2011年07月14日
マネ過ぎない
NHKに『ディープピープル [ DEEP PEOPLE ] 』という番組があります。
同じジャンルのプロが3人登場して語り合うスタイル。
何度か見たことがありますが、深夜にテレビをつけたら
再放送がやっていて、モノマネタレントの回でした。
やはり一流の人というのは、具体的に技術を磨くための努力か、
生き残るための考え方の工夫のどちらかをしているようです。
ものまねタレント「ミラクルひかる」の努力の仕方には
久しぶりに深く感動しました。
観察力と分析力の組み合わせ方に対して
僕が個人的な好みとして共感する部分を見出したんでしょう。
特に印象に残っているのは、ものまねの大御所「コロッケ」の
「どこまで似せるか」に対する考え方の話。
いわく、ものまねには大きく2通りのスタイルがある、と。
1つは完全なコピーを目指すスタンス。
もう1つは、パロディにするスタンス。
言うまでもなく、「コロッケ」はパロディ側の人です。
どちらにも固有のリスクがあるんだとか。
完全なコピーを目指すほうでは技術の向上が求められますが
自分の声がある以上、できる範囲には限度があるようです。
なので、ポイントは「自分の声を消す」ことにあると語っていました。
一方、パロディのほうは、それっぽく見せるかが重要なので
印象に残りやすい特徴をピックアップして強調するそうです。
両者の違いは、肖像画と似顔絵の違いに似ている気がします。
コピーを目指すのが肖像画で、パロディが似顔絵。
僕の好みは完全コピーのほうにあります。
細かい部分まで同じになっているほどスゴイと感じます。
そこまで完璧だったら本人でも良いはずなんですが、
なぜか完全にコピーできる人に敬意を抱くんです。
同時に、パロディには、「そこまでじゃないだろう…」という
違和感というか、やり過ぎのパフォーマンスに抵抗も感じます。
何かバカにしたような印象や、失礼なイメージを持っていました。
しかし、パロディ派の代表「コロッケ」によると
「常に申し訳ない気持ちを持って」いて
「ものまねが成立するのは本人がいるおかげ」という感謝も
いつも感じているという話でした。
そして、ここに、ものまねタレント特有の感動的な配慮がありました。
それは、ものまねされる側の気持ちへの気遣いです。
完全コピーで徹底的に同じようにされてしまうと
ものまねされた側は、何も言えなくなってしまうんだそうです。
リアクションにさえ困ることもある、と。
確かに、自分の全てに納得がいっているわけでもないでしょうから
完璧なものまねを見ることは反省させられる場面でもあるでしょう。
自分の気にいっていない部分も見させられるのかもしれません。
だから、ワザと隙を作る。
「そんなんじゃない!」と言いやすい部分を用意しておく。
非難しやすくなっていることで、本人の気持ちが収まりやすいんでしょう。
「コロッケ」の場合には、それがあの
やり過ぎなパフォーマンスになっているようです。
あえて怒られたり、嫌われたりする部分を作っておくことで
ものまねされる本人の気持ちをケアしようという配慮があったわけです。
自分が不満をぶつけられる側に回ってでも相手のことを気遣う姿勢。
ものまねタレントという立場を本気で考えているからこそ生まれる
本人への感謝を込めた、見せかけの悪意なんだと感じました。
日常生活でも似たような場面はあると思います。
正論は人を傷つけることが多い、というのは似ているでしょう。
言われるとグウの音も出ないような指摘は正しかったとしても
言われた側の心には穏やかではありません。
受け取る側の立場を想像してメッセージを発する。
それは、日常的な会話の言葉であっても
ものまねのパフォーマンスであっても、共通するのかもしれません。
同じジャンルのプロが3人登場して語り合うスタイル。
何度か見たことがありますが、深夜にテレビをつけたら
再放送がやっていて、モノマネタレントの回でした。
やはり一流の人というのは、具体的に技術を磨くための努力か、
生き残るための考え方の工夫のどちらかをしているようです。
ものまねタレント「ミラクルひかる」の努力の仕方には
久しぶりに深く感動しました。
観察力と分析力の組み合わせ方に対して
僕が個人的な好みとして共感する部分を見出したんでしょう。
特に印象に残っているのは、ものまねの大御所「コロッケ」の
「どこまで似せるか」に対する考え方の話。
いわく、ものまねには大きく2通りのスタイルがある、と。
1つは完全なコピーを目指すスタンス。
もう1つは、パロディにするスタンス。
言うまでもなく、「コロッケ」はパロディ側の人です。
どちらにも固有のリスクがあるんだとか。
完全なコピーを目指すほうでは技術の向上が求められますが
自分の声がある以上、できる範囲には限度があるようです。
なので、ポイントは「自分の声を消す」ことにあると語っていました。
一方、パロディのほうは、それっぽく見せるかが重要なので
印象に残りやすい特徴をピックアップして強調するそうです。
両者の違いは、肖像画と似顔絵の違いに似ている気がします。
コピーを目指すのが肖像画で、パロディが似顔絵。
僕の好みは完全コピーのほうにあります。
細かい部分まで同じになっているほどスゴイと感じます。
そこまで完璧だったら本人でも良いはずなんですが、
なぜか完全にコピーできる人に敬意を抱くんです。
同時に、パロディには、「そこまでじゃないだろう…」という
違和感というか、やり過ぎのパフォーマンスに抵抗も感じます。
何かバカにしたような印象や、失礼なイメージを持っていました。
しかし、パロディ派の代表「コロッケ」によると
「常に申し訳ない気持ちを持って」いて
「ものまねが成立するのは本人がいるおかげ」という感謝も
いつも感じているという話でした。
そして、ここに、ものまねタレント特有の感動的な配慮がありました。
それは、ものまねされる側の気持ちへの気遣いです。
完全コピーで徹底的に同じようにされてしまうと
ものまねされた側は、何も言えなくなってしまうんだそうです。
リアクションにさえ困ることもある、と。
確かに、自分の全てに納得がいっているわけでもないでしょうから
完璧なものまねを見ることは反省させられる場面でもあるでしょう。
自分の気にいっていない部分も見させられるのかもしれません。
だから、ワザと隙を作る。
「そんなんじゃない!」と言いやすい部分を用意しておく。
非難しやすくなっていることで、本人の気持ちが収まりやすいんでしょう。
「コロッケ」の場合には、それがあの
やり過ぎなパフォーマンスになっているようです。
あえて怒られたり、嫌われたりする部分を作っておくことで
ものまねされる本人の気持ちをケアしようという配慮があったわけです。
自分が不満をぶつけられる側に回ってでも相手のことを気遣う姿勢。
ものまねタレントという立場を本気で考えているからこそ生まれる
本人への感謝を込めた、見せかけの悪意なんだと感じました。
日常生活でも似たような場面はあると思います。
正論は人を傷つけることが多い、というのは似ているでしょう。
言われるとグウの音も出ないような指摘は正しかったとしても
言われた側の心には穏やかではありません。
受け取る側の立場を想像してメッセージを発する。
それは、日常的な会話の言葉であっても
ものまねのパフォーマンスであっても、共通するのかもしれません。