2010年01月03日
思い出の枠組み
年末年始は実家に帰る人が多いようです。
久しぶりに生まれ育った土地へ帰ると、その場所の変化にも驚きます。
最近はパソコンやデジカメが普及したこともあり、
年賀状に写っている本人の写真が何よりの近況報告に見えたりもします。
そこに写った旧友の顔には、懐かしさと同時に
関わりが薄くなったことへの距離感も感じました。
僕の中では、研究職からコミュニケーション・心理の方面へ移ったことは
完全に繋がりを持っていて、別のことをしている印象は薄いのですが、
職を変える前後で関わってきた人々を思い返すと、そこには印象の違いがあります。
自分の中では一本道のようでも、他から見ると違って見える。
それは「ある時期で道が重なる人たちがいる」ということなのかもしれません。
幼稚園、小学校、中学校、高校…。
学校という環境の中で偶然に出会う人たちとは、
その学校の期間で、それぞれの人生の道のりが重なっていた。
その期間を過ぎれば、またそれぞれの道の向くほうへと離れていくのでしょう。
卒業とは、そんなイメージじゃないでしょうか。
職を変えるというのも同じようなものなのだろうと思います。
世の中全体の視点から見れば、僕のしている仕事も意外と普通のはずです。
多くの人が「そういう仕事の人もいるよね」と感じるようなもの。
ただ、それが僕の大学ぐらいから関わってきた人たちの範囲から見ると
その枠組みを飛び出るような特殊な印象を持つのかもしれません。
世の中全体という大きな枠組みで見れば当然の範囲のことが
その中の、ある小さな枠組みで見ると、枠の中に入らない。
その小さな枠の中にいては、枠の外のことは意識すらしないわけです。
逆に、その枠組みの外に出てしまった側の人も、
普段の状態では以前の枠組みのことを強くは意識しないでしょう。
その枠組みの中のものを意識することはあっても、
その中身のものは、更に大きな「自分」という枠組みの中で意識されます。
以前の枠組みそのものが意識されることは滅多にないんです。
そして、ふとしたタイミングで、その枠組みを呼び起されたとき
自分が以前の枠組みにいないことが自覚される。
例えば、以前の友人に再会したときとか。
年賀状を見たときとか。
人は当たり前のように、何かの枠組みの中で、ある期間を過ごします。
その後、その枠組みを卒業していく。
それぞれの人生の曲がりくねった道が、ある時期に近寄って、
重なったり、集まったりした部分ができる。
そこの周りに人は、枠組みを意識するのでしょう。
そこに実際に枠組みがあるかどうかは分かりません。
僕は、枠組みとは人が意識するだけのもののような気がします。
ただ、ある時期に近くの道を歩いた人がいたということ。
それを何かの枠に当てはめようとすると、区別が生まれるのかもしれません。
僕が、大学時代の友人からの年賀状を見て
懐かしさと同時に、距離の離れた寂しさに近い感じを味わったのは、
僕の中に以前の枠組みが意識されたからだろうと思います。
その気持ちに向き合ってみました。
…僕にとって、大学時代という枠組みは、
思い出の詰まった箱のようなものだった気がします。
僕の中で大切な時期であって、心の拠り所になっている部分を感じます。
心の支えの一部分ではあるけれど、とても大事な部分。
その部分が区別されているようです。
どうも、その箱を取っ払ってしまうと、
思い出が失われてしまいそうな感じがしていたみたいです。
箱の中の知人の顔は当時のまま。
僕は、当時の知人に会おうとするとき、
思い出の箱の中で会おうとしていたのかもしれません。
彼ら自身もその枠組みから出て、自分の道を進んでいるのですから、
もうその枠組みの中で関わる必要はないのに。
今度は、友人・知人たちの今の顔を見るために
今の彼らと会ってみたい気がしています。
久しぶりに生まれ育った土地へ帰ると、その場所の変化にも驚きます。
最近はパソコンやデジカメが普及したこともあり、
年賀状に写っている本人の写真が何よりの近況報告に見えたりもします。
そこに写った旧友の顔には、懐かしさと同時に
関わりが薄くなったことへの距離感も感じました。
僕の中では、研究職からコミュニケーション・心理の方面へ移ったことは
完全に繋がりを持っていて、別のことをしている印象は薄いのですが、
職を変える前後で関わってきた人々を思い返すと、そこには印象の違いがあります。
自分の中では一本道のようでも、他から見ると違って見える。
それは「ある時期で道が重なる人たちがいる」ということなのかもしれません。
幼稚園、小学校、中学校、高校…。
学校という環境の中で偶然に出会う人たちとは、
その学校の期間で、それぞれの人生の道のりが重なっていた。
その期間を過ぎれば、またそれぞれの道の向くほうへと離れていくのでしょう。
卒業とは、そんなイメージじゃないでしょうか。
職を変えるというのも同じようなものなのだろうと思います。
世の中全体の視点から見れば、僕のしている仕事も意外と普通のはずです。
多くの人が「そういう仕事の人もいるよね」と感じるようなもの。
ただ、それが僕の大学ぐらいから関わってきた人たちの範囲から見ると
その枠組みを飛び出るような特殊な印象を持つのかもしれません。
世の中全体という大きな枠組みで見れば当然の範囲のことが
その中の、ある小さな枠組みで見ると、枠の中に入らない。
その小さな枠の中にいては、枠の外のことは意識すらしないわけです。
逆に、その枠組みの外に出てしまった側の人も、
普段の状態では以前の枠組みのことを強くは意識しないでしょう。
その枠組みの中のものを意識することはあっても、
その中身のものは、更に大きな「自分」という枠組みの中で意識されます。
以前の枠組みそのものが意識されることは滅多にないんです。
そして、ふとしたタイミングで、その枠組みを呼び起されたとき
自分が以前の枠組みにいないことが自覚される。
例えば、以前の友人に再会したときとか。
年賀状を見たときとか。
人は当たり前のように、何かの枠組みの中で、ある期間を過ごします。
その後、その枠組みを卒業していく。
それぞれの人生の曲がりくねった道が、ある時期に近寄って、
重なったり、集まったりした部分ができる。
そこの周りに人は、枠組みを意識するのでしょう。
そこに実際に枠組みがあるかどうかは分かりません。
僕は、枠組みとは人が意識するだけのもののような気がします。
ただ、ある時期に近くの道を歩いた人がいたということ。
それを何かの枠に当てはめようとすると、区別が生まれるのかもしれません。
僕が、大学時代の友人からの年賀状を見て
懐かしさと同時に、距離の離れた寂しさに近い感じを味わったのは、
僕の中に以前の枠組みが意識されたからだろうと思います。
その気持ちに向き合ってみました。
…僕にとって、大学時代という枠組みは、
思い出の詰まった箱のようなものだった気がします。
僕の中で大切な時期であって、心の拠り所になっている部分を感じます。
心の支えの一部分ではあるけれど、とても大事な部分。
その部分が区別されているようです。
どうも、その箱を取っ払ってしまうと、
思い出が失われてしまいそうな感じがしていたみたいです。
箱の中の知人の顔は当時のまま。
僕は、当時の知人に会おうとするとき、
思い出の箱の中で会おうとしていたのかもしれません。
彼ら自身もその枠組みから出て、自分の道を進んでいるのですから、
もうその枠組みの中で関わる必要はないのに。
今度は、友人・知人たちの今の顔を見るために
今の彼らと会ってみたい気がしています。