2009年09月24日
閉店ガラガラ
実を言うと、5日間の研修日程を終えて一番強く感じたのは、
相当な疲労が残ったということだったりします。
コミュニケーションのトレーニングには疲れる部分があるのを改めて感じます。
普段と違うことを意識するわけですから。
僕は、この仕事をして、特に1年半ぐらい前に1つの重要な学びを経てから
色々なことに注意が向きやすくなってきているような気がしています。
元々、道を歩いていると知人から「原田さん、ガン見してますよ」と言われるほどに
色々なものを見ているほうだったようですが、
最近はその注意の内容が移り変わってきているようで。
飲食店に入れば、隣に座った家族の会話が、つい気になってしまったりします。
先日も、おばあちゃん、母親、子供という3人が隣の席に座りましたが、
その歩き方や話し方の態度、声のトーンなどから、
彼らの関係性や心情などが頭に浮かんできてしまうんです。
本当は、本を読むほうに集中したいのに。
まず、母親がおばあちゃんに話しかけるときの気取った声質から
義理の母親だろうということが頭に浮かぶ。
しばらくすると、おばあちゃんが母親に敬語で話しかけている部分に気づく。
孫に話しかけるときには過度に嬉しそうだったりするので、
「これは久しぶりに孫を連れて、おばあちゃんの家にやってきたところだろうか」
なんてことを推測し始めます。
そして、母親の発音に時折、混ざりこんでくる「ず」の発音から
「このお母さんは中国出身か?
それにしては全体的な発音がスムーズだから、ハーフかもしれない」
なんて考えたりして。
その後、おばあちゃんが母親に「中国では七五三みたいのはあるんですか?」
などと聞いたので、中国の関係を確認し、
どうやら今日は子供の七五三の写真を取りに来ていた日らしいと確信を深める。
おばあちゃんは孫が話しているタイミングになると
非常に柔らかい雰囲気になって、孫が可愛くて仕方ない感じを強く発する。
お母さんも子供と話すときは、義理の母への注意を減らすようにしていて
その瞬間だけは親子の日常に戻って気を紛らわそうとしているように見える。
母親と子供のやり取りが続けば、自然と子供は大きな声で話し始め、
母親とおばあちゃんの両方に向きながら話すようになる。
5歳ぐらいなら全員の関心を引いていたい気持ちがあるもんだなぁ、と思う。
母親とおばあちゃんが、ある程度安心した状態で話に熱中してくると
子供は急に大きな声で独り言を言い始め、二人の関心を引こうとする。
全員の食事が済んできたあたりから、おばあちゃんが母親に対して
自分の人生観を語り始めるのを聞くと
「置かれている状況が違うから、今のお母さんには
その話の意味は分からないだろうなぁ」という思いが頭に浮かぶ。
すると最初は相槌を打って聞いていた母親も、徐々に黙って頷くようになり、
明らかに受け入れがたそうな、面倒くさそうな雰囲気を発し始める。
でも、おばあちゃんは意識ではそれに気づかないらしく
伝わらない不満を解消するように話す量を増やしていく。
「あーあ、嫌がっているところで分からせようとしても悪循環なのに…」
なんて、その話し声の大きさに辟易としてくるわけです。
お母さんは相当な不満を姿勢や呼吸で伝えていてる。
そうしていたら子供が突然”アイス食べたい!”と大きな声でアピール。
これはさっきの注意を向けたい感じのときとは声のトーンが違います。
小さな子どものほうが場の雰囲気を感じ取る能力は高いのかもしれません。
「あの子はお母さんの嫌な空気を感じ取って、場を変えようとしたのかも」
なんて人間関係の相互作用の面白さに興味が向いていく。
…そんなことが頭に浮かんできてしまえば、なかなか自分の世界で集中できません。
研修を受けに行くときは、主体的に全力でそれをやろうとしますから
相当な気疲れをするんだろうと思います。
福祉の研修のときは、狭い部屋に120人ギュウギュウ詰めでしたから
それもまた気疲れの要因だったかもしれません。
120人もいれば色々な人が来ますし。
そんな時間が続いた後は、僕は自然と人に合わないようにするみたいです。
開いていたシャッターを閉じるように。
ただ、まだその時間が足りない気がしています。
相当な疲労が残ったということだったりします。
コミュニケーションのトレーニングには疲れる部分があるのを改めて感じます。
普段と違うことを意識するわけですから。
僕は、この仕事をして、特に1年半ぐらい前に1つの重要な学びを経てから
色々なことに注意が向きやすくなってきているような気がしています。
元々、道を歩いていると知人から「原田さん、ガン見してますよ」と言われるほどに
色々なものを見ているほうだったようですが、
最近はその注意の内容が移り変わってきているようで。
飲食店に入れば、隣に座った家族の会話が、つい気になってしまったりします。
先日も、おばあちゃん、母親、子供という3人が隣の席に座りましたが、
その歩き方や話し方の態度、声のトーンなどから、
彼らの関係性や心情などが頭に浮かんできてしまうんです。
本当は、本を読むほうに集中したいのに。
まず、母親がおばあちゃんに話しかけるときの気取った声質から
義理の母親だろうということが頭に浮かぶ。
しばらくすると、おばあちゃんが母親に敬語で話しかけている部分に気づく。
孫に話しかけるときには過度に嬉しそうだったりするので、
「これは久しぶりに孫を連れて、おばあちゃんの家にやってきたところだろうか」
なんてことを推測し始めます。
そして、母親の発音に時折、混ざりこんでくる「ず」の発音から
「このお母さんは中国出身か?
それにしては全体的な発音がスムーズだから、ハーフかもしれない」
なんて考えたりして。
その後、おばあちゃんが母親に「中国では七五三みたいのはあるんですか?」
などと聞いたので、中国の関係を確認し、
どうやら今日は子供の七五三の写真を取りに来ていた日らしいと確信を深める。
おばあちゃんは孫が話しているタイミングになると
非常に柔らかい雰囲気になって、孫が可愛くて仕方ない感じを強く発する。
お母さんも子供と話すときは、義理の母への注意を減らすようにしていて
その瞬間だけは親子の日常に戻って気を紛らわそうとしているように見える。
母親と子供のやり取りが続けば、自然と子供は大きな声で話し始め、
母親とおばあちゃんの両方に向きながら話すようになる。
5歳ぐらいなら全員の関心を引いていたい気持ちがあるもんだなぁ、と思う。
母親とおばあちゃんが、ある程度安心した状態で話に熱中してくると
子供は急に大きな声で独り言を言い始め、二人の関心を引こうとする。
全員の食事が済んできたあたりから、おばあちゃんが母親に対して
自分の人生観を語り始めるのを聞くと
「置かれている状況が違うから、今のお母さんには
その話の意味は分からないだろうなぁ」という思いが頭に浮かぶ。
すると最初は相槌を打って聞いていた母親も、徐々に黙って頷くようになり、
明らかに受け入れがたそうな、面倒くさそうな雰囲気を発し始める。
でも、おばあちゃんは意識ではそれに気づかないらしく
伝わらない不満を解消するように話す量を増やしていく。
「あーあ、嫌がっているところで分からせようとしても悪循環なのに…」
なんて、その話し声の大きさに辟易としてくるわけです。
お母さんは相当な不満を姿勢や呼吸で伝えていてる。
そうしていたら子供が突然”アイス食べたい!”と大きな声でアピール。
これはさっきの注意を向けたい感じのときとは声のトーンが違います。
小さな子どものほうが場の雰囲気を感じ取る能力は高いのかもしれません。
「あの子はお母さんの嫌な空気を感じ取って、場を変えようとしたのかも」
なんて人間関係の相互作用の面白さに興味が向いていく。
…そんなことが頭に浮かんできてしまえば、なかなか自分の世界で集中できません。
研修を受けに行くときは、主体的に全力でそれをやろうとしますから
相当な気疲れをするんだろうと思います。
福祉の研修のときは、狭い部屋に120人ギュウギュウ詰めでしたから
それもまた気疲れの要因だったかもしれません。
120人もいれば色々な人が来ますし。
そんな時間が続いた後は、僕は自然と人に合わないようにするみたいです。
開いていたシャッターを閉じるように。
ただ、まだその時間が足りない気がしています。