2010年07月02日
棚卸し
先日、本棚や段ボール箱の中の、古いノートやら本やらを整理していたら
随分と懐かしいものが沢山見つかってきました。
10年以上前のことというのは、かなり懐かしく感じるものですね。
今では当たり前のパワーポイントも、当時はOHPのシートでした。
ちょうどスライドからパソコンに変わるぐらいの時期だったんでしょう。
僕の古い資料の中からは、以前に作ったOHP用のシートが出てきましたが
当時からノートパソコンをつないで発表する人もいた記憶はあります。
それから数年の間に、当たり前のように学会などでは
個人のパソコンをプロジェクターに繋ぎ変えて発表する形式になった。
もう少し前には、Windows95 が発売になって大騒ぎしていたものです。
最初にパソコンを触ったのも、それぐらいの時期だった気がします。
僕の場合、最初はマックで覚えたんですが、
同時期に Windows のパソコンも使い方を学習した記憶があります。
買ったのは98だったでしょうか。
最初に買ったパソコンの説明書なんかも出てきたりして
余計に色々な景色が思い浮かびました。
記憶というのは色々とセットになって、関連情報が近くに繋がっているんだなぁ…と
実感するのも、こうした懐かしい思い出が呼び戻されるときです。
学生時代のノートが見つかれば、当時の教授の顔や教室の景色、
大学のキャンパスの風景が鮮明に浮かんでくる。
意識的に学生時代のことを思い返そうとしても浮かばなかった場所や顔が
当時の懐かしい「物」を見ることでハッキリと蘇ってくるんです。
それは実験室の場所だったり、匂いだったり、騒音だったり、
様々な情報がセットになって浮かんできます。
一方で、ノートに書かれている式を見ても、
それを理解するのは困難になっていました。
前は分かっていたんだろうか…なんて気にもなりましたが
多分、理解していたものが大部分だったはずです。
有機化学や立体化学などの反応式や分子軌道の図は
今に見返しても意外と納得しながら読み返せるんですが、
物理化学や化学工学の式は厳しい。
いかに自分が絵を使って化学の世界を理解していたかを思い知りました。
数学の得意な人は、数式からでも何かの実感が得られるんでしょうか。
抽象的な世界を身体性とともに感じられると理解もしやすいだろうとは思いますが、
僕には式だけの世界には実感が得ずらかったものです。
細かい世界、具体的な世界にズームインして、それを絵で理解する。
そんな作業は僕にとって得意分野だったんだろうと感じました。
そして、それは今も変わらずに活かされている。
となると、社会とか政治とか経済とか、そういった範囲の広いジャンルは
僕にとってイメージしにくいものなのかもしれない気がしてきました。
細胞よりも小さな分子の世界、さらに細かく分子の中の世界まで
僕の視覚的イメージはズームインしていくことができるみたいですし、
それが好きだったんだろうと思います。
その範囲が人のサイズになって、人間関係とか心理とかいった部分を見るようになった。
でも、その理解の仕方は結局、細かく見ていくことでなされています。
心の仕組みを見るために、僕はやっぱりズームインして
細かく分けながら視覚的なイメージとしての図を作って理解しているんです。
この傾向は変わっていないんだということを実感しました。
「目に見えるものの中身を細かく見ていく」
これは僕にとって大切な、好みの範囲なんだろうと思います。
僕が世界規模で何かを意識するためには、
まず、その対象を目で見る必要があるのかもしれません。
それは非常に浮かびにくいし、浮かべたいという気持ちも今は無いので
かなり先のことになる気がします。
生きているうちに、そうなるときが来るのかは分かりませんが。
随分と懐かしいものが沢山見つかってきました。
10年以上前のことというのは、かなり懐かしく感じるものですね。
今では当たり前のパワーポイントも、当時はOHPのシートでした。
ちょうどスライドからパソコンに変わるぐらいの時期だったんでしょう。
僕の古い資料の中からは、以前に作ったOHP用のシートが出てきましたが
当時からノートパソコンをつないで発表する人もいた記憶はあります。
それから数年の間に、当たり前のように学会などでは
個人のパソコンをプロジェクターに繋ぎ変えて発表する形式になった。
もう少し前には、Windows95 が発売になって大騒ぎしていたものです。
最初にパソコンを触ったのも、それぐらいの時期だった気がします。
僕の場合、最初はマックで覚えたんですが、
同時期に Windows のパソコンも使い方を学習した記憶があります。
買ったのは98だったでしょうか。
最初に買ったパソコンの説明書なんかも出てきたりして
余計に色々な景色が思い浮かびました。
記憶というのは色々とセットになって、関連情報が近くに繋がっているんだなぁ…と
実感するのも、こうした懐かしい思い出が呼び戻されるときです。
学生時代のノートが見つかれば、当時の教授の顔や教室の景色、
大学のキャンパスの風景が鮮明に浮かんでくる。
意識的に学生時代のことを思い返そうとしても浮かばなかった場所や顔が
当時の懐かしい「物」を見ることでハッキリと蘇ってくるんです。
それは実験室の場所だったり、匂いだったり、騒音だったり、
様々な情報がセットになって浮かんできます。
一方で、ノートに書かれている式を見ても、
それを理解するのは困難になっていました。
前は分かっていたんだろうか…なんて気にもなりましたが
多分、理解していたものが大部分だったはずです。
有機化学や立体化学などの反応式や分子軌道の図は
今に見返しても意外と納得しながら読み返せるんですが、
物理化学や化学工学の式は厳しい。
いかに自分が絵を使って化学の世界を理解していたかを思い知りました。
数学の得意な人は、数式からでも何かの実感が得られるんでしょうか。
抽象的な世界を身体性とともに感じられると理解もしやすいだろうとは思いますが、
僕には式だけの世界には実感が得ずらかったものです。
細かい世界、具体的な世界にズームインして、それを絵で理解する。
そんな作業は僕にとって得意分野だったんだろうと感じました。
そして、それは今も変わらずに活かされている。
となると、社会とか政治とか経済とか、そういった範囲の広いジャンルは
僕にとってイメージしにくいものなのかもしれない気がしてきました。
細胞よりも小さな分子の世界、さらに細かく分子の中の世界まで
僕の視覚的イメージはズームインしていくことができるみたいですし、
それが好きだったんだろうと思います。
その範囲が人のサイズになって、人間関係とか心理とかいった部分を見るようになった。
でも、その理解の仕方は結局、細かく見ていくことでなされています。
心の仕組みを見るために、僕はやっぱりズームインして
細かく分けながら視覚的なイメージとしての図を作って理解しているんです。
この傾向は変わっていないんだということを実感しました。
「目に見えるものの中身を細かく見ていく」
これは僕にとって大切な、好みの範囲なんだろうと思います。
僕が世界規模で何かを意識するためには、
まず、その対象を目で見る必要があるのかもしれません。
それは非常に浮かびにくいし、浮かべたいという気持ちも今は無いので
かなり先のことになる気がします。
生きているうちに、そうなるときが来るのかは分かりませんが。