2013年03月05日
促す結果として
コミュニケーションの技術というと
「何を言うか」に気持ちが向きやすいようです。
そうすると、その一方で、「何も言わない」とか「ただ聞く」とか
そういった受動的な方向性の発想も出てくるのでしょう。
ロジャース派と呼ばれるカウンセリングのように
クライアントの話したいことに付き添って「一生懸命に聞く」と。
余計な意見や介入は挟まずに、ただクライアントに任せるというわけです。
あるいは、素直に好奇心を持って関わり
クライアントが自分に気づくサポートをするような発想もあります。
どちらも
「主役はクライアントであって、聞き役が導くようなことはしない」
という主張で共通するといえます。
聞き役側が質問の技術を駆使してゴールに導いたり
問題が解決するような発想の転換をサポートしたりはしない。
…そういうスタンス。
こうやって説明すると、なんだか安全で優しいアプローチに聞こえるかもしれません。
いや、実際に多くの”その流派の人たち”は、そう信じている気がします。
でも本当は、そこが危ない。
重要なことが見逃されています。
それは
『クライアントには自分の思考の流れを選ぶことはできず、
何に気づくかも、今それに気づきたいかも選ぶことはできない』
ということ。
聞き役側が「ただ一生懸命に聞く」ことや「好奇心を持って関わる」ことは、
明らかに『促している』んです。
「その話を続けて下さい」と許可を出しているんです。
もっとハッキリ言えば、それは間接的な要求です。
「質問をされたら、答える」のが自然な流れになっているのと同様に、
「促されたら、そのまま話し続ける」のが自然な流れなんです。
質問の奥には”答えて下さい”という命令があり、
同様に、促すことの奥には”そのまま話し続けて下さい”という命令がある。
もちろん、質問よりはマイルドですが、だからこそ
知らないうちに思いもよらないところまで深入りしてしまう可能性もあります。
ただ”うなずく”とか、”相槌をうつ”とか、
”バックトラッキング(オウム返し)”するとか、”要約する”とか…、
それにも影響力があるんです。
しかも、それがどこまで影響するかは
聞き手側にも話し手側にもコントロールできない。
質問なら答えの範囲を予測できることがありますが、
「ただ話を聞く」の場合、『相手が勝手に気づいてしまう』ことを制御できません。
人によっては、
「クライアントは、気づきたくない時には、気づかない。
気づきたくない段階では、話をそらしたり、
深いところまで話さないようにする。
クライアントの自然なプロセスに任せればいい。」
などと説明することもあるようです。
それは誰が言い始めたんだか知りませんが、
間違っています。
クライアントは気づきたくないときでも、気づきます。
質問によって気づかせなくたって、
ただ話を聞いているだけで気づいてしまうときがあります。
まだ気づきたくなかったときにでも、気づいてしまうことがあります。
そうすると
「いや、でも、クライアントが気づけたのだから
それは気づける時期に来ていたということだ。
気づくことが苦しかったとしても、
それは大丈夫な時期だから気づいたわけで、
その気づきは、その人の人生にとって重要だ。」
といった意見も出るようです。
ここで途端に他者目線に切り替わる。
普段は、「全てはクライアントが中心です」とか言っているのに。
「気づいてしまったことでクライアント本人が苦しい思いをしている」
ということが無視され始めます。
究極的に言えば、
どんなに苦しい気づきであったとしても
それはその人の人生全体で見れば、確かに重要でしょう。
きっと将来、その気づきを活かして、
人生を味わい深いものとすることでしょう。
日常でも、そういうことはありますし。
誰かの一言が心に突き刺さり、そこから大きな一歩を踏み出すとか。
親や教師、上司や友人から学んだことが人生の糧になっているとか。
そういうスパンで見たら、どんな気づきだって意味のあるものになります。
問題は、それをカウンセラーがやっているところにあります。
「たまたま親友に言われた言葉が心に突き刺さり
大事なことに気づくキッカケとなった」
というのは貴重な体験だと思います。
が、その親友の関わりには技術はないんです。
偶然なんです。
「本心で真剣に向き合ったから、そういうことが起きた」という説明も可能ですが、
だっからカウンセラーも”本心で真剣に向き合う”ことさえしていれば
技術の工夫は要らないのか?という話になります。
本気で誠実に関わることの大切さと、
技術として使い分けられることは別のレベルの話じゃないでしょうか。
結果が予測できない方法は、
技術と呼ぶにはリスクが大きいと思うんです。
真剣に関わってさえいれば、結果が予測できないようなことをしても良い…
そんなことを言うのなら、最初から手法については気にせずに
ただの精神論だけで十分な気がしてしまいます。
そして、それは別にカウンセラーがやらなくてもいい。
家族や友人でもいいでしょう。
個人的には、そういう真剣な関わりが持てる相手は
カウンセラーじゃないほうが望ましいとさえ思います。
だって、カウンセラーはプロとしてお金を貰っているわけですから。
プロとしてお金をもらって援助をするのであれば、
「何に気づくか分からない」という意味で結果を予測できない
『促す』方法は、技術として頼りにするには危険すぎる気がするんです。
気づくことが目的の援助では話が別ですが、
カウンセリングという局面においては、気づかないほうが楽なこともあるはずです。
その視点が重要なんじゃないかというのが僕の考えです。
「何を言うか」に気持ちが向きやすいようです。
そうすると、その一方で、「何も言わない」とか「ただ聞く」とか
そういった受動的な方向性の発想も出てくるのでしょう。
ロジャース派と呼ばれるカウンセリングのように
クライアントの話したいことに付き添って「一生懸命に聞く」と。
余計な意見や介入は挟まずに、ただクライアントに任せるというわけです。
あるいは、素直に好奇心を持って関わり
クライアントが自分に気づくサポートをするような発想もあります。
どちらも
「主役はクライアントであって、聞き役が導くようなことはしない」
という主張で共通するといえます。
聞き役側が質問の技術を駆使してゴールに導いたり
問題が解決するような発想の転換をサポートしたりはしない。
…そういうスタンス。
こうやって説明すると、なんだか安全で優しいアプローチに聞こえるかもしれません。
いや、実際に多くの”その流派の人たち”は、そう信じている気がします。
でも本当は、そこが危ない。
重要なことが見逃されています。
それは
『クライアントには自分の思考の流れを選ぶことはできず、
何に気づくかも、今それに気づきたいかも選ぶことはできない』
ということ。
聞き役側が「ただ一生懸命に聞く」ことや「好奇心を持って関わる」ことは、
明らかに『促している』んです。
「その話を続けて下さい」と許可を出しているんです。
もっとハッキリ言えば、それは間接的な要求です。
「質問をされたら、答える」のが自然な流れになっているのと同様に、
「促されたら、そのまま話し続ける」のが自然な流れなんです。
質問の奥には”答えて下さい”という命令があり、
同様に、促すことの奥には”そのまま話し続けて下さい”という命令がある。
もちろん、質問よりはマイルドですが、だからこそ
知らないうちに思いもよらないところまで深入りしてしまう可能性もあります。
ただ”うなずく”とか、”相槌をうつ”とか、
”バックトラッキング(オウム返し)”するとか、”要約する”とか…、
それにも影響力があるんです。
しかも、それがどこまで影響するかは
聞き手側にも話し手側にもコントロールできない。
質問なら答えの範囲を予測できることがありますが、
「ただ話を聞く」の場合、『相手が勝手に気づいてしまう』ことを制御できません。
人によっては、
「クライアントは、気づきたくない時には、気づかない。
気づきたくない段階では、話をそらしたり、
深いところまで話さないようにする。
クライアントの自然なプロセスに任せればいい。」
などと説明することもあるようです。
それは誰が言い始めたんだか知りませんが、
間違っています。
クライアントは気づきたくないときでも、気づきます。
質問によって気づかせなくたって、
ただ話を聞いているだけで気づいてしまうときがあります。
まだ気づきたくなかったときにでも、気づいてしまうことがあります。
そうすると
「いや、でも、クライアントが気づけたのだから
それは気づける時期に来ていたということだ。
気づくことが苦しかったとしても、
それは大丈夫な時期だから気づいたわけで、
その気づきは、その人の人生にとって重要だ。」
といった意見も出るようです。
ここで途端に他者目線に切り替わる。
普段は、「全てはクライアントが中心です」とか言っているのに。
「気づいてしまったことでクライアント本人が苦しい思いをしている」
ということが無視され始めます。
究極的に言えば、
どんなに苦しい気づきであったとしても
それはその人の人生全体で見れば、確かに重要でしょう。
きっと将来、その気づきを活かして、
人生を味わい深いものとすることでしょう。
日常でも、そういうことはありますし。
誰かの一言が心に突き刺さり、そこから大きな一歩を踏み出すとか。
親や教師、上司や友人から学んだことが人生の糧になっているとか。
そういうスパンで見たら、どんな気づきだって意味のあるものになります。
問題は、それをカウンセラーがやっているところにあります。
「たまたま親友に言われた言葉が心に突き刺さり
大事なことに気づくキッカケとなった」
というのは貴重な体験だと思います。
が、その親友の関わりには技術はないんです。
偶然なんです。
「本心で真剣に向き合ったから、そういうことが起きた」という説明も可能ですが、
だっからカウンセラーも”本心で真剣に向き合う”ことさえしていれば
技術の工夫は要らないのか?という話になります。
本気で誠実に関わることの大切さと、
技術として使い分けられることは別のレベルの話じゃないでしょうか。
結果が予測できない方法は、
技術と呼ぶにはリスクが大きいと思うんです。
真剣に関わってさえいれば、結果が予測できないようなことをしても良い…
そんなことを言うのなら、最初から手法については気にせずに
ただの精神論だけで十分な気がしてしまいます。
そして、それは別にカウンセラーがやらなくてもいい。
家族や友人でもいいでしょう。
個人的には、そういう真剣な関わりが持てる相手は
カウンセラーじゃないほうが望ましいとさえ思います。
だって、カウンセラーはプロとしてお金を貰っているわけですから。
プロとしてお金をもらって援助をするのであれば、
「何に気づくか分からない」という意味で結果を予測できない
『促す』方法は、技術として頼りにするには危険すぎる気がするんです。
気づくことが目的の援助では話が別ですが、
カウンセリングという局面においては、気づかないほうが楽なこともあるはずです。
その視点が重要なんじゃないかというのが僕の考えです。