2019年06月
2019年06月28日
便利な世の中
まれにですが、デスクワークの量が一気に増えることがあります。
とりわけ期限のあるものが固まって予定されたりすると
移動の時間なんかにも作業をしないと追いつきません。
普段はそこまで慌ただしくしているわけではありませんから
電車の中でパソコンを開いている人を見ると
「そんなに時間に追われているのか…」と気になったりしますが、
たまには僕もそういう状態に近づくようです。
とはいえ、パソコンを開くかどうか、という話になると
僕の場合は事情が異なってきます。
電車の中、それも近距離の移動だとすると
パソコンを開くのは少し手間に感じられます。
カバンを開いて、パソコンを取り出して、ケースから出して
膝の上において、開いて電源を押して、立ち上がるのを待って
パスワードを入力して…。
と、ちょっとプロセスが長い。
まして電車の中で、必ずしも座れるとは限りませんし、
座れる時間帯だとしても座席が全て埋まることはよくあります。
そうなると、パソコンを使ったときに
隣の人と肘がぶつかってしまいます。
これが苦手なんです。
また膝の上にパソコンを置いて作業するのも画面の揺れが気になったり、
カバンの置き場に困ったり、と色々と不便が重なります。
特に書き物をする場合には、僕は画面の揺れに影響されやすいようで
新幹線の中でもパソコンで文章を書くのが得意ではありません。
自分のアイデアを形にして書く作業でなければ許容範囲は広がります。
たとえば翻訳とかなら、まだ大丈夫なんですが。
ということでデスクワークが立て込んでいても
僕は、電車の中ではパソコン作業がしにくいんです。
代わりにスマホを使うことが多くなりました。
メールぐらいはスマホでも送受信できますし、
調べものもスマホで問題ありません。
文章を考えて書く作業も、スマホのメールとかメモ機能で対応できます。
個人的にはメールを使うことが多いでしょうか。
うっかり保存し損なったこともありますから、
間違えて削除してしまうのを避けるために、最近は
スマホのメールから、パソコンの自分のメールに向けて
書いたものを送信してしまうのを良くやっています。
これだと保存しそこなうリスクも減りますし、
パソコンを開ける環境になったら、メールに送った文章をコピーして
ワードファイルか何かに貼りつけて編集することもできます。
何より、混んでいる電車の中でも場所を取らずに書き物ができますし
座っていない状態でも作業ができるのは大きなメリットです。
画面が小さいからか、手に持っているからか
揺れの問題も軽減できます。
スマホなら取り出して、すぐに作業に移ることができるのも便利。
10分とか20分とかの合間での作業だとしたら
パソコンよりもスムーズにできそうな印象さえあります。
パソコンに及ばないのは、文字入力のスピードでしょうか。
集中して作業するならパソコンのほうがスムーズではあります。
あとは手が疲れること。
スマホを同じ姿勢で支えていると、腕が固まってきます。
文字入力をしている指も痛くなってきます。
それさえ除けば、かなりのメリットを感じています。
特に資料を作るとき、全体の構想として
アイデアをメモしておく段階では非常に助かっています。
今回は札幌出張のタイミングに
複数の期限つきデスクワークが重なってしまいました。
ですが、電車移動の最中から、立っていても座っていても
スマホで書き物を続けることができました。
空港の待ち時間はテーブルのある環境でパソコンを開き、
飛行機の中でもパソコンを開いて作業できます。
離陸、着陸に関連してパソコンが使えないタイミングは
あきらめてスマホに移行する。
空港からの移動の電車でもスマホで作業して
ホテルについたらパソコンに切り替えてデータをまとめる。
意外と悪くないものだと感じました。
心配なのは全体の整合性でしょうか。
自宅のパソコンの前で一通りの作業をした場合と違って
全体の流れが頭の中に残り続けたまま資料を完成させてはいません。
あちこち情報が行ったり来たりして、
さらに体裁を合わせる作業も、別に行ったりしています。
ちゃんと統一できているのか気がかりです。
あとは何より、スマホ特有の文字変換。
予測変換とかが混ざってしまうと、パソコンで書いたものにはありえない
奇妙な表記ミスが含まれてしまうことがあります。
やっぱりちゃんと見直して確認しないといけないんでしょう。
…ただ、慌ただしいからスマホを使って作業しているわけなので
最後の見直しチェックというのも、なかなか気が進みません。
うまく良いところどりをしながら
使いこなしていきたいものだと思います。
とりわけ期限のあるものが固まって予定されたりすると
移動の時間なんかにも作業をしないと追いつきません。
普段はそこまで慌ただしくしているわけではありませんから
電車の中でパソコンを開いている人を見ると
「そんなに時間に追われているのか…」と気になったりしますが、
たまには僕もそういう状態に近づくようです。
とはいえ、パソコンを開くかどうか、という話になると
僕の場合は事情が異なってきます。
電車の中、それも近距離の移動だとすると
パソコンを開くのは少し手間に感じられます。
カバンを開いて、パソコンを取り出して、ケースから出して
膝の上において、開いて電源を押して、立ち上がるのを待って
パスワードを入力して…。
と、ちょっとプロセスが長い。
まして電車の中で、必ずしも座れるとは限りませんし、
座れる時間帯だとしても座席が全て埋まることはよくあります。
そうなると、パソコンを使ったときに
隣の人と肘がぶつかってしまいます。
これが苦手なんです。
また膝の上にパソコンを置いて作業するのも画面の揺れが気になったり、
カバンの置き場に困ったり、と色々と不便が重なります。
特に書き物をする場合には、僕は画面の揺れに影響されやすいようで
新幹線の中でもパソコンで文章を書くのが得意ではありません。
自分のアイデアを形にして書く作業でなければ許容範囲は広がります。
たとえば翻訳とかなら、まだ大丈夫なんですが。
ということでデスクワークが立て込んでいても
僕は、電車の中ではパソコン作業がしにくいんです。
代わりにスマホを使うことが多くなりました。
メールぐらいはスマホでも送受信できますし、
調べものもスマホで問題ありません。
文章を考えて書く作業も、スマホのメールとかメモ機能で対応できます。
個人的にはメールを使うことが多いでしょうか。
うっかり保存し損なったこともありますから、
間違えて削除してしまうのを避けるために、最近は
スマホのメールから、パソコンの自分のメールに向けて
書いたものを送信してしまうのを良くやっています。
これだと保存しそこなうリスクも減りますし、
パソコンを開ける環境になったら、メールに送った文章をコピーして
ワードファイルか何かに貼りつけて編集することもできます。
何より、混んでいる電車の中でも場所を取らずに書き物ができますし
座っていない状態でも作業ができるのは大きなメリットです。
画面が小さいからか、手に持っているからか
揺れの問題も軽減できます。
スマホなら取り出して、すぐに作業に移ることができるのも便利。
10分とか20分とかの合間での作業だとしたら
パソコンよりもスムーズにできそうな印象さえあります。
パソコンに及ばないのは、文字入力のスピードでしょうか。
集中して作業するならパソコンのほうがスムーズではあります。
あとは手が疲れること。
スマホを同じ姿勢で支えていると、腕が固まってきます。
文字入力をしている指も痛くなってきます。
それさえ除けば、かなりのメリットを感じています。
特に資料を作るとき、全体の構想として
アイデアをメモしておく段階では非常に助かっています。
今回は札幌出張のタイミングに
複数の期限つきデスクワークが重なってしまいました。
ですが、電車移動の最中から、立っていても座っていても
スマホで書き物を続けることができました。
空港の待ち時間はテーブルのある環境でパソコンを開き、
飛行機の中でもパソコンを開いて作業できます。
離陸、着陸に関連してパソコンが使えないタイミングは
あきらめてスマホに移行する。
空港からの移動の電車でもスマホで作業して
ホテルについたらパソコンに切り替えてデータをまとめる。
意外と悪くないものだと感じました。
心配なのは全体の整合性でしょうか。
自宅のパソコンの前で一通りの作業をした場合と違って
全体の流れが頭の中に残り続けたまま資料を完成させてはいません。
あちこち情報が行ったり来たりして、
さらに体裁を合わせる作業も、別に行ったりしています。
ちゃんと統一できているのか気がかりです。
あとは何より、スマホ特有の文字変換。
予測変換とかが混ざってしまうと、パソコンで書いたものにはありえない
奇妙な表記ミスが含まれてしまうことがあります。
やっぱりちゃんと見直して確認しないといけないんでしょう。
…ただ、慌ただしいからスマホを使って作業しているわけなので
最後の見直しチェックというのも、なかなか気が進みません。
うまく良いところどりをしながら
使いこなしていきたいものだと思います。
2019年06月22日
【セミナー】怒りの取り合いマニュアル
心に関することでいうと、
様々な分野に共通して重要なポイントがあります。
それは
注意の対象ではなく、注意の元に意識を集める
ということです。
先端ではなくて、根元を見る。
これが本当に大事です。
これだけで本質的な問題さえも終わります。
ただし、この表現は本質的過ぎて
シンプルにまとまり過ぎてしまうので、
これだけではピンとこないことが多いと思います。
例えば「怒り」を題材とすると、
多くの人は、怒りを向ける対象に意識が集まるんです。
なぜ腹を立てているか?と。
「こういうことがあった。酷い!ムカつく!!」
という感じ。
それでは怒りは解消されません。
1つの効果的な対処法は「怒りを発散する」ことです。
出し切る。
そうすると
対象に向かって流れていたエネルギーが消えたようになり、
注意の方向が怒りの対象から離れ始めます。
そして自分の内側に向き始める。
なぜなら、そこに別の感情が起きているからです。
そこに気づけるようになるんです。
悲しみです。
怒りが通り過ぎると悲しくなってくる、というのは
怒りが発散された後、自然と意識の向きが変わって
そもそも自分の内側にあった悲しみに気づき始める、
というプロセスそのものだと言えます。
言い換えると、怒りは対象のほうに向いて
矢印のようにエネルギーを出し続けていますが、
その矢印の根元には悲しみがある、ということ。
だったら先に根元へ意識を向けてしまおう、と。
そうすることで怒りに振り回されなくなります。
もっというと、怒りを生んだ原因、怒りの対象にも
自分の感情を振り回されなくなるんです。
怒りが沸いてしまうというのは、
その対象・原因にコントロールされている
ということでもありますから。
他人や出来事にコントロールされて
怒りを持たされる必要がなくなるんです。
そういう話。
これが怒りだけでなく、ほとんど全てのことに当てはまる。
とはいえ、怒りに関していうと
だからといって怒りを我慢して
泣き続ければ良いということではありません。
もうちょっと丁寧な対処が必要になります。
そのあたりの「怒りの対処法」を
近々、講座で紹介します。
7月7日ー8日の土日。
基本は2日間の設定ながら、一日の受講も可能となっています。
詳しくは、こちらのリンク先をご覧ください。
https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2”>https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2
札幌開催のものも案内されていますが、今回は都内です。
ご検討ください。
様々な分野に共通して重要なポイントがあります。
それは
注意の対象ではなく、注意の元に意識を集める
ということです。
先端ではなくて、根元を見る。
これが本当に大事です。
これだけで本質的な問題さえも終わります。
ただし、この表現は本質的過ぎて
シンプルにまとまり過ぎてしまうので、
これだけではピンとこないことが多いと思います。
例えば「怒り」を題材とすると、
多くの人は、怒りを向ける対象に意識が集まるんです。
なぜ腹を立てているか?と。
「こういうことがあった。酷い!ムカつく!!」
という感じ。
それでは怒りは解消されません。
1つの効果的な対処法は「怒りを発散する」ことです。
出し切る。
そうすると
対象に向かって流れていたエネルギーが消えたようになり、
注意の方向が怒りの対象から離れ始めます。
そして自分の内側に向き始める。
なぜなら、そこに別の感情が起きているからです。
そこに気づけるようになるんです。
悲しみです。
怒りが通り過ぎると悲しくなってくる、というのは
怒りが発散された後、自然と意識の向きが変わって
そもそも自分の内側にあった悲しみに気づき始める、
というプロセスそのものだと言えます。
言い換えると、怒りは対象のほうに向いて
矢印のようにエネルギーを出し続けていますが、
その矢印の根元には悲しみがある、ということ。
だったら先に根元へ意識を向けてしまおう、と。
そうすることで怒りに振り回されなくなります。
もっというと、怒りを生んだ原因、怒りの対象にも
自分の感情を振り回されなくなるんです。
怒りが沸いてしまうというのは、
その対象・原因にコントロールされている
ということでもありますから。
他人や出来事にコントロールされて
怒りを持たされる必要がなくなるんです。
そういう話。
これが怒りだけでなく、ほとんど全てのことに当てはまる。
とはいえ、怒りに関していうと
だからといって怒りを我慢して
泣き続ければ良いということではありません。
もうちょっと丁寧な対処が必要になります。
そのあたりの「怒りの対処法」を
近々、講座で紹介します。
7月7日ー8日の土日。
基本は2日間の設定ながら、一日の受講も可能となっています。
詳しくは、こちらのリンク先をご覧ください。
https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2”>https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2
札幌開催のものも案内されていますが、今回は都内です。
ご検討ください。
2019年06月19日
味に飽きるかどうか
脂ものを控えるようになって約2か月。
そんな食生活にも慣れてきました。
内容はいたって単調です。
以前だったら同じような食事は飽きてしまっていたでしょうが、
なぜか最近は毎日同じでも大丈夫になったようで。
キムチは唐辛子の負担が大きいことが感じられて
少し控えるようにしました。
千切りキャベツは僕の場合、あまり食物繊維としての効果が高くなく
サラダをたっぷり食べたつもりでもイマイチ状態が良くなかったので、
固形分の要素が大きい乱切りのキャベツやモヤシの量を増やしています。
カット野菜を買って、レンジで簡単に火を入れて
スープや味噌汁じたてにすれば時間も手間もかかりませんし、
キムチ以外で固形の野菜を多めにとることができます。
こちらもシンプルな味のものを日々リピートする状態。
何か違う味のものを求めるときがあれば
シリアルを食べて気分転換といったところで、
我慢している気分も感じません。
ただし、シリアルを豆乳で食べるのは馴染めなかったので
脂肪分ゼロをミルクプロテイン飲料で誤魔化しています。
思い返せば、僕の生まれ育った実家は
食事を重視する家庭だったんでしょう。
当時はそれが当たり前で何とも思っていませんでしたが。
毎日違うメニューなのは当然でしたし、品数も多かったようです。
家計のうち食費にかける比重は高かったはずです。
そのせいか、色々と違う味のものを口にするのに慣れていて
同じものをずっと食べ続けるというのは好きではありませんでした。
今でもハッキリと覚えているのは、
土曜日、学校から帰ってきて食べる昼ご飯が
ミートソースのスパゲティや焼きそば、素麺だったりすると
なぜか一食分食べきれない
ということ。
量を調整してもらっても、途中で飽きてしまうのか
常に残してしまっていたものです。
夕飯のことを考えると、土曜日の昼に
子供の昼ご飯を工夫するのは負担だったんだろうと思います。
逆に言えば、母は平日に子供がいないときには
昼ご飯の品数を増やしていなかったのでしょう。
朝や夜には、かなり労力をかけて
品数を多くしてくれていたことがうかがえます。
祖父母同居の家で、専業主婦だった母は
かなりの時間を料理に費やしていたんじゃないでしょうか。
祖母が固いご飯が好きで、父が柔らかいご飯を好んでいたので
僕が子供の頃、自宅には炊飯器が2つありました。
固いご飯用と柔らかいご飯用の2台。
祖母は肉を食べない人だったので
夕飯のときも祖母のために別メニューが追加されていたのも日常。
当時は比較対象が無かったので、それが当たり前になっていましたが
大人になってみると随分と無理をして頑張っていたのだろうと思えます。
おかげで僕の脳は、味覚の刺激に対して
いわゆる馴化が起こりやすくなったようです。
同じ味が続くと、味覚の刺激に対しての反応性が落ちてきて
感度が落ちていく。
味を変えながらでないと飽きてしまう、というのは
そのあたりに理由があったんじゃないかと思われます。
それが今では飽きることが減ってきました。
ポジティブに解釈すれば
目の前の体験を毎回、新鮮な状態でインプットしている
ということかもしれません。
同じだと捉えなくなっている、と。
「さっき食べた味」という記憶を参照する度合いが減って
口に入るごとに味覚の刺激を新しいものとして捉えている。
…そんなことが起きやすくなったようにも想像できます。
実際、僕は最近、味の体験を
見た目に左右されにくくなっているみたいです。
以前、4,5人で打ち合わせをしていた場に
知人がお土産としてケーキを買ってきてくれたことがありました。
といっても普通のケーキではなく、
お寿司の見た目をしたケーキ。
パッケージからスーパーの寿司のパックみたいな形でしたから
見た目だけでいうと、一瞬、お寿司をお土産に持ってきたのか
と思うほどでした。
なかなかよくできた見た目でした。
色を付けた桃の薄切りで作ったガリなんかも入っていて。
皆で1つずつ食べて味の感想なんかを話していたんですが、
多くの人は「混乱する」と言っていたんです。
頭がお寿司のつもりになっていて、
でも味はケーキなので、予想と違って変な感じがする、と。
おそらく止まっているエスカレーターを歩くときのように、
頭が予想する体感覚と実際の体験が異なっている
という話でしょう。
でも僕は、味に関してそういう違和感は全くありませんでした。
お寿司の味を見た目から予想することがないんでしょう。
純粋に味と匂いとして、マンゴー風味を体験していました。
僕は見た目情報から味を予測しなくなっているようです。
馴化には予測の要素が関わっているんじゃないでしょうか。
知っている体験として予測をするから、
刺激に対しての準備ができている状態。
有名な話としては、
自分で「くすぐる」ことはできない
というのとも関係するはずです。
自分で「くすぐる」ことをしようとしても
その体験を予測してしまっているから
刺激を抑制してしまう、と。
子供の頃、同じ味だと飽きてしまってスパゲティが食べきれなかったのも
見た目情報から味を予測して、味覚刺激への反応性を抑制する
ということが起きていたのかもしれません。
そう考えると、最近は体験の仕方が変わってきている、ともいえそうです。
記憶を頼りにして予測しながら食べる、という度合いが下がり
毎回の味を別物として体験している。
それは、NLPなどを通じて心や体験というものの実態を
深く掘り下げてきた影響のような気がします。
良いか悪いかは何とも言えませんが、少なくとも
食べて良いものを選ぶ必要が出てきた現状では
飽きずに同じものを食べられるようになったのはメリットのようです。
以前のように飽きっぽい味覚を保ったままだったら
今みたいな単調な食生活は無理でしょうから。
そんな食生活にも慣れてきました。
内容はいたって単調です。
以前だったら同じような食事は飽きてしまっていたでしょうが、
なぜか最近は毎日同じでも大丈夫になったようで。
キムチは唐辛子の負担が大きいことが感じられて
少し控えるようにしました。
千切りキャベツは僕の場合、あまり食物繊維としての効果が高くなく
サラダをたっぷり食べたつもりでもイマイチ状態が良くなかったので、
固形分の要素が大きい乱切りのキャベツやモヤシの量を増やしています。
カット野菜を買って、レンジで簡単に火を入れて
スープや味噌汁じたてにすれば時間も手間もかかりませんし、
キムチ以外で固形の野菜を多めにとることができます。
こちらもシンプルな味のものを日々リピートする状態。
何か違う味のものを求めるときがあれば
シリアルを食べて気分転換といったところで、
我慢している気分も感じません。
ただし、シリアルを豆乳で食べるのは馴染めなかったので
脂肪分ゼロをミルクプロテイン飲料で誤魔化しています。
思い返せば、僕の生まれ育った実家は
食事を重視する家庭だったんでしょう。
当時はそれが当たり前で何とも思っていませんでしたが。
毎日違うメニューなのは当然でしたし、品数も多かったようです。
家計のうち食費にかける比重は高かったはずです。
そのせいか、色々と違う味のものを口にするのに慣れていて
同じものをずっと食べ続けるというのは好きではありませんでした。
今でもハッキリと覚えているのは、
土曜日、学校から帰ってきて食べる昼ご飯が
ミートソースのスパゲティや焼きそば、素麺だったりすると
なぜか一食分食べきれない
ということ。
量を調整してもらっても、途中で飽きてしまうのか
常に残してしまっていたものです。
夕飯のことを考えると、土曜日の昼に
子供の昼ご飯を工夫するのは負担だったんだろうと思います。
逆に言えば、母は平日に子供がいないときには
昼ご飯の品数を増やしていなかったのでしょう。
朝や夜には、かなり労力をかけて
品数を多くしてくれていたことがうかがえます。
祖父母同居の家で、専業主婦だった母は
かなりの時間を料理に費やしていたんじゃないでしょうか。
祖母が固いご飯が好きで、父が柔らかいご飯を好んでいたので
僕が子供の頃、自宅には炊飯器が2つありました。
固いご飯用と柔らかいご飯用の2台。
祖母は肉を食べない人だったので
夕飯のときも祖母のために別メニューが追加されていたのも日常。
当時は比較対象が無かったので、それが当たり前になっていましたが
大人になってみると随分と無理をして頑張っていたのだろうと思えます。
おかげで僕の脳は、味覚の刺激に対して
いわゆる馴化が起こりやすくなったようです。
同じ味が続くと、味覚の刺激に対しての反応性が落ちてきて
感度が落ちていく。
味を変えながらでないと飽きてしまう、というのは
そのあたりに理由があったんじゃないかと思われます。
それが今では飽きることが減ってきました。
ポジティブに解釈すれば
目の前の体験を毎回、新鮮な状態でインプットしている
ということかもしれません。
同じだと捉えなくなっている、と。
「さっき食べた味」という記憶を参照する度合いが減って
口に入るごとに味覚の刺激を新しいものとして捉えている。
…そんなことが起きやすくなったようにも想像できます。
実際、僕は最近、味の体験を
見た目に左右されにくくなっているみたいです。
以前、4,5人で打ち合わせをしていた場に
知人がお土産としてケーキを買ってきてくれたことがありました。
といっても普通のケーキではなく、
お寿司の見た目をしたケーキ。
パッケージからスーパーの寿司のパックみたいな形でしたから
見た目だけでいうと、一瞬、お寿司をお土産に持ってきたのか
と思うほどでした。
なかなかよくできた見た目でした。
色を付けた桃の薄切りで作ったガリなんかも入っていて。
皆で1つずつ食べて味の感想なんかを話していたんですが、
多くの人は「混乱する」と言っていたんです。
頭がお寿司のつもりになっていて、
でも味はケーキなので、予想と違って変な感じがする、と。
おそらく止まっているエスカレーターを歩くときのように、
頭が予想する体感覚と実際の体験が異なっている
という話でしょう。
でも僕は、味に関してそういう違和感は全くありませんでした。
お寿司の味を見た目から予想することがないんでしょう。
純粋に味と匂いとして、マンゴー風味を体験していました。
僕は見た目情報から味を予測しなくなっているようです。
馴化には予測の要素が関わっているんじゃないでしょうか。
知っている体験として予測をするから、
刺激に対しての準備ができている状態。
有名な話としては、
自分で「くすぐる」ことはできない
というのとも関係するはずです。
自分で「くすぐる」ことをしようとしても
その体験を予測してしまっているから
刺激を抑制してしまう、と。
子供の頃、同じ味だと飽きてしまってスパゲティが食べきれなかったのも
見た目情報から味を予測して、味覚刺激への反応性を抑制する
ということが起きていたのかもしれません。
そう考えると、最近は体験の仕方が変わってきている、ともいえそうです。
記憶を頼りにして予測しながら食べる、という度合いが下がり
毎回の味を別物として体験している。
それは、NLPなどを通じて心や体験というものの実態を
深く掘り下げてきた影響のような気がします。
良いか悪いかは何とも言えませんが、少なくとも
食べて良いものを選ぶ必要が出てきた現状では
飽きずに同じものを食べられるようになったのはメリットのようです。
以前のように飽きっぽい味覚を保ったままだったら
今みたいな単調な食生活は無理でしょうから。
2019年06月13日
伝統に憧れる
運命という言葉を簡単に使うのは気が引けますが、
人には何となくの傾向というか、生き方のスタンスというか
大まかなタイプのようなものがありそうな印象を受けます。
場面が変わっても繰り返されるパターンのようなものです。
社会における立場とか、巡り合う人の傾向とかに表れるもの。
具体的には僕の場合、
「本流」、「主流」や「伝統」からは離れる
傾向があるようです。
知らないうちに離れてしまうこともあれば
主流の中に入ろうとしても入れないこともありますし、
何気なく惹かれて選んでいたものが少数派だったりもしました。
例えば僕が研究職についたとき、
入った会社は業界最大手ではなく二番手のところでした。
その後、心理やコミュニケーションに関心をもったわけですが、
そのときにも臨床心理士を目指すわけではなく
NLPという、心理分野では亜流のような位置づけのものをやりました。
今となってはNLPだからこそできることが多くあって、
いわゆる心理学の流れではないからこそのメリットを実感していますが、
それでも社会的信用を得やすい主流派ではないと思われます。
またNLPそのものについて言っても、
NLPを分かっている度合いについては僕には自信がありますが
NLPの伝統からするとメインストリームではないでしょう。
一応リチャード・バンドラーのトレーナーコースに行っていますから
他の人たちと同じように
「創始者リチャード・バンドラーから直接指導を受けた」
みたいな文言を主張することは可能ですが、
密な関係で教わってきたわけではありません。
NLPという心理分野から派生したもセミナー業界においても
伝統をストレートに引き継いでいる立場ではないんです。
僕が催眠療法を学んだ吉本先生は、ミルトン・エリクソンから
直接教わったことのある数少ない日本人の一人です。
だからといって僕は吉本先生の後継的な位置なわけではなく、
ただの生徒の一人でしかありません。
吉本先生ご自身が臨床心理士だったこともあり、
先生のサポートのメインは心理臨床の専門家向けだった印象です。
何より僕は催眠を中心に据えることにならなかったですし。
心理やコミュニケーションの技術の土台は
堀之内先生から多くの指導を受けて身につけたつもりです。
が、先生の提供していた講座の全課程を終えてもいませんし
免許皆伝なわけでもありません。
堀之内先生ご自身は、日本の家族療法の大家
国谷誠朗先生の一番弟子を自負されていて
その意味では主流を引き継いだ人ともいえそうです。
ただ、その堀之内先生も結局は、日本の心理臨床分野では異端で
今では学問分野から一線を引いて独自の展開をしています。
僕はそういう
「世間一般の主流ではない本物の実力」
みたいなものに惹かれるところがあったんでしょう。
なので学んだ財産の大きさを実感する一方、
多数派として世間に溶け込むのとは違う立ち位置を自覚します。
書道だってそうです。
なんとなく選んだ先生ですが、
書道界では異端の部類だと思われます。
とはいえ、
書道界から「書家」として認められない反面
マスメディアでだけ取り上げられてる書道アーティスト
とも一線を画している人ではあります。
書道界の内側にいながら、伝統のど真ん中にはいない。
そんな独自路線の先生のようです。
こうして振り返ってみると、僕の先生たちは
伝統や主流を引き継ぎながら、そこからハミ出た
という人が多い印象です。
そして僕自身は、そうしたハミ出るぐらいの個性と実力を捉え
そこから学ぼうとするからこそ
伝統の中にいることができないんでしょう。
もしかすると伝統の継承者は、
教えの内容そのものを大切にして
忠実に正しいものを引き渡せる
という素養を必要とされるのかもしれません。
ところが、伝統の教えを学ぶうちに、教えそのものではなく
「教えが指し示すもの」のほうに気づき
そちらを独自の表現で伝え始まる人が出てくる。
僕はどうやら、そういうものに関心をもつみたいです。
自動的にそれは伝統のメインストリームではなくなります。
大事なことを学ぶには早いですが、
伝統に身を置いたという経験は得られません。
一方、僕が教わる先生たち自身は
伝統の主流にいた師匠筋との密な関わりを経験しています。
そしてそんな思い出を語る。
僕が自分で伝統を引き継ぐつもりはありません。
それは憧れない。
ただ伝統に身を置いた経験を懐かしみ、
その伝統を尊敬できる立場はチョット羨ましいです。
また、伝統を背景に持つからこそ
伝統からハミ出たことを言っても
「異端児」として見なされます。
伝統に入ったことのない者は何を言っても
「部外者」の戯言にされてしまう。
社会的に受け入れられながら
社会に属して生きていく分には、
「正当な後継者」とか「本流」であるか、
あるいは「異端児」くらいが好都合なようです。
「部外者」はメインストリームには入れません。
利用する権威も、支えとして敬える伝統もありません。
ただ実態だけを、ひたすら行いに移すのみ。
まあ、ブッダもそうだったでしょうから
そこは気休めですね。
人には何となくの傾向というか、生き方のスタンスというか
大まかなタイプのようなものがありそうな印象を受けます。
場面が変わっても繰り返されるパターンのようなものです。
社会における立場とか、巡り合う人の傾向とかに表れるもの。
具体的には僕の場合、
「本流」、「主流」や「伝統」からは離れる
傾向があるようです。
知らないうちに離れてしまうこともあれば
主流の中に入ろうとしても入れないこともありますし、
何気なく惹かれて選んでいたものが少数派だったりもしました。
例えば僕が研究職についたとき、
入った会社は業界最大手ではなく二番手のところでした。
その後、心理やコミュニケーションに関心をもったわけですが、
そのときにも臨床心理士を目指すわけではなく
NLPという、心理分野では亜流のような位置づけのものをやりました。
今となってはNLPだからこそできることが多くあって、
いわゆる心理学の流れではないからこそのメリットを実感していますが、
それでも社会的信用を得やすい主流派ではないと思われます。
またNLPそのものについて言っても、
NLPを分かっている度合いについては僕には自信がありますが
NLPの伝統からするとメインストリームではないでしょう。
一応リチャード・バンドラーのトレーナーコースに行っていますから
他の人たちと同じように
「創始者リチャード・バンドラーから直接指導を受けた」
みたいな文言を主張することは可能ですが、
密な関係で教わってきたわけではありません。
NLPという心理分野から派生したもセミナー業界においても
伝統をストレートに引き継いでいる立場ではないんです。
僕が催眠療法を学んだ吉本先生は、ミルトン・エリクソンから
直接教わったことのある数少ない日本人の一人です。
だからといって僕は吉本先生の後継的な位置なわけではなく、
ただの生徒の一人でしかありません。
吉本先生ご自身が臨床心理士だったこともあり、
先生のサポートのメインは心理臨床の専門家向けだった印象です。
何より僕は催眠を中心に据えることにならなかったですし。
心理やコミュニケーションの技術の土台は
堀之内先生から多くの指導を受けて身につけたつもりです。
が、先生の提供していた講座の全課程を終えてもいませんし
免許皆伝なわけでもありません。
堀之内先生ご自身は、日本の家族療法の大家
国谷誠朗先生の一番弟子を自負されていて
その意味では主流を引き継いだ人ともいえそうです。
ただ、その堀之内先生も結局は、日本の心理臨床分野では異端で
今では学問分野から一線を引いて独自の展開をしています。
僕はそういう
「世間一般の主流ではない本物の実力」
みたいなものに惹かれるところがあったんでしょう。
なので学んだ財産の大きさを実感する一方、
多数派として世間に溶け込むのとは違う立ち位置を自覚します。
書道だってそうです。
なんとなく選んだ先生ですが、
書道界では異端の部類だと思われます。
とはいえ、
書道界から「書家」として認められない反面
マスメディアでだけ取り上げられてる書道アーティスト
とも一線を画している人ではあります。
書道界の内側にいながら、伝統のど真ん中にはいない。
そんな独自路線の先生のようです。
こうして振り返ってみると、僕の先生たちは
伝統や主流を引き継ぎながら、そこからハミ出た
という人が多い印象です。
そして僕自身は、そうしたハミ出るぐらいの個性と実力を捉え
そこから学ぼうとするからこそ
伝統の中にいることができないんでしょう。
もしかすると伝統の継承者は、
教えの内容そのものを大切にして
忠実に正しいものを引き渡せる
という素養を必要とされるのかもしれません。
ところが、伝統の教えを学ぶうちに、教えそのものではなく
「教えが指し示すもの」のほうに気づき
そちらを独自の表現で伝え始まる人が出てくる。
僕はどうやら、そういうものに関心をもつみたいです。
自動的にそれは伝統のメインストリームではなくなります。
大事なことを学ぶには早いですが、
伝統に身を置いたという経験は得られません。
一方、僕が教わる先生たち自身は
伝統の主流にいた師匠筋との密な関わりを経験しています。
そしてそんな思い出を語る。
僕が自分で伝統を引き継ぐつもりはありません。
それは憧れない。
ただ伝統に身を置いた経験を懐かしみ、
その伝統を尊敬できる立場はチョット羨ましいです。
また、伝統を背景に持つからこそ
伝統からハミ出たことを言っても
「異端児」として見なされます。
伝統に入ったことのない者は何を言っても
「部外者」の戯言にされてしまう。
社会的に受け入れられながら
社会に属して生きていく分には、
「正当な後継者」とか「本流」であるか、
あるいは「異端児」くらいが好都合なようです。
「部外者」はメインストリームには入れません。
利用する権威も、支えとして敬える伝統もありません。
ただ実態だけを、ひたすら行いに移すのみ。
まあ、ブッダもそうだったでしょうから
そこは気休めですね。
2019年06月10日
食生活が変わると
ネット情報によると「完全に戻るのに約一か月」という時差ボケも
普段から不規則な生活をしている僕は、
一週間チョットで元通りになった感じがします。
一方、やたらとお腹の調子がよろしくない。
こちらは以前と随分違っている感じです。
お通じの様子からしても、腸内細菌のバランスが変わっていそうな印象。
もしかすると食べ物そのもので違いが出ているのかもしれませんが。
1,2か月前のこと、手の震えが気になって病院に検査に行きました。
結局、手の震えについては「原因不明」ということで
それについては何もしない方向になったんです。
裏を返すと、特別な対処をする必要のある要因は見つからなかった
ということですから、安心材料にはなったとは言えそうです。
ただ、それと同時にMRIと血液検査の結果から
ちょっとした対応が必要になりました。
おそらく先天的と思われる脳底動脈の細さが
脳梗塞のリスクを高くしている。
なので血栓ができやすい身体の状態は避けたい、と。
ところが血液検査の結果からすると
悪玉コレステロールの値がかなり高く、
動脈硬化をはじめとする血管系の障害にリスクがある。
このまま放置すると血管が詰まりやすくなっていくと予想される。
…そんな話を医者からされまして、
コレステロールを下げる薬を処方されました。
しかし、これがなんだか知らないけれど痛い。
飲むと具合が悪くなります。
一応「副作用が出たらやめてください」と薬剤師に言われていたので
薬の服用は中止して、とりあえず食事で対処してみることにしました。
とにかく油ものを控える方向性です。
結果的に、サラダと鶏肉と豆類が中心になりました。
ときどき魚も食べます。
油の量と質によっては、野菜炒めも時々食べています。
冷たいものばかりになってしまいますので。
卵は大丈夫らしいという説もありますが
念のため量は控えめにして、
乳製品はできるだけ取らないようにしました。
朝も夜もサラダというのは物足りないこともあるので
キムチを食べる頻度も増えました。
チーズやヨーグルトを食べなくなった分、
発酵食品としてはいいんじゃないか、と。
塩分の濃さは若干気になりますが。
そんな生活が一か月チョット続いています。
アメリカ滞在中も、幸い、瞑想のための宿泊施設でしたから
ベジタリアン向けの食べ物も多く用意されていて、
野菜メインの食事を続けるのは簡単でした。
むしろサラダ以外の部分で、いろいろな形の野菜が食べられて
日本にいるときよりもバリエーションが充実していたぐらいです。
その後、シカゴに移動して美術館を巡っていたときも
サラダ中心の食生活をしていました。
アメリカでサラダを買うと、値段は日本より高いですが
お腹いっぱいになるぐらいのボリュームで食べられます。
まっ茶色な食事(揚げ物、肉、炭水化物)が一般的なアメリカでは
グリーンのものを食べるのは、あまり馴染みがないんでしょう。
そのせいか、サラダの味付けやトッピングの工夫は相当なもので
毎食サラダだったとしても色々なバリエーションを楽しめます。
ということで、アメリカにいても日本にいても
僕の食事はあまり変わらず、
生野菜と鶏肉と豆ばかりの食生活です。
それで先日、病院で再び血液検査をしてきました。
コレステロールの値は順調に下がっていました。
このままいけば標準になりそうです。
医者は薬の効果だと想定して問診を始めましたが
僕が「飲むと身体が痛いから飲んでいない」と報告したところ、
『飲まなくても大丈夫でしょう』という結論になりました。
この生活スタイルを続ければリスクは下がるだろう、と。
薬を飲まなくてよくなったのは助かりますが、
この食生活を続ける必要があるというのは
ほんの少しだけ寂しくはあります。
あまり「食べる喜び」が感じられませんから。
厳密には「食べる喜び」そのものは変わらないんですが
「美味しい」という体験が減ることへの寂しさです。
最近はスーパーに行ってもコンビニに行っても
目に入る食品の油の具合に対して敏感になったようで、
脂質量をチェックしなくても油の多さは想像ができるようになりました。
身体の感覚として食べない方が良さそうなものが察知できるような
そんな感じの状態です。
医者は薬を飲まずにコレステロールが下がったことについて
驚きとともに心配を示してくれました。
「たいてい『食事を気をつける』と言っている人でも
こんなにコレステロールを下げることはできないんです。
やっぱり美味しいものを食べたいから
なんだかんだと節制しきれない。
それで結局、美味しいものを食べながら
薬でコレステロールを下げる、っていう方を選ぶんですよね。
相当、食事を気をつけたんじゃないですか?
あまり無理するとストレスになるかもしれないけど大丈夫ですか?」
…そんなコメントでした。
とりあえず今後は定期的な検査だけの方針になりました。
まぁ、食べられるものが限られるのも、
以前好きだったものを食べなくなるのも、
残念な印象はいくらかあります。
反面、身体の内側の軽快さは高まっている気がしますし、
油分に対しての味覚的な感度も高まっている感じなので、
そんなに苦労はしないんじゃないかとは予想しています。
1つ気がかりなのは冒頭に書いた、お腹の具合。
腸の働きが以前と違います。
食生活が変われば当然だとは言えそうですが…。
いつもゴロゴロと具合が悪いのは不便ですね。
普段から不規則な生活をしている僕は、
一週間チョットで元通りになった感じがします。
一方、やたらとお腹の調子がよろしくない。
こちらは以前と随分違っている感じです。
お通じの様子からしても、腸内細菌のバランスが変わっていそうな印象。
もしかすると食べ物そのもので違いが出ているのかもしれませんが。
1,2か月前のこと、手の震えが気になって病院に検査に行きました。
結局、手の震えについては「原因不明」ということで
それについては何もしない方向になったんです。
裏を返すと、特別な対処をする必要のある要因は見つからなかった
ということですから、安心材料にはなったとは言えそうです。
ただ、それと同時にMRIと血液検査の結果から
ちょっとした対応が必要になりました。
おそらく先天的と思われる脳底動脈の細さが
脳梗塞のリスクを高くしている。
なので血栓ができやすい身体の状態は避けたい、と。
ところが血液検査の結果からすると
悪玉コレステロールの値がかなり高く、
動脈硬化をはじめとする血管系の障害にリスクがある。
このまま放置すると血管が詰まりやすくなっていくと予想される。
…そんな話を医者からされまして、
コレステロールを下げる薬を処方されました。
しかし、これがなんだか知らないけれど痛い。
飲むと具合が悪くなります。
一応「副作用が出たらやめてください」と薬剤師に言われていたので
薬の服用は中止して、とりあえず食事で対処してみることにしました。
とにかく油ものを控える方向性です。
結果的に、サラダと鶏肉と豆類が中心になりました。
ときどき魚も食べます。
油の量と質によっては、野菜炒めも時々食べています。
冷たいものばかりになってしまいますので。
卵は大丈夫らしいという説もありますが
念のため量は控えめにして、
乳製品はできるだけ取らないようにしました。
朝も夜もサラダというのは物足りないこともあるので
キムチを食べる頻度も増えました。
チーズやヨーグルトを食べなくなった分、
発酵食品としてはいいんじゃないか、と。
塩分の濃さは若干気になりますが。
そんな生活が一か月チョット続いています。
アメリカ滞在中も、幸い、瞑想のための宿泊施設でしたから
ベジタリアン向けの食べ物も多く用意されていて、
野菜メインの食事を続けるのは簡単でした。
むしろサラダ以外の部分で、いろいろな形の野菜が食べられて
日本にいるときよりもバリエーションが充実していたぐらいです。
その後、シカゴに移動して美術館を巡っていたときも
サラダ中心の食生活をしていました。
アメリカでサラダを買うと、値段は日本より高いですが
お腹いっぱいになるぐらいのボリュームで食べられます。
まっ茶色な食事(揚げ物、肉、炭水化物)が一般的なアメリカでは
グリーンのものを食べるのは、あまり馴染みがないんでしょう。
そのせいか、サラダの味付けやトッピングの工夫は相当なもので
毎食サラダだったとしても色々なバリエーションを楽しめます。
ということで、アメリカにいても日本にいても
僕の食事はあまり変わらず、
生野菜と鶏肉と豆ばかりの食生活です。
それで先日、病院で再び血液検査をしてきました。
コレステロールの値は順調に下がっていました。
このままいけば標準になりそうです。
医者は薬の効果だと想定して問診を始めましたが
僕が「飲むと身体が痛いから飲んでいない」と報告したところ、
『飲まなくても大丈夫でしょう』という結論になりました。
この生活スタイルを続ければリスクは下がるだろう、と。
薬を飲まなくてよくなったのは助かりますが、
この食生活を続ける必要があるというのは
ほんの少しだけ寂しくはあります。
あまり「食べる喜び」が感じられませんから。
厳密には「食べる喜び」そのものは変わらないんですが
「美味しい」という体験が減ることへの寂しさです。
最近はスーパーに行ってもコンビニに行っても
目に入る食品の油の具合に対して敏感になったようで、
脂質量をチェックしなくても油の多さは想像ができるようになりました。
身体の感覚として食べない方が良さそうなものが察知できるような
そんな感じの状態です。
医者は薬を飲まずにコレステロールが下がったことについて
驚きとともに心配を示してくれました。
「たいてい『食事を気をつける』と言っている人でも
こんなにコレステロールを下げることはできないんです。
やっぱり美味しいものを食べたいから
なんだかんだと節制しきれない。
それで結局、美味しいものを食べながら
薬でコレステロールを下げる、っていう方を選ぶんですよね。
相当、食事を気をつけたんじゃないですか?
あまり無理するとストレスになるかもしれないけど大丈夫ですか?」
…そんなコメントでした。
とりあえず今後は定期的な検査だけの方針になりました。
まぁ、食べられるものが限られるのも、
以前好きだったものを食べなくなるのも、
残念な印象はいくらかあります。
反面、身体の内側の軽快さは高まっている気がしますし、
油分に対しての味覚的な感度も高まっている感じなので、
そんなに苦労はしないんじゃないかとは予想しています。
1つ気がかりなのは冒頭に書いた、お腹の具合。
腸の働きが以前と違います。
食生活が変われば当然だとは言えそうですが…。
いつもゴロゴロと具合が悪いのは不便ですね。
2019年06月06日
【瞑想レッスン】6月22日の瞑想会
ご案内: 6月22日(土)
瞑想講座 ~Coming back 'Home'~
瞑想会は折を見て、できるだけやろうかと思っています。
一応「講座」と銘打っていますが、実際は「レッスン」ぐらいの感じ。
ただ一緒に瞑想しましょうというお誘いではなく、
やり方やコツなどもお伝えする趣旨です。
究極的には「ひたすら一緒に黙って座る」だけに行きつきます。
もっともシンプルなスタンスは、それでしょう。
何かのメリットや目的のために瞑想をするわけではなく、
「ひたすら座る」ことそのものが
本性をありのまま世の中に表すことであって、
そうした座り方そのものを意図して瞑想するわけです。
この意図には終わりはありません。
むしろ深まり続けていくものとされます。
とはいえ、瞑想をするからには
そもそも瞑想に興味を持つキッカケがあります。
本質的には、このキッカケは個人のメリットや欲に由来するものではなく、
そうした形で自覚はされるけれども、それは表面的なところで
奥底には個人を超えた世の中の自然な働きが起こっていると考えます。
まぁ、それは自覚されるわけではありませんから
どんな経緯であれ瞑想に関心が生まれて
その方向への歩みを始めたということそのものが重視されます。
昨今では、アメリカ経由の「マインドフルネス」が流行して
日常生活レベルのメリットを求めて瞑想をするケースも多いようです。
その他にも、真実や真理といったものに関心が向いたり、
哲学的な思想を入り口にヨガや瞑想に進んでいったり、
いわゆるスピリチュアルな分野への興味から瞑想と出会ったり、
悩みから楽になるための心理療法的観点から瞑想を行ったり、
瞑想を始めるルートは多岐にわたるように見受けられます。
手塚治虫の「ブッダ」でも、ブッダ(シッダルタ)は
社会で苦しむ人々を見て、王族から出家したことになっています。
見た目上、どんなキッカケであっても、本質的に共通しているのは
「このままではいけない」という想いだと言えるでしょう。
掘り下げていくと、”自分”という存在が不安定になる感じ、
いわゆる「実存的危機」を伴っているはずです。
そしてこの”自分”という存在の危機感は
様々に形を変え、苦悩として自覚されるようになる。
この「苦」が形を変えて起こってくるメカニズム、関係性を
ブッダは十二縁起として説明していて、
その根本を「無明」としているわけです。
「無明」つまり「智慧」(仏の知恵)がない状態、と。
智慧がない。
本質が分かっていない。
もうちょっと日常的に言い換えると、
「みんな当たり前だと思ってしまっていることが勘違いなんだ」
という感じです。
じゃあ、勘違いではない「智慧」とは何なのか?
それは言葉では説明しにくいものでしょうけれど、
その智慧を得るための修業として瞑想が位置づけられます。
究極的には、すべての智慧を得ることはないので
修業はずっと続くわけですが、
個人的な人生経験におけるターニングポイントとしては
智慧によって苦悩から解放されるときは訪れます。
つまり「無明」は終わる。
勘違いに気づけば、苦悩は終わる、と。
とはいっても、勘違いではない内容については
無限の深遠さを持っているため
智慧を”手に入れた”という過去形になることはない。
それで、修業は終わらない、ということです。
瞑想に取り組むうえでのポイントは、
この「勘違いが終わると、苦悩が終わる」という部分です。
日常を生きる苦しみから解放される。
様々な形で悩み、苦しみ、不満、不安が起こる…
それから解放されて楽になる。
苦悩から自由になる、という趣旨です。
それが現実的な意味での瞑想の役割といえるでしょう。
そして瞑想によって苦悩を終わらせるルートには様々な流派があります。
ただ姿勢だけを心がけて座り続けるものもありますし、
具体的なイメージ内容を定めて瞑想するものもあります。
内面的な体験として何が起こったかを基準に
段階的に瞑想の種類を変えて、ステップアップしていく流派もあります。
ある流派では、できるだけ直線的に、シンプルなやり方で
苦悩からの解放までを一気に目指そうとします。
英語だと「direct pathway」なんて言われたりするものです。
実際、「勘違いに気づく」かどうかは
タイミングに左右されるところが大きいようで、
まさにダイレクトなやり方でも構わないのかもしれません。
起きる人には起きる、ということですから。
しかし、僕が見てきた限り、
それが起こりやすい状態には程度の違いがありそうなんです。
起きるときは起きる。
起こりやすい状態でも、起こらないときは起こらない。
起きにくい状態でも、起きるときは起きる。
あくまで確率のような話と捉えて頂けばいいと思います。
その意味で、起きやすくする、つまり
確率を上げる手段はあるんです。
その主要な1つが「一緒に瞑想する」ということです。
そして、まだ他にも確率を上げる手段があります。
言い換えれば、瞑想のコツのようなものです。
そこをお伝えする形式での瞑想会です。
なので「瞑想レッスン」ぐらいの呼び名が丁度いいか、と。
ということで、こちらの瞑想レッスンで行うのは
『どのように』意識するか
という意識の使い方のコツの指導です。
世間で行われる様々な流派の瞑想を
”正しい瞑想法”として紹介するものではありません。
”〇〇瞑想”みたいな具体的な瞑想手法を扱うものではない、
ということをご了承ください。
瞑想の最中に『何を』するのか?という瞑想技法の話よりも
『どのように』意識を向けながら瞑想をするのか?
というコツの話が中心になる、ということです。
苦しみから楽になる。
必ずしも一気に全ての苦しみから解放されるだけが全てではないでしょう。
少しでも楽になる。
それも良いのではないかと思います。
楽な時間をお過ごしいただければと願っています。
【実際に何をするか】
●瞑想についての説明
●様々な瞑想のコツの説明と実践
●振り返りと質疑応答
ずっと瞑想し続けるわけではありません。
一度の瞑想の時間も、お越しの方に合わせて調整します。
場所は和室です。
施設で座布団ぐらいは借りられますが
ご自身で使い慣れた坐布やクッション、ヨガマットなどあれば
ご持参いただいても構いません。
服装も動きやすいものをお選びください。
【午後の部と夜間の部について】
3時間ずつ、2コマで行います。
内容は同じにはなりません。
重要なところは一部、重複させる可能性はあります。
その場合には、ご自身での体験の違いを味わって頂けると思います。
どちらか一方のご参加も可能です。
お時間と体力をご考慮の上でご参加ください。
◆録音に関しまして
説明の内容は、ICレコーダーやスマートフォンなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
※消防法の関係で、施設利用の定員があります。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
【講座の詳細】
≪瞑想講座 〜Coming back 'Home'〜≫
【日時】 2019年 6月22日(土)
午後の部 13:30〜16:30
夜間の部 18:00〜21:00
※終了時間は多少前後する場合があります。
【場所】 北とぴあ 第2和室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】 ・・・午後・夜間いずれか一回の場合: 7,000円
両方ご参加の場合: 10,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
【お申込み】 下のメールフォームにご記入ください。
「ご参加」の欄に
「午後」「夜間」「両方」のいずれかをご記載お願いします。
【最後に】
サブタイトルの「Coming back 'Home'」についてですが、
これこそが「楽になる」ことの本質だと思われます。
日本語には「おかえり」という挨拶があります。
このニュアンスがポイントです。
怪我をして、はぐれてしまった野生動物を保護して
治療が終わって回復して、群れのもとへと返すとき。
「ほら、おかえり」と送り出す。
一方では、外に出て久しぶりに戻ってきた相手を
「おかえり」と招き入れる。
自然へ、本来の場所へ、元のところへと戻るときに
送り出す側も、迎え受ける側も、「おかえり」と言えるんです。
しかも「おかえり」は、「私たち(we)」として認識する
家族や仲間に対してしか使いません。
他者であれば客として「いらっしゃいませ」か
「ようこそ」となるんです。
英語の「Welcome」は「ようこそ」と歓迎していますが
そこにはどこか他者意識が感じられます。
Welcome back だとしても、
これは「戻ってきた」ときであれば使える表現です。
久しぶりにアメリカを訪れた、そんなとき
知人は Welcome back to the US という感じになるでしょう。
ホテルなんかでも、常連のお客様であれば Welcome back です。
Welcome home という言い方もありますが、これは
お客さんに対して「私たちの家へようこそ」というときと、
家族に対して「おかえりなさい」というときと、両方あるようです。
特にアメリカは個人主義と言われるスタンスが強く
家族であっても幼少期から個人として尊重する文化があります。
家族の一員という「特別な’あなた’」を Welcome home する印象があって
日本人が家族に対して持つほどの強い連帯感は無さそうに感じます。
さらには home に対しての帰属意識も日本ほど高くないかもしれません。
日本文化では「内」と「外」を明確に分けますから
家(うち)に帰ってくるのは、「もう外ではない」という
強い安心感をもたらしてくれるところがあると思います。
日本人が、所有物としての家(いえ)に対して思い入れを強く持つのも
家という空間を特別視しているからとも言えそうな気がします。
ここには Welcome という単語そのもの性質も関係しそうです。
welcome は他動詞として使われますから、
主語から目的語へのアクションを説明するものです。
主語の人物が、目的語の人物を welcome するんです。
歓迎する、喜んで迎え入れる。
ここには相手を自分とは別の存在として捉える前提があります。
家族のメンバーに対しての welcome home だったとしても
We welcome you. という他者認識が含まれるだろう、と。
一方、日本語の「おかえり」は、そもそも
連帯感や一体感のある対象に対してしか使われません。
最初から「われわれ」というグループがあって、
そのグループから一時的に『欠けていた』存在を
再びグループの中へと取り戻していくイメージがありそうです。
日本語の「おかえり」は、何かが加わる認識ではなく
失われていた何かが取り戻される認識だ、と。
なので欠けていたことに対しての寂しさが前提に含まれ、
その欠けていた存在が取り戻された瞬間に、寂しさや心配が解消される…
という「ホッとする」感じ、安心感を伴ったメッセージなんです。
「おかえり」には「ようこそ!」のような歓迎のニュアンスではなく
受け入れ、許容、安心が伴われる、と。
ですから本当は「おかえり」のスタンスなんです。
心の中で様々な自分を「おかえり」する。
home(うち)へと「おかえり…」しつつ
come backしてきた自分を「おかえり」と迎え入れる。
そんな心の状態が瞑想の静けさの中に含まれるんです。
ということで、この瞑想会は「おかえり」なんです。
瞑想講座 ~Coming back 'Home'~
瞑想会は折を見て、できるだけやろうかと思っています。
一応「講座」と銘打っていますが、実際は「レッスン」ぐらいの感じ。
ただ一緒に瞑想しましょうというお誘いではなく、
やり方やコツなどもお伝えする趣旨です。
究極的には「ひたすら一緒に黙って座る」だけに行きつきます。
もっともシンプルなスタンスは、それでしょう。
何かのメリットや目的のために瞑想をするわけではなく、
「ひたすら座る」ことそのものが
本性をありのまま世の中に表すことであって、
そうした座り方そのものを意図して瞑想するわけです。
この意図には終わりはありません。
むしろ深まり続けていくものとされます。
とはいえ、瞑想をするからには
そもそも瞑想に興味を持つキッカケがあります。
本質的には、このキッカケは個人のメリットや欲に由来するものではなく、
そうした形で自覚はされるけれども、それは表面的なところで
奥底には個人を超えた世の中の自然な働きが起こっていると考えます。
まぁ、それは自覚されるわけではありませんから
どんな経緯であれ瞑想に関心が生まれて
その方向への歩みを始めたということそのものが重視されます。
昨今では、アメリカ経由の「マインドフルネス」が流行して
日常生活レベルのメリットを求めて瞑想をするケースも多いようです。
その他にも、真実や真理といったものに関心が向いたり、
哲学的な思想を入り口にヨガや瞑想に進んでいったり、
いわゆるスピリチュアルな分野への興味から瞑想と出会ったり、
悩みから楽になるための心理療法的観点から瞑想を行ったり、
瞑想を始めるルートは多岐にわたるように見受けられます。
手塚治虫の「ブッダ」でも、ブッダ(シッダルタ)は
社会で苦しむ人々を見て、王族から出家したことになっています。
見た目上、どんなキッカケであっても、本質的に共通しているのは
「このままではいけない」という想いだと言えるでしょう。
掘り下げていくと、”自分”という存在が不安定になる感じ、
いわゆる「実存的危機」を伴っているはずです。
そしてこの”自分”という存在の危機感は
様々に形を変え、苦悩として自覚されるようになる。
この「苦」が形を変えて起こってくるメカニズム、関係性を
ブッダは十二縁起として説明していて、
その根本を「無明」としているわけです。
「無明」つまり「智慧」(仏の知恵)がない状態、と。
智慧がない。
本質が分かっていない。
もうちょっと日常的に言い換えると、
「みんな当たり前だと思ってしまっていることが勘違いなんだ」
という感じです。
じゃあ、勘違いではない「智慧」とは何なのか?
それは言葉では説明しにくいものでしょうけれど、
その智慧を得るための修業として瞑想が位置づけられます。
究極的には、すべての智慧を得ることはないので
修業はずっと続くわけですが、
個人的な人生経験におけるターニングポイントとしては
智慧によって苦悩から解放されるときは訪れます。
つまり「無明」は終わる。
勘違いに気づけば、苦悩は終わる、と。
とはいっても、勘違いではない内容については
無限の深遠さを持っているため
智慧を”手に入れた”という過去形になることはない。
それで、修業は終わらない、ということです。
瞑想に取り組むうえでのポイントは、
この「勘違いが終わると、苦悩が終わる」という部分です。
日常を生きる苦しみから解放される。
様々な形で悩み、苦しみ、不満、不安が起こる…
それから解放されて楽になる。
苦悩から自由になる、という趣旨です。
それが現実的な意味での瞑想の役割といえるでしょう。
そして瞑想によって苦悩を終わらせるルートには様々な流派があります。
ただ姿勢だけを心がけて座り続けるものもありますし、
具体的なイメージ内容を定めて瞑想するものもあります。
内面的な体験として何が起こったかを基準に
段階的に瞑想の種類を変えて、ステップアップしていく流派もあります。
ある流派では、できるだけ直線的に、シンプルなやり方で
苦悩からの解放までを一気に目指そうとします。
英語だと「direct pathway」なんて言われたりするものです。
実際、「勘違いに気づく」かどうかは
タイミングに左右されるところが大きいようで、
まさにダイレクトなやり方でも構わないのかもしれません。
起きる人には起きる、ということですから。
しかし、僕が見てきた限り、
それが起こりやすい状態には程度の違いがありそうなんです。
起きるときは起きる。
起こりやすい状態でも、起こらないときは起こらない。
起きにくい状態でも、起きるときは起きる。
あくまで確率のような話と捉えて頂けばいいと思います。
その意味で、起きやすくする、つまり
確率を上げる手段はあるんです。
その主要な1つが「一緒に瞑想する」ということです。
そして、まだ他にも確率を上げる手段があります。
言い換えれば、瞑想のコツのようなものです。
そこをお伝えする形式での瞑想会です。
なので「瞑想レッスン」ぐらいの呼び名が丁度いいか、と。
ということで、こちらの瞑想レッスンで行うのは
『どのように』意識するか
という意識の使い方のコツの指導です。
世間で行われる様々な流派の瞑想を
”正しい瞑想法”として紹介するものではありません。
”〇〇瞑想”みたいな具体的な瞑想手法を扱うものではない、
ということをご了承ください。
瞑想の最中に『何を』するのか?という瞑想技法の話よりも
『どのように』意識を向けながら瞑想をするのか?
というコツの話が中心になる、ということです。
苦しみから楽になる。
必ずしも一気に全ての苦しみから解放されるだけが全てではないでしょう。
少しでも楽になる。
それも良いのではないかと思います。
楽な時間をお過ごしいただければと願っています。
【実際に何をするか】
●瞑想についての説明
●様々な瞑想のコツの説明と実践
●振り返りと質疑応答
ずっと瞑想し続けるわけではありません。
一度の瞑想の時間も、お越しの方に合わせて調整します。
場所は和室です。
施設で座布団ぐらいは借りられますが
ご自身で使い慣れた坐布やクッション、ヨガマットなどあれば
ご持参いただいても構いません。
服装も動きやすいものをお選びください。
【午後の部と夜間の部について】
3時間ずつ、2コマで行います。
内容は同じにはなりません。
重要なところは一部、重複させる可能性はあります。
その場合には、ご自身での体験の違いを味わって頂けると思います。
どちらか一方のご参加も可能です。
お時間と体力をご考慮の上でご参加ください。
◆録音に関しまして
説明の内容は、ICレコーダーやスマートフォンなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。
※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
十分にご配慮ください。
※消防法の関係で、施設利用の定員があります。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。
【講座の詳細】
≪瞑想講座 〜Coming back 'Home'〜≫
【日時】 2019年 6月22日(土)
午後の部 13:30〜16:30
夜間の部 18:00〜21:00
※終了時間は多少前後する場合があります。
【場所】 北とぴあ 第2和室
(JR京浜東北線・王子駅 北口より徒歩2分)
(東京メトロ南北線・王子駅5番出口直結)
【参加費】 ・・・午後・夜間いずれか一回の場合: 7,000円
両方ご参加の場合: 10,000円
当日、会場にてお支払いください。
★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
ご了承ください。
【お申込み】 下のメールフォームにご記入ください。
「ご参加」の欄に
「午後」「夜間」「両方」のいずれかをご記載お願いします。
【最後に】
サブタイトルの「Coming back 'Home'」についてですが、
これこそが「楽になる」ことの本質だと思われます。
日本語には「おかえり」という挨拶があります。
このニュアンスがポイントです。
怪我をして、はぐれてしまった野生動物を保護して
治療が終わって回復して、群れのもとへと返すとき。
「ほら、おかえり」と送り出す。
一方では、外に出て久しぶりに戻ってきた相手を
「おかえり」と招き入れる。
自然へ、本来の場所へ、元のところへと戻るときに
送り出す側も、迎え受ける側も、「おかえり」と言えるんです。
しかも「おかえり」は、「私たち(we)」として認識する
家族や仲間に対してしか使いません。
他者であれば客として「いらっしゃいませ」か
「ようこそ」となるんです。
英語の「Welcome」は「ようこそ」と歓迎していますが
そこにはどこか他者意識が感じられます。
Welcome back だとしても、
これは「戻ってきた」ときであれば使える表現です。
久しぶりにアメリカを訪れた、そんなとき
知人は Welcome back to the US という感じになるでしょう。
ホテルなんかでも、常連のお客様であれば Welcome back です。
Welcome home という言い方もありますが、これは
お客さんに対して「私たちの家へようこそ」というときと、
家族に対して「おかえりなさい」というときと、両方あるようです。
特にアメリカは個人主義と言われるスタンスが強く
家族であっても幼少期から個人として尊重する文化があります。
家族の一員という「特別な’あなた’」を Welcome home する印象があって
日本人が家族に対して持つほどの強い連帯感は無さそうに感じます。
さらには home に対しての帰属意識も日本ほど高くないかもしれません。
日本文化では「内」と「外」を明確に分けますから
家(うち)に帰ってくるのは、「もう外ではない」という
強い安心感をもたらしてくれるところがあると思います。
日本人が、所有物としての家(いえ)に対して思い入れを強く持つのも
家という空間を特別視しているからとも言えそうな気がします。
ここには Welcome という単語そのもの性質も関係しそうです。
welcome は他動詞として使われますから、
主語から目的語へのアクションを説明するものです。
主語の人物が、目的語の人物を welcome するんです。
歓迎する、喜んで迎え入れる。
ここには相手を自分とは別の存在として捉える前提があります。
家族のメンバーに対しての welcome home だったとしても
We welcome you. という他者認識が含まれるだろう、と。
一方、日本語の「おかえり」は、そもそも
連帯感や一体感のある対象に対してしか使われません。
最初から「われわれ」というグループがあって、
そのグループから一時的に『欠けていた』存在を
再びグループの中へと取り戻していくイメージがありそうです。
日本語の「おかえり」は、何かが加わる認識ではなく
失われていた何かが取り戻される認識だ、と。
なので欠けていたことに対しての寂しさが前提に含まれ、
その欠けていた存在が取り戻された瞬間に、寂しさや心配が解消される…
という「ホッとする」感じ、安心感を伴ったメッセージなんです。
「おかえり」には「ようこそ!」のような歓迎のニュアンスではなく
受け入れ、許容、安心が伴われる、と。
ですから本当は「おかえり」のスタンスなんです。
心の中で様々な自分を「おかえり」する。
home(うち)へと「おかえり…」しつつ
come backしてきた自分を「おかえり」と迎え入れる。
そんな心の状態が瞑想の静けさの中に含まれるんです。
ということで、この瞑想会は「おかえり」なんです。
2019年06月02日
トラブルの捉え方
先日のアメリカ滞在の最中、
国内線の飛行機移動で意外な展開を目撃しました。
瞑想から帰ってきて、目的地の美術館があるところへ
飛行機で移動していったんです。
現地の到着は乗り継ぎとかもあって深夜0時頃。
予定通りに飛行機は着陸して、
ターミナルへ向かって地上を走行していきました。
そして減速が始まって、建物に近づき
もうすぐ飛行機が止まる…
そんなタイミングです。
前から2番目の席に老夫婦が座っていたんです。
通路側にお爺さん。
いかにもアメリカ人です。
70から80歳ぐらいでしょうか。
体重は130-140kg はありそうな感じ。
ルーズな太り方とでもいいますか、
身体への意識が低く、自制心も効かなそうな雰囲気でした。
実際、機内でも新聞を読んだり、スマホを見たりしながら、
ダラダラと何かを食べ続けていました。
食べることへの意識も低く、
なんとかく口を動かしているだけ。
で、そのお爺さんが、飛行機が着陸したとき
早々にシートベルトを外したんです。
まだ機内のシートベルト着用サインは点灯中。
「完全に停止するまで…」みたいなアナウンスもありました。
まあ、早めにシートベルトを外す人は日本にもいます。
早く立ち上がって荷棚から荷物を取りたいのでしょう。
ただ、その人の場合は少し違うようでした。
待つのが嫌なのかもしれません。
そして飛行機がターミナルに近づき、
地上走行のスピードが落ちてきたあたりのこと。
まだ停止する前に、そのお爺さんが立ち上がりました。
そして通路へ出てきたんです。
たしかに減速していて、
もうすぐ止まりそうな雰囲気ではありました。
が、停止する際に多少の急ブレーキというか、
電車が止まるときのように
最後の最後で減速が強まったんです。
慣性が働きます。
前側に向けて加速度がかかる。
そのとき、すでに通路へ立っていたお爺さんが
ヨタヨタと前によろめきました。
年齢的に体力が落ちているのと、体重の重さとで
よろめいた自分の身体を支えきれません。
それでバタッと、そのまま前に倒れました。
しばらくは皆んな、「何やってんだ、まったく」
みたいなムードで冷ややかに見ていたんですが、
一向に起き上がってこないので様子が変わってきます。
どうやら単純に自分では起き上がれない様子。
脳震盪とかではなく、いくらかの精神的混乱と
自分の体重で押し潰されて呼吸困難なのと、
そもそも筋力が足りないのとで
突っ伏したままの時間が続きました。
最初は恥ずかしそうにしていた奥さんも
通路へ出てきて手をこまねいています。
女性の客室乗務員は自分で起こさないと判断して
男性客室乗務員を奥から一人呼び寄せ、
さらに乗客が手伝って、かつぎ起こしたんです。
ズボンの左足の太腿あたりに血が染みていました。
切り傷というよりは、皮膚が敗れた状態でしょう。
起き上がったその人の顔は呼吸困難のせいで真っ赤でした。
フゴフゴ呼吸をしながら椅子につかまって身体を支えていると
地上スタッフが車椅子をもってやってきました。
飛行機の扉はすでに開いていたわけですが、
その人のトラブルによって出られない状況だったようです。
そして車椅子に載せられ、空港の建物へと運ばれていく老人。
なぜか奥さんの分の車椅子も用意されています。
そのお婆さんも、最初は恥ずかしそうにしていたのに
お爺さんへの苛立ちと、心配とが重なり
やり場がなくなった気持ちを制御できなくなって
周りに当たり始めていました。
ようやく老夫婦が飛行機を出て、
他の乗客も降りることができたのは
飛行機停止から10分後ぐらいだったでしょうか。
深夜着の便で、少しでも早く帰りたかったのかもしれません。
が、むしろそのトラブルで遅くなった形。
僕はその日、空港直結のホテルを予約していたので
荷物を受け取ってホテルへと移動しました。
チェックインカウンターで待っていると
そこへ航空会社の制服を着た集団が。
見覚えのある顔がいくつかありました。
ちょうど載っていた飛行機のクルーのようです。
チェックイン待ちの間、クルー達の話題は
先程の老人のトラブルについて。
「なんだったんだ?」
「停止前に立ち上がって勝手に転んだ」
「なんだか訴えるとか言ってる」
「はあ?先に立ったのは本人だろ?」
「よく分からないけど、航空会社の責任だとか言ってる」
…そんな会話をしていました。
どうやら自分の非は棚に上げて
激怒していたようです。
どういう思考パターンなのか、
どんな学習をしてくると、そういう行動に繋がるのか、
どんな環境で生きてきたのか。
色々と気になります。
初めて遭遇した経験です。
文化の違いは、こんなところにも表われるみたいです。
国内線の飛行機移動で意外な展開を目撃しました。
瞑想から帰ってきて、目的地の美術館があるところへ
飛行機で移動していったんです。
現地の到着は乗り継ぎとかもあって深夜0時頃。
予定通りに飛行機は着陸して、
ターミナルへ向かって地上を走行していきました。
そして減速が始まって、建物に近づき
もうすぐ飛行機が止まる…
そんなタイミングです。
前から2番目の席に老夫婦が座っていたんです。
通路側にお爺さん。
いかにもアメリカ人です。
70から80歳ぐらいでしょうか。
体重は130-140kg はありそうな感じ。
ルーズな太り方とでもいいますか、
身体への意識が低く、自制心も効かなそうな雰囲気でした。
実際、機内でも新聞を読んだり、スマホを見たりしながら、
ダラダラと何かを食べ続けていました。
食べることへの意識も低く、
なんとかく口を動かしているだけ。
で、そのお爺さんが、飛行機が着陸したとき
早々にシートベルトを外したんです。
まだ機内のシートベルト着用サインは点灯中。
「完全に停止するまで…」みたいなアナウンスもありました。
まあ、早めにシートベルトを外す人は日本にもいます。
早く立ち上がって荷棚から荷物を取りたいのでしょう。
ただ、その人の場合は少し違うようでした。
待つのが嫌なのかもしれません。
そして飛行機がターミナルに近づき、
地上走行のスピードが落ちてきたあたりのこと。
まだ停止する前に、そのお爺さんが立ち上がりました。
そして通路へ出てきたんです。
たしかに減速していて、
もうすぐ止まりそうな雰囲気ではありました。
が、停止する際に多少の急ブレーキというか、
電車が止まるときのように
最後の最後で減速が強まったんです。
慣性が働きます。
前側に向けて加速度がかかる。
そのとき、すでに通路へ立っていたお爺さんが
ヨタヨタと前によろめきました。
年齢的に体力が落ちているのと、体重の重さとで
よろめいた自分の身体を支えきれません。
それでバタッと、そのまま前に倒れました。
しばらくは皆んな、「何やってんだ、まったく」
みたいなムードで冷ややかに見ていたんですが、
一向に起き上がってこないので様子が変わってきます。
どうやら単純に自分では起き上がれない様子。
脳震盪とかではなく、いくらかの精神的混乱と
自分の体重で押し潰されて呼吸困難なのと、
そもそも筋力が足りないのとで
突っ伏したままの時間が続きました。
最初は恥ずかしそうにしていた奥さんも
通路へ出てきて手をこまねいています。
女性の客室乗務員は自分で起こさないと判断して
男性客室乗務員を奥から一人呼び寄せ、
さらに乗客が手伝って、かつぎ起こしたんです。
ズボンの左足の太腿あたりに血が染みていました。
切り傷というよりは、皮膚が敗れた状態でしょう。
起き上がったその人の顔は呼吸困難のせいで真っ赤でした。
フゴフゴ呼吸をしながら椅子につかまって身体を支えていると
地上スタッフが車椅子をもってやってきました。
飛行機の扉はすでに開いていたわけですが、
その人のトラブルによって出られない状況だったようです。
そして車椅子に載せられ、空港の建物へと運ばれていく老人。
なぜか奥さんの分の車椅子も用意されています。
そのお婆さんも、最初は恥ずかしそうにしていたのに
お爺さんへの苛立ちと、心配とが重なり
やり場がなくなった気持ちを制御できなくなって
周りに当たり始めていました。
ようやく老夫婦が飛行機を出て、
他の乗客も降りることができたのは
飛行機停止から10分後ぐらいだったでしょうか。
深夜着の便で、少しでも早く帰りたかったのかもしれません。
が、むしろそのトラブルで遅くなった形。
僕はその日、空港直結のホテルを予約していたので
荷物を受け取ってホテルへと移動しました。
チェックインカウンターで待っていると
そこへ航空会社の制服を着た集団が。
見覚えのある顔がいくつかありました。
ちょうど載っていた飛行機のクルーのようです。
チェックイン待ちの間、クルー達の話題は
先程の老人のトラブルについて。
「なんだったんだ?」
「停止前に立ち上がって勝手に転んだ」
「なんだか訴えるとか言ってる」
「はあ?先に立ったのは本人だろ?」
「よく分からないけど、航空会社の責任だとか言ってる」
…そんな会話をしていました。
どうやら自分の非は棚に上げて
激怒していたようです。
どういう思考パターンなのか、
どんな学習をしてくると、そういう行動に繋がるのか、
どんな環境で生きてきたのか。
色々と気になります。
初めて遭遇した経験です。
文化の違いは、こんなところにも表われるみたいです。