2012年09月17日
お疲れさまの姿
9月16日。
実家で飼っていた犬が死にました。
家に来てから9年ぐらいです。
すごく気を遣う犬でした。
家族のために沢山のことをしてくれていた気がします。
最後の仕事は、小学生の甥っ子2人に
命の終わりを見せることだったのかもしれません。
まるで日曜日には小学校がないことを知っていたかのように
皆の集まる前で息を引き取ったそうです。
僕はセミナーだったので立ち会えませんでしたが。
疲れてグッスリと眠っているように穏やか顔をしていました。
悪性腫瘍が原因だと想像されるのに、苦しそうな顔ではありませんでした。
何かをやり遂げたかのように、力の抜けた静かな顔。
なんだか寝ているんじゃないかと思うようです。
体重40kgぐらいのゴールデンレトリーバーでしたから
全ての関節を伸ばして横になっている姿は、だいぶ大きく見えました。
人間の場合は棺桶に入った姿を目にすることが多いものの、
犬の場合はそのままの姿だからこそ逆に不思議な感じがします。
触って初めて、生きていないことを実感できるぐらいでした。
これまでにも一匹、10年前にゴールデンレトリーバーが旅立っていますが、
あのときに感じていたのとは違うものを、今回は受け取れた気がします。
父も前回ほどの落ち込みではない様子。
少しずつ受け入れる準備をしていたのでしょう。
「後悔はない」と言っていましたから、心ゆくまで接したんだと思います。
とはいえ、今後はやっぱり心配ではあります。
僕は違う場所に住んでいますが、両親は犬のいなくなった家に住み続けます。
犬を思い出すトリガーが、無尽蔵に埋まっている場所にいるわけです。
思い出して、いないことを自覚する機会も多いでしょう。
自分なりに最大限の努力で両親と関わってきました。
小手先の技術が役立つ場面ではありませんが、
これまでに真剣に取り組んできて良かったと感じています。
反面、僕の内側に自覚しながらコントロールする時間も多かったので
素直に別れの悲しみを味わいきれなかったかもしれません。
しかし、それはもう無理な注文なんでしょう。
以前のように悲しみに100%身を任せることはできない気がします。
前の自分には理解できなかったメッセージを感じ取れるかわりに
無頓着に反応するのは難しくなったようです。
挙句、今の自分の身体には
悲しみの奥に怒りが潜んでいることにも気づいているし…。
何も分からないまま、自分勝手な気楽さで嘆いていた
10年前の別れが懐かしいような感じもします。
難しいものです。
1つ違いを思い出せるのは、10年前の葬儀のときには
「もっとああしてあげていれば…」という後悔も沢山あったのに対して、
今回は家族全員が「ありがとう」と言いながら見送れたことです。
皆から「ありがとう」と言われながら旅立っていくのは幸せなことでしょう。
そして同時に、送る側が後悔を感じながらではなく、
「ありがとう」という気持ちになれたことが大きな意味を持っている気がします。
それは何となく、
旅立つ側が、見送る側を「ありがとう」という気持ちにさせてくれた
ような感じがします。
それが最後の贈り物だったんじゃないだろうか、と。
実家で飼っていた犬が死にました。
家に来てから9年ぐらいです。
すごく気を遣う犬でした。
家族のために沢山のことをしてくれていた気がします。
最後の仕事は、小学生の甥っ子2人に
命の終わりを見せることだったのかもしれません。
まるで日曜日には小学校がないことを知っていたかのように
皆の集まる前で息を引き取ったそうです。
僕はセミナーだったので立ち会えませんでしたが。
疲れてグッスリと眠っているように穏やか顔をしていました。
悪性腫瘍が原因だと想像されるのに、苦しそうな顔ではありませんでした。
何かをやり遂げたかのように、力の抜けた静かな顔。
なんだか寝ているんじゃないかと思うようです。
体重40kgぐらいのゴールデンレトリーバーでしたから
全ての関節を伸ばして横になっている姿は、だいぶ大きく見えました。
人間の場合は棺桶に入った姿を目にすることが多いものの、
犬の場合はそのままの姿だからこそ逆に不思議な感じがします。
触って初めて、生きていないことを実感できるぐらいでした。
これまでにも一匹、10年前にゴールデンレトリーバーが旅立っていますが、
あのときに感じていたのとは違うものを、今回は受け取れた気がします。
父も前回ほどの落ち込みではない様子。
少しずつ受け入れる準備をしていたのでしょう。
「後悔はない」と言っていましたから、心ゆくまで接したんだと思います。
とはいえ、今後はやっぱり心配ではあります。
僕は違う場所に住んでいますが、両親は犬のいなくなった家に住み続けます。
犬を思い出すトリガーが、無尽蔵に埋まっている場所にいるわけです。
思い出して、いないことを自覚する機会も多いでしょう。
自分なりに最大限の努力で両親と関わってきました。
小手先の技術が役立つ場面ではありませんが、
これまでに真剣に取り組んできて良かったと感じています。
反面、僕の内側に自覚しながらコントロールする時間も多かったので
素直に別れの悲しみを味わいきれなかったかもしれません。
しかし、それはもう無理な注文なんでしょう。
以前のように悲しみに100%身を任せることはできない気がします。
前の自分には理解できなかったメッセージを感じ取れるかわりに
無頓着に反応するのは難しくなったようです。
挙句、今の自分の身体には
悲しみの奥に怒りが潜んでいることにも気づいているし…。
何も分からないまま、自分勝手な気楽さで嘆いていた
10年前の別れが懐かしいような感じもします。
難しいものです。
1つ違いを思い出せるのは、10年前の葬儀のときには
「もっとああしてあげていれば…」という後悔も沢山あったのに対して、
今回は家族全員が「ありがとう」と言いながら見送れたことです。
皆から「ありがとう」と言われながら旅立っていくのは幸せなことでしょう。
そして同時に、送る側が後悔を感じながらではなく、
「ありがとう」という気持ちになれたことが大きな意味を持っている気がします。
それは何となく、
旅立つ側が、見送る側を「ありがとう」という気持ちにさせてくれた
ような感じがします。
それが最後の贈り物だったんじゃないだろうか、と。