2009年12月01日
無意識は賢いか
NLPや催眠をやっている人たちの中に「無意識」という言葉へ
過剰に頼っている印象を感じるケースがあります。
ミルトン・エリクソンは「自分の無意識を信頼しなさい」と
その弟子たちに教えていたそうですが、
僕がエリクソン催眠を教わった先生は
「エリクソンは無意識を重要視し過ぎていて、意識を軽んじ過ぎの傾向がある」
という持論を持っていました。
僕自身のスタンスは、「無意識」という言葉を使わずに説明すると
どういう内容になるかを考える方向性です。
そのスタンスからしても人間は良く出来ていると感じます。
「無意識が私を守ってくれている」と感謝の気持ちを持てることも素晴らしいですが、
もっとドライに仕組みとか性質とかの観点からでも驚きと好奇心は持てると思います。
僕が、無意識を過剰に期待して扱うことを好まないのは、
それによって深く理解しようという気持ちにストップをかけてしまうことと、
自分の無意識を自分以外の何か素晴らしいものであるかのように
切り離して扱ってしまう可能性があるところに理由があります。
先日、ワークショップに参加してきたビル・オハンロンは
ミルトン・エリクソンの直接の弟子でありながら、
催眠以外の方向で自分のスタイルを主張している人物です。
催眠のデモンストレーションは見事でしたが、
それでも催眠を使う場面を明確に限定しています。
彼は人間の意識も大切にしている。
というよりも、何か1つのことに片寄ることを嫌う傾向があるようです。
意識と無意識という2つの側面があるのなら、両方大事でしょう、と。
で、そのオハンロンがセミナー中に言っていた興味深い内容がありました。
催眠を使わないセラピストに、聞かれたことがあるんだそうです。
「催眠をやる人たちは『無意識は賢い』というが、
そんなに無意識が賢いんなら、なぜ人々はこんなに悩みを抱えているんだ?」
このことについてオハンロンは色々と考えたそうです。
そして、ある1つの結論に行きついた、と。
「無意識は、それが賢い範囲のことに関しては、賢い。
無意識は、それがバカな範囲のことに関しては、バカだ。
そして無意識は、それがバカなほうが良い場面に関しても、賢い。」
なんだか良く分かりません。
このあたり、エリクソンの弟子らしい混乱技法のようでもありますが、
ちゃんとこの意図を説明してくれました。
これは学習という観点と結びついているようです。
分かりやすい例としては、
パソコンのキーボードをタイピングするときに、
無意識が十分に学習して賢くなっていれば、
その無意識は賢く、自然に目的を達成してくれる。
でもキーボードを打つことに慣れていないときには
何度も練習をして、意識的にキーの場所を探しながら努力をする必要がある。
これは無意識がタイピングに対してバカな状態ということ。
タイピングに対してバカなので、その範囲に関しては無意識は賢くない。
それが練習して無意識がタイピングに対して賢くなってくれたら、
あとは無意識を信頼していれば、自然にキーを打ってくれる。
で、最後の一文が複雑ですが、これは一度学習してしまったものが
別の相応しくない状況でも出てきてしまうというもの。
例えば、僕は子供の頃、風邪をひいたときに食べたカツ丼の玉ネギが生っぽくて
気持ち悪くなって戻してしまった経験があります。
その時以来、玉ネギが嫌いになりました。
あの歯ごたえを想像して、「ウッ」と気持ち悪さが戻ってくるようになったんです。
これは無意識が「玉ネギは危ない」ということを学習してくれたということ。
本来は「風邪をひいたときに、カツ丼のような重たいものを食べると良くない」
という限定された学習をしてくれれば良いんですが、
無意識はもっと一般的に学習をしてしまうわけです。
「玉ネギは危ない」。
で、僕は体調が良くて、カツ丼に入ってもいなくて、
火が通っていて柔らかい玉ネギまで、その見た目だけで嫌いになってしまいました。
これが、「バカなほうが良い場面に関しても賢い」ということです。
学習した内容を使わないほうが良いときにも
その内容を賢く使ってしまうことがある、という説明でした。
僕が説明をすると、もう少し違った形になるかもしれませんが、
こういうことを考えようとする姿勢に好感を覚えます。
言われたこと、誰かに習ったことを鵜呑みにするのではなく、
色々なことに対して対応できるように理解の内容を広げていく姿勢。
そもそも僕はオハンロンの本から、そのような姿勢を感じていたので
オハンロンの来日を心待ちにしていたわけなんですが。
顔の系統が似ていると、スタンスも似るものなんでしょうか。
過剰に頼っている印象を感じるケースがあります。
ミルトン・エリクソンは「自分の無意識を信頼しなさい」と
その弟子たちに教えていたそうですが、
僕がエリクソン催眠を教わった先生は
「エリクソンは無意識を重要視し過ぎていて、意識を軽んじ過ぎの傾向がある」
という持論を持っていました。
僕自身のスタンスは、「無意識」という言葉を使わずに説明すると
どういう内容になるかを考える方向性です。
そのスタンスからしても人間は良く出来ていると感じます。
「無意識が私を守ってくれている」と感謝の気持ちを持てることも素晴らしいですが、
もっとドライに仕組みとか性質とかの観点からでも驚きと好奇心は持てると思います。
僕が、無意識を過剰に期待して扱うことを好まないのは、
それによって深く理解しようという気持ちにストップをかけてしまうことと、
自分の無意識を自分以外の何か素晴らしいものであるかのように
切り離して扱ってしまう可能性があるところに理由があります。
先日、ワークショップに参加してきたビル・オハンロンは
ミルトン・エリクソンの直接の弟子でありながら、
催眠以外の方向で自分のスタイルを主張している人物です。
催眠のデモンストレーションは見事でしたが、
それでも催眠を使う場面を明確に限定しています。
彼は人間の意識も大切にしている。
というよりも、何か1つのことに片寄ることを嫌う傾向があるようです。
意識と無意識という2つの側面があるのなら、両方大事でしょう、と。
で、そのオハンロンがセミナー中に言っていた興味深い内容がありました。
催眠を使わないセラピストに、聞かれたことがあるんだそうです。
「催眠をやる人たちは『無意識は賢い』というが、
そんなに無意識が賢いんなら、なぜ人々はこんなに悩みを抱えているんだ?」
このことについてオハンロンは色々と考えたそうです。
そして、ある1つの結論に行きついた、と。
「無意識は、それが賢い範囲のことに関しては、賢い。
無意識は、それがバカな範囲のことに関しては、バカだ。
そして無意識は、それがバカなほうが良い場面に関しても、賢い。」
なんだか良く分かりません。
このあたり、エリクソンの弟子らしい混乱技法のようでもありますが、
ちゃんとこの意図を説明してくれました。
これは学習という観点と結びついているようです。
分かりやすい例としては、
パソコンのキーボードをタイピングするときに、
無意識が十分に学習して賢くなっていれば、
その無意識は賢く、自然に目的を達成してくれる。
でもキーボードを打つことに慣れていないときには
何度も練習をして、意識的にキーの場所を探しながら努力をする必要がある。
これは無意識がタイピングに対してバカな状態ということ。
タイピングに対してバカなので、その範囲に関しては無意識は賢くない。
それが練習して無意識がタイピングに対して賢くなってくれたら、
あとは無意識を信頼していれば、自然にキーを打ってくれる。
で、最後の一文が複雑ですが、これは一度学習してしまったものが
別の相応しくない状況でも出てきてしまうというもの。
例えば、僕は子供の頃、風邪をひいたときに食べたカツ丼の玉ネギが生っぽくて
気持ち悪くなって戻してしまった経験があります。
その時以来、玉ネギが嫌いになりました。
あの歯ごたえを想像して、「ウッ」と気持ち悪さが戻ってくるようになったんです。
これは無意識が「玉ネギは危ない」ということを学習してくれたということ。
本来は「風邪をひいたときに、カツ丼のような重たいものを食べると良くない」
という限定された学習をしてくれれば良いんですが、
無意識はもっと一般的に学習をしてしまうわけです。
「玉ネギは危ない」。
で、僕は体調が良くて、カツ丼に入ってもいなくて、
火が通っていて柔らかい玉ネギまで、その見た目だけで嫌いになってしまいました。
これが、「バカなほうが良い場面に関しても賢い」ということです。
学習した内容を使わないほうが良いときにも
その内容を賢く使ってしまうことがある、という説明でした。
僕が説明をすると、もう少し違った形になるかもしれませんが、
こういうことを考えようとする姿勢に好感を覚えます。
言われたこと、誰かに習ったことを鵜呑みにするのではなく、
色々なことに対して対応できるように理解の内容を広げていく姿勢。
そもそも僕はオハンロンの本から、そのような姿勢を感じていたので
オハンロンの来日を心待ちにしていたわけなんですが。
顔の系統が似ていると、スタンスも似るものなんでしょうか。