2007年06月21日
「思うこと」と「感じること」
自分のカウンセリングの様子をビデオで確認することがあります。
これは、かなり勉強になりますね。
自分を客観的に見ることができる、というのも大きなメリットです。
もっとこうした方がいいなぁ、とかいうことに気づけるわけです。
一方で、自分のカウンセリングでありながら
なんで、ここでこんな言葉を言っているんだろう?
ということもあるんです。
ビデオで見ていたら、そんな考えは全く浮かんでこない。
なのに、ビデオの中の自分はハッキリとその発言をしているんです。
しかも、そんな発言に限って本質を突いていたり、
クライアントの方にとって意識がシフトする重要なポイントになっていたりします。
おそらく実際のカウンセリングの場面では何かを感じ取っているんでしょうね。
ビデオからは伝わってこない微妙な反応を受け取って発言しているんだと思います。
それは決して、人間に秘められた神秘的な情報伝達方法というわけではなく、
むしろ非言語のメッセージとして微妙ながら至るところに現れているものを
目で見た情報や、耳で聞き取る声のトーンなどを通じて捉えていると思うんです。
ビデオでは微妙すぎて伝わらないのかもしれませんね。
そして、これは「感じること」だと思うんです。
目で見たことも、声で聞いたことも、
視覚と聴覚を通じて感じたことだと思います。
視覚情報は、しぐさとか姿勢とか表情とか、そういった判断材料です。
聴覚というと言葉を聴くときにも聴覚だと思われがちですが、
聴覚といったときに重要なのは声のトーンとか高さとか、音の要素に関してです。
話の内容、つまり文章に起こしたものに関しては、僕は聴覚とは考えません。
もしかすると全く意識できていないけれども、体温の変化とか匂いの変化とか
脳波の変化とか電磁波の影響だとか、通常では知る由もないことも
実際の場面ではコミュニケーションの手段として使われているのかもしれません。
それがどの程度重要かは分かりませんが、要素として否定はできない気もします。
もちろんビデオには反映されませんし。
とにかく、言葉の内容ではない部分を「感じること」も自然にされるものでしょう。
ちなみに、それが空気を読む能力と密接に関わっていると僕は考えていますが。
それに対して、言葉の内容を理解して判断することも当然あります。
一般的にも理解されやすい通り、話の内容は非常に大切なことです。
そして、話の内容を聞いて、自分なりに理解して、判断することが普通になされます。
そこで出てきたものは聞き手の判断であって、必ず推測なんです。
それは聞き手が「考えたこと」であり「思ったこと」であるわけです。
「感じたこと」はその瞬間に自分の中に起きた事実です。
でも、そこに話の内容を元にした考えを加えたら、判断しているんです。
もうその時点で推測なんです。
僕は最近、「感じたこと」と「思ったこと」の違いに注意をしようと考えています。
それは事実と推測を区別するという意図です。
もちろん、相手の話の内容を聞いて、その上で色々なメッセージを感じ取って、
両方を自分の中で合わせて、ある仮説をたてることは自然になされるでしょう。
日常では、そんなコミュニケーションが普通になされます。
「それって、こういうことでしょ?」
「なるほどね、要するに・・・」
「つまらない意地をはってないで、正直になりなよ」
それらは多分、推測です。
「分かった」という思い込みのような気がします。
相手のことは分かりません。
推測しかできません。
推測したことを「こうなんでしょ?」と伝えるのも1つの手段だと思います。
その時には聞き方が重要なポイントになってくる気がします。
「これはあくまで推測だけど・・・」という雰囲気が出せるかどうか。
ただ、僕はそれすらも聞けば良いようにも思うんです。
「それってどういうこと?」って。
その答えが自分の推測と合っていたかを照らし合わせても遅くないと思うんです。
言わなくても分かってもらえることは嬉しいことでしょう。
同時に、言いたいことを質問してもらえることも嬉しいことではないでしょうか?
これは、かなり勉強になりますね。
自分を客観的に見ることができる、というのも大きなメリットです。
もっとこうした方がいいなぁ、とかいうことに気づけるわけです。
一方で、自分のカウンセリングでありながら
なんで、ここでこんな言葉を言っているんだろう?
ということもあるんです。
ビデオで見ていたら、そんな考えは全く浮かんでこない。
なのに、ビデオの中の自分はハッキリとその発言をしているんです。
しかも、そんな発言に限って本質を突いていたり、
クライアントの方にとって意識がシフトする重要なポイントになっていたりします。
おそらく実際のカウンセリングの場面では何かを感じ取っているんでしょうね。
ビデオからは伝わってこない微妙な反応を受け取って発言しているんだと思います。
それは決して、人間に秘められた神秘的な情報伝達方法というわけではなく、
むしろ非言語のメッセージとして微妙ながら至るところに現れているものを
目で見た情報や、耳で聞き取る声のトーンなどを通じて捉えていると思うんです。
ビデオでは微妙すぎて伝わらないのかもしれませんね。
そして、これは「感じること」だと思うんです。
目で見たことも、声で聞いたことも、
視覚と聴覚を通じて感じたことだと思います。
視覚情報は、しぐさとか姿勢とか表情とか、そういった判断材料です。
聴覚というと言葉を聴くときにも聴覚だと思われがちですが、
聴覚といったときに重要なのは声のトーンとか高さとか、音の要素に関してです。
話の内容、つまり文章に起こしたものに関しては、僕は聴覚とは考えません。
もしかすると全く意識できていないけれども、体温の変化とか匂いの変化とか
脳波の変化とか電磁波の影響だとか、通常では知る由もないことも
実際の場面ではコミュニケーションの手段として使われているのかもしれません。
それがどの程度重要かは分かりませんが、要素として否定はできない気もします。
もちろんビデオには反映されませんし。
とにかく、言葉の内容ではない部分を「感じること」も自然にされるものでしょう。
ちなみに、それが空気を読む能力と密接に関わっていると僕は考えていますが。
それに対して、言葉の内容を理解して判断することも当然あります。
一般的にも理解されやすい通り、話の内容は非常に大切なことです。
そして、話の内容を聞いて、自分なりに理解して、判断することが普通になされます。
そこで出てきたものは聞き手の判断であって、必ず推測なんです。
それは聞き手が「考えたこと」であり「思ったこと」であるわけです。
「感じたこと」はその瞬間に自分の中に起きた事実です。
でも、そこに話の内容を元にした考えを加えたら、判断しているんです。
もうその時点で推測なんです。
僕は最近、「感じたこと」と「思ったこと」の違いに注意をしようと考えています。
それは事実と推測を区別するという意図です。
もちろん、相手の話の内容を聞いて、その上で色々なメッセージを感じ取って、
両方を自分の中で合わせて、ある仮説をたてることは自然になされるでしょう。
日常では、そんなコミュニケーションが普通になされます。
「それって、こういうことでしょ?」
「なるほどね、要するに・・・」
「つまらない意地をはってないで、正直になりなよ」
それらは多分、推測です。
「分かった」という思い込みのような気がします。
相手のことは分かりません。
推測しかできません。
推測したことを「こうなんでしょ?」と伝えるのも1つの手段だと思います。
その時には聞き方が重要なポイントになってくる気がします。
「これはあくまで推測だけど・・・」という雰囲気が出せるかどうか。
ただ、僕はそれすらも聞けば良いようにも思うんです。
「それってどういうこと?」って。
その答えが自分の推測と合っていたかを照らし合わせても遅くないと思うんです。
言わなくても分かってもらえることは嬉しいことでしょう。
同時に、言いたいことを質問してもらえることも嬉しいことではないでしょうか?