2011年09月26日
自分の気持ちの意図を知る
自覚して何かをする、というのは難しいものですが、
こんなに大切なことはないと思います。
僕がセミナーやワークショップをするにあたって
トレーナーとしてのスーパーバイズを受けていたとき、
耳にタコができるぐらい言われ続けていたのが、このことでした。
自分が無自覚にやっていることが受講生に影響している。
それを自覚して直しなさい、と。
自分の口癖や、姿勢・動作の癖などが全てインストールされるから
責任を持って振る舞うようにと指導されていたんだと思います。
単純に「こうやりなさい」「ここに気をつけなさい」ではなく
「どういう影響が出ているかを考えなさい」だったと記憶しています。
「こうやってやるのが正しい」「プレゼンは、こうやるものだ」と
決めつけてやっている場合には、また無自覚になっていきます。
「正しいことをやっている」というスタンスが与える影響があるわけです。
「正しいことをするのが、正しい」と、言葉以外の部分でメッセージを伝えている。
そこに大きな影響があるということです。
逆にいえば、世間一般で「良くない」とされていることでも
それを自覚して行えば、何かのメッセージを持つこともあります。
僕がセミナーに参加したことのある外国人トレーナーの中には
かなりハチャメチャな人がいました。
リチャード・バンドラーや、その弟子であるオーウェン・フィッツパトリックなどは
典型的なハチャメチャぶりを見せることがあります。
オーウェンは、受講生に対しては効果的なプレゼンの方法を伝えるのに
それを自分ではやっていないときが多かったものです。
テーブルに座って話をしたり、アイコンタクトを取らないで下を向いていたり。
手に持っているホワイトボード用のマーカーをいじっていたり、
ペンを投げ上げながら話をしたりすることもありました。
プレゼンテーションの教室に行ったら怒られるようなものばかりでしょう。
それを無自覚にやっているとしたら問題があるかもしれません。
しかし、日本人の受講生の多くは真面目です。
講座中に話を聞くときも真面目です。
真剣なのは良いんです。
しかし、「こうしなければいけない」「こうすべきだ」という姿勢が
何かを学ぶ場合にさえ「勉強とは、こうやってするものだ」という
無自覚なままの決めつけを生み、柔軟性を奪っている可能性があります。
それに対して、言葉で「真面目になり過ぎずに、楽しみながらリラックスして」
なんて言われると、今度はそれが「正しい」と思いこみ始める。
そうやって教育を受けてしまうと、自分がトレーナーをやるときには
「学びはリラックスして楽しんでやりましょう」などと強調するようになり、
過剰なまでにリラックスと楽しさを強要するようになったりします。
真剣に考えたい人や、なんとか自分の課題を解決したくて参加する人には
居心地の悪い空間を作ってしまいかねないわけです。
真面目なものだから、リラックスすることに真面目になるんです。
柔軟性を大事にしようとして、柔軟であることに固執してしまったり。
大事なことを言葉で伝えると、こういうリスクが生まれます。
一生懸命に意識的に心がけるあまり、ジレンマに陥ってしまう。
それよりも、トレーナー自身が態度で影響を与えていくと
なんとなく適当な感じを伝えていくことができるんじゃないでしょうか。
言葉にせずに、全体に緩い雰囲気を作る。
リラックスしてくださいと言わずに、リラックスしてしまう雰囲気を作る。
その場にいるだけで、凝り固まっていた考えが緩み
「こうすべきである」という思い込みが減っていくような効果。
そうしたものを狙うために、意図的に振る舞っているとしたら
一般的にはハチャメチャで良しとされない態度であっても
自覚しながらすることで意味のあるものになるはずです。
どんなに「良い」とされている振る舞いでも、正しいわけではないんです。
ある場面においては役に立つけれど、それが裏目に出る場合もある。
だからこそ、自分がしていることに自覚できるようになって
目的とするコミュニケーションのために自分で選択できると望ましいでしょう。
ルールやモラル、マナーのようなものでも同様だと思います。
そこには意図があるんです。
何かの場面で、有効に機能するように込められていた意図があったはずです。
それを「正しい」こととして取り入れてしまうと、
その意図が失われてしまいやすいんです。
僕が食事をしにいく店で、丁寧なサービスをしているところがあります。
いたって普通のチェーン店ですが、ホールマネージャーの教育で
接客のマニュアルにアレンジが加わっているんでしょう。
他店舗では行われていないことがマニュアルになっているようです。
そのうちの1つに、木製のスプーンを出すことが挙げられます。
お箸では食べにくい可能性がある食べ物に関しては
最初からスプーンとお箸を一緒につけて出す、というルール。
元々は別メニューのために用意されているスプーンだと思います。
でも、食べにくい人のために、と最初から出すことにしたんでしょう。
「スプーンがあると良いなぁ」と思っても、それを言う人が全員ではありませんから。
そのアイデアを出した人がいて、それがマニュアルとして採用された。
この段階でルールになったと言えます。
そして、意図が失われた。
ルールを守るだけのアルバイトは、作業の意図に自覚がありません。
決められたことだからしているだけなんでしょう。
そのスプーンは全店舗共通のマニュアルでは無いでしょうから
スプーンを出すときのための「物」レベルでの対策はなされていません。
お箸であれば、箸袋という「物」のレベルで、清潔感を維持できます。
スプーンには、そうした「物」レベルの対応がないために
「作業」レベルで同様の清潔感を出そうとしていたんだと思います。
少なくとも、サービスのアイデアを出し、マニュアル化した人は
その意図を持っていたはずだと推測できます。
スプーンは、紙ナプキンと一緒に出されます。
一応、紙ナプキンの上にスプーンが置かれる形がマニュアルのようです。
意図が分かっている数名の店員は、そのスプーンが確実に紙の上にあって
直接スプーンがテーブルに触れることのないように注意して置きます。
一方、ルールに従うだけで、意図を分かっていない店員は
紙ナプキンと一緒にスプーンを出すだけで、スプーンが紙から離れ
テーブルに触れていても気にする素振りさえ見せません。
個人的には、スプーンを使いませんから気にはしていませんが、
そのアイデアを出した人の心意気が伝わっていないのは残念に感じます。
どんな行動でも、発想でも、その背後にある意図を自覚できているかどうかで
意味が全く別物になっていくと思うんです。
特に人間関係では、自分の行動や気持ちの裏側にある意図は
かなり自覚しにくいものだろうと思います。
なんでこんな気持ちになるのか?
今、自分がこんな話をしているのは、どんな意図があるのか?
こういう態度を取っているのは何を期待しているからなのか?
そんなことさえ考えないほうが普通だと思います。
それを考えようとしても、なかなか自覚できるものではない。
ですが、自分にとって大事なもののときほど、
その背後にある意図を知っておくことが大切な気がします。
僕が「貢献」という言葉を好まない理由は、
その単語を使うと注意が他人に向くところにあります。
自分の本心に注意が向きづらくなるんです。
結果として、自分が貢献しようとすることの意図に無自覚になる。
自覚していれば、もっと素直に、好きなこととしてできるものが
決まり事になってしまったりもするでしょう。
「相手から感謝されるのが好き」「人の笑顔を見るのが好き」
「皆から注目されるのが好き」「他人から尊敬されるのが好き」
…どんな理由であっても、「〜が好きだから」という意図が明確ならば
堂々とそれをすれば良いと思うんです。
その気持ちを覆い隠すように「貢献」なんていう言葉で飾る必要はないでしょう。
貢献するとか役に立つというのは、手段です。
目的は、その先にあると思います。
こんなに大切なことはないと思います。
僕がセミナーやワークショップをするにあたって
トレーナーとしてのスーパーバイズを受けていたとき、
耳にタコができるぐらい言われ続けていたのが、このことでした。
自分が無自覚にやっていることが受講生に影響している。
それを自覚して直しなさい、と。
自分の口癖や、姿勢・動作の癖などが全てインストールされるから
責任を持って振る舞うようにと指導されていたんだと思います。
単純に「こうやりなさい」「ここに気をつけなさい」ではなく
「どういう影響が出ているかを考えなさい」だったと記憶しています。
「こうやってやるのが正しい」「プレゼンは、こうやるものだ」と
決めつけてやっている場合には、また無自覚になっていきます。
「正しいことをやっている」というスタンスが与える影響があるわけです。
「正しいことをするのが、正しい」と、言葉以外の部分でメッセージを伝えている。
そこに大きな影響があるということです。
逆にいえば、世間一般で「良くない」とされていることでも
それを自覚して行えば、何かのメッセージを持つこともあります。
僕がセミナーに参加したことのある外国人トレーナーの中には
かなりハチャメチャな人がいました。
リチャード・バンドラーや、その弟子であるオーウェン・フィッツパトリックなどは
典型的なハチャメチャぶりを見せることがあります。
オーウェンは、受講生に対しては効果的なプレゼンの方法を伝えるのに
それを自分ではやっていないときが多かったものです。
テーブルに座って話をしたり、アイコンタクトを取らないで下を向いていたり。
手に持っているホワイトボード用のマーカーをいじっていたり、
ペンを投げ上げながら話をしたりすることもありました。
プレゼンテーションの教室に行ったら怒られるようなものばかりでしょう。
それを無自覚にやっているとしたら問題があるかもしれません。
しかし、日本人の受講生の多くは真面目です。
講座中に話を聞くときも真面目です。
真剣なのは良いんです。
しかし、「こうしなければいけない」「こうすべきだ」という姿勢が
何かを学ぶ場合にさえ「勉強とは、こうやってするものだ」という
無自覚なままの決めつけを生み、柔軟性を奪っている可能性があります。
それに対して、言葉で「真面目になり過ぎずに、楽しみながらリラックスして」
なんて言われると、今度はそれが「正しい」と思いこみ始める。
そうやって教育を受けてしまうと、自分がトレーナーをやるときには
「学びはリラックスして楽しんでやりましょう」などと強調するようになり、
過剰なまでにリラックスと楽しさを強要するようになったりします。
真剣に考えたい人や、なんとか自分の課題を解決したくて参加する人には
居心地の悪い空間を作ってしまいかねないわけです。
真面目なものだから、リラックスすることに真面目になるんです。
柔軟性を大事にしようとして、柔軟であることに固執してしまったり。
大事なことを言葉で伝えると、こういうリスクが生まれます。
一生懸命に意識的に心がけるあまり、ジレンマに陥ってしまう。
それよりも、トレーナー自身が態度で影響を与えていくと
なんとなく適当な感じを伝えていくことができるんじゃないでしょうか。
言葉にせずに、全体に緩い雰囲気を作る。
リラックスしてくださいと言わずに、リラックスしてしまう雰囲気を作る。
その場にいるだけで、凝り固まっていた考えが緩み
「こうすべきである」という思い込みが減っていくような効果。
そうしたものを狙うために、意図的に振る舞っているとしたら
一般的にはハチャメチャで良しとされない態度であっても
自覚しながらすることで意味のあるものになるはずです。
どんなに「良い」とされている振る舞いでも、正しいわけではないんです。
ある場面においては役に立つけれど、それが裏目に出る場合もある。
だからこそ、自分がしていることに自覚できるようになって
目的とするコミュニケーションのために自分で選択できると望ましいでしょう。
ルールやモラル、マナーのようなものでも同様だと思います。
そこには意図があるんです。
何かの場面で、有効に機能するように込められていた意図があったはずです。
それを「正しい」こととして取り入れてしまうと、
その意図が失われてしまいやすいんです。
僕が食事をしにいく店で、丁寧なサービスをしているところがあります。
いたって普通のチェーン店ですが、ホールマネージャーの教育で
接客のマニュアルにアレンジが加わっているんでしょう。
他店舗では行われていないことがマニュアルになっているようです。
そのうちの1つに、木製のスプーンを出すことが挙げられます。
お箸では食べにくい可能性がある食べ物に関しては
最初からスプーンとお箸を一緒につけて出す、というルール。
元々は別メニューのために用意されているスプーンだと思います。
でも、食べにくい人のために、と最初から出すことにしたんでしょう。
「スプーンがあると良いなぁ」と思っても、それを言う人が全員ではありませんから。
そのアイデアを出した人がいて、それがマニュアルとして採用された。
この段階でルールになったと言えます。
そして、意図が失われた。
ルールを守るだけのアルバイトは、作業の意図に自覚がありません。
決められたことだからしているだけなんでしょう。
そのスプーンは全店舗共通のマニュアルでは無いでしょうから
スプーンを出すときのための「物」レベルでの対策はなされていません。
お箸であれば、箸袋という「物」のレベルで、清潔感を維持できます。
スプーンには、そうした「物」レベルの対応がないために
「作業」レベルで同様の清潔感を出そうとしていたんだと思います。
少なくとも、サービスのアイデアを出し、マニュアル化した人は
その意図を持っていたはずだと推測できます。
スプーンは、紙ナプキンと一緒に出されます。
一応、紙ナプキンの上にスプーンが置かれる形がマニュアルのようです。
意図が分かっている数名の店員は、そのスプーンが確実に紙の上にあって
直接スプーンがテーブルに触れることのないように注意して置きます。
一方、ルールに従うだけで、意図を分かっていない店員は
紙ナプキンと一緒にスプーンを出すだけで、スプーンが紙から離れ
テーブルに触れていても気にする素振りさえ見せません。
個人的には、スプーンを使いませんから気にはしていませんが、
そのアイデアを出した人の心意気が伝わっていないのは残念に感じます。
どんな行動でも、発想でも、その背後にある意図を自覚できているかどうかで
意味が全く別物になっていくと思うんです。
特に人間関係では、自分の行動や気持ちの裏側にある意図は
かなり自覚しにくいものだろうと思います。
なんでこんな気持ちになるのか?
今、自分がこんな話をしているのは、どんな意図があるのか?
こういう態度を取っているのは何を期待しているからなのか?
そんなことさえ考えないほうが普通だと思います。
それを考えようとしても、なかなか自覚できるものではない。
ですが、自分にとって大事なもののときほど、
その背後にある意図を知っておくことが大切な気がします。
僕が「貢献」という言葉を好まない理由は、
その単語を使うと注意が他人に向くところにあります。
自分の本心に注意が向きづらくなるんです。
結果として、自分が貢献しようとすることの意図に無自覚になる。
自覚していれば、もっと素直に、好きなこととしてできるものが
決まり事になってしまったりもするでしょう。
「相手から感謝されるのが好き」「人の笑顔を見るのが好き」
「皆から注目されるのが好き」「他人から尊敬されるのが好き」
…どんな理由であっても、「〜が好きだから」という意図が明確ならば
堂々とそれをすれば良いと思うんです。
その気持ちを覆い隠すように「貢献」なんていう言葉で飾る必要はないでしょう。
貢献するとか役に立つというのは、手段です。
目的は、その先にあると思います。