2010年06月05日
落語の時間
落語の面白さや上手さというのは、
見ている側が情景をどれくらい鮮明にイメージできるか
という部分に強く現れるような気がします。
ラポールという観点からすれば、催眠でトランスを共有したときに
同じようなイメージが浮かぶことは多々あるものですから、
客席と密なラポールが生まれたとき、頭の中に浮かぶ情景のイメージもまた
共有されていることもあるように思います。
そこには情景描写としての上手さというのも、もちろんあるでしょう。
登場人物の姿、場面の映像、空間的な配置…。
さまざまな要素が落語家の話し方と身振りによって表現されます。
だからといって、場面の景色を詳細に言葉で説明してしまっては
説明っぽくなって面白さが減ってしまう。
台詞や動作でもって様子が見えてくるようだと心地良いように感じます。
そのためには目線やしぐさ、動作、体の向きなどに統一感が必要なようです。
空間をどうやって描写するかの部分が、全身のメッセージに反映されていると言えます。
「上手い」と評価される落語家は、こうした細かい表現方法も見事なようで、
そこにはCDで聞いたのでは分からないものまで表れているのでしょう。
まるで、テレビカメラが登場人物を一人ずつアップで撮っているかのように
画面の中心が変わりながら、意識の方向が導かれる。
小さな座布団一枚の範囲から描き出される空間の広さの中に
多くの情報が詰まっているのが読み取れます。
独演会でないときには、前座からトリまで数人の落語家が登場します。
場合によっては、随分と腕の差を感じるときもありました。
描写が不明瞭なんです。
落語として語り継がれる話の内容は合っているのでしょうが、
どうにも場面が見えてこない。
酷いときには、その台詞を言っているのが誰なのかが分からなかったり。
声のトーンにバリエーションがないと大勢の演じ分けは難しいのかもしれません。
逆に、明らかに大勢が登場する予定のシーンは、
声のトーンのメリハリをつけられる演者にとっては見せ場にもなり得ます。
何人もの人が代わる代わる出てきて一言だけを発していくシーン。
例えば、長屋の二階で宴会がある、なんていう場面だと
大勢の人が「こんにちは」と言いながら二階へ上がっていくことになります。
ここでの「こんにちは」の声のトーンや、それぞれの姿勢など
そこの違いが色々と表現されていると、まさに畳み掛けるように展開する。
聴衆は一気に引き込まれ、全員の「こんにちは」が終わるころには
全部やり切ったという噺家の息の抜け方と同時に
会場から歓声と拍手が沸き起こったりもします。
難しい芸当だからこそ見所にもなる。
見に来ているほうも、そのことを分かっているから
単なる馬鹿笑いとは違った感嘆の気持ちもまた
楽しみの1つになっているのでしょう。
先日見たところでは、知人から評判も聞いていたのですが
柳家喬太郎が非常に面白かったです。
描写の凄さもさることながら、何よりも観客とのペーシングの見事さを感じました。
合わせるというよりは、どちらかというと巻き込む傾向でしょうか。
自分の視野が遠くの座布団の上の範囲だけに集中していくのが分かります。
リズムに引き込む感じなんでしょう。
客席の誰かに話しかけるというよりも、注意の向き方を感じ取って
話の展開やリズム、間の取り方を変えているような雰囲気に見えました。
なんというか、笑いの起こるタイミングが把握できているような印象。
それは見ていても楽しいし、巻き込まれているのも楽しいんです。
流れに身を任せていられるような心地良さも感じます。
色々なところに呼ばれて行くという話でしたから、
世代や客層にペースを合わせることもしているんだろうと思います。
小学校でやる場合と、老人ホームでやる場合では、違うほうが当然かもしれません。
もっとも、こうした雰囲気を感じ取るという発想そのものが
僕の場合、ペーシングのトレーニングをして、トレーナーとしてセミナーをして…
ということをやってきたから浮かぶようになったものではあります。
熟練した落語家、「上手い」と言われる人たちには
意識的にか無意識的にか、きっとそういう視点が備わっているはずです。
前座で出てきた人には、残念ながらその部分が無かったようです。
描写の技術だけでなく、観客とペースを合わせようとさえしないのが残念でした。
なんだか彼だけが勝手に話している感じなんです。
自分勝手に話しているのを見てもらうだけ。
あるいは、「見られている」という雰囲気の人さえいました。
練習してきたものを発表している様子。
話はスムーズで、笑いも起きるのですが、どうにも物足りない。
ペースが合っていないんです。
マクラの部分でペーシングをしていくことの重要性を感じました。
そこでペースを掴んでもらえるからこそ、
その後の内容のイメージが自然と浮かびやすくなるわけです。
トランスに巻き込んでもらえるんです。
大勢の前で話をするといっても、それはスピーチではなく、
場の雰囲気を感じ取るようなコミュニケーションも求められるようです。
落語は、ある意味では、トランス誘導だとも言えると思います。
実際には見えないはずの情景を描かせて、
その世界の中で気持ちを動かしていくのですから。
トランスにはラポールが不可欠なものです。
いかにペーシングが重要かということでしょう。
見る側もペーシング能力が高いほうが楽しめるはずです。
そこをトレーニングしてきて良かったと思いました。
先日などは、演目中の登場人物が弱って頭をかくシーンで、
同時に僕の頭もかゆくなって、同じタイミングで同じ場所をかいてしまったほど。
ペースを合わせながら見ると、時間の経つのもアッという間です。
映画の2時間は途中で集中が途切れるものの、
落語の3時間は集中が途切れません。
落語家の集中力にペーシングしているからだと考えられます。
そこがライブ特有の面白さじゃないでしょうか。
見ている側が情景をどれくらい鮮明にイメージできるか
という部分に強く現れるような気がします。
ラポールという観点からすれば、催眠でトランスを共有したときに
同じようなイメージが浮かぶことは多々あるものですから、
客席と密なラポールが生まれたとき、頭の中に浮かぶ情景のイメージもまた
共有されていることもあるように思います。
そこには情景描写としての上手さというのも、もちろんあるでしょう。
登場人物の姿、場面の映像、空間的な配置…。
さまざまな要素が落語家の話し方と身振りによって表現されます。
だからといって、場面の景色を詳細に言葉で説明してしまっては
説明っぽくなって面白さが減ってしまう。
台詞や動作でもって様子が見えてくるようだと心地良いように感じます。
そのためには目線やしぐさ、動作、体の向きなどに統一感が必要なようです。
空間をどうやって描写するかの部分が、全身のメッセージに反映されていると言えます。
「上手い」と評価される落語家は、こうした細かい表現方法も見事なようで、
そこにはCDで聞いたのでは分からないものまで表れているのでしょう。
まるで、テレビカメラが登場人物を一人ずつアップで撮っているかのように
画面の中心が変わりながら、意識の方向が導かれる。
小さな座布団一枚の範囲から描き出される空間の広さの中に
多くの情報が詰まっているのが読み取れます。
独演会でないときには、前座からトリまで数人の落語家が登場します。
場合によっては、随分と腕の差を感じるときもありました。
描写が不明瞭なんです。
落語として語り継がれる話の内容は合っているのでしょうが、
どうにも場面が見えてこない。
酷いときには、その台詞を言っているのが誰なのかが分からなかったり。
声のトーンにバリエーションがないと大勢の演じ分けは難しいのかもしれません。
逆に、明らかに大勢が登場する予定のシーンは、
声のトーンのメリハリをつけられる演者にとっては見せ場にもなり得ます。
何人もの人が代わる代わる出てきて一言だけを発していくシーン。
例えば、長屋の二階で宴会がある、なんていう場面だと
大勢の人が「こんにちは」と言いながら二階へ上がっていくことになります。
ここでの「こんにちは」の声のトーンや、それぞれの姿勢など
そこの違いが色々と表現されていると、まさに畳み掛けるように展開する。
聴衆は一気に引き込まれ、全員の「こんにちは」が終わるころには
全部やり切ったという噺家の息の抜け方と同時に
会場から歓声と拍手が沸き起こったりもします。
難しい芸当だからこそ見所にもなる。
見に来ているほうも、そのことを分かっているから
単なる馬鹿笑いとは違った感嘆の気持ちもまた
楽しみの1つになっているのでしょう。
先日見たところでは、知人から評判も聞いていたのですが
柳家喬太郎が非常に面白かったです。
描写の凄さもさることながら、何よりも観客とのペーシングの見事さを感じました。
合わせるというよりは、どちらかというと巻き込む傾向でしょうか。
自分の視野が遠くの座布団の上の範囲だけに集中していくのが分かります。
リズムに引き込む感じなんでしょう。
客席の誰かに話しかけるというよりも、注意の向き方を感じ取って
話の展開やリズム、間の取り方を変えているような雰囲気に見えました。
なんというか、笑いの起こるタイミングが把握できているような印象。
それは見ていても楽しいし、巻き込まれているのも楽しいんです。
流れに身を任せていられるような心地良さも感じます。
色々なところに呼ばれて行くという話でしたから、
世代や客層にペースを合わせることもしているんだろうと思います。
小学校でやる場合と、老人ホームでやる場合では、違うほうが当然かもしれません。
もっとも、こうした雰囲気を感じ取るという発想そのものが
僕の場合、ペーシングのトレーニングをして、トレーナーとしてセミナーをして…
ということをやってきたから浮かぶようになったものではあります。
熟練した落語家、「上手い」と言われる人たちには
意識的にか無意識的にか、きっとそういう視点が備わっているはずです。
前座で出てきた人には、残念ながらその部分が無かったようです。
描写の技術だけでなく、観客とペースを合わせようとさえしないのが残念でした。
なんだか彼だけが勝手に話している感じなんです。
自分勝手に話しているのを見てもらうだけ。
あるいは、「見られている」という雰囲気の人さえいました。
練習してきたものを発表している様子。
話はスムーズで、笑いも起きるのですが、どうにも物足りない。
ペースが合っていないんです。
マクラの部分でペーシングをしていくことの重要性を感じました。
そこでペースを掴んでもらえるからこそ、
その後の内容のイメージが自然と浮かびやすくなるわけです。
トランスに巻き込んでもらえるんです。
大勢の前で話をするといっても、それはスピーチではなく、
場の雰囲気を感じ取るようなコミュニケーションも求められるようです。
落語は、ある意味では、トランス誘導だとも言えると思います。
実際には見えないはずの情景を描かせて、
その世界の中で気持ちを動かしていくのですから。
トランスにはラポールが不可欠なものです。
いかにペーシングが重要かということでしょう。
見る側もペーシング能力が高いほうが楽しめるはずです。
そこをトレーニングしてきて良かったと思いました。
先日などは、演目中の登場人物が弱って頭をかくシーンで、
同時に僕の頭もかゆくなって、同じタイミングで同じ場所をかいてしまったほど。
ペースを合わせながら見ると、時間の経つのもアッという間です。
映画の2時間は途中で集中が途切れるものの、
落語の3時間は集中が途切れません。
落語家の集中力にペーシングしているからだと考えられます。
そこがライブ特有の面白さじゃないでしょうか。