2010年06月18日
学習のエッセンス
人が生きている間にしていることの全ては、広い意味で
『学習』と『アウトプット』に当てはめて考えることができると思います。
「勉強」と言ってしまうと、机に向かってやるタイプの
学校での勉強を思い出すかもしれませんが、それに限ったことではありません。
運動をするのも、そのやり方を学習するから効果的にできますし、
料理をするのも、絵を描くのも、歩くのも、言葉を話すのも同じです。
人間関係の基本的なスタイルは、主に両親との関わりを通じて
自覚のないままに学習されています。
人間関係を通じて学習されるのは、その前提にある社会としてのルールや習慣、
さらには日常生活の過ごし方など、文化として受け継がれているものも含まれます。
人が当たり前に生活を送ることができるのは、その生活の基盤になっている全てのことを
自分にとって効果的なやり方として学習しているからです。
しかも、その学習は一生続きます。
もちろん学習の効率や量は年齢が小さい時期のほうが上回るでしょうが、
学習されたことのブラッシュアップは続くはずです。
例えば、誰かに会って「おはよう」と挨拶をすることだって
幼少期に学習したパターンを続けている一方で、
その対応パターンを止める方向に進んでいない以上、当たり前のこととして
そのパターンが強化されていっていると考えられます。
パターンが効率化され、洗練されていっていると言うこともできますし、
それ以外ができないように固着していると言うこともできます。
年齢を重ねると物覚えが悪くなるとか、頑固になるとか世間で言われるのには、
そうした今まで学習してきたパターンばかりを
無自覚なままで使い続けるところにも理由があるでしょう。
全く新しい何かを学習する機会だけでなく、既に学習したことを使っているときにも
そのやり方が効率的な方向に強化されるか、そのパターンから外れるか、
どちらかの方向には学習が常になされているわけです。
そして、そのように学習したことは他者との関わりを通じてアウトプットされます。
学習したことを使うと、その結果が他人に影響するということです。
野球であれば、自分がボールの投げ方を学習したことで
それを利用してキャッチボールをすることができます。
料理を学習すれば、その料理を作って誰かに食べてもらうことができます。
言葉を学習すれば、他の人と会話をすることができます。
それに接した相手は、その体験を通じて、さらに学習することもできる。
家庭の味のようなものは、そうやって受け継がれていく代表的なものかもしれませんし、
社会の習慣やマナー、文化などは、学習とアウトプットが繰り返されて
受け継がれていると言っても良いでしょう。
中には自分が学習したけれども、それが他者との関係には
ほとんどアウトプットされないような類のものもあるとは思います。
そのことを誰かが続けても他人への影響が少ないようなもの。
例えば、他の人からはゴミにしか思えないようなモノを収集して、
それを誰にも話さず、あるときに自分で全て捨ててしまうようなケースです。
これを一生持ち続けて、家族の誰かに見られたりしたら
「あの人は、こんなものを集めていたのね」なんて影響があるかもしれませんから
全く誰にも知られないというのが原則ではあります。
そう考えると、どんな趣味であっても、その趣味を持つ仲間はいるでしょうし、
本当の意味で自分だけで完結する行為というのは極めて少ないと考えられます。
自分が何かをしたら、それが他人に影響するというのは当たり前に近いことなんです。
そして、その自分のした行為の影響を受けた他人は、その経験を通じて学習をする。
積極的に教えた自覚がなくても、他人の学習に影響を与えているんです。
アウトプットとは、そういう意味です。
自分が活きている間に学習したことを、自分の中で咀嚼して
自分なりの学習結果として作り上げ、それが他人へアウトプットされていく。
そこでアウトプットされる結果は、自分の人生を通っていることで
他の誰かのアウトプットとは必ず違っています。
誰かに学習され、その人からアウトプットされるものは、
学習される前のものとは違っているんです。
ある有名な先生が教えていることを誰かが学習して
その人がそれを伝えたとき、その内容は受け継がれているわけですが、
同時に元の先生の教えと全く同じではないんです。
色々な学派や宗派が生まれていったのには、そうしたことが関係するのかもしれません。
その受け継いでいく学習の内容が身近な生活習慣や文化的なものであれば
自分を通ることで与える変化の度合いは大きくない場合が多いでしょう。
ほんの少しずつ変化を加えながら、伝統のように受け継がれていくものがあります。
その一方で、たった一人の人生を通ったことで劇的な変化が生まれることもある。
歴史に名を残した人たちは、それまでに受け継がれてきたものを学習し、
自分の中で新しいものを作り上げ、それをアウトプットした、ということです。
その新しさとアウトプットの影響力の程度が、
歴史に残る度合いと関係するのでしょう。
これらの学習とアウトプットのなされ方にも様々な抽象度があります。
ある会社独特の仕事の方法のようなものは、かなり具体的だと言えます。
「ウチの会社で働いていくには、こうしたらいい」とか
「この会社で成果を出すには、こんなコツがあるんだ」とか
そういった情報が一人の仕事経験を通じて学ばれ、後続に伝えられていく。
同じように仕事で成果を出そうと考えたときに、ある人はビジネス書を読み、
業界の有名人の講演を聞き、セミナーで勉強したりします。
そして自分の仕事にどうやって活かすかを考える。
…典型的な学習とアウトプットの流れですが、
誰かから教わる情報というのは、その人が経験から導き出した学習の結果ですから
体験そのものを通じて学習するよりも抽象度が高くなります。
それは効率的である一方、その学習結果をアウトプットに繋げるには
学習した本人の工夫も必要になります。
単純にインプットされた他人の学習結果を自分の体験と結び付け
自分なりの学習結果として整理できたとき、それがアウトプットに利用できる。
そうした仕事のノウハウのようなものは、かなり具体的な学習といえます。
アウトプットの形が具体的な行動に落としこまれます。
何かの道具や飲食物を作ったりする仕事も、その仕事内容が学習されて
学習の結果が仕事の成果に反映されるという意味ではアウトプットになります。
スリッパという道具の使い方を学習し、ダイエットに運動が必要なことを学習し、
多くの人は継続的な運動が苦手なことを学習した人が、
スリッパのかかとの部分を取り除いた「ダイエットスリッパ」を発明しました。
学習の結果を発明品としてアウトプットした例です。
もう少し抽象的な学習になってくると、工学の分野などが考えられます。
理論を学習し、それを応用の形にアウトプットする。
さらに抽象度が上がると、理論を学び、新たな理論をアウトプットすることになります。
いわゆる学問の世界では、多くの人の学習の成果が
理論という1つの場所にアウトプットされ、
より洗練された理論として学習される、というサイクルが繰り返されています。
手で触れるような形はないものの、大昔からずっと受け継がれてきているんです。
かなり抽象的なレベルで。
一人の人が思いついた自分の仕事が上手くいくコツのような具体性と比べると
学問の世界で引き継がれている理論の抽象度は非常に高い。
抽象度が高いからこそ、非常に多くの範囲の具体的な事柄に応用することができます。
その一方で、日常生活から離れている印象もある。
学校で勉強している時は、何に役に立つんだか分からないと感じやすいものでしょう。
学問で受け継がれているものは、何千年にも渡って
多くの人が学習とアウトプットを繰り返してきた学習結果の集合体といえます。
もちろん、文化や生活習慣もそうです。
当たり前に生活する中で学んだことがお互いに影響しあい
1つのバランスを保ちながら受け継がれてきている。
ちょっとした言葉遣いやコミュニケーションのスタイルは
そうした具体的な生活そのものの学習結果も反映されています。
同時に、学問の成果を実生活に応用する人たちが
環境のレベルから生活を変えていきます。
それもまた文化に影響を及ぼす。
抽象度の高いところを学習し、抽象度の高いままにアウトプットする人もいる。
抽象度の高いところを学習し、具体的な環境にアウトプットする人もいる。
具体的な環境から学習して、抽象度の高い理論としてアウトプットする人もいる。
具体的な環境から学習して、具体的なアウトプットをする人もいる。
それは好みや特性と関係するのかもしれません。
善し悪しはない気がします。
喩えて言うなら、香り成分のようなものでしょうか。
バニラの香りを例にとると、バニラから香り成分だけを集めて
バニラエッセンスを作ることができます。
エッセンスは高濃度で、精製されていて、純粋に近い。
沢山のバニラ・ビーンズを集めて、ほんのチョットしか作れません。
バニラ・エッセンスは量に対して高額になります。
そのバニ・ラエッセンスを元に、さらに精製して
バニラの香りの元(バニリン)だけを作る人もいます。
バニラ・エッセンスを使って、バニラの香りづけをしてアイスを作る人もいます。
一方で、バニラ・ビーンズのままを使ってアイスを作る人もいます。
本当に美味しいバニラアイスの中には、バニラ・ビーンズを使ったものもあります。
それもまた高額で扱われることになるでしょう。
抽出されたエッセンスは、そのプロセスの価値と、応用可能性を考えれば
自然と高額になっていくものです。
その一方で、高品質な原料を使って、高品質なものを作れば
それもまた価値のあるものになっていく。
エッセンスであれ、原料であれ、高品質なものに価値が出ることが多いようです。
一般的に何かを勉強するときは、エッセンスを学ぶことになりますから
勉強そのものの値段は高額になりやすいものです。
あとは、そのエッセンスが高品質なものかどうか。
そのエッセンスを、どう使っていくか。
そういうところが肝心なのかもしれません。
『学習』と『アウトプット』に当てはめて考えることができると思います。
「勉強」と言ってしまうと、机に向かってやるタイプの
学校での勉強を思い出すかもしれませんが、それに限ったことではありません。
運動をするのも、そのやり方を学習するから効果的にできますし、
料理をするのも、絵を描くのも、歩くのも、言葉を話すのも同じです。
人間関係の基本的なスタイルは、主に両親との関わりを通じて
自覚のないままに学習されています。
人間関係を通じて学習されるのは、その前提にある社会としてのルールや習慣、
さらには日常生活の過ごし方など、文化として受け継がれているものも含まれます。
人が当たり前に生活を送ることができるのは、その生活の基盤になっている全てのことを
自分にとって効果的なやり方として学習しているからです。
しかも、その学習は一生続きます。
もちろん学習の効率や量は年齢が小さい時期のほうが上回るでしょうが、
学習されたことのブラッシュアップは続くはずです。
例えば、誰かに会って「おはよう」と挨拶をすることだって
幼少期に学習したパターンを続けている一方で、
その対応パターンを止める方向に進んでいない以上、当たり前のこととして
そのパターンが強化されていっていると考えられます。
パターンが効率化され、洗練されていっていると言うこともできますし、
それ以外ができないように固着していると言うこともできます。
年齢を重ねると物覚えが悪くなるとか、頑固になるとか世間で言われるのには、
そうした今まで学習してきたパターンばかりを
無自覚なままで使い続けるところにも理由があるでしょう。
全く新しい何かを学習する機会だけでなく、既に学習したことを使っているときにも
そのやり方が効率的な方向に強化されるか、そのパターンから外れるか、
どちらかの方向には学習が常になされているわけです。
そして、そのように学習したことは他者との関わりを通じてアウトプットされます。
学習したことを使うと、その結果が他人に影響するということです。
野球であれば、自分がボールの投げ方を学習したことで
それを利用してキャッチボールをすることができます。
料理を学習すれば、その料理を作って誰かに食べてもらうことができます。
言葉を学習すれば、他の人と会話をすることができます。
それに接した相手は、その体験を通じて、さらに学習することもできる。
家庭の味のようなものは、そうやって受け継がれていく代表的なものかもしれませんし、
社会の習慣やマナー、文化などは、学習とアウトプットが繰り返されて
受け継がれていると言っても良いでしょう。
中には自分が学習したけれども、それが他者との関係には
ほとんどアウトプットされないような類のものもあるとは思います。
そのことを誰かが続けても他人への影響が少ないようなもの。
例えば、他の人からはゴミにしか思えないようなモノを収集して、
それを誰にも話さず、あるときに自分で全て捨ててしまうようなケースです。
これを一生持ち続けて、家族の誰かに見られたりしたら
「あの人は、こんなものを集めていたのね」なんて影響があるかもしれませんから
全く誰にも知られないというのが原則ではあります。
そう考えると、どんな趣味であっても、その趣味を持つ仲間はいるでしょうし、
本当の意味で自分だけで完結する行為というのは極めて少ないと考えられます。
自分が何かをしたら、それが他人に影響するというのは当たり前に近いことなんです。
そして、その自分のした行為の影響を受けた他人は、その経験を通じて学習をする。
積極的に教えた自覚がなくても、他人の学習に影響を与えているんです。
アウトプットとは、そういう意味です。
自分が活きている間に学習したことを、自分の中で咀嚼して
自分なりの学習結果として作り上げ、それが他人へアウトプットされていく。
そこでアウトプットされる結果は、自分の人生を通っていることで
他の誰かのアウトプットとは必ず違っています。
誰かに学習され、その人からアウトプットされるものは、
学習される前のものとは違っているんです。
ある有名な先生が教えていることを誰かが学習して
その人がそれを伝えたとき、その内容は受け継がれているわけですが、
同時に元の先生の教えと全く同じではないんです。
色々な学派や宗派が生まれていったのには、そうしたことが関係するのかもしれません。
その受け継いでいく学習の内容が身近な生活習慣や文化的なものであれば
自分を通ることで与える変化の度合いは大きくない場合が多いでしょう。
ほんの少しずつ変化を加えながら、伝統のように受け継がれていくものがあります。
その一方で、たった一人の人生を通ったことで劇的な変化が生まれることもある。
歴史に名を残した人たちは、それまでに受け継がれてきたものを学習し、
自分の中で新しいものを作り上げ、それをアウトプットした、ということです。
その新しさとアウトプットの影響力の程度が、
歴史に残る度合いと関係するのでしょう。
これらの学習とアウトプットのなされ方にも様々な抽象度があります。
ある会社独特の仕事の方法のようなものは、かなり具体的だと言えます。
「ウチの会社で働いていくには、こうしたらいい」とか
「この会社で成果を出すには、こんなコツがあるんだ」とか
そういった情報が一人の仕事経験を通じて学ばれ、後続に伝えられていく。
同じように仕事で成果を出そうと考えたときに、ある人はビジネス書を読み、
業界の有名人の講演を聞き、セミナーで勉強したりします。
そして自分の仕事にどうやって活かすかを考える。
…典型的な学習とアウトプットの流れですが、
誰かから教わる情報というのは、その人が経験から導き出した学習の結果ですから
体験そのものを通じて学習するよりも抽象度が高くなります。
それは効率的である一方、その学習結果をアウトプットに繋げるには
学習した本人の工夫も必要になります。
単純にインプットされた他人の学習結果を自分の体験と結び付け
自分なりの学習結果として整理できたとき、それがアウトプットに利用できる。
そうした仕事のノウハウのようなものは、かなり具体的な学習といえます。
アウトプットの形が具体的な行動に落としこまれます。
何かの道具や飲食物を作ったりする仕事も、その仕事内容が学習されて
学習の結果が仕事の成果に反映されるという意味ではアウトプットになります。
スリッパという道具の使い方を学習し、ダイエットに運動が必要なことを学習し、
多くの人は継続的な運動が苦手なことを学習した人が、
スリッパのかかとの部分を取り除いた「ダイエットスリッパ」を発明しました。
学習の結果を発明品としてアウトプットした例です。
もう少し抽象的な学習になってくると、工学の分野などが考えられます。
理論を学習し、それを応用の形にアウトプットする。
さらに抽象度が上がると、理論を学び、新たな理論をアウトプットすることになります。
いわゆる学問の世界では、多くの人の学習の成果が
理論という1つの場所にアウトプットされ、
より洗練された理論として学習される、というサイクルが繰り返されています。
手で触れるような形はないものの、大昔からずっと受け継がれてきているんです。
かなり抽象的なレベルで。
一人の人が思いついた自分の仕事が上手くいくコツのような具体性と比べると
学問の世界で引き継がれている理論の抽象度は非常に高い。
抽象度が高いからこそ、非常に多くの範囲の具体的な事柄に応用することができます。
その一方で、日常生活から離れている印象もある。
学校で勉強している時は、何に役に立つんだか分からないと感じやすいものでしょう。
学問で受け継がれているものは、何千年にも渡って
多くの人が学習とアウトプットを繰り返してきた学習結果の集合体といえます。
もちろん、文化や生活習慣もそうです。
当たり前に生活する中で学んだことがお互いに影響しあい
1つのバランスを保ちながら受け継がれてきている。
ちょっとした言葉遣いやコミュニケーションのスタイルは
そうした具体的な生活そのものの学習結果も反映されています。
同時に、学問の成果を実生活に応用する人たちが
環境のレベルから生活を変えていきます。
それもまた文化に影響を及ぼす。
抽象度の高いところを学習し、抽象度の高いままにアウトプットする人もいる。
抽象度の高いところを学習し、具体的な環境にアウトプットする人もいる。
具体的な環境から学習して、抽象度の高い理論としてアウトプットする人もいる。
具体的な環境から学習して、具体的なアウトプットをする人もいる。
それは好みや特性と関係するのかもしれません。
善し悪しはない気がします。
喩えて言うなら、香り成分のようなものでしょうか。
バニラの香りを例にとると、バニラから香り成分だけを集めて
バニラエッセンスを作ることができます。
エッセンスは高濃度で、精製されていて、純粋に近い。
沢山のバニラ・ビーンズを集めて、ほんのチョットしか作れません。
バニラ・エッセンスは量に対して高額になります。
そのバニ・ラエッセンスを元に、さらに精製して
バニラの香りの元(バニリン)だけを作る人もいます。
バニラ・エッセンスを使って、バニラの香りづけをしてアイスを作る人もいます。
一方で、バニラ・ビーンズのままを使ってアイスを作る人もいます。
本当に美味しいバニラアイスの中には、バニラ・ビーンズを使ったものもあります。
それもまた高額で扱われることになるでしょう。
抽出されたエッセンスは、そのプロセスの価値と、応用可能性を考えれば
自然と高額になっていくものです。
その一方で、高品質な原料を使って、高品質なものを作れば
それもまた価値のあるものになっていく。
エッセンスであれ、原料であれ、高品質なものに価値が出ることが多いようです。
一般的に何かを勉強するときは、エッセンスを学ぶことになりますから
勉強そのものの値段は高額になりやすいものです。
あとは、そのエッセンスが高品質なものかどうか。
そのエッセンスを、どう使っていくか。
そういうところが肝心なのかもしれません。