2013年02月08日
応援
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応援というと、学校の応援団や、チアリーダー、
Jリーグやプロ野球の応援のようなものが思い浮かぶかもしれません。
エネルギッシュでパワフルで、賑やかで「一致団結」といった感じ。
迫力のある音の渦を作り出して、場面を包み込むようなイメージです。
しかし、そうした応援の渦の中にあっても、ごく僅かな人たちが
声をあげずに手を握り締め、ときには手を合わせ、あるいは目をつぶってさえ、
その「応援」の気持ちを静かに放っています。
選手の家族が中心なのでしょうか。
その人たちは、「祈っている」んです。
エネルギーを発して、力強く奮い立たせる「応援」もあれば、
静かに、でも一心不乱に想いを届けようとする「祈り」もある。
喩えるなら、
応援=太陽
祈り=月
といった雰囲気でしょうか。
どちらが良い悪いではないでしょうし、
どちらが本人たちに、より力を与えるかでもないでしょう。
好みの問題や、個性の違いだろうと思います。
ただ、こと人数に関していえば、「祈っている」人のほうが少ない気がするんです。
例えば、オリンピックで金メダル候補の選手のことを想定したとき、
きっと日本中の多くの人が「応援」しているはずです。
開催地にいって会場までかけつけて「応援」している人もいます。
しかし、その選手の活躍を「祈っている」人が会場にどれくらいいるでしょうか。
多分、応援している人数ほどはいないんじゃないかと想像します。
「祈っている」人たちは目立ちません。
でも、祈れるのも素晴らしいことだと思うんです。
パワフルに応援してくれる人のほうが目立つかもしれませんが、
静かに真っ直ぐ祈っている人の存在にも、気持ちを向けていたいと感じます。
太陽よりも、月のほうが地球の近くを回っているわけですから。
…それとは少し違いますかね?