2010年06月10日
色々な名前
細かく区別がつくということは、そのセンサーが違いを鋭敏に察知し、
その違いのパターンを記憶の中に整理しているということです。
日本人にとっては「白」という一言でまとめてしまう範囲も
イヌイットの言葉では非常に細かい「白色」のボキャブラリーがあるそうです。
2つを比べたときに違いを感じ取れるという場合は感覚の問題ですが、
1つを認識したときに、そのものを正確に分類するというのは
パターンを持っているかに関係します。
「紅色」と書かれた絵具と、「茜色」と書かれた絵具を2つ並べたら
その色味の違いは分かるはずです。
「茜色」のほうが少し暗い感じだというのを意識できれば
ラベルを隠して2つを見せられた時にも、どちらが「茜色」かが分かるでしょう。
ところが、沢山並んだ赤系統の色の中からランダムに選びだされた一本を見て
それが「茜色」かどうかを判断するのは難しいでしょう。
名前で区別できるということは、その特徴をパターンとして認識できている
ということです。
多くの日本人の場合、「赤」という特徴のパターンが幅広く設定されていて
「ピンク」でも「紫」でも「オレンジ」でもない範囲を
「赤」のゾーンとして区別していると考えられます。
「暗い赤」とか「オレンジに近い赤」とか、「赤紫」とか
そういう言い回しで大まかながらも、「赤」の中の違いを意識することはできても
赤系統の色を細かく呼び分けられる人は多くないと思います。
それは絶対音感の無い人が、高い音とか低い音としてしか区別できないのに対して
絶対音感を持つ人が、「ミ」などと言い当てられるのと同様です。
これを人間の感覚とパターン認識の能力とは無関係に識別することもできて
それが数値的に計測するという方法です。
「茜色」だったらRGBで、どれくらいの割合なのか、
「ミ」の音だったら、周波数が何Hzなのか、
といったこと。
これは万人共通の基準を作る方法ですが、
人は経験によって細かい区別をつけられるようになっていく
というのも面白いことだと思います。
優れた美術館の学芸員は、絵画を見ただけで
使われている絵具の種類を言い当てられたりするそうです。
細かい違いに気づき、その特徴を元にパターンとして区別する
このパターン認識の細かさは専門家の1つの特徴と言えるはずです。
いわゆる直観というのは、この細かい違いをベースにしたパターン認識ができていて、
そのパターンに名前が付いていないときに起きるものです。
パターンとして「分かる」けれども、「茜色」のように呼び名をつけたこともなければ、
「RGBで何%ずつ」といった客観的な情報で説明したこともない。
だから「なんとなく」になるわけです。
これに対して、文化的に呼び名をつけてしまうことで
区別がしやすくなるということもあります。
「赤」に関する細かい呼び名と、その色を頻繁に見ていれば
「茜色」も「紅色」も「朱色」も区別できるようになります。
誰かから基準になるパターンを示してもらっておけば、
あとは、そのパターンに当てはまるかどうかの区別を訓練すれば良い。
言語が学習を効率的にするのは、実体験からパターンを作るよりも先に
パターンそのものを教えてもらえるから、とも言えるでしょう。
絶対音感と呼ばれるものも、音の周波数が2倍になる範囲を
12段階に分割した基準が先に与えられたから身につけられるものです。
世界の文化の中には1オクターブが12よりも細かい段階に分かれている所もあるので、
そこに行けば12音階の絶対音感は音痴扱いされるはずです。
経験から自分の中に自然と基準が作られていってパターンを学習する場合と、
決まりごととして共有されているパターンの基準を知って
それに当てはめるように経験を分類していきながら学習する場合とがある。
学校教育の多くは、先に基準を教えてもらって経験を当てはめていくほうで、
社会に出てから仕事を現場で学ぶというのは、
経験からパターンを生み出すほうに当たります。
で、このパターンを先に与えてしまうというほうに関していえば
その基準を設定して、特定のパターンに名前をつけた時点で
オリジナルの区別をつくることもできるわけです。
茜色と紅色の中間の色を「〜色」ということにしよう、と。
それを大々的にやってのけたのが『フェリシモ』の500色の色鉛筆。
色鉛筆で表現される色調を500種類に分けたんです。
パソコンの大雑把な色表現が254色ですから、それよりも細かい色彩がある。
そのグラデーション具合といったら、実に美しいものです。
使うつもりはなくても、つい欲しくなってしまうような。
しかも、この500色には変わった名前がついているのも有名なところ。
自分たちの配合で作った色合いに対して名前をつけるのですから
それは新たな基準のパターンを提供しているということです。
もっとも、商品開発に携わった人であっても
色の名前を隠した色鉛筆を一本見せられて、名前を当てるという作業は
きっと相当な困難だろうと推測されますが。
そこには遊び心や心象風景も加わっているようで
500色の名称を一通り眺めているだけでも楽しめてしまいます。
例えば、心の中に景色が浮かんできそうな名称としては
「大正ロマンの紅藤」
「夏祭りのほおずき」
「浜辺で拾った桜貝」
「お姫様と毒リンゴ」
「午前7時30分の露草」
「粋に着こなす黄八丈」
なんていうのもあります。
変わり種で評判なのは
「ポケット一杯のキャラメル」
「お昼寝するチャウチャウ犬」
「黄昏のスフィンクス」
「勝利に酔う土佐犬」
「傷心のティラミス」
などでしょうか。
別に「勝利に酔う」とか「傷心の」が無くても、同じ色味になりそうな気がします…。
あとは、もう名前だけでは色が想像すらできない系統として
「クラリネットの音色」
「ナイチンゲールの歌声」
「ため息のベール」
「清少納言のあこがれ」
「鹿鳴館の舞踏会」
「ヘリオトロープの香り」
「カンパニュラの夢」
「神話の中の悲哀」
「ラフレシアの謎」
「謎めく無人島」
など。
なんだか詩的な言葉ですが、色のイメージは浮かびません。
「ためらい」や「ジェラシー」なんて感情の名前になってますから。
なかでも、ビックリしたのは
「お父さんがつくった笹舟」
という色。
これ、緑系統じゃないんです。
グレー系統。
お父さんの作った笹舟、一体どれだけの時間が経ったのでしょうか?
枯れちゃったんでしょうか?
だとすると、どんなストーリーを想像してつけた名前なんでしょう。
誰かの独断なのか、色名を決める会議があって決めたものなのか、興味津津です。
名前を付けて細かく分類することでオリジナルが作れる。
世の中には、そんなものが沢山あるように思えます。
僕も、何かのワークに粋な名前でも付けてみたら良いのかもしれません。
その違いのパターンを記憶の中に整理しているということです。
日本人にとっては「白」という一言でまとめてしまう範囲も
イヌイットの言葉では非常に細かい「白色」のボキャブラリーがあるそうです。
2つを比べたときに違いを感じ取れるという場合は感覚の問題ですが、
1つを認識したときに、そのものを正確に分類するというのは
パターンを持っているかに関係します。
「紅色」と書かれた絵具と、「茜色」と書かれた絵具を2つ並べたら
その色味の違いは分かるはずです。
「茜色」のほうが少し暗い感じだというのを意識できれば
ラベルを隠して2つを見せられた時にも、どちらが「茜色」かが分かるでしょう。
ところが、沢山並んだ赤系統の色の中からランダムに選びだされた一本を見て
それが「茜色」かどうかを判断するのは難しいでしょう。
名前で区別できるということは、その特徴をパターンとして認識できている
ということです。
多くの日本人の場合、「赤」という特徴のパターンが幅広く設定されていて
「ピンク」でも「紫」でも「オレンジ」でもない範囲を
「赤」のゾーンとして区別していると考えられます。
「暗い赤」とか「オレンジに近い赤」とか、「赤紫」とか
そういう言い回しで大まかながらも、「赤」の中の違いを意識することはできても
赤系統の色を細かく呼び分けられる人は多くないと思います。
それは絶対音感の無い人が、高い音とか低い音としてしか区別できないのに対して
絶対音感を持つ人が、「ミ」などと言い当てられるのと同様です。
これを人間の感覚とパターン認識の能力とは無関係に識別することもできて
それが数値的に計測するという方法です。
「茜色」だったらRGBで、どれくらいの割合なのか、
「ミ」の音だったら、周波数が何Hzなのか、
といったこと。
これは万人共通の基準を作る方法ですが、
人は経験によって細かい区別をつけられるようになっていく
というのも面白いことだと思います。
優れた美術館の学芸員は、絵画を見ただけで
使われている絵具の種類を言い当てられたりするそうです。
細かい違いに気づき、その特徴を元にパターンとして区別する
このパターン認識の細かさは専門家の1つの特徴と言えるはずです。
いわゆる直観というのは、この細かい違いをベースにしたパターン認識ができていて、
そのパターンに名前が付いていないときに起きるものです。
パターンとして「分かる」けれども、「茜色」のように呼び名をつけたこともなければ、
「RGBで何%ずつ」といった客観的な情報で説明したこともない。
だから「なんとなく」になるわけです。
これに対して、文化的に呼び名をつけてしまうことで
区別がしやすくなるということもあります。
「赤」に関する細かい呼び名と、その色を頻繁に見ていれば
「茜色」も「紅色」も「朱色」も区別できるようになります。
誰かから基準になるパターンを示してもらっておけば、
あとは、そのパターンに当てはまるかどうかの区別を訓練すれば良い。
言語が学習を効率的にするのは、実体験からパターンを作るよりも先に
パターンそのものを教えてもらえるから、とも言えるでしょう。
絶対音感と呼ばれるものも、音の周波数が2倍になる範囲を
12段階に分割した基準が先に与えられたから身につけられるものです。
世界の文化の中には1オクターブが12よりも細かい段階に分かれている所もあるので、
そこに行けば12音階の絶対音感は音痴扱いされるはずです。
経験から自分の中に自然と基準が作られていってパターンを学習する場合と、
決まりごととして共有されているパターンの基準を知って
それに当てはめるように経験を分類していきながら学習する場合とがある。
学校教育の多くは、先に基準を教えてもらって経験を当てはめていくほうで、
社会に出てから仕事を現場で学ぶというのは、
経験からパターンを生み出すほうに当たります。
で、このパターンを先に与えてしまうというほうに関していえば
その基準を設定して、特定のパターンに名前をつけた時点で
オリジナルの区別をつくることもできるわけです。
茜色と紅色の中間の色を「〜色」ということにしよう、と。
それを大々的にやってのけたのが『フェリシモ』の500色の色鉛筆。
色鉛筆で表現される色調を500種類に分けたんです。
パソコンの大雑把な色表現が254色ですから、それよりも細かい色彩がある。
そのグラデーション具合といったら、実に美しいものです。
使うつもりはなくても、つい欲しくなってしまうような。
しかも、この500色には変わった名前がついているのも有名なところ。
自分たちの配合で作った色合いに対して名前をつけるのですから
それは新たな基準のパターンを提供しているということです。
もっとも、商品開発に携わった人であっても
色の名前を隠した色鉛筆を一本見せられて、名前を当てるという作業は
きっと相当な困難だろうと推測されますが。
そこには遊び心や心象風景も加わっているようで
500色の名称を一通り眺めているだけでも楽しめてしまいます。
例えば、心の中に景色が浮かんできそうな名称としては
「大正ロマンの紅藤」
「夏祭りのほおずき」
「浜辺で拾った桜貝」
「お姫様と毒リンゴ」
「午前7時30分の露草」
「粋に着こなす黄八丈」
なんていうのもあります。
変わり種で評判なのは
「ポケット一杯のキャラメル」
「お昼寝するチャウチャウ犬」
「黄昏のスフィンクス」
「勝利に酔う土佐犬」
「傷心のティラミス」
などでしょうか。
別に「勝利に酔う」とか「傷心の」が無くても、同じ色味になりそうな気がします…。
あとは、もう名前だけでは色が想像すらできない系統として
「クラリネットの音色」
「ナイチンゲールの歌声」
「ため息のベール」
「清少納言のあこがれ」
「鹿鳴館の舞踏会」
「ヘリオトロープの香り」
「カンパニュラの夢」
「神話の中の悲哀」
「ラフレシアの謎」
「謎めく無人島」
など。
なんだか詩的な言葉ですが、色のイメージは浮かびません。
「ためらい」や「ジェラシー」なんて感情の名前になってますから。
なかでも、ビックリしたのは
「お父さんがつくった笹舟」
という色。
これ、緑系統じゃないんです。
グレー系統。
お父さんの作った笹舟、一体どれだけの時間が経ったのでしょうか?
枯れちゃったんでしょうか?
だとすると、どんなストーリーを想像してつけた名前なんでしょう。
誰かの独断なのか、色名を決める会議があって決めたものなのか、興味津津です。
名前を付けて細かく分類することでオリジナルが作れる。
世の中には、そんなものが沢山あるように思えます。
僕も、何かのワークに粋な名前でも付けてみたら良いのかもしれません。