2007年05月05日
天才の実像
いつの頃からかは覚えていませんが、僕はレオナルド・ダ・ヴィンチが好きでした。
もちろん今も好きです。
あの興味の対象の広さ。
時代を先取りする知性。
執着に近いほどの好奇心。
自然と科学が完全に融合しているような世界が好きなんです。
いつかルーブルに行きたいなぁ、と思っているんです。
で、先日、上野でやっている特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ−天才の実像」を見てきました。
内容としてはレオナルドの生涯に焦点化した感じで、
芸術性よりは科学的な側面が強調されているようでした。
本物の絵画などよりも、彼の膨大な量の手記の一部や、
手記を元に再現された彼のアイデアが大半を占めていたようです。
とても色々なことを感じ、考え、ますます彼が好きになったのと同時に
彼自身の人生というか心というか、その内面により興味が沸いてきました。
無意識とか心理とか、
そういったことを色々と学んできた今だからこそ気づけたことが沢山ありました。
今日は、その中でも彼の手記の筆跡に関して書いてみます。
僕はコールドリーディングとして筆跡鑑定を行います。
一般的な筆跡鑑定も勉強しましたが、それ以上に
「文字に内面が現れている」
というスタンスで文字を見て、それに対して解釈を加えていくことをよくします。
これが本当に良く内面を表現しているわけです。
部分は全体を包括する。
自然界で言えばフラクタルとかとも関連するのかもしれません。
とにかく、文字にすら人の内面は克明に現れているんです。
そういう僕の目から見たレオナルド・ダ・ヴィンチの筆跡は実に興味深かったんです。
これは有名なんでしょうか?
彼の手記に書かれている文字は鏡写しのように左右反転しているんです。
そして非常に丁寧で、読みやすく、バランスが整った文字でした。
筆圧も安定していて、石井裕之先生のコールドリーディングで分類すると
ソムナムビュリストに多い文字です。
ソムナムビュリストは自分を押し殺しやすく、人に合わせる傾向があって、
いつでもキッチリと正しくなければならない、というような思いが強いと言われます。
レオナルドもキッチリしていようとした雰囲気だったんです。
その雰囲気は人体への異常なまでの興味にも如実に現れているでしょう。
そして、その最大の特徴とも言える左右の反転。
一説では、それがもし鏡文字であることがすぐに解明されていたら
科学の歴史が大きく変わっていただろうと言われるほどに、
その手記の内容は当時のレベルを大きく上回っていたそうです。
彼は人に読まれて情報を盗まれることを恐れていたのでしょうか?
僕はそうでないと思いました。
おそらく彼の膨大な手記は誰かに向けたものではないと思ったんです。
彼自身が沸きあがってくる考えを整理するためのものだった。
だから彼にとって書くこと、それ自体に大きな意味があったと僕には思えます。
それは無意識とか心理とか言うことを考えるとシックリするわけですが、
それに関してはまた別の機会に書くとします。
とにかく彼は書きたかったんだろう。
文字を見ているとそう思えるんです。
それには彼がソムナムビュリストであることに加えて、
彼が左利きであったことが関係していると思うんです。
彼が左利きであることは有名ですが、
それはデッサンでのペンの動きの方向から見て取れます。
左利きの彼が鏡文字を書くメリット。
それは書きやすさです。
スピードを出しやすいんです。
現在であればボールペンにしろ鉛筆にしろサインペンにしろ、
押して書くことに、それほどの不自由はないかもしれません。
でも彼が使っていたのは、いわゆるペンだと思うんです。
ペン先にインクを浸して書くタイプの。
であれば、押して書くことはかなりの苦痛だったはずなんです。
通常のアルファベットや日本語の文字はペン先を引いて書く動きが標準です。
ただしそれは右利きの話。
左利きの人がアルファベットをかくと押す動きになります。
書くほどに左手が書いた文字の上に乗ります。
インクが乾いていなければ当然、インクをこすります。
手についたインクは別の場所に写ります。
そして、インクをつけて書くタイプのペン先は引いて書くように出来ているんです。
押したら紙が破れやすいんです。
だから彼は鏡文字を書いた。
左手で文字を書きながら、ペンを引いて動かすために。
それが僕の推測です。
もしかすると、ある分野では常識なのかもしれません。
でも僕はそんなことは知りません。
ただ、文字からそう読み取れた、という話に過ぎません。
で、文字を反転させてまで書きやすさを優先したのは
彼が文字を早く書きたかったからだろう、と。
キッチリしていなければ気がすまない彼が、左手でペンを持って
もっとも快適に文字を綺麗に書きとめていく方法が鏡文字だったろうと思うんです。
そしてそれは、彼が沸きあがってくる考えを早く紙に書きたかったから。
沸き上がる考えのスピードに一番スムーズに対応したかったんじゃないでしょうか?
だから僕には、
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記が自分のアイデアをまとめるためのツールであって、
誰かに向けた記録でも、自分が見直すための研究資料でもなかったと思えるんです。
ただ書き留めること、それが考えを整理するための方法だったように思えるわけです。
それもまた天才を感じさせる部分だと、
展示されていた手記を見ていた僕には思えたんです。
もちろん今も好きです。
あの興味の対象の広さ。
時代を先取りする知性。
執着に近いほどの好奇心。
自然と科学が完全に融合しているような世界が好きなんです。
いつかルーブルに行きたいなぁ、と思っているんです。
で、先日、上野でやっている特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ−天才の実像」を見てきました。
内容としてはレオナルドの生涯に焦点化した感じで、
芸術性よりは科学的な側面が強調されているようでした。
本物の絵画などよりも、彼の膨大な量の手記の一部や、
手記を元に再現された彼のアイデアが大半を占めていたようです。
とても色々なことを感じ、考え、ますます彼が好きになったのと同時に
彼自身の人生というか心というか、その内面により興味が沸いてきました。
無意識とか心理とか、
そういったことを色々と学んできた今だからこそ気づけたことが沢山ありました。
今日は、その中でも彼の手記の筆跡に関して書いてみます。
僕はコールドリーディングとして筆跡鑑定を行います。
一般的な筆跡鑑定も勉強しましたが、それ以上に
「文字に内面が現れている」
というスタンスで文字を見て、それに対して解釈を加えていくことをよくします。
これが本当に良く内面を表現しているわけです。
部分は全体を包括する。
自然界で言えばフラクタルとかとも関連するのかもしれません。
とにかく、文字にすら人の内面は克明に現れているんです。
そういう僕の目から見たレオナルド・ダ・ヴィンチの筆跡は実に興味深かったんです。
これは有名なんでしょうか?
彼の手記に書かれている文字は鏡写しのように左右反転しているんです。
そして非常に丁寧で、読みやすく、バランスが整った文字でした。
筆圧も安定していて、石井裕之先生のコールドリーディングで分類すると
ソムナムビュリストに多い文字です。
ソムナムビュリストは自分を押し殺しやすく、人に合わせる傾向があって、
いつでもキッチリと正しくなければならない、というような思いが強いと言われます。
レオナルドもキッチリしていようとした雰囲気だったんです。
その雰囲気は人体への異常なまでの興味にも如実に現れているでしょう。
そして、その最大の特徴とも言える左右の反転。
一説では、それがもし鏡文字であることがすぐに解明されていたら
科学の歴史が大きく変わっていただろうと言われるほどに、
その手記の内容は当時のレベルを大きく上回っていたそうです。
彼は人に読まれて情報を盗まれることを恐れていたのでしょうか?
僕はそうでないと思いました。
おそらく彼の膨大な手記は誰かに向けたものではないと思ったんです。
彼自身が沸きあがってくる考えを整理するためのものだった。
だから彼にとって書くこと、それ自体に大きな意味があったと僕には思えます。
それは無意識とか心理とか言うことを考えるとシックリするわけですが、
それに関してはまた別の機会に書くとします。
とにかく彼は書きたかったんだろう。
文字を見ているとそう思えるんです。
それには彼がソムナムビュリストであることに加えて、
彼が左利きであったことが関係していると思うんです。
彼が左利きであることは有名ですが、
それはデッサンでのペンの動きの方向から見て取れます。
左利きの彼が鏡文字を書くメリット。
それは書きやすさです。
スピードを出しやすいんです。
現在であればボールペンにしろ鉛筆にしろサインペンにしろ、
押して書くことに、それほどの不自由はないかもしれません。
でも彼が使っていたのは、いわゆるペンだと思うんです。
ペン先にインクを浸して書くタイプの。
であれば、押して書くことはかなりの苦痛だったはずなんです。
通常のアルファベットや日本語の文字はペン先を引いて書く動きが標準です。
ただしそれは右利きの話。
左利きの人がアルファベットをかくと押す動きになります。
書くほどに左手が書いた文字の上に乗ります。
インクが乾いていなければ当然、インクをこすります。
手についたインクは別の場所に写ります。
そして、インクをつけて書くタイプのペン先は引いて書くように出来ているんです。
押したら紙が破れやすいんです。
だから彼は鏡文字を書いた。
左手で文字を書きながら、ペンを引いて動かすために。
それが僕の推測です。
もしかすると、ある分野では常識なのかもしれません。
でも僕はそんなことは知りません。
ただ、文字からそう読み取れた、という話に過ぎません。
で、文字を反転させてまで書きやすさを優先したのは
彼が文字を早く書きたかったからだろう、と。
キッチリしていなければ気がすまない彼が、左手でペンを持って
もっとも快適に文字を綺麗に書きとめていく方法が鏡文字だったろうと思うんです。
そしてそれは、彼が沸きあがってくる考えを早く紙に書きたかったから。
沸き上がる考えのスピードに一番スムーズに対応したかったんじゃないでしょうか?
だから僕には、
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記が自分のアイデアをまとめるためのツールであって、
誰かに向けた記録でも、自分が見直すための研究資料でもなかったと思えるんです。
ただ書き留めること、それが考えを整理するための方法だったように思えるわけです。
それもまた天才を感じさせる部分だと、
展示されていた手記を見ていた僕には思えたんです。