2012年02月11日
体の奥から眺めてみる
NHK『コロンビア白熱教室』でおなじみの、
コロンビア大学ビジネススクール教授、シーナ・アイエンガーは
病気で視力を失った盲目の人気教授だそうです。
写真は何度も見たことがありましたが、先日
始めてテレビ番組として動画で見る機会がありました。
以前から「盲目の人気教授」ということで書店では本を見かけていましたし、
その写真を目にすることも多かったんですが、
詳しいことは調べていませんでした。
ただ、写真から見ても眼球が少し下を向いているような気はしていました。
それでテレビを見て、その眼球が動くこともあるのに気づき、
また「目を閉じている」ようにも見えたのも印象的でした。
しぐさからしても、「見る」経験をしていた時期があっただろうと推測していました。
で、ウィキペディアで調べてみると、
なんでも先天性の網膜の病気で、時間経過とともに視力が落ちていったそうです。
字が読めなくなって、最終的には光を認識できるだけになった、と。
現時点で光を感じているのかどうかは記述がありませんが、
あの「目を閉じている」印象からすると、もしかすると今も
少しは光を感じることはできるのかもしれません。
動画として見て、特に僕が印象に残ったのは
シーナ・アイエンガーの声です。
かなり特徴的で、鼻にかかった高い声をしています。
ずっとその声だったのか、視力の低下とともに声が変わったかは分かりません。
ですが、彼女の声と顔の角度、眼球の向きを考慮すると
彼女の物事の考え方や、人生観、知的な理解の度合いが
「視力を失った」ということと密接にかかわっていることが伺えます。
もちろん、出来事として人生観に影響を与えるのは自然なことでしょう。
大きな喪失感があるはずです。
個人的な話として、僕は視力を失うことへの恐怖が物凄く”強かった”ものです。
(今は変わりましたけど)
…そういえば、箱根のワークショップで、
「急に視力を失った人を演じてください」
とトレーナーから指示をされたこともありましたね。
それで、シーナ・アイエンガーの人生観や考え方との関係というのは、
もっと生理的というか、その感覚器官の使い方の話なんです。
なんというか、意識の中心というか、意識の主体というか、
「どこから世界を認識しているか」という場所が鼻の奥ぐらい、
つまり頭部の内側に小さな点を中心に存在している感じに見えます。
一般的に目を開けて、外の世界を見ている人の場合、
世界との境界は体の表面に意識されやすいものです。
目の付いている場所から外を見ている。
当たり前に思うかもしれませんが、
見ている主体が存在する場所は、目の前後にあるわけです。
人によっては目よりも外側、つまり顔の前の数cmの空間ぐらいから
その奥の空間を認識しているようなこともあれば、
眼球の後ろ側・だいたい網膜の辺りから、
眼球の厚み分も感じ取りつつ、目から先の空間も感じ取る人もいると思います。
ロボットの操縦席に載っているようなイメージで言うと、
操縦席のフロントガラスがどこにあるかの違いです。
顔の前の空間から、という人は、喩えると
自分の体のまま操縦席に座っていて、
目の前の1mもいかないところに操縦席のフロントガラスがある感じ。
一方、眼球の後ろ側あたりから、という人は、
ロボットっていうよりは、ヘルメットをかぶっている感じか
ぬいぐるみを着ている感じに近いかもしれません。
等身大の人形を着こんで、その目の位置から外を見ている感じ。
ところが、シーナ・アイエンガーは、もっと奥にいるように感じられたんです。
小さな乗組員が自分の体の中にいて、
その人が、鼻から喉に繋がる辺りの場所にいるイメージです。
目を閉じていますし、視力を使っていませんから
真っ暗な体の中から、暗い壁を眺めているような。
なので、意識の中心が平均よりもずっと奥にあるように思えたんです。
少し後ろのほうから全てを認知している感じ。
「小さい」と言ったのは、感じ取っている情報の奥が
鼻と口の間ぐらいの高さの面に集中している雰囲気からです。
少し顎を上げて、眼球を下げ気味に目を閉じていますから
注意は鼻の先端ぐらいに向かっていると思われます。
そして声も鼻の辺りで強く響いていて、音が出ていく角度も
ちょうど、その鼻先の高さから水平方向の感じ。
とにかく鼻の高さ辺りに多くの注意が集まっているように感じました。
その高さで輪切りにした頭部の奥のほうに意識の主体がいて、
そこから世の中を見ているイメージです。
これをすることによって、世の中へ積極的に働きかけようというのではなく、
出来事を少し引いた位置から眺めるように受け取ることができるんでしょう。
そして生理的な落ち着きをキープしつつ、
物事と真っ直ぐに向き合い続け、真摯に考えることができる。
そういうことが起きている印象を受けました。
まぁ、そういう育ち方をしたから、その姿勢、その状態になった可能性もありますし、
視力を失ったことで、姿勢が変わり、そのような状態が強まった可能性もあるでしょう。
いずれにせよ、彼女の現状の注意の向け方、感覚器官の使い方は、おそらく
世の中の真理に目を向け、悟ったような状態を維持しやすくしていると思います。
逆にいえば、
彼女は視力を失ったことで、その境地に行ったかもしれないし、
その素養があったから視力を失っても、その境地に辿り着くことで
安定して生きていられるのかもしれないません。
すごく大切で本質的な話をしているだろうと推測されますが、
同じことを平均的な人が日常生活レベルで実感できるかというと
それは難しいところもあるんじゃないでしょうか。
彼女の状態に近いものを生理的に実感してみたら、
考え方も納得しやすくなるかもしれないですが。
コロンビア大学ビジネススクール教授、シーナ・アイエンガーは
病気で視力を失った盲目の人気教授だそうです。
写真は何度も見たことがありましたが、先日
始めてテレビ番組として動画で見る機会がありました。
以前から「盲目の人気教授」ということで書店では本を見かけていましたし、
その写真を目にすることも多かったんですが、
詳しいことは調べていませんでした。
ただ、写真から見ても眼球が少し下を向いているような気はしていました。
それでテレビを見て、その眼球が動くこともあるのに気づき、
また「目を閉じている」ようにも見えたのも印象的でした。
しぐさからしても、「見る」経験をしていた時期があっただろうと推測していました。
で、ウィキペディアで調べてみると、
なんでも先天性の網膜の病気で、時間経過とともに視力が落ちていったそうです。
字が読めなくなって、最終的には光を認識できるだけになった、と。
現時点で光を感じているのかどうかは記述がありませんが、
あの「目を閉じている」印象からすると、もしかすると今も
少しは光を感じることはできるのかもしれません。
動画として見て、特に僕が印象に残ったのは
シーナ・アイエンガーの声です。
かなり特徴的で、鼻にかかった高い声をしています。
ずっとその声だったのか、視力の低下とともに声が変わったかは分かりません。
ですが、彼女の声と顔の角度、眼球の向きを考慮すると
彼女の物事の考え方や、人生観、知的な理解の度合いが
「視力を失った」ということと密接にかかわっていることが伺えます。
もちろん、出来事として人生観に影響を与えるのは自然なことでしょう。
大きな喪失感があるはずです。
個人的な話として、僕は視力を失うことへの恐怖が物凄く”強かった”ものです。
(今は変わりましたけど)
…そういえば、箱根のワークショップで、
「急に視力を失った人を演じてください」
とトレーナーから指示をされたこともありましたね。
それで、シーナ・アイエンガーの人生観や考え方との関係というのは、
もっと生理的というか、その感覚器官の使い方の話なんです。
なんというか、意識の中心というか、意識の主体というか、
「どこから世界を認識しているか」という場所が鼻の奥ぐらい、
つまり頭部の内側に小さな点を中心に存在している感じに見えます。
一般的に目を開けて、外の世界を見ている人の場合、
世界との境界は体の表面に意識されやすいものです。
目の付いている場所から外を見ている。
当たり前に思うかもしれませんが、
見ている主体が存在する場所は、目の前後にあるわけです。
人によっては目よりも外側、つまり顔の前の数cmの空間ぐらいから
その奥の空間を認識しているようなこともあれば、
眼球の後ろ側・だいたい網膜の辺りから、
眼球の厚み分も感じ取りつつ、目から先の空間も感じ取る人もいると思います。
ロボットの操縦席に載っているようなイメージで言うと、
操縦席のフロントガラスがどこにあるかの違いです。
顔の前の空間から、という人は、喩えると
自分の体のまま操縦席に座っていて、
目の前の1mもいかないところに操縦席のフロントガラスがある感じ。
一方、眼球の後ろ側あたりから、という人は、
ロボットっていうよりは、ヘルメットをかぶっている感じか
ぬいぐるみを着ている感じに近いかもしれません。
等身大の人形を着こんで、その目の位置から外を見ている感じ。
ところが、シーナ・アイエンガーは、もっと奥にいるように感じられたんです。
小さな乗組員が自分の体の中にいて、
その人が、鼻から喉に繋がる辺りの場所にいるイメージです。
目を閉じていますし、視力を使っていませんから
真っ暗な体の中から、暗い壁を眺めているような。
なので、意識の中心が平均よりもずっと奥にあるように思えたんです。
少し後ろのほうから全てを認知している感じ。
「小さい」と言ったのは、感じ取っている情報の奥が
鼻と口の間ぐらいの高さの面に集中している雰囲気からです。
少し顎を上げて、眼球を下げ気味に目を閉じていますから
注意は鼻の先端ぐらいに向かっていると思われます。
そして声も鼻の辺りで強く響いていて、音が出ていく角度も
ちょうど、その鼻先の高さから水平方向の感じ。
とにかく鼻の高さ辺りに多くの注意が集まっているように感じました。
その高さで輪切りにした頭部の奥のほうに意識の主体がいて、
そこから世の中を見ているイメージです。
これをすることによって、世の中へ積極的に働きかけようというのではなく、
出来事を少し引いた位置から眺めるように受け取ることができるんでしょう。
そして生理的な落ち着きをキープしつつ、
物事と真っ直ぐに向き合い続け、真摯に考えることができる。
そういうことが起きている印象を受けました。
まぁ、そういう育ち方をしたから、その姿勢、その状態になった可能性もありますし、
視力を失ったことで、姿勢が変わり、そのような状態が強まった可能性もあるでしょう。
いずれにせよ、彼女の現状の注意の向け方、感覚器官の使い方は、おそらく
世の中の真理に目を向け、悟ったような状態を維持しやすくしていると思います。
逆にいえば、
彼女は視力を失ったことで、その境地に行ったかもしれないし、
その素養があったから視力を失っても、その境地に辿り着くことで
安定して生きていられるのかもしれないません。
すごく大切で本質的な話をしているだろうと推測されますが、
同じことを平均的な人が日常生活レベルで実感できるかというと
それは難しいところもあるんじゃないでしょうか。
彼女の状態に近いものを生理的に実感してみたら、
考え方も納得しやすくなるかもしれないですが。