2013年08月29日
あるうちが花
怒りや不満が沸いてくるのは、
期待に沿わない結果が起きているときだといえます。
大きく分けると
・「こうあるべきだ」というルールに従っていないとき
・結果が価値観に合わないとき
といった感じ。
厳密には、「こうあるべきだ」というルールに従わない結果に対して
怒りや不満が表れる奥には「ルールを守る」という価値観がある
とも解釈できます。
もしくは
「自分がルールを守っているんだから、他人もルールを守るべき」
という考えの奥にある「公平性」といった価値観があるかもしれません。
いずれにせよ、不満や怒りが沸くのは
そこに自分の価値観が反映されているからだということです。
というよりも、
「基準に合うと満足して、基準に合わないと不満になる
物事の評価の仕方」
を『価値観』と呼んでいる、といったほうが正確でしょうか。
価値観というもの自体が、そういう性質のこととして捉えられているわけです。
ですから、不満や怒りが沸いてくるときは、
それが本人にとって大切なことの場合だけなんです。
どうでもよかったら何も感じないだけ。
気になりません。
となると、不満や怒りが沸いてくる環境は
自分にとって大切なことと関係している場面だ、ということになります。
もちろん、その不満がなくなり、喜びが得られるように
その環境が変わってくれれば望ましいでしょうし、
そうなるように努力することも充実したことだと思います。
そのように、より価値観とマッチした状況になるように
「なんとかしたい」という原動力を生むのが、
怒りや不満のエネルギーでもあるんです。
夢や目標や問題を生み出すのは、
その価値観をもっと満たしたいという欲求か
その価値観が完全に満たされていない不満か、
どちらに目を向けるかの違いはあれど
同じ源泉だということです。
その意味では、不満や怒りが沸いてくることそのものは
悪いことではないはずです。
むしろ、以前は沸いていた怒りや不満が
沸かなくなってくることのほうが、はるかに寂しいものです。
それは「どうでもよくなった」からです。
不満を感じていた以前のようには
そのことへ価値を見出せなくなった、と。
ある意味では、
勝つ喜びと負ける悔しさに心を激しく揺さぶられていた
スポーツ選手が、怪我で引退することになった
ような、そんな喪失感さえあるかもしれません。
そういう人に「人生には他にも沢山、楽しいことがあるよ」
と言っても響かないのと同様に、
”諦め”や”虚無感”を伴った『怒りや不満の喪失』は
そう簡単に受容されるものではないものでしょう。
まさにそれは、エリザベス・キュブラー=ロスが提唱する
グリーフ・ワークのモデルにあるように
否認、怒り、取引、抑うつ、受容
といった流れで、じっくりと取り組まれるもののように思えます。
なかなか大変なプロセスでしょう。
価値観そのものの喪失体験というのは。
自分らしさを失うわけですから。
それなら、不満を感じられるほうが
ずっと自然で幸せなことじゃないでしょうか。
期待に沿わない結果が起きているときだといえます。
大きく分けると
・「こうあるべきだ」というルールに従っていないとき
・結果が価値観に合わないとき
といった感じ。
厳密には、「こうあるべきだ」というルールに従わない結果に対して
怒りや不満が表れる奥には「ルールを守る」という価値観がある
とも解釈できます。
もしくは
「自分がルールを守っているんだから、他人もルールを守るべき」
という考えの奥にある「公平性」といった価値観があるかもしれません。
いずれにせよ、不満や怒りが沸くのは
そこに自分の価値観が反映されているからだということです。
というよりも、
「基準に合うと満足して、基準に合わないと不満になる
物事の評価の仕方」
を『価値観』と呼んでいる、といったほうが正確でしょうか。
価値観というもの自体が、そういう性質のこととして捉えられているわけです。
ですから、不満や怒りが沸いてくるときは、
それが本人にとって大切なことの場合だけなんです。
どうでもよかったら何も感じないだけ。
気になりません。
となると、不満や怒りが沸いてくる環境は
自分にとって大切なことと関係している場面だ、ということになります。
もちろん、その不満がなくなり、喜びが得られるように
その環境が変わってくれれば望ましいでしょうし、
そうなるように努力することも充実したことだと思います。
そのように、より価値観とマッチした状況になるように
「なんとかしたい」という原動力を生むのが、
怒りや不満のエネルギーでもあるんです。
夢や目標や問題を生み出すのは、
その価値観をもっと満たしたいという欲求か
その価値観が完全に満たされていない不満か、
どちらに目を向けるかの違いはあれど
同じ源泉だということです。
その意味では、不満や怒りが沸いてくることそのものは
悪いことではないはずです。
むしろ、以前は沸いていた怒りや不満が
沸かなくなってくることのほうが、はるかに寂しいものです。
それは「どうでもよくなった」からです。
不満を感じていた以前のようには
そのことへ価値を見出せなくなった、と。
ある意味では、
勝つ喜びと負ける悔しさに心を激しく揺さぶられていた
スポーツ選手が、怪我で引退することになった
ような、そんな喪失感さえあるかもしれません。
そういう人に「人生には他にも沢山、楽しいことがあるよ」
と言っても響かないのと同様に、
”諦め”や”虚無感”を伴った『怒りや不満の喪失』は
そう簡単に受容されるものではないものでしょう。
まさにそれは、エリザベス・キュブラー=ロスが提唱する
グリーフ・ワークのモデルにあるように
否認、怒り、取引、抑うつ、受容
といった流れで、じっくりと取り組まれるもののように思えます。
なかなか大変なプロセスでしょう。
価値観そのものの喪失体験というのは。
自分らしさを失うわけですから。
それなら、不満を感じられるほうが
ずっと自然で幸せなことじゃないでしょうか。