2011年09月29日
間を取り持つ作業
最近、諸事情が重なってデスクワークが多いです。
これまでにも資料作りや、文章を書くことはありましたが
最近増えてきているのは、英文翻訳のチェック。
自分で資料を作る作業は、もちろん図の形やデザインを考えたり、
補足する文章を考えたりと、手を動かしていない時間もあります。
記事のような形でテーマを決めて文章を書くときも
ある程度は頭の中で思考を巡らせます。
まぁ、文章の場合には、言語化せずに情報を探って繋げて
中心的なところが決まった感じがしたら書き始める、という形ですから
ものすごく考えているという気分ではありません。
もっと「産みの苦しみ」みたいな印象が強いでしょうか。
「書くことが決まらん…」と悶々とした時間を過ごす傾向があります。
文章の場合には、書けそうな気がしてきたら手を動かし始め
あとは出てくるのに任せてキーボードを打つ感じになります。
とはいえ、やはりキーボードを打っている最中も
頭を使っている気分というのは続きます。
知らないうちに時間が流れていく…という気分ではなく
かなり意識を開いて、沢山の労力をパソコンに向けている実感があります。
なので、いつのまにか5時間も6時間も経っている、なんてことはなく
2、3時間もすれば随分と消耗してしまうのが感じられます。
その点、資料作りのほうが作業を進めている気分が強いですから
頭を回転させている印象は薄まります。
僕にとって、「作業」と感じられる時間と、
「頭を使う」と感じられる時間が両方あるんです。
そして、時間の経過が早く感じられ、かつ長時間パソコンに向かってられるのは
作業と頭を使うのと両方をやる資料作りのほうなんです。
始めるまでは、頭を使って工夫している時間があって少し苦しいんですが
一度、手を動かし始めれば後は苦しさを感じることは滅多にありません。
学生時代や研究職時代に、論文や報告書を書いていた時の状態は
今の資料作りの感じに近かった気がします。
それに対して、最近やっている英文翻訳のチェックは、
「作業」の度合いが非常に高い。
「頭を使ってる」という感じが少ないんです。
まぁ、元の内容を自分で考えていませんから、
著者の言いたいことを忠実に日本語へ変換しようと努めるぐらい。
もちろん、単調でつまらない作業というほどではありません。
頭は使っているはずです。
ただ、その度合いが小さいみたいです。
色々と気をつけることはありますから配慮はしています。
英語の文章を読んでいる時よりも、自然な日本語にしようということで
能動的な度合いは高まります。
その頭を使っている度合いは、研究の頃に照らし合わせると
実験で手を動かしているとに近い感じがします。
やることは決まっている。
それなりに注意することもある。
でも、基本的には「作業」。
同じことの繰り返しではないので飽きることはありませんが
自分で何かを生み出すときのような頭の使い方はないので
労力としての負担は小さいみたいです。
なので、長時間続けられます。
資料作りよりも長時間続けていられるんです。
刺激の量が適度なんでしょうね。
なかなか進まないもどかしさは感じますが
反面、気づくと時間が経っているという状態。
意外と悪くないと思っています。
難点は、物理的に時間を取られてしまうこと。
文章を書くときや資料を作るときは、ずっと手を動かすわけではなく
頭を働かせている時間もありますから、時間の調節もしやすいんです。
気分転換のように他のことをしながら、頭のどこかでアイデアを練る。
そんなこともしています。
ですから、ブログを書いたり、食事をしたり、本を読んだり…
と、ある程度の時間をまとめることができていました。
それが、作業の比率が高くなると難しくなります。
締め切りがあったりすれば、もう仕方なく時間を費やすしかない。
この感じはチョット新鮮というか、どこか懐かしいというか。
実験で手を動かしていたとき、スケジュールが立て込んでくると
流れ作業のように曜日や朝夜関係なく作業をしていたものです。
なんだか、そのときのような「そこそこ楽しい作業を続けている」
気分に近いものを味わっています。
ということで、基本的には嫌じゃないんですが…。
翻訳『チェック』のはずなのに、半ば『添削』になっているのが
心中複雑なところです。
プロの翻訳チームに出して帰ってきたものを、
専門用語をベースにチェックすることになっているんです。
確かに、そういう用語の問題で修正するところもあります。
が、文法的に滅茶苦茶だったり、
文章の構成として意味が通ってないのに平気で放置されていたり、
英語として読めていないとしか思えない日本語訳があったり…。
職業としてやっているはずなのに、いささか疑問が沸くことがあります。
多分、何人かで手分けしているんでしょう。
綺麗な日本語にしようとしている人もいます。
一方で、明らかに変な癖があって、毎回同じ『間違い』をしている人もいます。
ハッキリ言いますが、『間違い』なんです。
訳す時の問題か、英語力の問題か、日本語力の問題か、
英語のテストだったら、「バツ」がつきます。
英語圏の国語としての「 English 」のテストでも不正解でしょう。
なので、翻訳「チェック」なんて気軽な気分ではありません。
専門用語でも何でもないところでオカシイんです。
ある程度は、著者の意図に近い形になっていて欲しいものですが…。
想像していたのは、
訳された日本語を読んでみて、用語として奇妙なところをチェック、
元の意味が想像できなければ英文に戻って修正する
ぐらいのつもりでした。
が、実際の作業は、
まず英語を読み、書かれている日本語と照らし合わせ
元の意味と違うものになっていないかをチェック、
その過程で気になる用語を修正する
という感じ。
元の英語を読まずに流せる状況ではなくなってきました。
きっと忙しい状況で細かく読まずに訳したんだと思います。
見直したりする時間もなかったんでしょう。
あとで考えるつもりだったところを残しておいたら、
忘れてしまって、文章になってないところもできてしまったんでしょう。
日本語になったものを読む人には、元の文章は分かりませんし、
著者の意図も、伝えられている情報の確かさも、知るすべはありません。
無視してしまったって誰にも知られることはないかもしれません。
でも、僕は、著者と日本人読者との間に偶然入ってしまったので
それを無視するわけにはいかない気持ちになっています。
これを書いた人がどんな気持ちで、どんな労力を注いだのか。
これを読む人が、どんな思いで手に取るのか。
その両方を思えば、間にいるからこそ丁寧にやりたいことがあります。
多分、僕は宅配便の配達の仕事をしても、
荷物を無駄に丁寧に運んでしまうんだろうと思いました。
これまでにも資料作りや、文章を書くことはありましたが
最近増えてきているのは、英文翻訳のチェック。
自分で資料を作る作業は、もちろん図の形やデザインを考えたり、
補足する文章を考えたりと、手を動かしていない時間もあります。
記事のような形でテーマを決めて文章を書くときも
ある程度は頭の中で思考を巡らせます。
まぁ、文章の場合には、言語化せずに情報を探って繋げて
中心的なところが決まった感じがしたら書き始める、という形ですから
ものすごく考えているという気分ではありません。
もっと「産みの苦しみ」みたいな印象が強いでしょうか。
「書くことが決まらん…」と悶々とした時間を過ごす傾向があります。
文章の場合には、書けそうな気がしてきたら手を動かし始め
あとは出てくるのに任せてキーボードを打つ感じになります。
とはいえ、やはりキーボードを打っている最中も
頭を使っている気分というのは続きます。
知らないうちに時間が流れていく…という気分ではなく
かなり意識を開いて、沢山の労力をパソコンに向けている実感があります。
なので、いつのまにか5時間も6時間も経っている、なんてことはなく
2、3時間もすれば随分と消耗してしまうのが感じられます。
その点、資料作りのほうが作業を進めている気分が強いですから
頭を回転させている印象は薄まります。
僕にとって、「作業」と感じられる時間と、
「頭を使う」と感じられる時間が両方あるんです。
そして、時間の経過が早く感じられ、かつ長時間パソコンに向かってられるのは
作業と頭を使うのと両方をやる資料作りのほうなんです。
始めるまでは、頭を使って工夫している時間があって少し苦しいんですが
一度、手を動かし始めれば後は苦しさを感じることは滅多にありません。
学生時代や研究職時代に、論文や報告書を書いていた時の状態は
今の資料作りの感じに近かった気がします。
それに対して、最近やっている英文翻訳のチェックは、
「作業」の度合いが非常に高い。
「頭を使ってる」という感じが少ないんです。
まぁ、元の内容を自分で考えていませんから、
著者の言いたいことを忠実に日本語へ変換しようと努めるぐらい。
もちろん、単調でつまらない作業というほどではありません。
頭は使っているはずです。
ただ、その度合いが小さいみたいです。
色々と気をつけることはありますから配慮はしています。
英語の文章を読んでいる時よりも、自然な日本語にしようということで
能動的な度合いは高まります。
その頭を使っている度合いは、研究の頃に照らし合わせると
実験で手を動かしているとに近い感じがします。
やることは決まっている。
それなりに注意することもある。
でも、基本的には「作業」。
同じことの繰り返しではないので飽きることはありませんが
自分で何かを生み出すときのような頭の使い方はないので
労力としての負担は小さいみたいです。
なので、長時間続けられます。
資料作りよりも長時間続けていられるんです。
刺激の量が適度なんでしょうね。
なかなか進まないもどかしさは感じますが
反面、気づくと時間が経っているという状態。
意外と悪くないと思っています。
難点は、物理的に時間を取られてしまうこと。
文章を書くときや資料を作るときは、ずっと手を動かすわけではなく
頭を働かせている時間もありますから、時間の調節もしやすいんです。
気分転換のように他のことをしながら、頭のどこかでアイデアを練る。
そんなこともしています。
ですから、ブログを書いたり、食事をしたり、本を読んだり…
と、ある程度の時間をまとめることができていました。
それが、作業の比率が高くなると難しくなります。
締め切りがあったりすれば、もう仕方なく時間を費やすしかない。
この感じはチョット新鮮というか、どこか懐かしいというか。
実験で手を動かしていたとき、スケジュールが立て込んでくると
流れ作業のように曜日や朝夜関係なく作業をしていたものです。
なんだか、そのときのような「そこそこ楽しい作業を続けている」
気分に近いものを味わっています。
ということで、基本的には嫌じゃないんですが…。
翻訳『チェック』のはずなのに、半ば『添削』になっているのが
心中複雑なところです。
プロの翻訳チームに出して帰ってきたものを、
専門用語をベースにチェックすることになっているんです。
確かに、そういう用語の問題で修正するところもあります。
が、文法的に滅茶苦茶だったり、
文章の構成として意味が通ってないのに平気で放置されていたり、
英語として読めていないとしか思えない日本語訳があったり…。
職業としてやっているはずなのに、いささか疑問が沸くことがあります。
多分、何人かで手分けしているんでしょう。
綺麗な日本語にしようとしている人もいます。
一方で、明らかに変な癖があって、毎回同じ『間違い』をしている人もいます。
ハッキリ言いますが、『間違い』なんです。
訳す時の問題か、英語力の問題か、日本語力の問題か、
英語のテストだったら、「バツ」がつきます。
英語圏の国語としての「 English 」のテストでも不正解でしょう。
なので、翻訳「チェック」なんて気軽な気分ではありません。
専門用語でも何でもないところでオカシイんです。
ある程度は、著者の意図に近い形になっていて欲しいものですが…。
想像していたのは、
訳された日本語を読んでみて、用語として奇妙なところをチェック、
元の意味が想像できなければ英文に戻って修正する
ぐらいのつもりでした。
が、実際の作業は、
まず英語を読み、書かれている日本語と照らし合わせ
元の意味と違うものになっていないかをチェック、
その過程で気になる用語を修正する
という感じ。
元の英語を読まずに流せる状況ではなくなってきました。
きっと忙しい状況で細かく読まずに訳したんだと思います。
見直したりする時間もなかったんでしょう。
あとで考えるつもりだったところを残しておいたら、
忘れてしまって、文章になってないところもできてしまったんでしょう。
日本語になったものを読む人には、元の文章は分かりませんし、
著者の意図も、伝えられている情報の確かさも、知るすべはありません。
無視してしまったって誰にも知られることはないかもしれません。
でも、僕は、著者と日本人読者との間に偶然入ってしまったので
それを無視するわけにはいかない気持ちになっています。
これを書いた人がどんな気持ちで、どんな労力を注いだのか。
これを読む人が、どんな思いで手に取るのか。
その両方を思えば、間にいるからこそ丁寧にやりたいことがあります。
多分、僕は宅配便の配達の仕事をしても、
荷物を無駄に丁寧に運んでしまうんだろうと思いました。
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この記事へのコメント
1. Posted by 金澤 2011年10月07日 11:59
前のサッカー日本代表監督オシム氏の通訳(芽が出なかったけれど東欧のチームにいた元プロサッカー選手)が書いていたことを思い出しました。
そのまま日本語に置き換える作業ではなく、オシムの意図・価値観・考え方のパターンから「今伝えたいこと」を聞き手に伝わる言語・非言語で伝えるのが通訳のしごとだと。
モデリング・ペーシングした結果を、本人に代わって伝えたい相手にフィードバックする…ということになりましょうか。
練習中に「なぜアイディアを出さない!」と叫んだオシムの言葉を聞いて、通訳がボールを出したりしたこともあるそうです。
常に予測外のことに対応できるアイディアを作り上げるのが練習の意図だったわけで、通訳の彼はオシムの言葉を日本語に置き換えて叫ぶ代わりに、コーチングスタッフでもない人がボールを蹴り入れるという想定外を起こすということで表したわけです。
…翻訳って深いですね。
そのまま日本語に置き換える作業ではなく、オシムの意図・価値観・考え方のパターンから「今伝えたいこと」を聞き手に伝わる言語・非言語で伝えるのが通訳のしごとだと。
モデリング・ペーシングした結果を、本人に代わって伝えたい相手にフィードバックする…ということになりましょうか。
練習中に「なぜアイディアを出さない!」と叫んだオシムの言葉を聞いて、通訳がボールを出したりしたこともあるそうです。
常に予測外のことに対応できるアイディアを作り上げるのが練習の意図だったわけで、通訳の彼はオシムの言葉を日本語に置き換えて叫ぶ代わりに、コーチングスタッフでもない人がボールを蹴り入れるという想定外を起こすということで表したわけです。
…翻訳って深いですね。