2011年07月18日
便利さを感じるとき
連休中の新宿駅には、沢山の人が集まっていたようです。
そんな中、駅構内で、久しぶりに
人の呼び出しのアナウンスを聞きました。
「〜からお越しの○○様。…で●●様がお待ちです」
待ち合わせだったのか、はぐれてしまったのか。
どういう事情だったのかは分かりませんが、
最近、こういうアナウンスを聞いていなかったなぁ、と
なんだか少し懐かしい気分になりました。
携帯電話を誰でも持っている現在、
おそらく小学生ぐらいでも持ち歩いているのでしょう。
迷子の呼び出しさえ聞かなくなったような気がします。
まして、それが大人同士となると、その普及率は「当然」のレベル。
相手が見つからなければ、携帯で電話してしまえば良い。
便利になったものだ、と
アナウンスを聞いて改めて実感しました。
駅の改札口にも伝言板がなくなってきたようですし。
そういえば、マンガ『シティハンター』で仕事の依頼に使われていた
「XYZ」と書くための伝言板も、今は存在しないみたいです。
僕は結構、丁寧に待ち合わせ場所を決めるほうでした。
特に、待ち合わせ場所が初めての所だったりすると、
余計に会えないことが心配になって、慎重に話し合ったものです。
それが今では、駅ぐらいまで決めてあれば
あとは駅に着いてから連絡をして、落ち合う場所を決める、
なんていうことが当たり前になってきています。
初めての場所だって、インターネットで詳しく調べれば
現地の状況を十分に予測してから行くこともできます。
待ち合わせの時間だって、携帯やメールで連絡が取れるので
随分と気楽なものになったように感じます。
以前は、待ち合わせ時刻の10分前には指定場所について
「この集団にいるんじゃないか…?」、「次の集団にいるかも…」
などと気を張りながら待っていたものです。
10代の人達だと、友達同士の連絡に携帯を使えるのが
当たり前になってきているのではないかと思います。
待ち合わせのときの、あの落ち着かない気持ちや
予定時刻を過ぎて、何の情報もないままに待ち続ける心配も
感じたことがないのかもしれません。
そうすると、当然、不安や心配の後で感じられる
会えたときの安堵感や喜びも、あまり味わっていないのでしょう。
なんでも、最近の小学校では「緊急電話連絡網」も無いそうです。
僕の頃は、クラス全員の住所と電話番号が配られていました。
それを見て友達に電話したり、年賀状を送ったものです。
それが今は、連絡は全て先生からメール一斉送信。
友達と電話で話すためには、家にかけなければいけなかったのが
今はその辺りの事情も変わってきているのでしょうね。
家族の誰かが長電話をしていると電話が使えない…
ということも滅多にないんだろうと思います。
当時の僕にとっては、電話をかけること自体、
チョット大きなストレスになっていました。
友達本人が電話に出ることは想定していませんから、
知らない大人に電話をかける気分だったんです。
幼少期から携帯やメールが当然になって育った人たちは
相手本人に直接連絡が取れることが当然になっているはずです。
社会人になっての電話の利用などでは
ハードルが高くなっていくこともあるかもしれません。
テクノロジーとして便利になっていることは沢山あります。
同時に、便利じゃなかったからこそ感じていた「もどかしさ」と、
不満を超えた先にある「喜び」の両方が減っている気もします。
個人的には、科学技術の発展は人類の財産の一部だと思いますから、
利便性を手離して昔の状況に戻る必要はないと考えます。
重要なのは、その便利さが当たり前ではないことを自覚しながら、
便利さの奥にあった喜びにも目を向けることじゃないかと思うんです。
当たり前に便利なことの素晴らしさ。
不便だったときには感じられていた喜び。
少なくとも、自分が経験的に知っている範囲のその気持ちは
便利な状況にあっても覚えていたいものです。
もしかすると、今後は、
不便な状態を通して、日常では感じられない喜びを味わうための体験に
お金を払うようなことも出来てくるかもしれません。
そんな中、駅構内で、久しぶりに
人の呼び出しのアナウンスを聞きました。
「〜からお越しの○○様。…で●●様がお待ちです」
待ち合わせだったのか、はぐれてしまったのか。
どういう事情だったのかは分かりませんが、
最近、こういうアナウンスを聞いていなかったなぁ、と
なんだか少し懐かしい気分になりました。
携帯電話を誰でも持っている現在、
おそらく小学生ぐらいでも持ち歩いているのでしょう。
迷子の呼び出しさえ聞かなくなったような気がします。
まして、それが大人同士となると、その普及率は「当然」のレベル。
相手が見つからなければ、携帯で電話してしまえば良い。
便利になったものだ、と
アナウンスを聞いて改めて実感しました。
駅の改札口にも伝言板がなくなってきたようですし。
そういえば、マンガ『シティハンター』で仕事の依頼に使われていた
「XYZ」と書くための伝言板も、今は存在しないみたいです。
僕は結構、丁寧に待ち合わせ場所を決めるほうでした。
特に、待ち合わせ場所が初めての所だったりすると、
余計に会えないことが心配になって、慎重に話し合ったものです。
それが今では、駅ぐらいまで決めてあれば
あとは駅に着いてから連絡をして、落ち合う場所を決める、
なんていうことが当たり前になってきています。
初めての場所だって、インターネットで詳しく調べれば
現地の状況を十分に予測してから行くこともできます。
待ち合わせの時間だって、携帯やメールで連絡が取れるので
随分と気楽なものになったように感じます。
以前は、待ち合わせ時刻の10分前には指定場所について
「この集団にいるんじゃないか…?」、「次の集団にいるかも…」
などと気を張りながら待っていたものです。
10代の人達だと、友達同士の連絡に携帯を使えるのが
当たり前になってきているのではないかと思います。
待ち合わせのときの、あの落ち着かない気持ちや
予定時刻を過ぎて、何の情報もないままに待ち続ける心配も
感じたことがないのかもしれません。
そうすると、当然、不安や心配の後で感じられる
会えたときの安堵感や喜びも、あまり味わっていないのでしょう。
なんでも、最近の小学校では「緊急電話連絡網」も無いそうです。
僕の頃は、クラス全員の住所と電話番号が配られていました。
それを見て友達に電話したり、年賀状を送ったものです。
それが今は、連絡は全て先生からメール一斉送信。
友達と電話で話すためには、家にかけなければいけなかったのが
今はその辺りの事情も変わってきているのでしょうね。
家族の誰かが長電話をしていると電話が使えない…
ということも滅多にないんだろうと思います。
当時の僕にとっては、電話をかけること自体、
チョット大きなストレスになっていました。
友達本人が電話に出ることは想定していませんから、
知らない大人に電話をかける気分だったんです。
幼少期から携帯やメールが当然になって育った人たちは
相手本人に直接連絡が取れることが当然になっているはずです。
社会人になっての電話の利用などでは
ハードルが高くなっていくこともあるかもしれません。
テクノロジーとして便利になっていることは沢山あります。
同時に、便利じゃなかったからこそ感じていた「もどかしさ」と、
不満を超えた先にある「喜び」の両方が減っている気もします。
個人的には、科学技術の発展は人類の財産の一部だと思いますから、
利便性を手離して昔の状況に戻る必要はないと考えます。
重要なのは、その便利さが当たり前ではないことを自覚しながら、
便利さの奥にあった喜びにも目を向けることじゃないかと思うんです。
当たり前に便利なことの素晴らしさ。
不便だったときには感じられていた喜び。
少なくとも、自分が経験的に知っている範囲のその気持ちは
便利な状況にあっても覚えていたいものです。
もしかすると、今後は、
不便な状態を通して、日常では感じられない喜びを味わうための体験に
お金を払うようなことも出来てくるかもしれません。