2009年11月07日
砂を噛む思い
アメリカと日本では随分と文化が違います。
僕は海外ドラマシリーズでは『LOST』だけは見ていますが、
そこにも普通にカウンセリングや精神科の場面が出てきますし、
メインの登場人物の中にも臨床心理士が入っていました。
職種的にも日本で受ける印象以上に一般的なものなんでしょう。
衆ごとに免許があったり、その資格の基準をチェックするような機関があったり、
仕組みとしても習慣としても、困ったら相談に行くという流れが自然なのかもしれません。
病気になったら医者に行く。
内面や人間関係でトラブルがあったらカウンセラーのところに行く。
そんな感覚なんでしょうか。
この辺の一般認識は聞いてみたいものだと思います。
ただ、そうした相談を受ける職業が一般的なのと同等か、それ以上に、
アメリカでは訴訟が一般的なようです。
すぐに裁判沙汰になる。
そのような家族間のトラブルをめぐる訴訟においても
判決の条件の中に「セラピーを受けること」という内容が入ったりもするそうです。
セラピストやカウンセラーが訴えられることも当然あるでしょう。
カウンセラーやセラピストが一般的である反面、
彼らの負う責任やリスクも大きいように思えます。
そういう背景においては、セラピーやカウンセリングの場面で
取り返しのつかない失敗をしてしまって苦しむこともあると思います。
何をもって失敗と呼ぶかは本人の受け取り方によるとは思いますが、
コミュニケーションを介してする仕事である以上、
ミスコミュニケーションとしての失敗は数えきれないぐらい含まれるはずです。
ただ、それでも何とか「結果オーライ」に持っていく。
その取り繕う能力というのも相談援助職に求められる技術でしょう。
そうした複雑なコミュニケーションの中で
間違いと自覚するほどのミスも避けられないのかもしれません。
そこで感じる後悔や自責の念が成長に繋がっていく。
失敗したことを反省して、技術を向上させていく。
全ての職業において起こることでしょうが、他人の人生に深く関わる仕事においては、
そこでの失敗の苦しみは相当強いものです。
そうした失敗からの学びに関して、こんな意見を目にしました。
アメリカのカウンセリングの大御所の一人、サムグレイディング。
カウンセラー教育指導協会の会長を担ってきたり、
カウンセリングの教科書を書いたりと、教育と実践に力を入れてきた人物です。
彼はこう言っています。
「セラピーにおける辛い経験というのは、貝のなかにある砂粒のようだ。
はじめは非常にいらだたしく感じる。
打ちのめされるほどのダメージを受けることもある。
しかし、忍耐強くジックリと時間をかければ、
真珠のように賢者の知恵にもなるものだと思う。」
綺麗なメタファーだと感じます。
失敗の痛みを自分の体の外に出そうとしないイメージなのが
僕にとって腑に落ちる部分です。
失敗したことや辛い気持ちを手放して
学んだことだけを活かして前に進んでいくスタンスもあるでしょう。
ですが、人と関わる以上、相手の心に対する自分自身の辛い体験は
自分自身の中に残していきたいような気持ちもあります。
じっくりと時間をかけて、小さな砂粒も真珠になるまで育んでいく。
そこには「簡単に片づけて分かったような気にならない」
という意味合いがありそうな気がします。
心の痛みが長く続くことがあります。
真珠になるまでは、それでいいのかもしれません。
僕は海外ドラマシリーズでは『LOST』だけは見ていますが、
そこにも普通にカウンセリングや精神科の場面が出てきますし、
メインの登場人物の中にも臨床心理士が入っていました。
職種的にも日本で受ける印象以上に一般的なものなんでしょう。
衆ごとに免許があったり、その資格の基準をチェックするような機関があったり、
仕組みとしても習慣としても、困ったら相談に行くという流れが自然なのかもしれません。
病気になったら医者に行く。
内面や人間関係でトラブルがあったらカウンセラーのところに行く。
そんな感覚なんでしょうか。
この辺の一般認識は聞いてみたいものだと思います。
ただ、そうした相談を受ける職業が一般的なのと同等か、それ以上に、
アメリカでは訴訟が一般的なようです。
すぐに裁判沙汰になる。
そのような家族間のトラブルをめぐる訴訟においても
判決の条件の中に「セラピーを受けること」という内容が入ったりもするそうです。
セラピストやカウンセラーが訴えられることも当然あるでしょう。
カウンセラーやセラピストが一般的である反面、
彼らの負う責任やリスクも大きいように思えます。
そういう背景においては、セラピーやカウンセリングの場面で
取り返しのつかない失敗をしてしまって苦しむこともあると思います。
何をもって失敗と呼ぶかは本人の受け取り方によるとは思いますが、
コミュニケーションを介してする仕事である以上、
ミスコミュニケーションとしての失敗は数えきれないぐらい含まれるはずです。
ただ、それでも何とか「結果オーライ」に持っていく。
その取り繕う能力というのも相談援助職に求められる技術でしょう。
そうした複雑なコミュニケーションの中で
間違いと自覚するほどのミスも避けられないのかもしれません。
そこで感じる後悔や自責の念が成長に繋がっていく。
失敗したことを反省して、技術を向上させていく。
全ての職業において起こることでしょうが、他人の人生に深く関わる仕事においては、
そこでの失敗の苦しみは相当強いものです。
そうした失敗からの学びに関して、こんな意見を目にしました。
アメリカのカウンセリングの大御所の一人、サムグレイディング。
カウンセラー教育指導協会の会長を担ってきたり、
カウンセリングの教科書を書いたりと、教育と実践に力を入れてきた人物です。
彼はこう言っています。
「セラピーにおける辛い経験というのは、貝のなかにある砂粒のようだ。
はじめは非常にいらだたしく感じる。
打ちのめされるほどのダメージを受けることもある。
しかし、忍耐強くジックリと時間をかければ、
真珠のように賢者の知恵にもなるものだと思う。」
綺麗なメタファーだと感じます。
失敗の痛みを自分の体の外に出そうとしないイメージなのが
僕にとって腑に落ちる部分です。
失敗したことや辛い気持ちを手放して
学んだことだけを活かして前に進んでいくスタンスもあるでしょう。
ですが、人と関わる以上、相手の心に対する自分自身の辛い体験は
自分自身の中に残していきたいような気持ちもあります。
じっくりと時間をかけて、小さな砂粒も真珠になるまで育んでいく。
そこには「簡単に片づけて分かったような気にならない」
という意味合いがありそうな気がします。
心の痛みが長く続くことがあります。
真珠になるまでは、それでいいのかもしれません。
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この記事へのコメント
1. Posted by けんすけ 2009年11月10日 01:18
サムグレイディングさんの辛い経験のメタファー、素敵ですね。
辛い経験は経験している最中はとても辛くて嫌なものですが、その後の人生の宝物になると考えると辛くてもポジティブに受け止められそうです。
辛い経験は経験している最中はとても辛くて嫌なものですが、その後の人生の宝物になると考えると辛くてもポジティブに受け止められそうです。
2. Posted by 原田幸治 2009年11月11日 01:50
けんすけさん
辛い経験を後の宝物にしようと思うと、その辛さと向き合うことも大事なような気がしました。
砂粒が嫌だからと吐き出してしまっては、真珠にはなってくれませんから。
辛いことも真摯に受け止めたいなぁと思います。
辛い経験を後の宝物にしようと思うと、その辛さと向き合うことも大事なような気がしました。
砂粒が嫌だからと吐き出してしまっては、真珠にはなってくれませんから。
辛いことも真摯に受け止めたいなぁと思います。