2012年11月04日
味わいへの気づき
多分、日本の料理は世界でも、味付けの薄い部類じゃないでしょうか。
「ダシ」という発想も多くないように思います。
フランス料理に「フォン」という考え方があるのは聞いたことがありますが。
アメリカ人に言わせると、一部の日本食は「 watery (水っぽい)」だそうです。
「豆腐は watery だ」って言っていましたから、
「水のように味が無い」というニュアンスかもしれません。
別に「 watery 」だと言われることとは無関係ですが、
日本食の味付けが薄いのには、1つに、
日本の水の綺麗さが関わっていると思います。
「そのまま茹でるだけ」とか「澄まし汁」なんていうのは
水が綺麗だからできる料理法じゃないか、と。
中華料理の味付けの地域差も、水質と関係していそうです。
もう1つは気温や湿度。
「アッサリしたものが食べたい気分」かどうかという話です。
あとは、日本文化全般に、淡い中間色のグラデーションが
サブモダリティとして多く見受けられますから、
味覚としてもその傾向が出ているということも言えます。
そこで、誰かが海外に在住することになったとします。
多くの人は、「日本食が恋しい」状態になるんだとか。
それは、その土地の味を経験することで
日本食の味と比較するようになるからかもしれません。
慣れ親しんだ味がある。
どんなタイプの味覚刺激に喜びを感じるかが学習済みなわけです。
もちろん、それぞれの文化の味にも慣れていくでしょうし、
味わい方を知れば、色々と美味しさも分かってくると思われます。
とはいえ、味覚刺激の種類が違う上に、
それぞれの刺激の強さは、多くの料理において
日本食よりも強い傾向にあるんじゃないかという気がします。
(世界を見渡せば薄味の文化もあるでしょうが、
ここでは強めの味を想定して下さい。)
例えば、しっかりとバターを利かせている文化とか、
砂糖と脂肪分を好む文化とか、
唐辛子の辛さを利かせている文化とか、
様々なスパイスを組み合わせている文化とか。
そうなったときに、比較の結果として
日本食の味の立ち位置を自覚できることでしょう。
「○○料理と比べると、日本食は〜だ」という具合に。
そこで初めて、自分の『美味しさ』の基準に気づく。
逆もあり得るはずです。
本当に味付けが一切感じられない地域で生活をして
「やっぱり、あれぐらいは塩味が必要だな」という感じ。
比べて初めて、自分の基準に気づくケースです。
一方、日本で生活をしていても、繰り返される刺激に対して
欲求がエスカレートしていくこともあります。
何にでも七味唐辛子をかける人が、エスカレートして
毎食ビン一本分ぐらいの七味を使うとか。
昨今のラーメンブームなどは顕著な例のような気がします。
「濃厚」を目指す結果、ドロッドロのスープになったり
表面にギッシリと油が浮いていたり、
麺や具材が文字通り「山盛り」になっていたり、
何か一種類のダシを、「ウソ?」っていうぐらいに使っていたり。
「やみつき」になっているケースです。
好みの種類の味覚刺激を繰り返していくうちに
満足される基準が少しずつ上がっていく可能性があります。
好きなんだから、別にそれで構いません。
重要なのは、こういう話は、味の好みに限ったことではないということです。
お金を稼ぐことに一生懸命になってエスカレートする。
ダイエットに一生懸命になってエスカレートする。
目標達成に一生懸命になってエスカレートする。
その意味では、ちょっと違う種類の刺激を経験してみて
「やっぱり自分はコレが好きだ」と実感するための
比較対象を持ってみることも重要じゃないかと思います。
そして、もう一方のアプローチは、
比較対象を外に求めるのではなく、
「自分の好みの刺激の種類に対して、感度を上げていく」
というやり方。
おそらく日本人でも、白身魚の刺身の味を区別できる人は多くないでしょう。
他の文化圏の人には、もっと大変な要求だと思います。
細かな違いに気づく感度を磨くということです。
それができると、よりシッカリと味わえるようになる。
エスカレートさせなくても、美味しさが際立ってくるわけです。
別の喩えをすると、マイクを使っているのに声が届かない場合に、
・話し声を大きくするか
・マイクの感度を上げるか
といった違いでしょうか。
お米の味でも、水の味でも、豆腐の味でも良いですが、
そうした繊細な違いから美味しさを見出せるようになると、
本当に美味しいものに出会えたときに、大きな感動を味わえるはずです。
ただし、こちらにはデメリットもあります。
「美味しくない」という感じも際立つ可能性がある。
他と比較する方法は、その外側の基準を忘れやすいというデメリットがあります。
頻繁に接しないので忘れてしまう。
この間、「ああ、やっぱりコレが大事だなぁ」って思ったはずなのに
いつの間にやら忘れてしまって…。
感度を上げるほうには、比較対象を忘れる心配は少なそうです。
望ましくない体験も際立つ代わりに。
外に比較対象を持ってくるのは、相対評価。
感度を上げるのは、絶対評価。
そんな感じかもしれません。
どちらでも、現実をしっかりと体験できる。
その大切さに気づくことができます。
よく「あるがままで幸せ」なんていうことを耳にしますが、
「あるがまま」と言われる現状を感じ取るには
2通りの方向性があるんじゃないでしょうか。
簡単なのは、頻繁に外の比較基準を求めることでしょう。
感度を上げて、不満の量も高めるのは、好みが分かれると思います。
ただ。
本当に大切な物の場合、
それが満たされなかった体験そのものが
「いかに自分がそれを大事にしているのか」を教えてくれる
貴重な機会にもなっているはずです。
満たされなかった体験のほうが、比較対象になっている。
言い換えると、感度を上げることで、比較対象を身近にできる、と。
まぁ結局、人間は相対評価しかできないのかもしれません。
その相対評価をどうやってやるか、と。
過去の喜びを比較対象にし続ければ、ドンドンとエスカレートしていく。
それは、不満を比較対象にしていないから。
外に比較対象を置いて違いを自覚すれば、現状の喜びを思い出せる。
けれども、不満を感じるチャンスは、その比較対象を意識したときだけ。
感度を上げて気づける違いを増やしていけば、常日頃から現状の喜びを実感できる。
ただし、不満を感じる機会も日常的になる。
理想的には…。
「こんなに不満を感じられて、幸せだなぁ。」と思える状態。
どうでも良いことには、不満も感じませんから。
「ダシ」という発想も多くないように思います。
フランス料理に「フォン」という考え方があるのは聞いたことがありますが。
アメリカ人に言わせると、一部の日本食は「 watery (水っぽい)」だそうです。
「豆腐は watery だ」って言っていましたから、
「水のように味が無い」というニュアンスかもしれません。
別に「 watery 」だと言われることとは無関係ですが、
日本食の味付けが薄いのには、1つに、
日本の水の綺麗さが関わっていると思います。
「そのまま茹でるだけ」とか「澄まし汁」なんていうのは
水が綺麗だからできる料理法じゃないか、と。
中華料理の味付けの地域差も、水質と関係していそうです。
もう1つは気温や湿度。
「アッサリしたものが食べたい気分」かどうかという話です。
あとは、日本文化全般に、淡い中間色のグラデーションが
サブモダリティとして多く見受けられますから、
味覚としてもその傾向が出ているということも言えます。
そこで、誰かが海外に在住することになったとします。
多くの人は、「日本食が恋しい」状態になるんだとか。
それは、その土地の味を経験することで
日本食の味と比較するようになるからかもしれません。
慣れ親しんだ味がある。
どんなタイプの味覚刺激に喜びを感じるかが学習済みなわけです。
もちろん、それぞれの文化の味にも慣れていくでしょうし、
味わい方を知れば、色々と美味しさも分かってくると思われます。
とはいえ、味覚刺激の種類が違う上に、
それぞれの刺激の強さは、多くの料理において
日本食よりも強い傾向にあるんじゃないかという気がします。
(世界を見渡せば薄味の文化もあるでしょうが、
ここでは強めの味を想定して下さい。)
例えば、しっかりとバターを利かせている文化とか、
砂糖と脂肪分を好む文化とか、
唐辛子の辛さを利かせている文化とか、
様々なスパイスを組み合わせている文化とか。
そうなったときに、比較の結果として
日本食の味の立ち位置を自覚できることでしょう。
「○○料理と比べると、日本食は〜だ」という具合に。
そこで初めて、自分の『美味しさ』の基準に気づく。
逆もあり得るはずです。
本当に味付けが一切感じられない地域で生活をして
「やっぱり、あれぐらいは塩味が必要だな」という感じ。
比べて初めて、自分の基準に気づくケースです。
一方、日本で生活をしていても、繰り返される刺激に対して
欲求がエスカレートしていくこともあります。
何にでも七味唐辛子をかける人が、エスカレートして
毎食ビン一本分ぐらいの七味を使うとか。
昨今のラーメンブームなどは顕著な例のような気がします。
「濃厚」を目指す結果、ドロッドロのスープになったり
表面にギッシリと油が浮いていたり、
麺や具材が文字通り「山盛り」になっていたり、
何か一種類のダシを、「ウソ?」っていうぐらいに使っていたり。
「やみつき」になっているケースです。
好みの種類の味覚刺激を繰り返していくうちに
満足される基準が少しずつ上がっていく可能性があります。
好きなんだから、別にそれで構いません。
重要なのは、こういう話は、味の好みに限ったことではないということです。
お金を稼ぐことに一生懸命になってエスカレートする。
ダイエットに一生懸命になってエスカレートする。
目標達成に一生懸命になってエスカレートする。
その意味では、ちょっと違う種類の刺激を経験してみて
「やっぱり自分はコレが好きだ」と実感するための
比較対象を持ってみることも重要じゃないかと思います。
そして、もう一方のアプローチは、
比較対象を外に求めるのではなく、
「自分の好みの刺激の種類に対して、感度を上げていく」
というやり方。
おそらく日本人でも、白身魚の刺身の味を区別できる人は多くないでしょう。
他の文化圏の人には、もっと大変な要求だと思います。
細かな違いに気づく感度を磨くということです。
それができると、よりシッカリと味わえるようになる。
エスカレートさせなくても、美味しさが際立ってくるわけです。
別の喩えをすると、マイクを使っているのに声が届かない場合に、
・話し声を大きくするか
・マイクの感度を上げるか
といった違いでしょうか。
お米の味でも、水の味でも、豆腐の味でも良いですが、
そうした繊細な違いから美味しさを見出せるようになると、
本当に美味しいものに出会えたときに、大きな感動を味わえるはずです。
ただし、こちらにはデメリットもあります。
「美味しくない」という感じも際立つ可能性がある。
他と比較する方法は、その外側の基準を忘れやすいというデメリットがあります。
頻繁に接しないので忘れてしまう。
この間、「ああ、やっぱりコレが大事だなぁ」って思ったはずなのに
いつの間にやら忘れてしまって…。
感度を上げるほうには、比較対象を忘れる心配は少なそうです。
望ましくない体験も際立つ代わりに。
外に比較対象を持ってくるのは、相対評価。
感度を上げるのは、絶対評価。
そんな感じかもしれません。
どちらでも、現実をしっかりと体験できる。
その大切さに気づくことができます。
よく「あるがままで幸せ」なんていうことを耳にしますが、
「あるがまま」と言われる現状を感じ取るには
2通りの方向性があるんじゃないでしょうか。
簡単なのは、頻繁に外の比較基準を求めることでしょう。
感度を上げて、不満の量も高めるのは、好みが分かれると思います。
ただ。
本当に大切な物の場合、
それが満たされなかった体験そのものが
「いかに自分がそれを大事にしているのか」を教えてくれる
貴重な機会にもなっているはずです。
満たされなかった体験のほうが、比較対象になっている。
言い換えると、感度を上げることで、比較対象を身近にできる、と。
まぁ結局、人間は相対評価しかできないのかもしれません。
その相対評価をどうやってやるか、と。
過去の喜びを比較対象にし続ければ、ドンドンとエスカレートしていく。
それは、不満を比較対象にしていないから。
外に比較対象を置いて違いを自覚すれば、現状の喜びを思い出せる。
けれども、不満を感じるチャンスは、その比較対象を意識したときだけ。
感度を上げて気づける違いを増やしていけば、常日頃から現状の喜びを実感できる。
ただし、不満を感じる機会も日常的になる。
理想的には…。
「こんなに不満を感じられて、幸せだなぁ。」と思える状態。
どうでも良いことには、不満も感じませんから。