけです。
一方、最近は外国人観光客や海外からの移住者が増えていることもあって
街中に外国語表記の看板や注意書きが増えてきています。
新大久保駅構内のアナウンスは、十か国語以上で流れていますし、
モノレールのアナウンスや電光掲示板は、
日本語、中国語、韓国語、英語の4か国語で表されています。
最近は、小田急線の車掌が英語アナウンスを自力でやっていて、
これなんかは、かなり勉強した形跡が認められるものです。
新幹線は以前から上品なオーストラリア英語のアナウンスがありましたが
この頃は車掌や乗務員が肉声のカタカナ英語で、
わざわざ毎回決まったアナウンスを読み上げています。
ホテルには当然のように英語表記の注意書きが多いですし、
飲食店などでもトイレに英語の注意書きが増えてきた気がします。
こういうのは日本人のためのオシャレな外国語ではなく、
外国人のために書かれた内容のはず。
だったら、ちゃんと、その言語が分かる人に依頼するとか
少なくともネイティブにチェックしてもらうとか、
それぐらいの工夫はしても良さそうなものです。
ところが実態は…。
結構、「なんじゃこりゃ」みたいのも多いようです。
先日、打ち合わせで
地下鉄の四ツ谷駅出口の近くにあるカフェを利用しました。
店の名前は東京メトロなので、「Marche de Metro」。
Marcheはフランス語で市場、マーケットのことです。
その店はカフェだけではなく、フードコートになっていて
多くの種類の飲食店が集まっていますから、Marcheにしたんでしょう。
フランス語にしたのは、オシャレの要素ということで
これもよくある範囲だと思います。
「Metro」の部分は、フランス語だと「Metro」という綴りですが、
まあ、東京メトロは英語表記が「Tokyo Metro」らしいので
固有名詞の一部としての「Metro」を使っていると考えれば
「Marche de Metro」ではなく「Marche de Metro」なのは問題なさそうです。
(フランス語話者が見たら気になると思いますけど)
で、その店はフードコート形式なので
座席は利用者が自由に選んで座る仕組みになっています。
かといってセルフサービスではないので、
食べ終わった食器はテーブルの上に残していくルール。
なので、食べ終わってもう帰ったのか、
一時的に席を離れているだけでまだ途中なのか、
を示す必要があるようです。
その意思表示をするためのカードがありました。
それがこちら。
上から、英語、日本語、フランス語で書かれています。
内容に全く統一感がありません。
が、英語だけ分かる人、日本語だけ分かる人にとっては
問題なく意味を汲み取れる表記にはなっていると思われます。
英語のほうは
「この面を上にしてあったら、私どもでテーブルを片づけます」
といった感じの意味。
お客さんが読んで、
「ああ、この店は食器をそのまま置いていって構わないけれど
このカードを使って食事が終わったことを示す必要があるんだな」
というルールは伝わるでしょう。
文章の主体は、店側になっています。
店側からお客さん側にアナウンスをしている形。
一方、日本語は「食器を下げてください」と
お客さん側の状態を代弁するメッセージになっています。
日本人であれば、これを読めば
「自分が食事を終えたときに、このカードを使って
終わったという状態を伝えてあげる必要があるらしい」
と汲み取れます。
自分の状態に合ったほうの面を選んでテーブルに置いておく。
そういうルールが伝わる表記でしょう。
ところが一番下のフランス語は…。
「Debarassez pas la table, s'il vous plait. J'ai finis mon repas.」
とあります。
まずフランス語表記としてエラーがあります。
フランス語だと
「Debarassez pas la table, s'il vous plait. J'ai fini mon repas.」
のはずです。
アクセント記号が足りないのと、
「fini」が「finis」になってしまっているのが間違い。
アクセント記号については、このカードを作った人のパソコンで
記号つきのアルファベットを出せなかった可能性がありますから
まぁ、目をつぶることはできるでしょう。
「fini」と「finis」は、どちらも不定形が「finir」ですが
文法上、かなり使われ方が異なります。
「fini」は過去分詞、「finis」は一人称現在形。
「J'ai fini」で「私は終わりました」という過去形になります。
「Je finis」だと「私は終えます」という現在形。
ここは混ぜてはいけないところ。
それでもまだ、タイピングミスとかの可能性はあります。
ですが、文章全体の意味を考えると、これは明らかに問題です。
一文目
「Debarassez pas la table, s'il vous plait.」
は、
「テーブルを片付けないでください」
という意味です。
ここまでだと、誰から誰に対してのメッセージなのかも分かりません。
店側からお客さんへのメッセージだとすると
「テーブルはそのままにしていってください」
とお願いしている、ルール説明だと受け取れます。
英語と日本語の意味から考えると、この解釈になりそうです。
にもかかわらず次の文、
「J'ai fini mon repas.」
は、
「私は食事を終えました。」
という意味です。
主語は私という単数形ですから、店側ではありません。
食事を終えるのもお客さん側の立場。
となると、この2文は
お客さん側の状態を代弁する形式だといえそうです。
日本語表記のスタンスと同じ、英語表記とは逆だ、と。
そうすると2つを組み合わせたときの意味、
「テーブルを片付けないでください。私は食事を終えました。」
は、
なんだか意味がよく分かりません。
「テーブルを片づけてください。私は食事を終えました。」
だったら、
お客さん側の状態を代弁する意思表示のカードなんだと伝わりそうです。
逆に
「食べ終わってもテーブルはそのままにしておいてください。
私たちで片づけます。」
というメッセージなら、店側からお客さんへのルール説明として伝わります。
そのどちらでもないわけです。
元のメッセージをできるだけ残すとしたら、
「テーブルを片づけてください。私は食事を終えました。」
のほうになるでしょう。
おそらく「片づけてください」を
「片づけないでください」と書き間違えたと想像できます。
本来は
「Debarassez la table, s'il vous plait. J'ai fini mon repas.」
にしたかったんだと思います。
否定文と肯定文の間違えは、意味が真逆になりますから
かなり大きなミスではないかと…。
誰にもチェックを依頼していないんでしょうね。
そう考えると、
一見したらお客さんのための注意事項のようなカードも
その実態にはオシャレ目的の内容が含まれている、
ということなのかもしれません。
本当に注意書きとして店のルールを伝える目的なのだとしたら
オシャレ要素のために情報を混乱させるのは避けた方が無難かもしれません。
そもそも最後のフランス語の文章がいらない。
日本に来ているフランス語話者でも英語を分かる人は多いでしょうから
英語とフランス語の2つを見たときに、
わざわざ余計な混乱をさせるだけになってしまいます。
英語だけだったら、最初からそちらしか読もうとしないはずなので
むしろ逆効果とも言えそうな気がします。
日本人の立場に置き換えてみると、
ハリウッド映画に出てくる”日本人街”に
ちょっとおかしな日本語が書かれているのを見たときのような感じ。
あるいは変な意味の日本語のタトゥーを見たときとか。
突っ込みたくなるとか、気恥ずかしくなって目を背けてしまうとか。
そんな気持ちにさせている可能性があります。
オシャレのための外国語と、
情報伝達のための外国語とは、
目的が異なります。
情報伝達を目的とするなら、それなりのチェックをするほうが
目的に沿っていると言えるんじゃないでしょうか。
これだけ外国人観光客が増えている昨今でも根強いようです。
例えば、スターバックスの商品名なんて
不思議なカタカナ語の羅列になっていたり。
英語とフランス語が混ざって使われていることもありました。
まぁ、そもそもアメリカのスターバックスでも、
サイズ表記はShort, Tall, Grande, Venti, Trentaとなっていて、
Grande以降の大きいサイズはイタリア語になっています。
(Grandeは「大きい」、Ventiは「20」、Trentaは「30」。
Ventiサイズは、20オンスなので約570mlという意味のようです。)
外国語がカッコイイと思うのは、
日本に限ったことではないのかもしれません。
ですが、外国語がカッコイイとしても、それは自国の人にとっての話。
日本人にとっての英語、アメリカ人にとってのイタリア語は
外国語だからカッコよく映るんでしょう。
外国語が使われているけれど、その表記を目にする対象は
主に現地の人であって、外国人ではないわけです。
一方、最近は外国人観光客や海外からの移住者が増えていることもあって
街中に外国語表記の看板や注意書きが増えてきています。
新大久保駅構内のアナウンスは、十か国語以上で流れていますし、
モノレールのアナウンスや電光掲示板は、
日本語、中国語、韓国語、英語の4か国語で表されています。
最近は、小田急線の車掌が英語アナウンスを自力でやっていて、
これなんかは、かなり勉強した形跡が認められるものです。
新幹線は以前から上品なオーストラリア英語のアナウンスがありましたが
この頃は車掌や乗務員が肉声のカタカナ英語で、
わざわざ毎回決まったアナウンスを読み上げています。
ホテルには当然のように英語表記の注意書きが多いですし、
飲食店などでもトイレに英語の注意書きが増えてきた気がします。
こういうのは日本人のためのオシャレな外国語ではなく、
外国人のために書かれた内容のはず。
だったら、ちゃんと、その言語が分かる人に依頼するとか
少なくともネイティブにチェックしてもらうとか、
それぐらいの工夫はしても良さそうなものです。
ところが実態は…。
結構、「なんじゃこりゃ」みたいのも多いようです。
先日、打ち合わせで
地下鉄の四ツ谷駅出口の近くにあるカフェを利用しました。
店の名前は東京メトロなので、「Marche de Metro」。
Marcheはフランス語で市場、マーケットのことです。
その店はカフェだけではなく、フードコートになっていて
多くの種類の飲食店が集まっていますから、Marcheにしたんでしょう。
フランス語にしたのは、オシャレの要素ということで
これもよくある範囲だと思います。
「Metro」の部分は、フランス語だと「Metro」という綴りですが、
まあ、東京メトロは英語表記が「Tokyo Metro」らしいので
固有名詞の一部としての「Metro」を使っていると考えれば
「Marche de Metro」ではなく「Marche de Metro」なのは問題なさそうです。
(フランス語話者が見たら気になると思いますけど)
で、その店はフードコート形式なので
座席は利用者が自由に選んで座る仕組みになっています。
かといってセルフサービスではないので、
食べ終わった食器はテーブルの上に残していくルール。
なので、食べ終わってもう帰ったのか、
一時的に席を離れているだけでまだ途中なのか、
を示す必要があるようです。
その意思表示をするためのカードがありました。
それがこちら。
上から、英語、日本語、フランス語で書かれています。
内容に全く統一感がありません。
が、英語だけ分かる人、日本語だけ分かる人にとっては
問題なく意味を汲み取れる表記にはなっていると思われます。
英語のほうは
「この面を上にしてあったら、私どもでテーブルを片づけます」
といった感じの意味。
お客さんが読んで、
「ああ、この店は食器をそのまま置いていって構わないけれど
このカードを使って食事が終わったことを示す必要があるんだな」
というルールは伝わるでしょう。
文章の主体は、店側になっています。
店側からお客さん側にアナウンスをしている形。
一方、日本語は「食器を下げてください」と
お客さん側の状態を代弁するメッセージになっています。
日本人であれば、これを読めば
「自分が食事を終えたときに、このカードを使って
終わったという状態を伝えてあげる必要があるらしい」
と汲み取れます。
自分の状態に合ったほうの面を選んでテーブルに置いておく。
そういうルールが伝わる表記でしょう。
ところが一番下のフランス語は…。
「Debarassez pas la table, s'il vous plait. J'ai finis mon repas.」
とあります。
まずフランス語表記としてエラーがあります。
フランス語だと
「Debarassez pas la table, s'il vous plait. J'ai fini mon repas.」
のはずです。
アクセント記号が足りないのと、
「fini」が「finis」になってしまっているのが間違い。
アクセント記号については、このカードを作った人のパソコンで
記号つきのアルファベットを出せなかった可能性がありますから
まぁ、目をつぶることはできるでしょう。
「fini」と「finis」は、どちらも不定形が「finir」ですが
文法上、かなり使われ方が異なります。
「fini」は過去分詞、「finis」は一人称現在形。
「J'ai fini」で「私は終わりました」という過去形になります。
「Je finis」だと「私は終えます」という現在形。
ここは混ぜてはいけないところ。
それでもまだ、タイピングミスとかの可能性はあります。
ですが、文章全体の意味を考えると、これは明らかに問題です。
一文目
「Debarassez pas la table, s'il vous plait.」
は、
「テーブルを片付けないでください」
という意味です。
ここまでだと、誰から誰に対してのメッセージなのかも分かりません。
店側からお客さんへのメッセージだとすると
「テーブルはそのままにしていってください」
とお願いしている、ルール説明だと受け取れます。
英語と日本語の意味から考えると、この解釈になりそうです。
にもかかわらず次の文、
「J'ai fini mon repas.」
は、
「私は食事を終えました。」
という意味です。
主語は私という単数形ですから、店側ではありません。
食事を終えるのもお客さん側の立場。
となると、この2文は
お客さん側の状態を代弁する形式だといえそうです。
日本語表記のスタンスと同じ、英語表記とは逆だ、と。
そうすると2つを組み合わせたときの意味、
「テーブルを片付けないでください。私は食事を終えました。」
は、
なんだか意味がよく分かりません。
「テーブルを片づけてください。私は食事を終えました。」
だったら、
お客さん側の状態を代弁する意思表示のカードなんだと伝わりそうです。
逆に
「食べ終わってもテーブルはそのままにしておいてください。
私たちで片づけます。」
というメッセージなら、店側からお客さんへのルール説明として伝わります。
そのどちらでもないわけです。
元のメッセージをできるだけ残すとしたら、
「テーブルを片づけてください。私は食事を終えました。」
のほうになるでしょう。
おそらく「片づけてください」を
「片づけないでください」と書き間違えたと想像できます。
本来は
「Debarassez la table, s'il vous plait. J'ai fini mon repas.」
にしたかったんだと思います。
否定文と肯定文の間違えは、意味が真逆になりますから
かなり大きなミスではないかと…。
誰にもチェックを依頼していないんでしょうね。
そう考えると、
一見したらお客さんのための注意事項のようなカードも
その実態にはオシャレ目的の内容が含まれている、
ということなのかもしれません。
本当に注意書きとして店のルールを伝える目的なのだとしたら
オシャレ要素のために情報を混乱させるのは避けた方が無難かもしれません。
そもそも最後のフランス語の文章がいらない。
日本に来ているフランス語話者でも英語を分かる人は多いでしょうから
英語とフランス語の2つを見たときに、
わざわざ余計な混乱をさせるだけになってしまいます。
英語だけだったら、最初からそちらしか読もうとしないはずなので
むしろ逆効果とも言えそうな気がします。
日本人の立場に置き換えてみると、
ハリウッド映画に出てくる”日本人街”に
ちょっとおかしな日本語が書かれているのを見たときのような感じ。
あるいは変な意味の日本語のタトゥーを見たときとか。
突っ込みたくなるとか、気恥ずかしくなって目を背けてしまうとか。
そんな気持ちにさせている可能性があります。
オシャレのための外国語と、
情報伝達のための外国語とは、
目的が異なります。
情報伝達を目的とするなら、それなりのチェックをするほうが
目的に沿っていると言えるんじゃないでしょうか。
2018年12月14日
札幌開催の一日講座
宣伝です。
札幌で年明けに一日講座が予定されています。
主催は日本コミュニケーショントレーナー協会。
詳しい内容は、そちらのページをご覧ください。
→1/12(土)『奇跡の一言』
→1/13(日)
『奇跡の一言』というタイトルがついているほうの一日講座は
技術的には”ねぎらい”や”リフレーミング”を中心にトレーニングします。
しかし、重要なのは「何を言うか」ではありません。
奇跡的にエレガントな言葉を言おうなんて心がけたら
その瞬間に自分の関心は、自分の思考のほうに向いてしまいます。
技術に目を向けると、相手から関心が離れるんです。
こういうコミュニケーションの問題は実に多いようです。
一生懸命に学んだ人ほど、技術や理論に目が向いてしまって
目の前の相手への関心がなくなる。
そうすると敏感な人が相手の場合、その相手は
「勉強してきた技術を使って自分をコントロールしようとしている。
結局、思い通りにすること以外には興味が無いんだ。
こっちの気持ちなんて全く気にしてくれない。」
のように考えて、余計に関係が悪化する、と。
こうした本末転倒なケースが起きるのは
技術トレーニングの中身が、技そのものに意識を向けているからです。
ねぎらいやリフレーミングを徹底的に練習しようとすると
相手に合った言葉を考えるようになります。
できるだけ相手の気持ちに沿った言葉を編み出そうとしたら
相手を観察して、相手に共感して、相手の背景を想像して…
というプロセスが欠かせません。
このプロセスが大事なんです。
これによって相手に気持ちを向けられます。
相手に関心が生まれます。
相手の気持ちに、相手の苦しみに関心が持てるようになる。
自分の言葉や技術ではなく、相手その人に関心が向きます。
相手の問題の原因分析だとか、人格形成の理論だとか、
問題解決や介入の手法だとか、解決に向けた行動プランだとか、
そういった知的な作業ではなくて
目の前の相手の、その瞬間の苦しさに意識が集まるんです。
そうなったとき、自然に優しい気持ちになります。
その優しい気持ちが非言語メッセージに表れます。
これが敏感な相手ほど、切実に伝わるんです。
だから大事なのは「何を言うか」という行動ではなく、
「自分がどんな気持ちになるか」という内面の部分なんです。
この講座でトレーニングするのは、内面のほう。
自然と他人への優しさが滲み出るようなトレーニングです。
ねぎらいやリフレーミングといった技術は
技術そのものの効果もありますが、
徹底的にトレーニングしようとすると、自動的に
相手の気持ちに目を向けることが求められる性質があります。
なので、ねぎらいとリフレーミングのトレーニングを積み重ねると
自然と他者に対しての優しさという『内面』のほうが変わってきます。
そこを意図した講座です。
地道に何度でも繰り返してこそ、本当の意味で効果が出始めるはずです。
ご興味があれば。
一方、OB勉強会のほうは、日によってテーマを変えて設定しています。
札幌の第一回目は、問題を整理する『焦点化』の方法を扱います。
焦点化とは、あくまで「絞り込む」作業のことをいいます。
「このことについて進めていく」という意味での絞り込みです。
あちこちに話が散らかったり、一日に色々と手を出して混乱したり、
多くを望み過ぎて手に負えるサイズではなくなってしまったり…、
そういうことのないように、1つのテーマに絞りましょう、と。
特にNLPの特徴は「プログラムを変える」というところにありますから
焦点化という意味では、
「どのプログラムを扱うか」を絞り込む
作業を練習することになります。
NLPの多くの手法は、プログラムを効果的に変えられるようになっています。
ですが、どのプログラムを変えたらいいか、までは示してくれません。
一般的なNLPのスタンスは、
「手法は紹介したから、好きなように使って
気になったプログラムを変えてみてください。
変えてみて、人生に好影響が出なかったら
また他のプログラムも変えてみましょう。
だんだん良くなっていくはずです。」
といった雰囲気を持っているように見えます。
僕はそうやってきたのに近いと思います。
本当に困っていることから問題を解決してきたものも多々ありますが、
数の比率でいえば、気になったプログラムを片っ端から扱った
というケースの方が遥かに多いですから。
ところが多くの人は、そんなに一生懸命にやらないようです。
やはり効率的に、自分の人生に活かしたい。
一方で、NLPをやったけれど、色々とバラバラに紹介されていて
何をどうしたらいいのかも見当がつかない、ともなりがち。
動き出す”手がかり”、”とっかかり”が必要なんだと思われます。
そのためには、まず自分の現状を整理するのがオススメです。
困りごとや悩みの程度は関係ありません。
大きなトラブルでも、小さなトラブルでも、
まずは”とっかかり”として整理してみる。
「今の状況の中で、
自分のプログラムのどれを
変えたら効果的か?」
そうやって変えたいプログラムを絞り込むわけです。
これが焦点化の作業です。
扱うプログラムが決まったら、あとはNLPの手法を使うだけ、と。
この焦点化の作業に役立つフレームワークを紹介して
実例を踏まえて練習する、というのがこのOB勉強会のテーマです。
整理するためのポイントを身につけるということです。
もちろん他人の問題を整理するのにも使えますが、
自分ひとりでできるようにするのが趣旨です。
簡単で、効果的。
そう感じてもらえたら何よりなんですが。
いずれも開催地が札幌ですが、
ご予定の合う方、近郊の方はご検討ください。
以上、宣伝でした。
札幌で年明けに一日講座が予定されています。
主催は日本コミュニケーショントレーナー協会。
詳しい内容は、そちらのページをご覧ください。
→1/12(土)『奇跡の一言』
→1/13(日)
『奇跡の一言』というタイトルがついているほうの一日講座は
技術的には”ねぎらい”や”リフレーミング”を中心にトレーニングします。
しかし、重要なのは「何を言うか」ではありません。
奇跡的にエレガントな言葉を言おうなんて心がけたら
その瞬間に自分の関心は、自分の思考のほうに向いてしまいます。
技術に目を向けると、相手から関心が離れるんです。
こういうコミュニケーションの問題は実に多いようです。
一生懸命に学んだ人ほど、技術や理論に目が向いてしまって
目の前の相手への関心がなくなる。
そうすると敏感な人が相手の場合、その相手は
「勉強してきた技術を使って自分をコントロールしようとしている。
結局、思い通りにすること以外には興味が無いんだ。
こっちの気持ちなんて全く気にしてくれない。」
のように考えて、余計に関係が悪化する、と。
こうした本末転倒なケースが起きるのは
技術トレーニングの中身が、技そのものに意識を向けているからです。
ねぎらいやリフレーミングを徹底的に練習しようとすると
相手に合った言葉を考えるようになります。
できるだけ相手の気持ちに沿った言葉を編み出そうとしたら
相手を観察して、相手に共感して、相手の背景を想像して…
というプロセスが欠かせません。
このプロセスが大事なんです。
これによって相手に気持ちを向けられます。
相手に関心が生まれます。
相手の気持ちに、相手の苦しみに関心が持てるようになる。
自分の言葉や技術ではなく、相手その人に関心が向きます。
相手の問題の原因分析だとか、人格形成の理論だとか、
問題解決や介入の手法だとか、解決に向けた行動プランだとか、
そういった知的な作業ではなくて
目の前の相手の、その瞬間の苦しさに意識が集まるんです。
そうなったとき、自然に優しい気持ちになります。
その優しい気持ちが非言語メッセージに表れます。
これが敏感な相手ほど、切実に伝わるんです。
だから大事なのは「何を言うか」という行動ではなく、
「自分がどんな気持ちになるか」という内面の部分なんです。
この講座でトレーニングするのは、内面のほう。
自然と他人への優しさが滲み出るようなトレーニングです。
ねぎらいやリフレーミングといった技術は
技術そのものの効果もありますが、
徹底的にトレーニングしようとすると、自動的に
相手の気持ちに目を向けることが求められる性質があります。
なので、ねぎらいとリフレーミングのトレーニングを積み重ねると
自然と他者に対しての優しさという『内面』のほうが変わってきます。
そこを意図した講座です。
地道に何度でも繰り返してこそ、本当の意味で効果が出始めるはずです。
ご興味があれば。
一方、OB勉強会のほうは、日によってテーマを変えて設定しています。
札幌の第一回目は、問題を整理する『焦点化』の方法を扱います。
焦点化とは、あくまで「絞り込む」作業のことをいいます。
「このことについて進めていく」という意味での絞り込みです。
あちこちに話が散らかったり、一日に色々と手を出して混乱したり、
多くを望み過ぎて手に負えるサイズではなくなってしまったり…、
そういうことのないように、1つのテーマに絞りましょう、と。
特にNLPの特徴は「プログラムを変える」というところにありますから
焦点化という意味では、
「どのプログラムを扱うか」を絞り込む
作業を練習することになります。
NLPの多くの手法は、プログラムを効果的に変えられるようになっています。
ですが、どのプログラムを変えたらいいか、までは示してくれません。
一般的なNLPのスタンスは、
「手法は紹介したから、好きなように使って
気になったプログラムを変えてみてください。
変えてみて、人生に好影響が出なかったら
また他のプログラムも変えてみましょう。
だんだん良くなっていくはずです。」
といった雰囲気を持っているように見えます。
僕はそうやってきたのに近いと思います。
本当に困っていることから問題を解決してきたものも多々ありますが、
数の比率でいえば、気になったプログラムを片っ端から扱った
というケースの方が遥かに多いですから。
ところが多くの人は、そんなに一生懸命にやらないようです。
やはり効率的に、自分の人生に活かしたい。
一方で、NLPをやったけれど、色々とバラバラに紹介されていて
何をどうしたらいいのかも見当がつかない、ともなりがち。
動き出す”手がかり”、”とっかかり”が必要なんだと思われます。
そのためには、まず自分の現状を整理するのがオススメです。
困りごとや悩みの程度は関係ありません。
大きなトラブルでも、小さなトラブルでも、
まずは”とっかかり”として整理してみる。
「今の状況の中で、
自分のプログラムのどれを
変えたら効果的か?」
そうやって変えたいプログラムを絞り込むわけです。
これが焦点化の作業です。
扱うプログラムが決まったら、あとはNLPの手法を使うだけ、と。
この焦点化の作業に役立つフレームワークを紹介して
実例を踏まえて練習する、というのがこのOB勉強会のテーマです。
整理するためのポイントを身につけるということです。
もちろん他人の問題を整理するのにも使えますが、
自分ひとりでできるようにするのが趣旨です。
簡単で、効果的。
そう感じてもらえたら何よりなんですが。
いずれも開催地が札幌ですが、
ご予定の合う方、近郊の方はご検討ください。
以上、宣伝でした。
2018年12月11日
『ヤル気を削がない』コミュニケーション
他人をヤル気にさせたい人って、多いようです。
上司が部下をヤル気にさせるとか、
親が子供をやる気にさせるとか。
簡単にヤル気が上がる「ヤル気スイッチ」のようなものを
期待することも少なくないように見受けられます。
ヤル気の上げ方や、モチベーションの理論など
心理学やマネジメントの分野でも注目される分野のようですし。
僕が思うのは、
いずれも前提がズレているんじゃないか
ということです。
「どうすればヤル気(モチベーション)が上がるか?」
と問うのは、
そもそも「人はヤル気がない状態が通常」という前提を含みます。
ヤル気が上がらないと、やらない。
あるいは少なくとも
「ヤル気が上がらないと、自分が期待した通りには
他人が行動してくれない」
という発想を含むはずです。
むしろ逆なんじゃないでしょうか。
つまり、人は放っておけばヤル気は出す。
人は何かをする性質を基本的に持っている、と。
誰かに関わって、その人のヤル気に影響を与えるのは
むしろ『ヤル気を下げる』側のコミュニケーションかもしれません。
ある作業に対して「ヤル気がない」ように見えるのは
そのこと以外のことにヤル気が向いているから。
もしくは全てのことにヤル気がない状態だから。
…こちらは心身が疲れていますから休息が必要なタイミング。
休みが必要ではないのに、特定のことにヤル気が出ていないとすると
それ以外のことに気持ちが向いている、と考えられます。
優先順位が低いんです。
本人の中で優先順位を上げる理由が把握できていない可能性があります。
だとすると理由が伝わっていないわけです。
伝え方の問題が考えられます。
あるいは優先順位の高さが分かっていても
期待するような行動にならないこともある。
スピードが遅いとか、質が足りないとか、自主性がないとか。
このレベルの話だと、本人がやり方を熟知していない懸念があります。
上手くない。
やり方がよく分かっていない。
求められることのレベルを把握していないか
そのレベルが必要な理由が分かっていないか
そのレベルのパフォーマンスを出す技量が足りないか。
だとすると、これはヤル気の問題ではないんです。
やっているんですから。
やり方、パフォーマンスが期待に沿わないだけ。
この場合は、話し合いが求められます。
本人の中に困っているところがあるはずです。
もし困っていないとすると、困らせることが上手くいっていません。
求められる基準があって、そこに達していない。
そして「求められることがあるなら、やらなければいけない」
とは本人も理解はしている。
だとしたら少なからず本人が困っているでしょう。
勉強のヤル気がでない子供なんかは、このケースが多いかもしれません。
何が分かっていて、何が分かっていないのか?
何が分からないのかも分かっていないのか?
何が上手くできないのか?
喜びが分かっていないのか?
そのあたりのことを話し合って共有できれば、
かなり具体的な指導が可能になります。
この段階だと教育・指導が求められるわけです。
ヤル気がないから、やらないんじゃない。
できないから、やらない。
だから、できるようになるサポートが先決です。
そして、上手にできるようになると、一般的には
そこに上達する喜びや、自主的に工夫する喜びが生まれます。
できるようになると、それなりに楽しさが出てくるわけです。
そうすると今度は、
ヤル気を削ぐコミュニケーションが課題になりがちです。
せっかく頑張ったのに頭ごなしに否定されるとか、
自主性を発揮したのに非難されるとか、
頑張っている部分を認めてもらえないとか、
数少ないミスだけを怒られるとか、
その作業以外の部分として、人間関係にストレスが強いとか。
こうなってくると不満が増えます。
以前のようなパフォーマンスが出なくなったり、
それ以上の努力をしようとしなくなったり。
結果は出しているのに、態度が悪くて、職場の雰囲気を壊す…
なんていうときは、ヤル気を削いでいる可能性がありそうです。
こうした範囲は、関わり方の工夫で対処する必要があります。
ポイントは、
どのレベルで「行動」に繋がっていないのかを判断する
ということでしょう。
「ヤル気」とは、行動の原動力です。
「ヤル気がない」と評価するときには、
その人の行動を元にしているはずです。
本当にヤル気が全く無いとしたら、そこに行きません。
学校にも、会社にも行かない。
来ているということは、ある程度の必要性は理解しているということ。
その先に繋がっていないのが現状だと考えられます。
まずは「分かってもらう」ように伝えられるか。
それから、「できる」ように指導できるか。
その後が、「ヤル気を出して頑張ってくれる」ように
関わり方を工夫できるか。
そんなステップを考慮してもいいんじゃないでしょうか。
いずれかをやっていないとすると、それは
最低限のヤル気を先に繋げていくプロセスを妨げている
可能性がありそうです。
そういう意味で「ヤル気を削いでいる」とも考えられると思うんです。
上司が部下をヤル気にさせるとか、
親が子供をやる気にさせるとか。
簡単にヤル気が上がる「ヤル気スイッチ」のようなものを
期待することも少なくないように見受けられます。
ヤル気の上げ方や、モチベーションの理論など
心理学やマネジメントの分野でも注目される分野のようですし。
僕が思うのは、
いずれも前提がズレているんじゃないか
ということです。
「どうすればヤル気(モチベーション)が上がるか?」
と問うのは、
そもそも「人はヤル気がない状態が通常」という前提を含みます。
ヤル気が上がらないと、やらない。
あるいは少なくとも
「ヤル気が上がらないと、自分が期待した通りには
他人が行動してくれない」
という発想を含むはずです。
むしろ逆なんじゃないでしょうか。
つまり、人は放っておけばヤル気は出す。
人は何かをする性質を基本的に持っている、と。
誰かに関わって、その人のヤル気に影響を与えるのは
むしろ『ヤル気を下げる』側のコミュニケーションかもしれません。
ある作業に対して「ヤル気がない」ように見えるのは
そのこと以外のことにヤル気が向いているから。
もしくは全てのことにヤル気がない状態だから。
…こちらは心身が疲れていますから休息が必要なタイミング。
休みが必要ではないのに、特定のことにヤル気が出ていないとすると
それ以外のことに気持ちが向いている、と考えられます。
優先順位が低いんです。
本人の中で優先順位を上げる理由が把握できていない可能性があります。
だとすると理由が伝わっていないわけです。
伝え方の問題が考えられます。
あるいは優先順位の高さが分かっていても
期待するような行動にならないこともある。
スピードが遅いとか、質が足りないとか、自主性がないとか。
このレベルの話だと、本人がやり方を熟知していない懸念があります。
上手くない。
やり方がよく分かっていない。
求められることのレベルを把握していないか
そのレベルが必要な理由が分かっていないか
そのレベルのパフォーマンスを出す技量が足りないか。
だとすると、これはヤル気の問題ではないんです。
やっているんですから。
やり方、パフォーマンスが期待に沿わないだけ。
この場合は、話し合いが求められます。
本人の中に困っているところがあるはずです。
もし困っていないとすると、困らせることが上手くいっていません。
求められる基準があって、そこに達していない。
そして「求められることがあるなら、やらなければいけない」
とは本人も理解はしている。
だとしたら少なからず本人が困っているでしょう。
勉強のヤル気がでない子供なんかは、このケースが多いかもしれません。
何が分かっていて、何が分かっていないのか?
何が分からないのかも分かっていないのか?
何が上手くできないのか?
喜びが分かっていないのか?
そのあたりのことを話し合って共有できれば、
かなり具体的な指導が可能になります。
この段階だと教育・指導が求められるわけです。
ヤル気がないから、やらないんじゃない。
できないから、やらない。
だから、できるようになるサポートが先決です。
そして、上手にできるようになると、一般的には
そこに上達する喜びや、自主的に工夫する喜びが生まれます。
できるようになると、それなりに楽しさが出てくるわけです。
そうすると今度は、
ヤル気を削ぐコミュニケーションが課題になりがちです。
せっかく頑張ったのに頭ごなしに否定されるとか、
自主性を発揮したのに非難されるとか、
頑張っている部分を認めてもらえないとか、
数少ないミスだけを怒られるとか、
その作業以外の部分として、人間関係にストレスが強いとか。
こうなってくると不満が増えます。
以前のようなパフォーマンスが出なくなったり、
それ以上の努力をしようとしなくなったり。
結果は出しているのに、態度が悪くて、職場の雰囲気を壊す…
なんていうときは、ヤル気を削いでいる可能性がありそうです。
こうした範囲は、関わり方の工夫で対処する必要があります。
ポイントは、
どのレベルで「行動」に繋がっていないのかを判断する
ということでしょう。
「ヤル気」とは、行動の原動力です。
「ヤル気がない」と評価するときには、
その人の行動を元にしているはずです。
本当にヤル気が全く無いとしたら、そこに行きません。
学校にも、会社にも行かない。
来ているということは、ある程度の必要性は理解しているということ。
その先に繋がっていないのが現状だと考えられます。
まずは「分かってもらう」ように伝えられるか。
それから、「できる」ように指導できるか。
その後が、「ヤル気を出して頑張ってくれる」ように
関わり方を工夫できるか。
そんなステップを考慮してもいいんじゃないでしょうか。
いずれかをやっていないとすると、それは
最低限のヤル気を先に繋げていくプロセスを妨げている
可能性がありそうです。
そういう意味で「ヤル気を削いでいる」とも考えられると思うんです。
2018年12月08日
久しぶりの東北新幹線
札幌にやってきました。
なんとか到着できました。
今までも交通のトラブルは何度もありましたが
それでも大半は帰りの飛行機関係だったんです。
東京から札幌へ向かう分には、何度か遅れたことがあるのと、
一度だけ大幅に飛行機が遅れて空港からタクシーで
札幌市内に移動したことがあるぐらいなものです。
帰りのほうは、終電に間に合わないのは何度もあっても
まぁ大きな問題にはなりません。
当日に帰れなくなって余分に一泊することになったのも2回だけです。
JRの電線にトラックがぶつかったために停電になり
札幌市内から空港まで移動ができなかった、というのが1回。
台風で飛行機が欠航になって札幌待機になったのが1回。
月曜日の仕事があったときも、大きな問題にはなりませんでした。
ですが今回、初めて札幌行きの飛行機が欠航になりました。
空港近辺の雪が強く、除雪が間に合わないという理由でした。
実際には、離陸の様子を見ながら運航遅れを繰り返し
多くの便が札幌にまで来れたようです。
ただ僕が予約していた便は正式に欠航。
前後の便は飛んだのに不思議な話です。
キャンセル待ちやら、不確定な飛行には賭けられないということで
陸路で札幌までやってきました。
とはいえ、札幌までの直行はないですから
東京駅から函館まで新幹線。
あとは主催の方のご厚意で、車で送っていただきました。
空港に到着してから欠航が確定し、東京駅に引き返し
札幌のホテルに着いたのは、羽田空港に着いてから12時間後でした。
長時間の移動は疲労も大きいかと心配していたんですが、
意外と大丈夫そうです。
新幹線は函館まで行くのが2時間に一本しかないのと
冬の金曜夕方の東北新幹線は大混雑らしく、
直行での座席が空いていませんでした。
東北新幹線には自由席がないみたいで
立ち乗りの特急券が用意されているだけ。
直前に辛うじて、途中駅からのグランクラスが1席空いたとのことで
半分ぐらいは座って移動することができました。
ちなみにグランクラスは東海道新幹線にはない座席で
グリーン車よりも広々としてサービスの良いクラスです。
サンドイッチみたいな軽食と、お代わりできる飲み物もついています。
ちょっと豪華な気分で過ごせました。
しかしリクライニングだと今一つ寝られません。
一方、函館に着いてからの車移動は、
いろいろとお気遣いいただいたおかげで多少は寝ることできました。
寝られるかどうかは座席よりも、僕の場合、移動速度が大事みたいです。
電車でもスピードの速い乗り物ほど寝られない傾向があります。
在来線より新幹線、新幹線より飛行機が寝にくい。
加速度でかかる重力は影響はないようです。
なぜか乗り物が速く動いていることを体が感じ取って
意識を活発にしてしまうみたいで。
ということで車の移動は、とても快適に過ごさせていただけました。
高速バスは試したことが少ないですが、苦手かもしれません。
同じ距離を移動するなら、バスよりもタクシーが快適に感じるのは
おそらくプライバシーの問題なんでしょう。
車はその意味で、気持ちが休まるところが大きいんだろうと思います。
移動疲れが心配でしたが、予想よりもずっと大丈夫でした。
「移動が多くて大変ですね」なんて言われることも多いものの
そもそもセミナー自体の疲労感とは比べ物にならないようです。
まとめて振り返ってみると、一人を感じられる度合いが
僕の疲労感と関わっているんだろうと思われます。
国際線のエコノミークラスが疲れるのも、座席うんぬんより
満員電車が疲れるのと似ているんでしょう。
自分が相当に一人の時間を大事にしているんだと実感します。
なんとか到着できました。
今までも交通のトラブルは何度もありましたが
それでも大半は帰りの飛行機関係だったんです。
東京から札幌へ向かう分には、何度か遅れたことがあるのと、
一度だけ大幅に飛行機が遅れて空港からタクシーで
札幌市内に移動したことがあるぐらいなものです。
帰りのほうは、終電に間に合わないのは何度もあっても
まぁ大きな問題にはなりません。
当日に帰れなくなって余分に一泊することになったのも2回だけです。
JRの電線にトラックがぶつかったために停電になり
札幌市内から空港まで移動ができなかった、というのが1回。
台風で飛行機が欠航になって札幌待機になったのが1回。
月曜日の仕事があったときも、大きな問題にはなりませんでした。
ですが今回、初めて札幌行きの飛行機が欠航になりました。
空港近辺の雪が強く、除雪が間に合わないという理由でした。
実際には、離陸の様子を見ながら運航遅れを繰り返し
多くの便が札幌にまで来れたようです。
ただ僕が予約していた便は正式に欠航。
前後の便は飛んだのに不思議な話です。
キャンセル待ちやら、不確定な飛行には賭けられないということで
陸路で札幌までやってきました。
とはいえ、札幌までの直行はないですから
東京駅から函館まで新幹線。
あとは主催の方のご厚意で、車で送っていただきました。
空港に到着してから欠航が確定し、東京駅に引き返し
札幌のホテルに着いたのは、羽田空港に着いてから12時間後でした。
長時間の移動は疲労も大きいかと心配していたんですが、
意外と大丈夫そうです。
新幹線は函館まで行くのが2時間に一本しかないのと
冬の金曜夕方の東北新幹線は大混雑らしく、
直行での座席が空いていませんでした。
東北新幹線には自由席がないみたいで
立ち乗りの特急券が用意されているだけ。
直前に辛うじて、途中駅からのグランクラスが1席空いたとのことで
半分ぐらいは座って移動することができました。
ちなみにグランクラスは東海道新幹線にはない座席で
グリーン車よりも広々としてサービスの良いクラスです。
サンドイッチみたいな軽食と、お代わりできる飲み物もついています。
ちょっと豪華な気分で過ごせました。
しかしリクライニングだと今一つ寝られません。
一方、函館に着いてからの車移動は、
いろいろとお気遣いいただいたおかげで多少は寝ることできました。
寝られるかどうかは座席よりも、僕の場合、移動速度が大事みたいです。
電車でもスピードの速い乗り物ほど寝られない傾向があります。
在来線より新幹線、新幹線より飛行機が寝にくい。
加速度でかかる重力は影響はないようです。
なぜか乗り物が速く動いていることを体が感じ取って
意識を活発にしてしまうみたいで。
ということで車の移動は、とても快適に過ごさせていただけました。
高速バスは試したことが少ないですが、苦手かもしれません。
同じ距離を移動するなら、バスよりもタクシーが快適に感じるのは
おそらくプライバシーの問題なんでしょう。
車はその意味で、気持ちが休まるところが大きいんだろうと思います。
移動疲れが心配でしたが、予想よりもずっと大丈夫でした。
「移動が多くて大変ですね」なんて言われることも多いものの
そもそもセミナー自体の疲労感とは比べ物にならないようです。
まとめて振り返ってみると、一人を感じられる度合いが
僕の疲労感と関わっているんだろうと思われます。
国際線のエコノミークラスが疲れるのも、座席うんぬんより
満員電車が疲れるのと似ているんでしょう。
自分が相当に一人の時間を大事にしているんだと実感します。
2018年12月05日
リラックスしても寝つかない
なんだか最近、自律神経のバランスがおかしいようです。
布団の中で一睡もできない日もあれば
予定よりも3時間寝過ごしてしまうこともありました。
まあ、寝過ごしたとは言っても
ギリギリ予定には間に合いましたし、
寝られなかった日もパフォーマンスはもんだなかったり。
大きなトラブルには繋がっていないので
まあ、さほど心配はしていません。
NLP的にいうと、ほとんどの寝付きの悪さは
頭に偏った意識が速く活動し過ぎて
軽い興奮状態にあるのと関係するようです。
そういうときは、その頭の回転をゆっくりにしたり
意識の中心をズラしたりするのが効果的です。
一方、最近の僕の状態はそうではありません。
ただ眠くなかったり、寝ても起きてしまったり。
逆に寝たら起きなかったりも。
寝られないときは、意識を広げても寝つけません。
瞑想のときにも寝ないようになってきていますし、
催眠でも記憶が残り続けやすくなってきていますから、
どんな意識状態でも眠りにくくなっているのかもしれません。
物事には一長一短がありますね。
とはいえ、基本的に眠りが浅く、ろくに寝られない状態が続くと
どこかでやらかしてしまうのではないか?とは心配です。
普段以上に目覚ましを追加したりしているところ。
気候の不安定さもあるのかもしれませんが…。
無事に年末まで乗り切りたいところです。
布団の中で一睡もできない日もあれば
予定よりも3時間寝過ごしてしまうこともありました。
まあ、寝過ごしたとは言っても
ギリギリ予定には間に合いましたし、
寝られなかった日もパフォーマンスはもんだなかったり。
大きなトラブルには繋がっていないので
まあ、さほど心配はしていません。
NLP的にいうと、ほとんどの寝付きの悪さは
頭に偏った意識が速く活動し過ぎて
軽い興奮状態にあるのと関係するようです。
そういうときは、その頭の回転をゆっくりにしたり
意識の中心をズラしたりするのが効果的です。
一方、最近の僕の状態はそうではありません。
ただ眠くなかったり、寝ても起きてしまったり。
逆に寝たら起きなかったりも。
寝られないときは、意識を広げても寝つけません。
瞑想のときにも寝ないようになってきていますし、
催眠でも記憶が残り続けやすくなってきていますから、
どんな意識状態でも眠りにくくなっているのかもしれません。
物事には一長一短がありますね。
とはいえ、基本的に眠りが浅く、ろくに寝られない状態が続くと
どこかでやらかしてしまうのではないか?とは心配です。
普段以上に目覚ましを追加したりしているところ。
気候の不安定さもあるのかもしれませんが…。
無事に年末まで乗り切りたいところです。
2018年12月01日
【セミナー】育むコミュニケーション
ご案内: 12月23日(日)
コミュニケーション講座 〜育むコミュニケーション〜
年末の慌ただしい時期かもしれませんが
コミュニケーションの講座を開催します。
テーマは『育むコミュニケーション』。
上司として、リーダーとして、教育者として、講師として、
コーチとして、カウンセラーとして、トレーナーとして…。
人に何かを教えたり、人の能力や技術を伸ばすお手伝いをしたり、
相手の行動が変わるように働きかけたりする立場の方には
非常に重要な部分を扱います。
(※親子関係は注意が必要です。→後述)
相手に言語的な理解力があることを前提にして
『伝え方』を中心にトレーニングをしますので、
相手の年齢には対象となる範囲があるはずです。
相手との関係性を「育み」
かつ
相手の技術や能力を「育む」。
そういう意味での『育むコミュニケーション』です。
とりわけ
相手の行動が変わる
ことを目標とします。
もちろん行動には、そのベースとなる考え方と
行動をしようと思えるだけの気持ち(感情)も関わりますから、
考慮すべき範囲はかなり広いものになります。
行動を最終目標として設定しているのは、
考え方が変わっても行動に活かされなかったり、
考え方が変わっても気持ちが乗らずに行動に繋がらなかったり、
気持ちはあっても行動の内容が適切でなかったりすると、
自分の期待している行動には至らないからです。
その行動のパフォーマンスまで視野に入れるともいえます。
「やるか、やらないか」だけでなく
「どのようにやるか」の部分まで。
つまり上手くやれるようにする、という観点です。
だからといって、結果までコントロールするのは困難です。
ベストなパフォーマンスを発揮しても
周りの状況によっては結果が出るとは限りません。
営業で売れるかとか、ミスなく仕事がこなせるかとか、
効果的なアイデアを出せるかとか、
伝えた技術が実際の場面で役に立っているかとか、
心の問題解決のための努力が実を結んでいるかとか。
こうした結果は、本人が上手くやっても
期待したようなところには結びつかない場合があります。
営業で売れるかどうかは、相手先のニーズと合うかどうか、
景気や競合先との兼ね合い、世間的な流行などによっても変動します。
上手くやっても売れないことがあるし、
上手くやらなくても売れてしまうこともある、と。
業務をミスなくこなすことに関しても、
予想外の事態が含まれてきたら処理できない場合もあるかもしれません。
一生懸命に考えたアイデアが時代に合わないこともあるでしょうし、
もっといいアイデアを他の人から提案されたら目立たなくなりがちです。
教わった内容を実践してみても、成果が出るまでには
慣れが必要なケースだってあります。
心の問題解決の努力をどんなに適切にやっていても
厄介な出来事が重なれば、その時期の苦しみは大きくなってしまいます。
上手くやっているのに落ち込んでしまうときもあるんです。
そのように本人の範囲ではない原因で
期待したような結果に結びつかないことはあります。
だからこそ、
・適切な行動ができているか
・うまくやっているか
という行動面までに焦点を当てます。
相手の出した結果が望むものではなかったとしても
プロセスが期待に沿っていれば許容できる人も多いのではないでしょうか。
むしろ上司のような立場であれば、結果が出ないことよりも
「ちゃんとやっていない」ことで不満を抱くことも多いかもしれません。
「もっとこうしてくれれば…」
「もっとこうしたら上手くいくのに…」
のように、改善する方向性で関わるときには、
結果を出してもらおうとして躍起になるよりも、あくまで
『行動の内容』までに絞り込むのがポイントになる、という話です。
ですから、この講座では
自分がどのように相手に関われば
相手の行動が改善されるか
といった内容を詳しく見ていきます。
そのためには、そもそも自分の期待を理解するのが欠かせないでしょう。
そしてそれを適切に言語化して伝える技術も求められます。
多くの場合、この「言葉にして伝える」の部分が課題になりそうです。
実際、コーチやカウンセラー、講師業をしている知り合いを見ていても
業務上で指示を出すときのコミュニケーションが空回りするケースは
数えきれないほどあります。
聞き役としての技術や、専門技能の指導が得意でも
「自分の考えを適切に言葉にして伝える」のは
トレーニングされていないことが多いようです。
もっと正確にいうと、
「相手に分かってもらいたいことが何か」自分で分かっていない
のです。
自分の期待していることを正確に自覚しないまま
普段の癖のまま言葉を発する。
例えば「これをやっておいてください」などと。
それで後から、相手が自分の想定とは違うことをしたのを知って
「なんでこれをやっていないんだ!」
「これぐらい少し考えれば分かるだろう!」
のように腹を立てる、とか。
確かに、それで分かってくれる人もいます。
しかし少数派でしょう。
言わなくてもやってくれる人は珍しい。
言ったら言った通りにやってくれるだけでも多くありません。
言っても、言った通りにしないのが多数派でしょう。
言ったのに、やろうともしないということだって多いはずです。
だからこそ伝える側の技術として工夫するのが役立つんです。
・やろうと思ってもらえるような言い方をする。
・言った通りにやってもらえるように誤解の少ない表現をする。
・やって欲しいことを全てやってもらえるように
期待していることは言葉にして伝える。
そのためには、自分の『意図』を自覚するのが第一歩です。
ここから丁寧にトレーニングを始めます。
一部の内容を先取りしておくと、
意図=期待している結果+自分の価値観
ということになりますが、
『期待』もさらに詳しく区別できます。
「起きてくれたら望ましい結果」と
「これだけは起こってもらいたくない結果」とです。
起きてくれたら望ましい結果も、
目的と手段とに区別すると分かりやすく表現できるようになります。
目的というのは、自分が望んでいる重要な要素です。
この要素さえ満たされていれば、他は違っていても構わない、というもの。
例えば、”朗らかな職場の雰囲気”などです。
手段は、目的を果たすためのもの。
1つの目的でも、複数の手段があるというのがポイントです。
”朗らかな職場の雰囲気”という目的を果たす手段には
”笑顔で挨拶が交わされる”、
”お互い頻繁に話しかけられる”、
”ときどき笑い声が聞こえる”、
”皆がリラックスした表情をしている”
などが考えられます。
価値観と価値基準とに区別するのと似ています。
(価値観=大切にしたいことは何か?
価値基準=どうなったら、それが大切にできたといえるか?)
多くの場合、自分が思いつく期待、
望む結果として自覚されるものは、手段のほうなんです。
だから”朗らかな職場の雰囲気”を期待している人の場合、
”部下の一人がブスッと黙り込んでいて雰囲気を悪くしている”
のように判断をして、手段としての解決策
「もっと笑顔で、元気よく挨拶してくれ」
などと言いたくなるわけです。
しかし、相手本人の個性を考えると、
それがベストな手段とは限りません。
物静かな人で、照れ屋だけど可愛らしいところもあるかもしれない。
だとすると、無理やり笑顔にしたり、元気な声を出させるのは
難しいかもしれませんし、その必要もない可能性だってあります。
むしろ、”朗らかな職場”の要件である
”頻繁に話しかけられる”ことを成立させる工夫として、
自分から積極的に話しかけることもできるかもしれません。
相手に期待する部分としては”小さな声でも返事をしてもらう”とか。
そうすると相手に伝える内容が全く別物になってきます。
「これだけは起こってもらいたくない結果」についても同様です。
絶対に避けたいこと(損なわれたくない価値観)を明確にしたうえで
それに当てはまるケースの例(価値基準)を挙げていく。
そして、それを避けてもらうには、どんな伝え方をしたらいいか?
そういう段階的な考え方をしてから伝えるようにすれば
期待外れで不満を感じる頻度は減っていくはずです。
自分の側で意図がハッキリしているからこそ
そのための工夫を色々と試せるようになるんです。
期待外れのことが起こってから不満を感じる代わりに、
期待していることを先取りして自ら工夫できるようになるわけです。
ここが今回の講座の趣旨といえるでしょう。
【具体的な内容例】
●不満をもとに、自分の期待に気づくコツ
●無自覚だった期待の内容を明確に言語化するポイント
●期待の種類と区別の仕方
●言語化すべき期待の内容と、その表現方法
●指示、伝達、連絡、依頼、指導、フィードバックなど
目的別のコミュニケーションのポイント
●行動を起こしやすくする動機づけ
●相手が理解しやすい伝え方の順番
●上手くいかなかったときの理由を探るフレームワークと
各ステップに対しての対処法
【効果が期待できる関係性】
どんな関係にでも使える技術ではありません。
そもそも相手が行動しようという必然性があるのが前提になります。
必然性というのは、例えば
・上司部下の関係において、組織として
上司の指示や依頼には応えるのが決まりごととして定着している
・会社の価値観を受け入れてもらう代わりに
給与や待遇面での対価が発生している
・顧客との契約内容としてサポートの方向性やゴールが決まっていて
そのための手段を示すことが期待されている
・教育という場面において、指導される側が
指導者の言うことに沿って行動するのが両者に了解されている
などです。
関係性として、自分の側から相手に対して
「もっとこういう風に行動を変えてもらうことが望まれる」
という内容を伝えることが当然になっていて、
相手のほうも、
「言われたことに応えるのが(ある程度は)当然だ」
と思っている状態だといえます。
これが例えば電話営業だったりすると
相手が電話で話をし続けてくれるかどうかさえ当然ではありません。
嫌だったら電話を切られても仕方ない関係性です。
駅前で募金の声掛けをするのも、立ち止まってくれなくて当然。
「募金をするように行動を変えてもらう」ことが自分の期待だとしても
相手がそれに応えるのが前提にはなっていないわけです。
接客でも同様です。
自分から声をかけても無視される可能性があります。
相手が接客を期待していないときです。
こういうケースでいくら商品の魅力を説明しても
”その商品を購買する”ほうに行動を変えてもらうのは
相手が望むことではありませんから、
関係性として相手が行動を変える前提ではない、といえます。
一方、お客様のほうから商品について質問されたとか
販売員が「何かお探しですか?」と聞いて、
「○○を探しているんですけど…」のように答えが返ってきた場合は
購入を検討する方向で合意が取れていることになります。
条件によっては「商品を購買する」という行動に変える可能性がある。
行動を変える心の準備はあるわけです。
こういうのが前提という話になります。
ですから、今回の『育むコミュニケーション』というテーマでいえば、
教育とか指導とかサポートとかトレーニングとかの場面は
相手本人の目標のために、相手が行動を変える前提があることになります。
組織において指示や依頼をする場面では
お互いの共通の目標のために、相手が行動を変える前提があるといえます。
そういう意味で、相手がこちらの言うことに応えてくれる可能性が
お互いの共通認識として成立している関係をベースにしています。
もちろん、だからといって相手が必ず期待に応えてくれるわけではない。
それこそが『”育む”伝え方の技術』をトレーニングする必要がある理由です。
こちらの期待に応えようとして行動を起こしてくれる。
こちらの期待した行動になるように努力をしてくれる。
こちらの期待した結果に結び付きやすい適切な行動をしてくれる。
そういう方向性に近づくように、
自分のコミュニケーションの仕方を工夫することができます。
ここが伝え方の技術としてのトレーニングになる、ということです。
※身内との関係性において
家族をはじめとする身近な人とのコミュニケーション(友人も含む)では
上記のようなポイントに当てはまるかどうかが重要です。
当てはまるケースもあれば、そうでないケースもあるはずです。
つまり相手が「やろう」と思ってくれているか。
協力しようとしてくれる場合は、「やろう」としてくれるでしょう。
そういう動機があれば今回紹介する技術が役立つ可能性があります。
一方、親が子供に何かを「させよう」という場合、
本人が「やりたくない」可能性があります。
このときも「やりたくないけど、協力はしてもいい」ことはありえます。
それだったら「やろう」という動機があるといえます。
あるいは、「やれと言われたら、やる」習慣が身についている場合。
このときも言うことを聞いてくれるあります。
よりスムーズに事を進めるために技術が役立ちます。
本人が自主的にやりたいことへの助言にも役立ちます。
もっと伸ばせるようなサポートに使える伝え方の技術です。
本人の目標のために必要のあることであれば
伝え方次第で「やろう」としてもらえる可能性はあります。
ですが、本人がやりたいものではなく
親の側の考えで「やらせたい」ことだとすると、
親のために協力するものでもありませんし
本人のメリットにも結びつきませんから、
この場合だと「やろう」という動機がないことになります。
そこを強制するまでの伝え方の技術ではありません。
ここは対象外と考えてもらったほうがシンプルでしょう。
本人が「やろう」と思える動機がある場面を想定して
やろうとしている行動を『育む』のが今回のテーマとなります。
親子の関係はこの点が繊細なので、ご注意ください。
(詳しい注意点が気になる方は、当日にご質問ください)
また、今回の内容は『言葉を通じた伝え方』のトレーニングです。
その点では、子供との関わりでいうと、
子供の発達段階(年齢)による言語的な理解力の度合い
を考慮する必要があります。
言葉の理解力が不足している時期には使えません。
また一般的に親しい関係ほど、言葉の内容以外、つまり
非言語コミュニケーションの比重が高い
ものです。
この意味でも、言葉の技術だけにフォーカスしてしまうのは危険です。
根底にある大切な気持ちが伝わりにくくなります。
あとは、どれぐらい自立を促すか。
発達段階に応じた自立とサポートのバランス
を考慮するのも重要です。
日本文化はポジティブなメッセージを直接的に表現しませんから
自立を促すコーチング的な関わり方が多くなりすぎると
突き放したような印象が生まれるリスクもありえます。
このあたりも注意点とお考え下さい。
◆録音に関しまして
ワークショップ中の内容は、ICレコーダーや
スマートフォンなどで記録いただいても構いませんが、
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
【最後に】
日本文化におけるコミュニケーションは
「受け取る側」の比重が高いのが特徴です。
そのあたりのことは典型的に
「空気を読む」
「行間を読む」
「気持ちを汲み取る」
「相手の気持ちになって考える」
といったことが重視されるのでもお分かりでしょう。
国語の授業なんて読解がほとんどです。
皆が同じ文章を読んで、同じように筆者の意図を「読みとれる」ように
国語のテストが作られているんです。
一方、自分の気持ちを表現するトレーニングの度合いは極端に低い。
誰が聞いても誤解のないように、自分の気持ちを分かってもらえるように
「伝える側」が努力をする比重が低いんです。
理解しあえないときは、「受け取る側」「聞く側」の問題になりがち。
西洋文化とは真逆です。
西洋のほうが「伝える側」「話す側」の責任が大きいとされます。
ですから、日本で生まれ育った人、日本語を母国語とする人は
自分の気持ちを適切に言葉にして伝えるのが苦手で当然なんです。
むしろそういう努力すらしようとしていないほうが一般的。
実際に、コミュニケーション技術の講師をしている人でも
一人称としての自分の気持ちを表現する訓練はしていない、
というのも見受けられる話なんです。
二人称として相手の話を聞く練習と、
三人称として知識や情報を説明する練習はしていても、
一人称としての自分の気持ちを表現するところは別物です。
ここは日本でもっと、工夫していける領域だと思われます。
工夫できる余地が大きいところのはずです。
12月末という一年の振り返りのタイミングに合わせて
ご自身の他者との関わり方について見つめ直していただくのにも
この講座がいい機会になるのではないかと思います。
興味とご都合が合いましたら、どうぞ積極的にお越しください。
【講座の詳細】
≪コミュニケーション講座 〜育むコミュニケーション〜≫
【日時】 2018年 12月23日(日)
10:00〜16:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
この技術は、かなりトレーニングのし甲斐があるものだと感じます。
しかも効果として大きいはずです。
経営者やリーダー、上司になる段階で
『相手の行動・能力を育む伝え方』をトレーニングしておくと、
その組織のパフォーマンスが上がるだけでなく
お互いの協力関係も促進されるでしょう。
他者への不満が理由で生まれてくるストレスも減らせますし
雰囲気も居心地のいいものになりやすいと考えられます。
そしてリーダーや上司がこの技術を身につけていると
同じ伝え方を組織のメンバーにも指導することも可能になります。
後進を育てられるだけでなく、組織全体として
伝わりやすいコミュニケーションが浸透していくわけです。
リーダーシップやマネジメントとは違う観点で
組織に影響を及ぼせる領域だと感じています。
この技術のベースにあるのは、
家族療法的なコミュニケーションの方法です。
シンプルにいえば、家族の問題を扱うコミュニケーション技術。
どうやって問題を解決するのか、というと
それはコミュニケーションの質を改善するところにあるんです。
量の問題ではありません。
どんなに話し合ってもゴタゴタしてしまうのは
コミュニケーションが足りないからではなく、
そのやり方が空回りしていることのほうが多いんです。
だから空回りにならないよう
質的な改善のために家族療法家が介入をする。
そういう技術が用いられるケースがあります。
お互いに自分の気持ちを適切に表現できていないから伝わりにくく、
伝わらない”もどかしさ”があるから、分かってもらおうと必死になる。
分かってもらうことに一生懸命になると、
相手の気持ちを理解しようとする余裕なんてなくなってしまいます。
だから汲み取る技術も、聞く技術も空回りしやすい。
汲み取ろう、理解しようという気持ちさえ奥に追いやられ
「自分のことを分かってくれないなら、
分かってあげるつもりなんてない!」
という頑なな状態で、
必死に自分の気持ちを分からせようとすることにもなりかねません。
ですが、自分の気持ちを適切に表現する技術を磨いていないので
思いつくままに癖で言葉を発してしまい、
相手が分かるような言い方にならないまま
ひたすら感情のアウトプットだけが続いてしまう…。
そもそも、本人が自分の気持ちを自覚できていないから
分かってもらうように言葉にすることも困難なんです。
こういう状態では「本気で話せば分かる」なんてことは起きにくい。
すれ違いを減らして、お互いの気持ちが相手に分かるようにサポートする。
それが家族療法でやることの1つなんです。
ヴァージニア・サティアは実際、こういうサポートをしつつ、
相手が分かるように表現する方法を指導したりもしていたようです。
つまり、気持ちを表現する技術を磨くのが
コミュニケーションの質を向上させる重要なポイントだということです。
組織の人間関係でも同様です。
昨今の風潮では、「職場のコミュニケーションを改善」といった場合、
量の側面に目を向けることが多いように見受けられます。
あるいはコーチングや傾聴を踏まえた「受け取る側」の技術。
コミュニケーションの質として、自分の気持ちを適切に表現する…
つまり『伝える』側の技術に目を向けたものが少ないようです。
家族の例で分かるように、コミュニケーションが上手くいっていないとき
改善すべきポイントは量よりも質のほうなんです。
伝える側の質。
ここに大きな可能性がありそうです。
コミュニケーション講座 〜育むコミュニケーション〜
年末の慌ただしい時期かもしれませんが
コミュニケーションの講座を開催します。
テーマは『育むコミュニケーション』。
上司として、リーダーとして、教育者として、講師として、
コーチとして、カウンセラーとして、トレーナーとして…。
人に何かを教えたり、人の能力や技術を伸ばすお手伝いをしたり、
相手の行動が変わるように働きかけたりする立場の方には
非常に重要な部分を扱います。
(※親子関係は注意が必要です。→後述)
相手に言語的な理解力があることを前提にして
『伝え方』を中心にトレーニングをしますので、
相手の年齢には対象となる範囲があるはずです。
相手との関係性を「育み」
かつ
相手の技術や能力を「育む」。
そういう意味での『育むコミュニケーション』です。
とりわけ
相手の行動が変わる
ことを目標とします。
もちろん行動には、そのベースとなる考え方と
行動をしようと思えるだけの気持ち(感情)も関わりますから、
考慮すべき範囲はかなり広いものになります。
行動を最終目標として設定しているのは、
考え方が変わっても行動に活かされなかったり、
考え方が変わっても気持ちが乗らずに行動に繋がらなかったり、
気持ちはあっても行動の内容が適切でなかったりすると、
自分の期待している行動には至らないからです。
その行動のパフォーマンスまで視野に入れるともいえます。
「やるか、やらないか」だけでなく
「どのようにやるか」の部分まで。
つまり上手くやれるようにする、という観点です。
だからといって、結果までコントロールするのは困難です。
ベストなパフォーマンスを発揮しても
周りの状況によっては結果が出るとは限りません。
営業で売れるかとか、ミスなく仕事がこなせるかとか、
効果的なアイデアを出せるかとか、
伝えた技術が実際の場面で役に立っているかとか、
心の問題解決のための努力が実を結んでいるかとか。
こうした結果は、本人が上手くやっても
期待したようなところには結びつかない場合があります。
営業で売れるかどうかは、相手先のニーズと合うかどうか、
景気や競合先との兼ね合い、世間的な流行などによっても変動します。
上手くやっても売れないことがあるし、
上手くやらなくても売れてしまうこともある、と。
業務をミスなくこなすことに関しても、
予想外の事態が含まれてきたら処理できない場合もあるかもしれません。
一生懸命に考えたアイデアが時代に合わないこともあるでしょうし、
もっといいアイデアを他の人から提案されたら目立たなくなりがちです。
教わった内容を実践してみても、成果が出るまでには
慣れが必要なケースだってあります。
心の問題解決の努力をどんなに適切にやっていても
厄介な出来事が重なれば、その時期の苦しみは大きくなってしまいます。
上手くやっているのに落ち込んでしまうときもあるんです。
そのように本人の範囲ではない原因で
期待したような結果に結びつかないことはあります。
だからこそ、
・適切な行動ができているか
・うまくやっているか
という行動面までに焦点を当てます。
相手の出した結果が望むものではなかったとしても
プロセスが期待に沿っていれば許容できる人も多いのではないでしょうか。
むしろ上司のような立場であれば、結果が出ないことよりも
「ちゃんとやっていない」ことで不満を抱くことも多いかもしれません。
「もっとこうしてくれれば…」
「もっとこうしたら上手くいくのに…」
のように、改善する方向性で関わるときには、
結果を出してもらおうとして躍起になるよりも、あくまで
『行動の内容』までに絞り込むのがポイントになる、という話です。
ですから、この講座では
自分がどのように相手に関われば
相手の行動が改善されるか
といった内容を詳しく見ていきます。
そのためには、そもそも自分の期待を理解するのが欠かせないでしょう。
そしてそれを適切に言語化して伝える技術も求められます。
多くの場合、この「言葉にして伝える」の部分が課題になりそうです。
実際、コーチやカウンセラー、講師業をしている知り合いを見ていても
業務上で指示を出すときのコミュニケーションが空回りするケースは
数えきれないほどあります。
聞き役としての技術や、専門技能の指導が得意でも
「自分の考えを適切に言葉にして伝える」のは
トレーニングされていないことが多いようです。
もっと正確にいうと、
「相手に分かってもらいたいことが何か」自分で分かっていない
のです。
自分の期待していることを正確に自覚しないまま
普段の癖のまま言葉を発する。
例えば「これをやっておいてください」などと。
それで後から、相手が自分の想定とは違うことをしたのを知って
「なんでこれをやっていないんだ!」
「これぐらい少し考えれば分かるだろう!」
のように腹を立てる、とか。
確かに、それで分かってくれる人もいます。
しかし少数派でしょう。
言わなくてもやってくれる人は珍しい。
言ったら言った通りにやってくれるだけでも多くありません。
言っても、言った通りにしないのが多数派でしょう。
言ったのに、やろうともしないということだって多いはずです。
だからこそ伝える側の技術として工夫するのが役立つんです。
・やろうと思ってもらえるような言い方をする。
・言った通りにやってもらえるように誤解の少ない表現をする。
・やって欲しいことを全てやってもらえるように
期待していることは言葉にして伝える。
そのためには、自分の『意図』を自覚するのが第一歩です。
ここから丁寧にトレーニングを始めます。
一部の内容を先取りしておくと、
意図=期待している結果+自分の価値観
ということになりますが、
『期待』もさらに詳しく区別できます。
「起きてくれたら望ましい結果」と
「これだけは起こってもらいたくない結果」とです。
起きてくれたら望ましい結果も、
目的と手段とに区別すると分かりやすく表現できるようになります。
目的というのは、自分が望んでいる重要な要素です。
この要素さえ満たされていれば、他は違っていても構わない、というもの。
例えば、”朗らかな職場の雰囲気”などです。
手段は、目的を果たすためのもの。
1つの目的でも、複数の手段があるというのがポイントです。
”朗らかな職場の雰囲気”という目的を果たす手段には
”笑顔で挨拶が交わされる”、
”お互い頻繁に話しかけられる”、
”ときどき笑い声が聞こえる”、
”皆がリラックスした表情をしている”
などが考えられます。
価値観と価値基準とに区別するのと似ています。
(価値観=大切にしたいことは何か?
価値基準=どうなったら、それが大切にできたといえるか?)
多くの場合、自分が思いつく期待、
望む結果として自覚されるものは、手段のほうなんです。
だから”朗らかな職場の雰囲気”を期待している人の場合、
”部下の一人がブスッと黙り込んでいて雰囲気を悪くしている”
のように判断をして、手段としての解決策
「もっと笑顔で、元気よく挨拶してくれ」
などと言いたくなるわけです。
しかし、相手本人の個性を考えると、
それがベストな手段とは限りません。
物静かな人で、照れ屋だけど可愛らしいところもあるかもしれない。
だとすると、無理やり笑顔にしたり、元気な声を出させるのは
難しいかもしれませんし、その必要もない可能性だってあります。
むしろ、”朗らかな職場”の要件である
”頻繁に話しかけられる”ことを成立させる工夫として、
自分から積極的に話しかけることもできるかもしれません。
相手に期待する部分としては”小さな声でも返事をしてもらう”とか。
そうすると相手に伝える内容が全く別物になってきます。
「これだけは起こってもらいたくない結果」についても同様です。
絶対に避けたいこと(損なわれたくない価値観)を明確にしたうえで
それに当てはまるケースの例(価値基準)を挙げていく。
そして、それを避けてもらうには、どんな伝え方をしたらいいか?
そういう段階的な考え方をしてから伝えるようにすれば
期待外れで不満を感じる頻度は減っていくはずです。
自分の側で意図がハッキリしているからこそ
そのための工夫を色々と試せるようになるんです。
期待外れのことが起こってから不満を感じる代わりに、
期待していることを先取りして自ら工夫できるようになるわけです。
ここが今回の講座の趣旨といえるでしょう。
【具体的な内容例】
●不満をもとに、自分の期待に気づくコツ
●無自覚だった期待の内容を明確に言語化するポイント
●期待の種類と区別の仕方
●言語化すべき期待の内容と、その表現方法
●指示、伝達、連絡、依頼、指導、フィードバックなど
目的別のコミュニケーションのポイント
●行動を起こしやすくする動機づけ
●相手が理解しやすい伝え方の順番
●上手くいかなかったときの理由を探るフレームワークと
各ステップに対しての対処法
【効果が期待できる関係性】
どんな関係にでも使える技術ではありません。
そもそも相手が行動しようという必然性があるのが前提になります。
必然性というのは、例えば
・上司部下の関係において、組織として
上司の指示や依頼には応えるのが決まりごととして定着している
・会社の価値観を受け入れてもらう代わりに
給与や待遇面での対価が発生している
・顧客との契約内容としてサポートの方向性やゴールが決まっていて
そのための手段を示すことが期待されている
・教育という場面において、指導される側が
指導者の言うことに沿って行動するのが両者に了解されている
などです。
関係性として、自分の側から相手に対して
「もっとこういう風に行動を変えてもらうことが望まれる」
という内容を伝えることが当然になっていて、
相手のほうも、
「言われたことに応えるのが(ある程度は)当然だ」
と思っている状態だといえます。
これが例えば電話営業だったりすると
相手が電話で話をし続けてくれるかどうかさえ当然ではありません。
嫌だったら電話を切られても仕方ない関係性です。
駅前で募金の声掛けをするのも、立ち止まってくれなくて当然。
「募金をするように行動を変えてもらう」ことが自分の期待だとしても
相手がそれに応えるのが前提にはなっていないわけです。
接客でも同様です。
自分から声をかけても無視される可能性があります。
相手が接客を期待していないときです。
こういうケースでいくら商品の魅力を説明しても
”その商品を購買する”ほうに行動を変えてもらうのは
相手が望むことではありませんから、
関係性として相手が行動を変える前提ではない、といえます。
一方、お客様のほうから商品について質問されたとか
販売員が「何かお探しですか?」と聞いて、
「○○を探しているんですけど…」のように答えが返ってきた場合は
購入を検討する方向で合意が取れていることになります。
条件によっては「商品を購買する」という行動に変える可能性がある。
行動を変える心の準備はあるわけです。
こういうのが前提という話になります。
ですから、今回の『育むコミュニケーション』というテーマでいえば、
教育とか指導とかサポートとかトレーニングとかの場面は
相手本人の目標のために、相手が行動を変える前提があることになります。
組織において指示や依頼をする場面では
お互いの共通の目標のために、相手が行動を変える前提があるといえます。
そういう意味で、相手がこちらの言うことに応えてくれる可能性が
お互いの共通認識として成立している関係をベースにしています。
もちろん、だからといって相手が必ず期待に応えてくれるわけではない。
それこそが『”育む”伝え方の技術』をトレーニングする必要がある理由です。
こちらの期待に応えようとして行動を起こしてくれる。
こちらの期待した行動になるように努力をしてくれる。
こちらの期待した結果に結び付きやすい適切な行動をしてくれる。
そういう方向性に近づくように、
自分のコミュニケーションの仕方を工夫することができます。
ここが伝え方の技術としてのトレーニングになる、ということです。
※身内との関係性において
家族をはじめとする身近な人とのコミュニケーション(友人も含む)では
上記のようなポイントに当てはまるかどうかが重要です。
当てはまるケースもあれば、そうでないケースもあるはずです。
つまり相手が「やろう」と思ってくれているか。
協力しようとしてくれる場合は、「やろう」としてくれるでしょう。
そういう動機があれば今回紹介する技術が役立つ可能性があります。
一方、親が子供に何かを「させよう」という場合、
本人が「やりたくない」可能性があります。
このときも「やりたくないけど、協力はしてもいい」ことはありえます。
それだったら「やろう」という動機があるといえます。
あるいは、「やれと言われたら、やる」習慣が身についている場合。
このときも言うことを聞いてくれるあります。
よりスムーズに事を進めるために技術が役立ちます。
本人が自主的にやりたいことへの助言にも役立ちます。
もっと伸ばせるようなサポートに使える伝え方の技術です。
本人の目標のために必要のあることであれば
伝え方次第で「やろう」としてもらえる可能性はあります。
ですが、本人がやりたいものではなく
親の側の考えで「やらせたい」ことだとすると、
親のために協力するものでもありませんし
本人のメリットにも結びつきませんから、
この場合だと「やろう」という動機がないことになります。
そこを強制するまでの伝え方の技術ではありません。
ここは対象外と考えてもらったほうがシンプルでしょう。
本人が「やろう」と思える動機がある場面を想定して
やろうとしている行動を『育む』のが今回のテーマとなります。
親子の関係はこの点が繊細なので、ご注意ください。
(詳しい注意点が気になる方は、当日にご質問ください)
また、今回の内容は『言葉を通じた伝え方』のトレーニングです。
その点では、子供との関わりでいうと、
子供の発達段階(年齢)による言語的な理解力の度合い
を考慮する必要があります。
言葉の理解力が不足している時期には使えません。
また一般的に親しい関係ほど、言葉の内容以外、つまり
非言語コミュニケーションの比重が高い
ものです。
この意味でも、言葉の技術だけにフォーカスしてしまうのは危険です。
根底にある大切な気持ちが伝わりにくくなります。
あとは、どれぐらい自立を促すか。
発達段階に応じた自立とサポートのバランス
を考慮するのも重要です。
日本文化はポジティブなメッセージを直接的に表現しませんから
自立を促すコーチング的な関わり方が多くなりすぎると
突き放したような印象が生まれるリスクもありえます。
このあたりも注意点とお考え下さい。
◆録音に関しまして
ワークショップ中の内容は、ICレコーダーや
スマートフォンなどで記録いただいても構いませんが、
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
【最後に】
日本文化におけるコミュニケーションは
「受け取る側」の比重が高いのが特徴です。
そのあたりのことは典型的に
「空気を読む」
「行間を読む」
「気持ちを汲み取る」
「相手の気持ちになって考える」
といったことが重視されるのでもお分かりでしょう。
国語の授業なんて読解がほとんどです。
皆が同じ文章を読んで、同じように筆者の意図を「読みとれる」ように
国語のテストが作られているんです。
一方、自分の気持ちを表現するトレーニングの度合いは極端に低い。
誰が聞いても誤解のないように、自分の気持ちを分かってもらえるように
「伝える側」が努力をする比重が低いんです。
理解しあえないときは、「受け取る側」「聞く側」の問題になりがち。
西洋文化とは真逆です。
西洋のほうが「伝える側」「話す側」の責任が大きいとされます。
ですから、日本で生まれ育った人、日本語を母国語とする人は
自分の気持ちを適切に言葉にして伝えるのが苦手で当然なんです。
むしろそういう努力すらしようとしていないほうが一般的。
実際に、コミュニケーション技術の講師をしている人でも
一人称としての自分の気持ちを表現する訓練はしていない、
というのも見受けられる話なんです。
二人称として相手の話を聞く練習と、
三人称として知識や情報を説明する練習はしていても、
一人称としての自分の気持ちを表現するところは別物です。
ここは日本でもっと、工夫していける領域だと思われます。
工夫できる余地が大きいところのはずです。
12月末という一年の振り返りのタイミングに合わせて
ご自身の他者との関わり方について見つめ直していただくのにも
この講座がいい機会になるのではないかと思います。
興味とご都合が合いましたら、どうぞ積極的にお越しください。
【講座の詳細】
≪コミュニケーション講座 〜育むコミュニケーション〜≫
【日時】 2018年 12月23日(日)
10:00〜16:30
※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。
【場所】 滝野川会館 304集会室
(JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
(東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
(JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)
【参加費】 ・・・15,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
終了しました
この技術は、かなりトレーニングのし甲斐があるものだと感じます。
しかも効果として大きいはずです。
経営者やリーダー、上司になる段階で
『相手の行動・能力を育む伝え方』をトレーニングしておくと、
その組織のパフォーマンスが上がるだけでなく
お互いの協力関係も促進されるでしょう。
他者への不満が理由で生まれてくるストレスも減らせますし
雰囲気も居心地のいいものになりやすいと考えられます。
そしてリーダーや上司がこの技術を身につけていると
同じ伝え方を組織のメンバーにも指導することも可能になります。
後進を育てられるだけでなく、組織全体として
伝わりやすいコミュニケーションが浸透していくわけです。
リーダーシップやマネジメントとは違う観点で
組織に影響を及ぼせる領域だと感じています。
この技術のベースにあるのは、
家族療法的なコミュニケーションの方法です。
シンプルにいえば、家族の問題を扱うコミュニケーション技術。
どうやって問題を解決するのか、というと
それはコミュニケーションの質を改善するところにあるんです。
量の問題ではありません。
どんなに話し合ってもゴタゴタしてしまうのは
コミュニケーションが足りないからではなく、
そのやり方が空回りしていることのほうが多いんです。
だから空回りにならないよう
質的な改善のために家族療法家が介入をする。
そういう技術が用いられるケースがあります。
お互いに自分の気持ちを適切に表現できていないから伝わりにくく、
伝わらない”もどかしさ”があるから、分かってもらおうと必死になる。
分かってもらうことに一生懸命になると、
相手の気持ちを理解しようとする余裕なんてなくなってしまいます。
だから汲み取る技術も、聞く技術も空回りしやすい。
汲み取ろう、理解しようという気持ちさえ奥に追いやられ
「自分のことを分かってくれないなら、
分かってあげるつもりなんてない!」
という頑なな状態で、
必死に自分の気持ちを分からせようとすることにもなりかねません。
ですが、自分の気持ちを適切に表現する技術を磨いていないので
思いつくままに癖で言葉を発してしまい、
相手が分かるような言い方にならないまま
ひたすら感情のアウトプットだけが続いてしまう…。
そもそも、本人が自分の気持ちを自覚できていないから
分かってもらうように言葉にすることも困難なんです。
こういう状態では「本気で話せば分かる」なんてことは起きにくい。
すれ違いを減らして、お互いの気持ちが相手に分かるようにサポートする。
それが家族療法でやることの1つなんです。
ヴァージニア・サティアは実際、こういうサポートをしつつ、
相手が分かるように表現する方法を指導したりもしていたようです。
つまり、気持ちを表現する技術を磨くのが
コミュニケーションの質を向上させる重要なポイントだということです。
組織の人間関係でも同様です。
昨今の風潮では、「職場のコミュニケーションを改善」といった場合、
量の側面に目を向けることが多いように見受けられます。
あるいはコーチングや傾聴を踏まえた「受け取る側」の技術。
コミュニケーションの質として、自分の気持ちを適切に表現する…
つまり『伝える』側の技術に目を向けたものが少ないようです。
家族の例で分かるように、コミュニケーションが上手くいっていないとき
改善すべきポイントは量よりも質のほうなんです。
伝える側の質。
ここに大きな可能性がありそうです。