2012年12月30日
好敵手
年末になるとテレビは特番ばかりになります。
そしてテレビに限らず、年末はランキングや対決が増えるみたいです。
一年間の評価をするかのような表彰が増えるからでしょうか。
それとも競い合う形式そのものが見ていて楽しいからなんでしょうか。
一対一でも、グループ対抗でも、対戦形式も増える印象を受けます。
スポーツであれ、ゲームであれ、音楽であれ…。
競い合う姿を目にすることが多いように感じるんです。
中には、一年間のハイライトとして取り上げられる名シーンもあるでしょう。
さらに、そこには『ライバル』と呼ばれるような関係もある。
お互いを強敵と認め、かつ絶対に負けたくないという間柄。
その中には、相手への尊敬や友情も混ざっているんだろうと思います。
相手がいることで自分の能力を高めようと努力できるという意味で
お互いに高めあえる刺激になっているようです。
対戦中は、意地と負けず嫌いで向かい合い、
ひとたび対戦を離れると、お互いを讃え合いながら語りあえる。
そんな関係性を目にすることが増える気がするんです。
それが何とも心温まる場面であって、
同時に少し羨ましい気分にもなります。
「いいよねぇ、ライバルって」という、しみじみとした味わいと
「いいよなぁ、ライバルがいて」という羨ましさの両方。
しばらく前から僕は、「ライバル」という相手を想定しなくなっていました。
大学生のころまでは対抗心を感じる相手がいましたし、
それも一人や二人のことではありませんでした。
研究室への配属が学部の成績によって決まるシステムでしたから
なるべく良い成績を取っていたかったというのもあります。
ただ、それ以上に、仲の良かったグループの中で
皆が他の人の成績を意識しながらテストに臨んでいたようでした。
そして研究室に入ってからは、より「ライバル」という意識が高まりました。
研究や知識の面だけでなく、色々な側面でライバル視する相手がいたものです。
ところが、会社に入ってからというもの、ライバル意識が激減しました。
会社の場合、勤続年数の違いが経験や知識の量の差を生み出します。
ですから、先輩を相手に対抗心を燃やすことは無かったんです。
尊敬や目標として見る気持ちはありましたが、ライバルとは思いませんでした。
研究職から離れ、心理やコミュニケーションと関わるようになってからは、
出会う人の範囲が大きく広がったために、
ただ「自分と相手の個性の違い」という見方しかしなくなっていきました。
何かで誰か競うような気持ち、あるいは「負けたくない」という対抗心などは
芽生えることがなくなっていったようなんです。
人それぞれの強みの違いとして自他を比較するのが自然になってから
相手の強みへの尊敬はあっても、「ジャンル違い」という認識が中心になりました。
野球選手がサッカー選手をライバルと見ないような感じでしょうか。
例えば、「セミナーをやる」といった仕事の一形態を取り上げてみても、
自分が目指すセミナーの形と、相手の目指す形が違っていれば
スポーツで言うと競技のゴールが違っているようなものと思えるわけです。
「良い」とする基準が自分の中にあるのかもしれません。
ですから、競っている気分がないんです。
もし、コンテストのような形態になって、評価の基準が決められていたら
その評価の枠組みの中で対戦相手が見えてくる可能性はあります。
それでも、そのような枠組みに入りたいと思うかどうかは定かではありません。
自分が受け入れたい枠組みと出会い、
その同じ枠組みで競い合える相手に出会えたら、
そのときはライバルとしてお互いに高めあえるような気がします。
環境と相手と、両方との出会いが求められるのですから、
ライバルがいること自体が貴重なことだと感じます。
僕には「ライバルがいること」への憧れがあるみたいです。
そしてテレビに限らず、年末はランキングや対決が増えるみたいです。
一年間の評価をするかのような表彰が増えるからでしょうか。
それとも競い合う形式そのものが見ていて楽しいからなんでしょうか。
一対一でも、グループ対抗でも、対戦形式も増える印象を受けます。
スポーツであれ、ゲームであれ、音楽であれ…。
競い合う姿を目にすることが多いように感じるんです。
中には、一年間のハイライトとして取り上げられる名シーンもあるでしょう。
さらに、そこには『ライバル』と呼ばれるような関係もある。
お互いを強敵と認め、かつ絶対に負けたくないという間柄。
その中には、相手への尊敬や友情も混ざっているんだろうと思います。
相手がいることで自分の能力を高めようと努力できるという意味で
お互いに高めあえる刺激になっているようです。
対戦中は、意地と負けず嫌いで向かい合い、
ひとたび対戦を離れると、お互いを讃え合いながら語りあえる。
そんな関係性を目にすることが増える気がするんです。
それが何とも心温まる場面であって、
同時に少し羨ましい気分にもなります。
「いいよねぇ、ライバルって」という、しみじみとした味わいと
「いいよなぁ、ライバルがいて」という羨ましさの両方。
しばらく前から僕は、「ライバル」という相手を想定しなくなっていました。
大学生のころまでは対抗心を感じる相手がいましたし、
それも一人や二人のことではありませんでした。
研究室への配属が学部の成績によって決まるシステムでしたから
なるべく良い成績を取っていたかったというのもあります。
ただ、それ以上に、仲の良かったグループの中で
皆が他の人の成績を意識しながらテストに臨んでいたようでした。
そして研究室に入ってからは、より「ライバル」という意識が高まりました。
研究や知識の面だけでなく、色々な側面でライバル視する相手がいたものです。
ところが、会社に入ってからというもの、ライバル意識が激減しました。
会社の場合、勤続年数の違いが経験や知識の量の差を生み出します。
ですから、先輩を相手に対抗心を燃やすことは無かったんです。
尊敬や目標として見る気持ちはありましたが、ライバルとは思いませんでした。
研究職から離れ、心理やコミュニケーションと関わるようになってからは、
出会う人の範囲が大きく広がったために、
ただ「自分と相手の個性の違い」という見方しかしなくなっていきました。
何かで誰か競うような気持ち、あるいは「負けたくない」という対抗心などは
芽生えることがなくなっていったようなんです。
人それぞれの強みの違いとして自他を比較するのが自然になってから
相手の強みへの尊敬はあっても、「ジャンル違い」という認識が中心になりました。
野球選手がサッカー選手をライバルと見ないような感じでしょうか。
例えば、「セミナーをやる」といった仕事の一形態を取り上げてみても、
自分が目指すセミナーの形と、相手の目指す形が違っていれば
スポーツで言うと競技のゴールが違っているようなものと思えるわけです。
「良い」とする基準が自分の中にあるのかもしれません。
ですから、競っている気分がないんです。
もし、コンテストのような形態になって、評価の基準が決められていたら
その評価の枠組みの中で対戦相手が見えてくる可能性はあります。
それでも、そのような枠組みに入りたいと思うかどうかは定かではありません。
自分が受け入れたい枠組みと出会い、
その同じ枠組みで競い合える相手に出会えたら、
そのときはライバルとしてお互いに高めあえるような気がします。
環境と相手と、両方との出会いが求められるのですから、
ライバルがいること自体が貴重なことだと感じます。
僕には「ライバルがいること」への憧れがあるみたいです。