2011年09月17日
母国語と外国語の差
自分の日本語が、いつから今のようなレベルだったかと
最近、ふと振り返ってみました。
多分、そこには色々な進展の段階があったと思います。
まぁ、誰しも小学校の頃の自分が話していた日本語と
今、自分が使っている日本語が同じレベルだとは思わないでしょう。
小学校の頃の作文なんて、懐かしさを感じるよりも
気恥かしさが上回ってしまって読めたもんではなかったり。
振り返ってみると、徐々に技能を身につけていたんだなぁと感じます。
何十年もかけて言語運用能力を上げてきたのだとすると
外国語の習得は大変なことも当然に思えました。
もちろん、言語を運用するにあたってのベースになるような部分は
第二言語を使う際にも応用可能でしょうから、
丸っきりイチから同じだけの時間をかけて外国語を学ぶわけではないはずです。
しかし、「英語をペラペラにしたい!」と言ったときに思い浮かべる
「ペラペラ」のレベルが、自分の日本語と同等だとすると、
そのハードルは非常に高いことになりそうです。
母国語でさえ、その能力は時間をかけた訓練の結果として磨かれています。
であれば、外国語でも近い訓練が必要になるのは自然なことかもしれません。
違うのは、母国語の場合、日常的に使う形で気づかないうちに訓練されるのに対し、
外国語の場合、意図的に訓練の状況を作らなければいけないことでしょう。
若いころに海外経験が長いと、その分、外国語の習得に必要な訓練が自然にできますが、
その一方で、その期間の日本語の訓練ができないというデメリットもある。
僕の大学の同級生で、スペインからの帰国子女がいましたが
怒るとスペイン語になるというので有名でした。
その言語を積極的に使った時間が、言語能力の向上に重要なんだろうと考えられます。
さて、自分の幼いころを思い返してみると、色々な違いが浮かんできますが
日本語の聞き取りに不自由はありませんでした。
「今、何て言ったか分からなかった」という気持ちで過ごしていたことはありません。
その理由の1つの特徴は、日本語だからだと考えられます。
日本語の音は、1文字に対応しています。
なので「ひらがな」が分かるようになれば、聞き取りは自然とできるようになります。
どういう意味か分からなくても、ひらがなで書くことはできる。
そういう状態なので、知らない言葉でも「聞く」ことはできるわけです。
それで、「今、何て言った?」という聞けなかった感じは受けなかったように思います。
とはいえ、音として聞きとれていても、中身が分かっていないということはありました。
テレビを見ていると、番組の最後に
「この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りしました」
というフレーズが聞こえてきます。
(今も言っているかは定かではありませんが…)
たぶん、小学校のある時期までだったと思いますが、
僕には「ご覧の」も「スポンサー」も、ボキャブラリーとして無かったんでしょう。
「ごらんのすぽんさーのていきょうでおおくりしました」
という音は分かっているんですが、何を意味しているのかは分かっていませんでした。
「スポンサー」という存在を知り、「ご覧の」が「見ている」の敬語だと知り、
やっと「ご覧のスポンサー」が頭の中で漢字とカタカナに変換できました。
そして、どういう単語の羅列かが掴めたとき、意味も分かったんです。
平均的な日本人の小学生は、日本語が話せると言っていいと思います。
しかし母国語であっても、分かっていないことは沢山あったはずなんです。
多分、文章の並び方とか、構造とか、発話の癖なんかで
音として日本語が聞けてはいるけれど、意味が分からない経験は沢山あったでしょう。
僕などは、今でも政治家の話が良く分かりません。
頭に入ってこない。
その意味では、外国語を習得していく過程でも
同様に「知らない単語」が様々な壁を作っていくはずです。
ボキャブラリーの重要性を感じます。
中学校、高校ぐらいになると随分と日本語が上達していた気がします。
作文なども、ある程度は偉そうな感じで書けるようになっていた。
しかし、作文の授業は大変だった記憶があります。
「原稿用紙5枚」なんて言われると悲鳴を上げそうな気分でしたから。
ところが今は、原稿用紙5枚分(2000字)なんて
一回のブログの記事で超えてしまうぐらい。
長くかけることの善し悪しではなく、自然と言葉が繋がるようになっているのは
当時よりも日本語力が上がっているからだろうと思います。
では、なぜ、そうなったのか?
大きかったのは、沢山書いたからじゃないでしょうか。
中学校の時なんて、夏休みの宿題の読書感想文や、歴史のまとめ、
修学旅行や社会科見学のあとの報告の作文ぐらいしか書いた記憶がありません。
原稿用紙数枚を、年に数回。
文章を書く行為自体が、その程度だったわけです。
まぁ、近頃の小中学生は、携帯やパソコンの進歩もあって
メールやブログ、SNSなどで文章を書く頻度が増えているかもしれませんが。
だいたい、中学校ぐらいの頃は、作文の種類も分かっていませんでした。
何を書いても感想文。
事実と気持ちを書くぐらい。
読書感想文と、歴史上の人物に関するレポートだったら内容は別物になるものでしょう。
しかし、当時は「歴史上の人物に関する本」を読んだ読書感想文でした。
社会科見学であれば、調べたことや新たに知った情報をまとめることが
その文章に求められる課題だったはずです。
にもかかわらず、「どこに行った」「何を見た」「楽しかった」という程度。
それでも成績はもらえていましたから、いい加減な授業だったんですね。
何を書いたら良いか、
どういうのが目的に沿っていて、どういうのが目的から外れているのか、
…そんなことは教わった記憶がありません。
もちろん、教わったところで書き分けられたかも分かりませんが。
とにかく、中学校ぐらいまでの日本語は、書くことに関してその程度。
聞いて理解できるボキャブラリーや、話の構造は増えていたかもしれませんが、
特に本を読んでいたわけでもないので、読む量も少なかったと記憶しています。
マンガが好きで、中学校ぐらいから「美味しんぼ」を読んでいたので
その文字量が一番多かったんじゃないかと思います。
「美味しんぼ」は1ページ当たりの文字量が多かった気がします。
あとは、塾で受験対策として勉強していた国語でしょうか。
テスト問題形式で、短い文章を読んで、時間内に問題に答える。
これは非常に役立ったと思います。
僕の読解力の訓練の基礎は、塾でやった受験勉強だと思っています。
申し訳ないですけど、学校の国語の授業は印象にさえ残っていません。
中学、高校ともに国語のテストは漢字だけ覚えて、
あとはテスト問題として初めて文章を読むような感じでした。
それで困らなかったのですから、
いかに塾でやった国語の受験勉強が重要だったかを実感します。
高校になると、古文とか漢文とかも顔を出しましたが、
これには個人的に興味がなかったので、今の日本語力への影響は小さいと判断します。
高校に入っても、国語の授業で文章を書く機会は少なかった記憶があります。
「国語表現」とかいうので作文がありましたが、毎週ですらなかった気がします。
むしろ、高校から理科のスタイルが変わりました。
物理、化学で実験をして、レポートを書く。
このレポート書きの作業が、それなりの頻度であったのを覚えています。
これはシッカリと書き方を教わって、書式に沿って書かねばならず、
かつ考察を加えたり、理論を調べたりと、ハードルが高かったものです。
ですが、これが役に立った。
「書く」という作業を強制されたおかげで、アウトプットに慣れた気がします。
おそらく、僕にとって日本語でアウトプットのトレーニングが本格化したのは
高校に入ってからじゃないでしょうか。
感想文ではない文章を練習したのは、この頃からです。
一方、相変わらず読む量は増えません。
僕は文学好きではありませんでしたから。
小説は一切読みませんでした。
その代わり、マンガです。
高校に入ると、マンガの種類が格段に広がりました。
青年誌に手を出すようになります。
なぜか僕は、「ヤング〜」の類には一切手を出さず、
その代わりに「ビッグコミック」シリーズや「モーニング」を好みました。
あとは「スーパージャンプ」。
ここでボキャブラリーと雑学が広がったと思います。
僕の好きだったマンガは文字数の多い物がほとんどで
詳しい専門知識を扱いながらも人間ドラマを描くようなものがお気に入りでした。
文学を好まなかった分、僕のイマジネーションの世界や、心情描写などは
マンガから学んだところが大きいはずです。
確か、この頃、初めて人前でプレゼンテーションをするのも経験したんです。
生物か何かの授業で、調べたことを模造紙にまとめて授業で発表。
緊張もさることながら、話がボロボロだったのを覚えています。
そして大学。
多分、僕の日本語を大きく発展させたのが大学の時期です。
最大の理由は、高頻度のレポートでした。
僕の通っていた学科は、全学科でも最もレポートが多いことで知られていて
3年生には毎週3回実験があって、毎週3本のレポートが義務付けられていました。
それに加えて、他の科目でも追加されたり。
データをまとめて、結果を考察する。
参考書から理論を調べて、結果と関連付けて考察する。
それらを全て文章化する。
こんな作業を徹底的に繰り返しましたから、それなりに慌ただしい期間でした。
それでもバイトもできていたので、今思えば大したことはなかったかもしれません。
当時は今と違って、レポートも手書きばかりでした。
黒のボールペンで書くのがルールだったので、
空になった芯が、みるみる溜まっていったものです。
指が痛かったのも懐かしいです。
そこでの訓練は、「考察する」という癖に結びついていますが、
日本語力と関連付けると、
アウトプットしながら考えを整理する
ことが身に付いたのは、このプロセスでしょう。
ここで書く訓練をした量は、僕の日本語の技術において欠かせなかったと思います。
また、読む量が増え始めたのも大学の頃。
この頃から心理学の本を読み始めました。
いわゆる心理読み物です。
精神分析の講義や心理療法の講義を取っていたので(なぜか興味があった)
そこから派生して、マンガ以外の本を読むようになりました。
しかし、まだまだ読むのは遅かったはずです。
不思議だったのは、大学で研究室に配属になったとき。
そこで再び、プレゼンテーションを経験することになります。
研究方針発表みたいなことだったと記憶しています。
3年ぶりに人前で話をする、そんな感じでした。
僕の頭の中には、高校の時の悪いイメージが残っていました。
が、やってみたら思いのほかスムーズ。
文章を読む量が増え、自分で文章を書くことを繰り返してきたからでしょうか。
数年ぶりのプレゼンは、予想よりもずっと上達していたんです。
そこから、研究室生活の中で、さらに日本語の用途が変わっていきました。
ディスカッション、質問、説明、発表。
目的をもったアウトプットの量が増えていったんです。
ディスカッションするためには、話を聞きながら考えることが必要です。
丸々受け入れるのではなく、関連付けながら話を整理して聞いていきます。
質問をするには、それまでの流れの把握と、展開の予想が必要でした。
何を、どうやって聞いたら、どんな答えが得られるか?
それを意識しながら質問をするようになりました。
意図をもった質問を心がけ始めたのは、この時期です。
説明もそうです。
仲間内の勉強とか、家庭教師とかで説明するのとは違って、
質問に答えながら説明する作業は、流れを整理しながら話す訓練になりました。
発表には、もちろん慣れが必要でしたが
この頃から、どうやって楽しんでもらうか、どうやって興味を引くか、
というのを工夫していました。
それでも大学の頃は、まだ発表の原稿を用意していた記憶があります。
後半では、用意する過程で流れを覚えて、実際には読まないで発表していましたが。
というように大学あたりで、僕のアウトプットの量が激増しました。
そして目的をもったアウトプットの習慣もつきました。
ただ、まだ読むのは今ほどではありません。
そして会社に入って研究職を始めます。
ここでも実験、報告、ディスカッション、発表を繰り返しました。
学生よりも遥かに高頻度で。
毎週の報告書提出が義務で、毎週ミーティングがありました。
グループ内で発表する機会が毎週あったわけです。
そしてディスカッションで質疑応答をする。
色々と慣れた部分は多かったですが、原稿なしで人前で話す、という作業が
当たり前になったのは会社に入ってからでした。
慣れてくると、色々な遊びもできるようになりました。
落語のマクラのように、関係なさそうな話から本題につなげる、
なんていう発表スタイルも試したり。
その会社は宴会好きだったので、人前で笑いを取るために工夫していたのも
この時期がピークだったと思います。
言葉を手段として使って、色々な成果を引き出すような訓練をしていたわけです。
また、会社にいる頃から本を多量に読み始めました。
毎週末に本を買い込み、それを読んでばかりいました。
お盆や正月に山口県から帰ってくると、東京で本を大量に買い込む。
そして、それを読む。
そんな繰り返しで、心理系の本を沢山読み、ビジネス書も読み始めました。
東京に転勤になってからは速読教室に通ったりもして
とにかく読むことを沢山していました。
読むことへの抵抗がなくなり、スピードが上がってきたのも
この時期から本を読む数を増やしたからだと思います。
で、現職。
セミナーをすることで、人前で話す量が増えました。
多かった時は、年間200日を超えていたはずです。
とはいえ、ここで意識的に取り組んできたことは
言語運用能力以上に繊細な内容です。
研究職としてやっていたプレゼンとは、できることが大きく変わったと実感します。
そして、質問の仕方も随分と変わりました。
繊細な言葉がけもトレーニングしました。
意図的にアウトプットする作業において、発することのできる言葉のバリエーションは
この数年間で劇的に広がったと自負しています。
話を聞く技術も、研究活動のときとは質が変わりました。
あの頃と比べると、遥かに多くのことを同時にしながら話を聞いています。
それから、書く量も増えました。
そうです、ブログです。
自分の考えを整理するためのブログが、アウトプットの訓練として有効だったと思います。
ブログを書くときの、頭の中に思考が小さな声として聞こえてくるような感覚が
話をするときにも役立っている実感がありますから。
考えが自然と繋がって出てくる感じとか、
話しながら自分の言ったことを頭の中に残しておける感じとか、
聞いた話を頭の中に保持しておける感じとか、
そういった能力が上がったのは、ブログを書き続けたからかもしれません。
僕が自慢できるのは、振り返ってみたときに
ある時期に集中的な訓練をしていた
ということです。
結構、日本語を上達させるための努力をしていたみたいです。
かなり無自覚なままで。
仮に僕が、今からオーストラリアに移住して、
会話の頻度が少ない仕事をしながら生活をしたとします。
日常生活で交わす会話以外に、集中的に英語を使わずに
英語圏で数年間から数十年の生活をしたと仮定するわけです。
すると多分、相手が何を言っているのかは分かるようになってくるでしょう。
正確な聞き取りができなくても、意味は分かるという感じにはなると思います。
そして挨拶とか、道案内とか、買い物とか、
「昨日はどこに行って、何を食べて、どうだった」とか
そういう話もできるようにはなっていくと思います。
しかし、何年その生活を続けたとして、いつまで経っても
僕は日本語と同じレベルで英語を使えるようにはならないんじゃないかと思うんです。
僕が日本語と同じレベルで外国語を使いこなそうと思ったら、
日本語と同じまでの訓練ではなくても、ある程度の質と量を
外国語でやる必要があるように思えました。
少なくとも、外国語で本を読み、外国語でディスカッションをし、
外国語でプレゼンをし、外国語で文章を書き、外国語でカウンセリングをする、
という訓練をしないことには、追いつかないだろうと感じます。
なかなか大変な道筋です。
最近、ふと振り返ってみました。
多分、そこには色々な進展の段階があったと思います。
まぁ、誰しも小学校の頃の自分が話していた日本語と
今、自分が使っている日本語が同じレベルだとは思わないでしょう。
小学校の頃の作文なんて、懐かしさを感じるよりも
気恥かしさが上回ってしまって読めたもんではなかったり。
振り返ってみると、徐々に技能を身につけていたんだなぁと感じます。
何十年もかけて言語運用能力を上げてきたのだとすると
外国語の習得は大変なことも当然に思えました。
もちろん、言語を運用するにあたってのベースになるような部分は
第二言語を使う際にも応用可能でしょうから、
丸っきりイチから同じだけの時間をかけて外国語を学ぶわけではないはずです。
しかし、「英語をペラペラにしたい!」と言ったときに思い浮かべる
「ペラペラ」のレベルが、自分の日本語と同等だとすると、
そのハードルは非常に高いことになりそうです。
母国語でさえ、その能力は時間をかけた訓練の結果として磨かれています。
であれば、外国語でも近い訓練が必要になるのは自然なことかもしれません。
違うのは、母国語の場合、日常的に使う形で気づかないうちに訓練されるのに対し、
外国語の場合、意図的に訓練の状況を作らなければいけないことでしょう。
若いころに海外経験が長いと、その分、外国語の習得に必要な訓練が自然にできますが、
その一方で、その期間の日本語の訓練ができないというデメリットもある。
僕の大学の同級生で、スペインからの帰国子女がいましたが
怒るとスペイン語になるというので有名でした。
その言語を積極的に使った時間が、言語能力の向上に重要なんだろうと考えられます。
さて、自分の幼いころを思い返してみると、色々な違いが浮かんできますが
日本語の聞き取りに不自由はありませんでした。
「今、何て言ったか分からなかった」という気持ちで過ごしていたことはありません。
その理由の1つの特徴は、日本語だからだと考えられます。
日本語の音は、1文字に対応しています。
なので「ひらがな」が分かるようになれば、聞き取りは自然とできるようになります。
どういう意味か分からなくても、ひらがなで書くことはできる。
そういう状態なので、知らない言葉でも「聞く」ことはできるわけです。
それで、「今、何て言った?」という聞けなかった感じは受けなかったように思います。
とはいえ、音として聞きとれていても、中身が分かっていないということはありました。
テレビを見ていると、番組の最後に
「この番組は、ご覧のスポンサーの提供でお送りしました」
というフレーズが聞こえてきます。
(今も言っているかは定かではありませんが…)
たぶん、小学校のある時期までだったと思いますが、
僕には「ご覧の」も「スポンサー」も、ボキャブラリーとして無かったんでしょう。
「ごらんのすぽんさーのていきょうでおおくりしました」
という音は分かっているんですが、何を意味しているのかは分かっていませんでした。
「スポンサー」という存在を知り、「ご覧の」が「見ている」の敬語だと知り、
やっと「ご覧のスポンサー」が頭の中で漢字とカタカナに変換できました。
そして、どういう単語の羅列かが掴めたとき、意味も分かったんです。
平均的な日本人の小学生は、日本語が話せると言っていいと思います。
しかし母国語であっても、分かっていないことは沢山あったはずなんです。
多分、文章の並び方とか、構造とか、発話の癖なんかで
音として日本語が聞けてはいるけれど、意味が分からない経験は沢山あったでしょう。
僕などは、今でも政治家の話が良く分かりません。
頭に入ってこない。
その意味では、外国語を習得していく過程でも
同様に「知らない単語」が様々な壁を作っていくはずです。
ボキャブラリーの重要性を感じます。
中学校、高校ぐらいになると随分と日本語が上達していた気がします。
作文なども、ある程度は偉そうな感じで書けるようになっていた。
しかし、作文の授業は大変だった記憶があります。
「原稿用紙5枚」なんて言われると悲鳴を上げそうな気分でしたから。
ところが今は、原稿用紙5枚分(2000字)なんて
一回のブログの記事で超えてしまうぐらい。
長くかけることの善し悪しではなく、自然と言葉が繋がるようになっているのは
当時よりも日本語力が上がっているからだろうと思います。
では、なぜ、そうなったのか?
大きかったのは、沢山書いたからじゃないでしょうか。
中学校の時なんて、夏休みの宿題の読書感想文や、歴史のまとめ、
修学旅行や社会科見学のあとの報告の作文ぐらいしか書いた記憶がありません。
原稿用紙数枚を、年に数回。
文章を書く行為自体が、その程度だったわけです。
まぁ、近頃の小中学生は、携帯やパソコンの進歩もあって
メールやブログ、SNSなどで文章を書く頻度が増えているかもしれませんが。
だいたい、中学校ぐらいの頃は、作文の種類も分かっていませんでした。
何を書いても感想文。
事実と気持ちを書くぐらい。
読書感想文と、歴史上の人物に関するレポートだったら内容は別物になるものでしょう。
しかし、当時は「歴史上の人物に関する本」を読んだ読書感想文でした。
社会科見学であれば、調べたことや新たに知った情報をまとめることが
その文章に求められる課題だったはずです。
にもかかわらず、「どこに行った」「何を見た」「楽しかった」という程度。
それでも成績はもらえていましたから、いい加減な授業だったんですね。
何を書いたら良いか、
どういうのが目的に沿っていて、どういうのが目的から外れているのか、
…そんなことは教わった記憶がありません。
もちろん、教わったところで書き分けられたかも分かりませんが。
とにかく、中学校ぐらいまでの日本語は、書くことに関してその程度。
聞いて理解できるボキャブラリーや、話の構造は増えていたかもしれませんが、
特に本を読んでいたわけでもないので、読む量も少なかったと記憶しています。
マンガが好きで、中学校ぐらいから「美味しんぼ」を読んでいたので
その文字量が一番多かったんじゃないかと思います。
「美味しんぼ」は1ページ当たりの文字量が多かった気がします。
あとは、塾で受験対策として勉強していた国語でしょうか。
テスト問題形式で、短い文章を読んで、時間内に問題に答える。
これは非常に役立ったと思います。
僕の読解力の訓練の基礎は、塾でやった受験勉強だと思っています。
申し訳ないですけど、学校の国語の授業は印象にさえ残っていません。
中学、高校ともに国語のテストは漢字だけ覚えて、
あとはテスト問題として初めて文章を読むような感じでした。
それで困らなかったのですから、
いかに塾でやった国語の受験勉強が重要だったかを実感します。
高校になると、古文とか漢文とかも顔を出しましたが、
これには個人的に興味がなかったので、今の日本語力への影響は小さいと判断します。
高校に入っても、国語の授業で文章を書く機会は少なかった記憶があります。
「国語表現」とかいうので作文がありましたが、毎週ですらなかった気がします。
むしろ、高校から理科のスタイルが変わりました。
物理、化学で実験をして、レポートを書く。
このレポート書きの作業が、それなりの頻度であったのを覚えています。
これはシッカリと書き方を教わって、書式に沿って書かねばならず、
かつ考察を加えたり、理論を調べたりと、ハードルが高かったものです。
ですが、これが役に立った。
「書く」という作業を強制されたおかげで、アウトプットに慣れた気がします。
おそらく、僕にとって日本語でアウトプットのトレーニングが本格化したのは
高校に入ってからじゃないでしょうか。
感想文ではない文章を練習したのは、この頃からです。
一方、相変わらず読む量は増えません。
僕は文学好きではありませんでしたから。
小説は一切読みませんでした。
その代わり、マンガです。
高校に入ると、マンガの種類が格段に広がりました。
青年誌に手を出すようになります。
なぜか僕は、「ヤング〜」の類には一切手を出さず、
その代わりに「ビッグコミック」シリーズや「モーニング」を好みました。
あとは「スーパージャンプ」。
ここでボキャブラリーと雑学が広がったと思います。
僕の好きだったマンガは文字数の多い物がほとんどで
詳しい専門知識を扱いながらも人間ドラマを描くようなものがお気に入りでした。
文学を好まなかった分、僕のイマジネーションの世界や、心情描写などは
マンガから学んだところが大きいはずです。
確か、この頃、初めて人前でプレゼンテーションをするのも経験したんです。
生物か何かの授業で、調べたことを模造紙にまとめて授業で発表。
緊張もさることながら、話がボロボロだったのを覚えています。
そして大学。
多分、僕の日本語を大きく発展させたのが大学の時期です。
最大の理由は、高頻度のレポートでした。
僕の通っていた学科は、全学科でも最もレポートが多いことで知られていて
3年生には毎週3回実験があって、毎週3本のレポートが義務付けられていました。
それに加えて、他の科目でも追加されたり。
データをまとめて、結果を考察する。
参考書から理論を調べて、結果と関連付けて考察する。
それらを全て文章化する。
こんな作業を徹底的に繰り返しましたから、それなりに慌ただしい期間でした。
それでもバイトもできていたので、今思えば大したことはなかったかもしれません。
当時は今と違って、レポートも手書きばかりでした。
黒のボールペンで書くのがルールだったので、
空になった芯が、みるみる溜まっていったものです。
指が痛かったのも懐かしいです。
そこでの訓練は、「考察する」という癖に結びついていますが、
日本語力と関連付けると、
アウトプットしながら考えを整理する
ことが身に付いたのは、このプロセスでしょう。
ここで書く訓練をした量は、僕の日本語の技術において欠かせなかったと思います。
また、読む量が増え始めたのも大学の頃。
この頃から心理学の本を読み始めました。
いわゆる心理読み物です。
精神分析の講義や心理療法の講義を取っていたので(なぜか興味があった)
そこから派生して、マンガ以外の本を読むようになりました。
しかし、まだまだ読むのは遅かったはずです。
不思議だったのは、大学で研究室に配属になったとき。
そこで再び、プレゼンテーションを経験することになります。
研究方針発表みたいなことだったと記憶しています。
3年ぶりに人前で話をする、そんな感じでした。
僕の頭の中には、高校の時の悪いイメージが残っていました。
が、やってみたら思いのほかスムーズ。
文章を読む量が増え、自分で文章を書くことを繰り返してきたからでしょうか。
数年ぶりのプレゼンは、予想よりもずっと上達していたんです。
そこから、研究室生活の中で、さらに日本語の用途が変わっていきました。
ディスカッション、質問、説明、発表。
目的をもったアウトプットの量が増えていったんです。
ディスカッションするためには、話を聞きながら考えることが必要です。
丸々受け入れるのではなく、関連付けながら話を整理して聞いていきます。
質問をするには、それまでの流れの把握と、展開の予想が必要でした。
何を、どうやって聞いたら、どんな答えが得られるか?
それを意識しながら質問をするようになりました。
意図をもった質問を心がけ始めたのは、この時期です。
説明もそうです。
仲間内の勉強とか、家庭教師とかで説明するのとは違って、
質問に答えながら説明する作業は、流れを整理しながら話す訓練になりました。
発表には、もちろん慣れが必要でしたが
この頃から、どうやって楽しんでもらうか、どうやって興味を引くか、
というのを工夫していました。
それでも大学の頃は、まだ発表の原稿を用意していた記憶があります。
後半では、用意する過程で流れを覚えて、実際には読まないで発表していましたが。
というように大学あたりで、僕のアウトプットの量が激増しました。
そして目的をもったアウトプットの習慣もつきました。
ただ、まだ読むのは今ほどではありません。
そして会社に入って研究職を始めます。
ここでも実験、報告、ディスカッション、発表を繰り返しました。
学生よりも遥かに高頻度で。
毎週の報告書提出が義務で、毎週ミーティングがありました。
グループ内で発表する機会が毎週あったわけです。
そしてディスカッションで質疑応答をする。
色々と慣れた部分は多かったですが、原稿なしで人前で話す、という作業が
当たり前になったのは会社に入ってからでした。
慣れてくると、色々な遊びもできるようになりました。
落語のマクラのように、関係なさそうな話から本題につなげる、
なんていう発表スタイルも試したり。
その会社は宴会好きだったので、人前で笑いを取るために工夫していたのも
この時期がピークだったと思います。
言葉を手段として使って、色々な成果を引き出すような訓練をしていたわけです。
また、会社にいる頃から本を多量に読み始めました。
毎週末に本を買い込み、それを読んでばかりいました。
お盆や正月に山口県から帰ってくると、東京で本を大量に買い込む。
そして、それを読む。
そんな繰り返しで、心理系の本を沢山読み、ビジネス書も読み始めました。
東京に転勤になってからは速読教室に通ったりもして
とにかく読むことを沢山していました。
読むことへの抵抗がなくなり、スピードが上がってきたのも
この時期から本を読む数を増やしたからだと思います。
で、現職。
セミナーをすることで、人前で話す量が増えました。
多かった時は、年間200日を超えていたはずです。
とはいえ、ここで意識的に取り組んできたことは
言語運用能力以上に繊細な内容です。
研究職としてやっていたプレゼンとは、できることが大きく変わったと実感します。
そして、質問の仕方も随分と変わりました。
繊細な言葉がけもトレーニングしました。
意図的にアウトプットする作業において、発することのできる言葉のバリエーションは
この数年間で劇的に広がったと自負しています。
話を聞く技術も、研究活動のときとは質が変わりました。
あの頃と比べると、遥かに多くのことを同時にしながら話を聞いています。
それから、書く量も増えました。
そうです、ブログです。
自分の考えを整理するためのブログが、アウトプットの訓練として有効だったと思います。
ブログを書くときの、頭の中に思考が小さな声として聞こえてくるような感覚が
話をするときにも役立っている実感がありますから。
考えが自然と繋がって出てくる感じとか、
話しながら自分の言ったことを頭の中に残しておける感じとか、
聞いた話を頭の中に保持しておける感じとか、
そういった能力が上がったのは、ブログを書き続けたからかもしれません。
僕が自慢できるのは、振り返ってみたときに
ある時期に集中的な訓練をしていた
ということです。
結構、日本語を上達させるための努力をしていたみたいです。
かなり無自覚なままで。
仮に僕が、今からオーストラリアに移住して、
会話の頻度が少ない仕事をしながら生活をしたとします。
日常生活で交わす会話以外に、集中的に英語を使わずに
英語圏で数年間から数十年の生活をしたと仮定するわけです。
すると多分、相手が何を言っているのかは分かるようになってくるでしょう。
正確な聞き取りができなくても、意味は分かるという感じにはなると思います。
そして挨拶とか、道案内とか、買い物とか、
「昨日はどこに行って、何を食べて、どうだった」とか
そういう話もできるようにはなっていくと思います。
しかし、何年その生活を続けたとして、いつまで経っても
僕は日本語と同じレベルで英語を使えるようにはならないんじゃないかと思うんです。
僕が日本語と同じレベルで外国語を使いこなそうと思ったら、
日本語と同じまでの訓練ではなくても、ある程度の質と量を
外国語でやる必要があるように思えました。
少なくとも、外国語で本を読み、外国語でディスカッションをし、
外国語でプレゼンをし、外国語で文章を書き、外国語でカウンセリングをする、
という訓練をしないことには、追いつかないだろうと感じます。
なかなか大変な道筋です。