2012年02月01日
心理学と心理療法と化学
心理学を改めて勉強しようとして、見えてきたことがあります。
キッカケは、二人の別の講師から講義を聞いた時でした。
一人は、いわゆる研究者としての心理学者で博士号を持っていて…という人。
なので心理学一般を勉強しているし、心理学っぽい実験で論文も書いています。
「人って一般に、こんな感じかも…」と印象を受けたことから仮説を立て、
その仮説を証明するように、統計を中心とした実験をするわけです。
もう一方は、スクール・カウンセラーの人。
バックグラウンドは「サイコ・ダイナミクス(精神力動)」と言っていましたから
フロイト以降の流れをベースにはしているようでした。
実際、講義の中でもスライドに色々な写真を出して、
そこから自由連想法でディスカッションをさせたりしていましたし。
まぁ、僕の場合は、全く自由連想にならないんだと実感しましたが。
一枚、トラの顔写真を見せられて、どんな気持ちだと思うか?と聞かれたときは
もう単純に観察として、表情を読みとり、心情を察しようとしていました。
見せられた絵に対して、自分の思いを投影して話を作る、という作業を
排除する訓練をしてきた結果なのかもしれません。
それはさておき、そうしたバックグラウンドで、
実際にカウンセリングをしてきた人ですから、着眼点は「心理学者」とは違います。
一人ひとりに目が行くわけです。
話を聞いていると、それほど精神分析を徹底的に使っているわけではなさそうで、
実際には、ごく一般に想像されるような「話を聞く」タイプのカウンセリングのようです。
ただ、その理解の仕方の理論的背景が精神力動的になっている、と。
その発想は、古くから語られてきた説ではありますが、
反面、「どこにその根拠があるんだ?エビデンスはあるのか?と
矢面に立たされてきたものでもあります。
実際、よく言われたそうです。
しかし、そんなデータやエビデンスなど、
目の前の人の問題が解決するのには関係ない。
…そういうスタンスで、目の前の人の人生と向き合っている人でした。
ですから、同じ心理系であっても、スタンスは
心理学者と心理臨床家では間逆にさえ思えるわけです。
で、言うまでもなく、僕は「目の前の一人ひとり」に意識がいくほうです。
(二人の講師の説明の比率を振り返っても、それを示唆しているようです)
なので、心意気とか、話し方とか、着眼点とか、価値観とか、
そういった様々な部分で、カウンセラーの人の話のほうが入ってきやすいんです。
同時に、僕が今まで受けてきた心理系のセミナーやワークショップの講師は
ほぼ全員が、臨床寄りであって、心理学者ではなかったんだと実感しました。
バックグラウンドの違いが、こんなにも話の違いに表れるのかと、驚くほどです。
であれば、僕も目の前のクライアントが良くなりさえすれば
その理論に根拠があろうがなかろうが関係ないのか…というと
必ずしもそうではないんです。
目の前の人を理解するのが大事。
だからこそ、
『一人ひとりの違いに合わせて、全員を別々に説明できる』統一した理論
が僕にとっては重要なんです。
それは言い換えると、全ての人の振る舞いの根底にあるもの、でもあります。
全てに共通する要素があって、それの組み合わせで個人を説明する。
その組み合わせの作られ方は、生まれ持っている要素の量の違いと、
育ってきた過程で受けてきた影響の違いによって、変わってくる。
なので、個人の違いは前提にしながらも、その違いを生み出しているベースとして
「この要素の組み合わせが違うから」と説明できるようにしたいんです。
この発想は、多分、僕が化学を好きだったことと共通していると思います。
物理や数学ではないんです。
生物でもない。
厳密に分けるのは難しいぐらいオーバーラップするところがありますし、
逆に言えば、そうやって重なる部分があるからこそ
科学は全ての情報を同じ土台で評価できるとも言えます。
数学的に処理をするというのは、まさにその代表でしょう。
数学のルールで記述できることは、科学の中では「正しい」ことになるんです。
数学や物理は、全般的に仮説が先にあって、
それを証明する方向のように僕には思えます。
実際にやっている人からすると違う印象かもしれませんが、
少なくとも僕が化学を選んだときの理由には、その印象が含まれていましたし、
僕が化学をやった後から、自分の知っている物理や数学を見ると
化学と比べると「先に仮説があって、それを証明する」方向性が感じられます。
ただ、数学では、その証明を数学の言葉を使って論理的に説明するのに対して、
物理は、そこに観測や実験が加わってくる感じでしょうか。
現象を数式で記述して理論を作り、結果を予測して、その通りになるかを実験する、と。
記述できることと、結果を予測できることは現実的には違うようですが、
それでも数学を使って記述できれば理論としては成立するわけです。
ところが、心理学になると事情が違います。
心理学も同じように、先に仮説があります。
多分、こういう傾向があるだろう、と。
だから実際に、人がそうやっているかを調べてみましょう、とやるわけです。
ところが、この実験のプロセスが非常に曖昧。
その実験では、その仮説には結びつかないだろう…というのが沢山あります。
他の要素も関わっているはずなのに、そこは無視している。
まぁ、物理でも化学でも一部を無視することはやります。
「ただし、摩擦は無視することにします」
「ただし、完全弾性とします」
「ただし、気体は理想状態とします」
そんな風に、考え方のステップとして、理想的な状態で考え始める。
現実との違いを踏まえたうえで、理想を考えます。
ただ、物理や化学では、その先に進んで
現実との違いを数式に込めるように努力をしていくんです。
でも心理学はやりません。
無視してオシマイ。
やっている実態は、傾向を見て、それを統計的に調べるだけ。
「なんか世の中を見ていると、こんな傾向がある気がする。
多分、こういう理由なんだろうな。
実際に条件を整えて、データを取ってみよう。
…
うーん、微妙な数字だけど、統計的には違いがあると言っていいようだ。
ということは、仮説は正しかったんだ」
その仮説がピッタリ収まることはないはずなんです。
人を全体的に調べていったら個人差が含まれてきますから。
なので、その個人差を仮説に含められたら良いんですが、
そこまで踏み込んでいくことは滅多になく、実際は統計的に処理をすることになる。
大袈裟に言ってしまえば
「なんかさぁ、北海道って東京より寒くない?
実際に気温を測ってみようか。
やっぱり一年の気温の推移を比べると、北海道のほうが寒いね。
北極は氷に包まれているんだから、北に行くほうが寒いんだろう。
北海道は北にあるから、それで東京より寒いんだ!」
ぐらいのことにも感じてしまうんです。
その点、化学はモノの構成要素に目を向けます。
原子があって、分子があって…。
これと、それがくっつくと、こういう性質になる。
物理のほうが、モノとモノの関係を扱う傾向がありますが、
化学は、モノをそのものに目を向け、モノがどう成り立っているかを考えるんです。
元素と呼ばれる要素があって、元素はもっと小さな粒の組み合わせでできていて、
もっと小さな粒の集まり方で、それぞれの元素の性質の違いが生まれている。
その性質の違う粒がどう集まるかで、できあがるモノの性質も違うし、
その元素の性質の違いによって、どういった変化が起きるかも決まる。
小さな要素が色々あって、それが組み合わさったらどうなるか?
そこを予測できるようにしている理論が化学とも言えそうです。
で、僕は、この発想で人の心の仕組みも説明できると思っていて、
その鍵になるのがNLPのサブモダリティなんです。
サブモダリティという小さな要素がどうやって組み合わさると
どういう性質のプログラムが生まれるのか。
それが理解できれば、反応も予測できるし、違う要素を混ぜて
”化学反応”を起こせば、違った”モノ”に変えることもできる。
そうやって、一人ひとりを別々の存在として、
共通する要素を使って説明しておきたいんです。
僕の中には、人の心を理解しようとしてきたプロセスでも
化学の発想と似たようなものをベースとしているところがあるようです。
逆にいえば、そういう発想が好きだったから、
化学に興味を持ったし、心もそうやって理解しようとしているのかもしれません。
僕がこのように、要素の組み合わせで物事を理解したい理由の1つは
応用がしやすい、というところにあります。
物質を化学式で説明できると、化学反応の予想ができて
必要な物質を作り出すことができるのと同じように、
目の前の人を要素の組み合わせで説明できれば
必要な変化を作り出すための手順も予想できるようになる。
そして、その作業をすれば、変化を起こすこともできる。
そういった応用の視点が僕の中に存在していることに気づきました。
実際、僕は「化学科」ではなくて「応用化学科」を選んだわけですが、
そこにも、ただ現象を理解して説明して終わり…ではなくて、
「だったら、こうしたら、こういう風に役に立つんじゃないか?」
という実社会への応用の視点がセットになっていたんです。
ここでもやっぱり、心を理解して、役に立てたい気持ちと繋がります。
僕が「心理学者」よりも「心理臨床家」に共鳴しやすいのは
その応用に対する視点じゃないかと思ったわけです。
「心理学者」は応用を考えているように僕には思えませんでした。
「へー、そういうことが分かったんだ。それで?」
僕の気持ちの中には、「何の役に立つの?」というツッコミが飛び交っています。
だから、臨床に向いている人が、一人ひとりの人生に役立てようと
目の前の一人のために一生懸命になる姿に惹かれるんだと思います。
ですが、ここでも、「役に立ちさえすれば理論や根拠はどうでもいい」
というスタンスには、僕は同意するつもりになれません。
精神分析でアプローチをしようが、行動療法でアプローチをしようが
結果的にクライアントの問題が解決すれば、それで良い…
その目標設定自体は素晴らしいと思いますが、
僕はもう1つ、効率も一緒に考えたいようなんです。
仮に、「過去のトラウマがあって、それが問題を引き起こしているから
そのトラウマを解消するワークをすれば問題が解決する」
という発想でクライアントと接したとします。
その理論の正しさとか、それ以外にも理由があるんじゃないかとか、
そういったことは抜きにして、とりあえずワークをしてみたら上手くいったとします。
そのセラピストからすると、
「トラウマがあったから、トラウマ解消のワークをしたことで、問題が解決した」
という説明になるんだと思います。
しかし、同時に他の理論的立場をとる人たちは
別の説明の仕方をして問題を説明し、別の解決のアプローチを使おうとするでしょう。
もしかすると、
「トラウマ解消と言っているが、そのワークをした影響で
日常の行動が、こういう風に変わったから、そっちの効果で変化したんだ」
と別の理論的説明をする人もいるかもしれません。
結果が出ればそれで良いし、色々な説明の仕方があってもそれで良い、と
そう考える人も沢山いるんだろうと思います。
ですが僕のスタンスでは、色々な理論を人の心の要素の組み合わせとして説明して、
1つの台の上に並べて同様に扱えるようにしたいんです。
原則的には、最少の要素の組み合わせで目の前の人の現状を理解して、
そのためにアプローチできる色々な手法を選択できるようにしたいわけです。
つまり、それぞれの理論、それぞれのアプローチが
何に対して効果を発揮しているのかを理解できていれば、
同じように結果を出すための方法として沢山の選択肢を持っておける、ということです。
そうなったら、その相手にとって一番合う方法を選べます。
自分の好みとか、自分の得意・不得意ではなく、相手に合う方法を選べる。
それが一人ひとりにとって、最も効率的に結果を生み出せると思うんです。
なんでもかんでも1つの理論で説明して、1つのアプローチをしようとしても
上手くいかない事態が出てくる可能性があります。
逆に、「理論はいらない、上手くいきさえすれば良い」と対応しても
思考錯誤で時間がかかってしまう可能性もあります。
だからこそ、そうではなくて、
『最も効果的な可能性が高い方法を選べるようになる説明の仕方』
ができるようになっておきたいわけです。
化学の中にも「化学工学」という分野があります。
実際に工業化するにあたって、いかに数値化して、いかに効率を上げるか
ということを扱っていきます。
工業化には、不確定で予測もつかないような現象が混ざりあってきますから、
全部を説明できなくても、とにかく効率を一番高める方法を調べる
というアプローチも重要なんです。
中身の分からない箱、ブラックボックスを、分からないままで
上手く使いこなすように調査をしていく学問だと僕は捉えています。
でも、これも僕の性分には合いませんでした。
僕はブラックボックスの中身を全部解き明かしたいほうです。
なので、人の心も説明できる状態でアプローチしたいんでしょう。
「ブラックボックスのままでもいいじゃないか、
理論なんてどうだっていいじゃないか、
結果さえ出せれば」
そういう発想で臨床に当たるのも、僕には少し寂しいんです。
一方、ブラックボックスの中身をコツコツと解き明かして
それを工業に応用しようというスタンスが「工業化学」と呼ばれる場合があります。
解き明かすまでにはコツコツと時間がかかるけれど
一度、調べがつけば、その情報は幅広く応用が利く。
そういった関わり方だと言えそうです。
人の心を見ていても、僕のスタンスはそっちに近い気がします。
「心の工業化学」が、僕の基本的な立場になりそうです。
その裏側には、理解したい気持ちがあるのも事実ですが、
それよりも、少しでも無駄を減らしたいんです。
人生は限られていますから。
僕は、少しでも早く解決に近づいたほうが良いと思っています。
長く悩んだことも、後から振り返れば良かったと思えるものだとは考えていますが、
それでも僕にとっては有限の時間を大切に使えるほうが重要です。
だから、紆余曲折があったけど結果を出せて良かったですね、
とは言いたくないんです。
問題を解決した本人が言うんなら良いですが、
援助する側の人間が言うことじゃないと思います。
その人自身がやりたいことのために使える時間を長くできるように、
多くのことを説明できる方法が必要なんです。
そして、それはどうやら
心理学と心理療法の間ぐらいにありそうな気がしています。
キッカケは、二人の別の講師から講義を聞いた時でした。
一人は、いわゆる研究者としての心理学者で博士号を持っていて…という人。
なので心理学一般を勉強しているし、心理学っぽい実験で論文も書いています。
「人って一般に、こんな感じかも…」と印象を受けたことから仮説を立て、
その仮説を証明するように、統計を中心とした実験をするわけです。
もう一方は、スクール・カウンセラーの人。
バックグラウンドは「サイコ・ダイナミクス(精神力動)」と言っていましたから
フロイト以降の流れをベースにはしているようでした。
実際、講義の中でもスライドに色々な写真を出して、
そこから自由連想法でディスカッションをさせたりしていましたし。
まぁ、僕の場合は、全く自由連想にならないんだと実感しましたが。
一枚、トラの顔写真を見せられて、どんな気持ちだと思うか?と聞かれたときは
もう単純に観察として、表情を読みとり、心情を察しようとしていました。
見せられた絵に対して、自分の思いを投影して話を作る、という作業を
排除する訓練をしてきた結果なのかもしれません。
それはさておき、そうしたバックグラウンドで、
実際にカウンセリングをしてきた人ですから、着眼点は「心理学者」とは違います。
一人ひとりに目が行くわけです。
話を聞いていると、それほど精神分析を徹底的に使っているわけではなさそうで、
実際には、ごく一般に想像されるような「話を聞く」タイプのカウンセリングのようです。
ただ、その理解の仕方の理論的背景が精神力動的になっている、と。
その発想は、古くから語られてきた説ではありますが、
反面、「どこにその根拠があるんだ?エビデンスはあるのか?と
矢面に立たされてきたものでもあります。
実際、よく言われたそうです。
しかし、そんなデータやエビデンスなど、
目の前の人の問題が解決するのには関係ない。
…そういうスタンスで、目の前の人の人生と向き合っている人でした。
ですから、同じ心理系であっても、スタンスは
心理学者と心理臨床家では間逆にさえ思えるわけです。
で、言うまでもなく、僕は「目の前の一人ひとり」に意識がいくほうです。
(二人の講師の説明の比率を振り返っても、それを示唆しているようです)
なので、心意気とか、話し方とか、着眼点とか、価値観とか、
そういった様々な部分で、カウンセラーの人の話のほうが入ってきやすいんです。
同時に、僕が今まで受けてきた心理系のセミナーやワークショップの講師は
ほぼ全員が、臨床寄りであって、心理学者ではなかったんだと実感しました。
バックグラウンドの違いが、こんなにも話の違いに表れるのかと、驚くほどです。
であれば、僕も目の前のクライアントが良くなりさえすれば
その理論に根拠があろうがなかろうが関係ないのか…というと
必ずしもそうではないんです。
目の前の人を理解するのが大事。
だからこそ、
『一人ひとりの違いに合わせて、全員を別々に説明できる』統一した理論
が僕にとっては重要なんです。
それは言い換えると、全ての人の振る舞いの根底にあるもの、でもあります。
全てに共通する要素があって、それの組み合わせで個人を説明する。
その組み合わせの作られ方は、生まれ持っている要素の量の違いと、
育ってきた過程で受けてきた影響の違いによって、変わってくる。
なので、個人の違いは前提にしながらも、その違いを生み出しているベースとして
「この要素の組み合わせが違うから」と説明できるようにしたいんです。
この発想は、多分、僕が化学を好きだったことと共通していると思います。
物理や数学ではないんです。
生物でもない。
厳密に分けるのは難しいぐらいオーバーラップするところがありますし、
逆に言えば、そうやって重なる部分があるからこそ
科学は全ての情報を同じ土台で評価できるとも言えます。
数学的に処理をするというのは、まさにその代表でしょう。
数学のルールで記述できることは、科学の中では「正しい」ことになるんです。
数学や物理は、全般的に仮説が先にあって、
それを証明する方向のように僕には思えます。
実際にやっている人からすると違う印象かもしれませんが、
少なくとも僕が化学を選んだときの理由には、その印象が含まれていましたし、
僕が化学をやった後から、自分の知っている物理や数学を見ると
化学と比べると「先に仮説があって、それを証明する」方向性が感じられます。
ただ、数学では、その証明を数学の言葉を使って論理的に説明するのに対して、
物理は、そこに観測や実験が加わってくる感じでしょうか。
現象を数式で記述して理論を作り、結果を予測して、その通りになるかを実験する、と。
記述できることと、結果を予測できることは現実的には違うようですが、
それでも数学を使って記述できれば理論としては成立するわけです。
ところが、心理学になると事情が違います。
心理学も同じように、先に仮説があります。
多分、こういう傾向があるだろう、と。
だから実際に、人がそうやっているかを調べてみましょう、とやるわけです。
ところが、この実験のプロセスが非常に曖昧。
その実験では、その仮説には結びつかないだろう…というのが沢山あります。
他の要素も関わっているはずなのに、そこは無視している。
まぁ、物理でも化学でも一部を無視することはやります。
「ただし、摩擦は無視することにします」
「ただし、完全弾性とします」
「ただし、気体は理想状態とします」
そんな風に、考え方のステップとして、理想的な状態で考え始める。
現実との違いを踏まえたうえで、理想を考えます。
ただ、物理や化学では、その先に進んで
現実との違いを数式に込めるように努力をしていくんです。
でも心理学はやりません。
無視してオシマイ。
やっている実態は、傾向を見て、それを統計的に調べるだけ。
「なんか世の中を見ていると、こんな傾向がある気がする。
多分、こういう理由なんだろうな。
実際に条件を整えて、データを取ってみよう。
…
うーん、微妙な数字だけど、統計的には違いがあると言っていいようだ。
ということは、仮説は正しかったんだ」
その仮説がピッタリ収まることはないはずなんです。
人を全体的に調べていったら個人差が含まれてきますから。
なので、その個人差を仮説に含められたら良いんですが、
そこまで踏み込んでいくことは滅多になく、実際は統計的に処理をすることになる。
大袈裟に言ってしまえば
「なんかさぁ、北海道って東京より寒くない?
実際に気温を測ってみようか。
やっぱり一年の気温の推移を比べると、北海道のほうが寒いね。
北極は氷に包まれているんだから、北に行くほうが寒いんだろう。
北海道は北にあるから、それで東京より寒いんだ!」
ぐらいのことにも感じてしまうんです。
その点、化学はモノの構成要素に目を向けます。
原子があって、分子があって…。
これと、それがくっつくと、こういう性質になる。
物理のほうが、モノとモノの関係を扱う傾向がありますが、
化学は、モノをそのものに目を向け、モノがどう成り立っているかを考えるんです。
元素と呼ばれる要素があって、元素はもっと小さな粒の組み合わせでできていて、
もっと小さな粒の集まり方で、それぞれの元素の性質の違いが生まれている。
その性質の違う粒がどう集まるかで、できあがるモノの性質も違うし、
その元素の性質の違いによって、どういった変化が起きるかも決まる。
小さな要素が色々あって、それが組み合わさったらどうなるか?
そこを予測できるようにしている理論が化学とも言えそうです。
で、僕は、この発想で人の心の仕組みも説明できると思っていて、
その鍵になるのがNLPのサブモダリティなんです。
サブモダリティという小さな要素がどうやって組み合わさると
どういう性質のプログラムが生まれるのか。
それが理解できれば、反応も予測できるし、違う要素を混ぜて
”化学反応”を起こせば、違った”モノ”に変えることもできる。
そうやって、一人ひとりを別々の存在として、
共通する要素を使って説明しておきたいんです。
僕の中には、人の心を理解しようとしてきたプロセスでも
化学の発想と似たようなものをベースとしているところがあるようです。
逆にいえば、そういう発想が好きだったから、
化学に興味を持ったし、心もそうやって理解しようとしているのかもしれません。
僕がこのように、要素の組み合わせで物事を理解したい理由の1つは
応用がしやすい、というところにあります。
物質を化学式で説明できると、化学反応の予想ができて
必要な物質を作り出すことができるのと同じように、
目の前の人を要素の組み合わせで説明できれば
必要な変化を作り出すための手順も予想できるようになる。
そして、その作業をすれば、変化を起こすこともできる。
そういった応用の視点が僕の中に存在していることに気づきました。
実際、僕は「化学科」ではなくて「応用化学科」を選んだわけですが、
そこにも、ただ現象を理解して説明して終わり…ではなくて、
「だったら、こうしたら、こういう風に役に立つんじゃないか?」
という実社会への応用の視点がセットになっていたんです。
ここでもやっぱり、心を理解して、役に立てたい気持ちと繋がります。
僕が「心理学者」よりも「心理臨床家」に共鳴しやすいのは
その応用に対する視点じゃないかと思ったわけです。
「心理学者」は応用を考えているように僕には思えませんでした。
「へー、そういうことが分かったんだ。それで?」
僕の気持ちの中には、「何の役に立つの?」というツッコミが飛び交っています。
だから、臨床に向いている人が、一人ひとりの人生に役立てようと
目の前の一人のために一生懸命になる姿に惹かれるんだと思います。
ですが、ここでも、「役に立ちさえすれば理論や根拠はどうでもいい」
というスタンスには、僕は同意するつもりになれません。
精神分析でアプローチをしようが、行動療法でアプローチをしようが
結果的にクライアントの問題が解決すれば、それで良い…
その目標設定自体は素晴らしいと思いますが、
僕はもう1つ、効率も一緒に考えたいようなんです。
仮に、「過去のトラウマがあって、それが問題を引き起こしているから
そのトラウマを解消するワークをすれば問題が解決する」
という発想でクライアントと接したとします。
その理論の正しさとか、それ以外にも理由があるんじゃないかとか、
そういったことは抜きにして、とりあえずワークをしてみたら上手くいったとします。
そのセラピストからすると、
「トラウマがあったから、トラウマ解消のワークをしたことで、問題が解決した」
という説明になるんだと思います。
しかし、同時に他の理論的立場をとる人たちは
別の説明の仕方をして問題を説明し、別の解決のアプローチを使おうとするでしょう。
もしかすると、
「トラウマ解消と言っているが、そのワークをした影響で
日常の行動が、こういう風に変わったから、そっちの効果で変化したんだ」
と別の理論的説明をする人もいるかもしれません。
結果が出ればそれで良いし、色々な説明の仕方があってもそれで良い、と
そう考える人も沢山いるんだろうと思います。
ですが僕のスタンスでは、色々な理論を人の心の要素の組み合わせとして説明して、
1つの台の上に並べて同様に扱えるようにしたいんです。
原則的には、最少の要素の組み合わせで目の前の人の現状を理解して、
そのためにアプローチできる色々な手法を選択できるようにしたいわけです。
つまり、それぞれの理論、それぞれのアプローチが
何に対して効果を発揮しているのかを理解できていれば、
同じように結果を出すための方法として沢山の選択肢を持っておける、ということです。
そうなったら、その相手にとって一番合う方法を選べます。
自分の好みとか、自分の得意・不得意ではなく、相手に合う方法を選べる。
それが一人ひとりにとって、最も効率的に結果を生み出せると思うんです。
なんでもかんでも1つの理論で説明して、1つのアプローチをしようとしても
上手くいかない事態が出てくる可能性があります。
逆に、「理論はいらない、上手くいきさえすれば良い」と対応しても
思考錯誤で時間がかかってしまう可能性もあります。
だからこそ、そうではなくて、
『最も効果的な可能性が高い方法を選べるようになる説明の仕方』
ができるようになっておきたいわけです。
化学の中にも「化学工学」という分野があります。
実際に工業化するにあたって、いかに数値化して、いかに効率を上げるか
ということを扱っていきます。
工業化には、不確定で予測もつかないような現象が混ざりあってきますから、
全部を説明できなくても、とにかく効率を一番高める方法を調べる
というアプローチも重要なんです。
中身の分からない箱、ブラックボックスを、分からないままで
上手く使いこなすように調査をしていく学問だと僕は捉えています。
でも、これも僕の性分には合いませんでした。
僕はブラックボックスの中身を全部解き明かしたいほうです。
なので、人の心も説明できる状態でアプローチしたいんでしょう。
「ブラックボックスのままでもいいじゃないか、
理論なんてどうだっていいじゃないか、
結果さえ出せれば」
そういう発想で臨床に当たるのも、僕には少し寂しいんです。
一方、ブラックボックスの中身をコツコツと解き明かして
それを工業に応用しようというスタンスが「工業化学」と呼ばれる場合があります。
解き明かすまでにはコツコツと時間がかかるけれど
一度、調べがつけば、その情報は幅広く応用が利く。
そういった関わり方だと言えそうです。
人の心を見ていても、僕のスタンスはそっちに近い気がします。
「心の工業化学」が、僕の基本的な立場になりそうです。
その裏側には、理解したい気持ちがあるのも事実ですが、
それよりも、少しでも無駄を減らしたいんです。
人生は限られていますから。
僕は、少しでも早く解決に近づいたほうが良いと思っています。
長く悩んだことも、後から振り返れば良かったと思えるものだとは考えていますが、
それでも僕にとっては有限の時間を大切に使えるほうが重要です。
だから、紆余曲折があったけど結果を出せて良かったですね、
とは言いたくないんです。
問題を解決した本人が言うんなら良いですが、
援助する側の人間が言うことじゃないと思います。
その人自身がやりたいことのために使える時間を長くできるように、
多くのことを説明できる方法が必要なんです。
そして、それはどうやら
心理学と心理療法の間ぐらいにありそうな気がしています。