2013年10月01日
ジワジワと
今の自分が体験している内容を
もし10年前、研究職をしていた自分が
ある日突然に経験することになったとしたら…。
きっと、その違いの変化に驚き、
差を衝撃的なものとして受け止めて、
激しい混乱をしていたことだろうと思います。
幻覚や幻聴のように捉えるものもあったかもしれません。
周りの人に「こんな体験ってありますか?」なんて聞いてみたりして
「いや、ないけど。大丈夫?病院でも行ったら?」
などと言われていたんじゃないでしょうか。
それで、とりあえず感覚体験としての”異常”から対処し始めて
「見え方が変だ」といって眼科に行き、
原因不明で、あちこちをたらいまわしになってりしたかも。
最終的には「うーん、ストレスでしょうね…」なんて診断されて、
研究職としての仕事を休むようになるか、
あるいは、
「なんで誰も分からないんだ?おかしいじゃないか!」と
余計にストレスを蓄積していって苦しんだものと想像します。
場合によっては、精神科に行って薬を処方され
副作用との区別もつかなくなって…
なんてこともあったかもしれません。
ひょっとしたら逆に、
「なんだこれは、神秘体験か!」
といった方向に解釈して、
スピリチュアルな方向に道を変えていた可能性も。
「ある日突然、私は”覚醒体験”をしたんです」とか
「急に人の気持ちが”テレパシー”で伝わってくるようになりました」とか
そんなことを言いだしていたりしたとも言えなくはなさそうです。
ただ、変化がゆっくりだっただけなんでしょう。
イメージや内部対話などの内的体験を細かく感じ分け、
自分自身の内面と向き合ってきました。
催眠などのプロセスを通じて、
誘導内容によってイメージが自然と沸いてくることも
少しずつ時間をかけて体験していきました。
思い返せば、時間をさかのぼっていくようなイメージワークをするときも
初めのうちは、すっかり忘れていた記憶が浮かんでくることに
大きな驚きを感じていたものです。
観察力を磨き、ミラーリングで身体意識を敏感なものにして、
ペーシングと同調のトレーニングで心の範囲が自覚できてきました。
少しずつ体験の幅を広げてきたから大きな衝撃がない。
そういうことなんだと思います。
週に何回か、お風呂の中で体験する
「あぁ、そういうことか…」という感じも、
5年前ぐらいだったら、誰かに話したくて仕方ないような
大発見に思えていた気がします。
慣れるんです。
色々なことが当たり前の範囲に入ってくる。
振り返ってみると、
初めてNLPをやったときが一番衝撃的でした。
「こんなことがあるのか!」と驚きの連続だったものです。
アンカリングやサブモダリティ・チェンジで大興奮していました。
催眠誘導を受けて、「トランスって不思議〜」なんて思っていたものです。
そういう体験を「面白い」とか「スゴイ」と感じられる時期のほうが
伝える側としても「スゴイでしょ!?」という興奮を交えながら
やれていたんじゃないかと思えます。
そうやって自分が受けた衝撃を他の人にも伝えたいという想いは
強い動機ともなりますし、何より他者を惹きつけるんでしょう。
いつからか、僕には驚きさえも減ってきて
「伝えたい」という強い想いや、「伝えるのが楽しい」という気持ちも
感じられなくなっていたようです。
まぁ、反面、プロとしてのお手伝いの精度は向上したと思いますし、
当たり前に使えるようになってきた多くの技術を駆使して
『効果』を高められていたと自負はしています。
しかし、それは目的が「伝える」じゃないんです。
「伝道者」は、その”伝えたいもの”を
「素晴らしい」と思っている必要があると感じられるんです。
今と比べたら全然分かっておらず、技術も乏しかった駆け出しの頃。
実は、その頃のほうが「伝道者」としては想いを持っていたかもしれません。
「伝える」ことそのものの喜びを発していたのは
あの頃の自分のほうだったんじゃないか、と。
魅力を伝えられていたのは、以前の自分のほうだろうと思います。
「伝道者」から、徐々に「トレーナー」や「セラピスト」へと移っていった感じ。
「技術のトレーニングをする人」としてのトレーナーに。
裏で「セミナーを通じたグループセラピーをする」セラピストに。
それだと、「スゴイものを教わった」という印象は薄くなりやすいと考えられます。
講師には伝道者として「これスゴイでしょ!」という想いがあったほうが
受講生側には満足感が高まりやすいでしょう。
「伝道者」をやれる人は、世の中にとって大切なんだと思います。
僕は、ジワジワと変わり続けていったようです。
当たり前がシフトしていった。
その結果、驚きや衝撃が減ってきたみたいです。
だからできることもあります。
が、驚きや衝撃が強く印象に残っている人のほうが
「スゴイもの」として伝えることができる、という側面もあるんです。
僕も10年前に、今の体験の仕方と急に遭遇していたら
その衝撃の大きさから「伝道者」になっていたかもしれません。
実際は違いましたが。
僕はジワジワのほう。
広める人よりも、少数にトレーニングする人に近い。
そういうことみたいです。
もし10年前、研究職をしていた自分が
ある日突然に経験することになったとしたら…。
きっと、その違いの変化に驚き、
差を衝撃的なものとして受け止めて、
激しい混乱をしていたことだろうと思います。
幻覚や幻聴のように捉えるものもあったかもしれません。
周りの人に「こんな体験ってありますか?」なんて聞いてみたりして
「いや、ないけど。大丈夫?病院でも行ったら?」
などと言われていたんじゃないでしょうか。
それで、とりあえず感覚体験としての”異常”から対処し始めて
「見え方が変だ」といって眼科に行き、
原因不明で、あちこちをたらいまわしになってりしたかも。
最終的には「うーん、ストレスでしょうね…」なんて診断されて、
研究職としての仕事を休むようになるか、
あるいは、
「なんで誰も分からないんだ?おかしいじゃないか!」と
余計にストレスを蓄積していって苦しんだものと想像します。
場合によっては、精神科に行って薬を処方され
副作用との区別もつかなくなって…
なんてこともあったかもしれません。
ひょっとしたら逆に、
「なんだこれは、神秘体験か!」
といった方向に解釈して、
スピリチュアルな方向に道を変えていた可能性も。
「ある日突然、私は”覚醒体験”をしたんです」とか
「急に人の気持ちが”テレパシー”で伝わってくるようになりました」とか
そんなことを言いだしていたりしたとも言えなくはなさそうです。
ただ、変化がゆっくりだっただけなんでしょう。
イメージや内部対話などの内的体験を細かく感じ分け、
自分自身の内面と向き合ってきました。
催眠などのプロセスを通じて、
誘導内容によってイメージが自然と沸いてくることも
少しずつ時間をかけて体験していきました。
思い返せば、時間をさかのぼっていくようなイメージワークをするときも
初めのうちは、すっかり忘れていた記憶が浮かんでくることに
大きな驚きを感じていたものです。
観察力を磨き、ミラーリングで身体意識を敏感なものにして、
ペーシングと同調のトレーニングで心の範囲が自覚できてきました。
少しずつ体験の幅を広げてきたから大きな衝撃がない。
そういうことなんだと思います。
週に何回か、お風呂の中で体験する
「あぁ、そういうことか…」という感じも、
5年前ぐらいだったら、誰かに話したくて仕方ないような
大発見に思えていた気がします。
慣れるんです。
色々なことが当たり前の範囲に入ってくる。
振り返ってみると、
初めてNLPをやったときが一番衝撃的でした。
「こんなことがあるのか!」と驚きの連続だったものです。
アンカリングやサブモダリティ・チェンジで大興奮していました。
催眠誘導を受けて、「トランスって不思議〜」なんて思っていたものです。
そういう体験を「面白い」とか「スゴイ」と感じられる時期のほうが
伝える側としても「スゴイでしょ!?」という興奮を交えながら
やれていたんじゃないかと思えます。
そうやって自分が受けた衝撃を他の人にも伝えたいという想いは
強い動機ともなりますし、何より他者を惹きつけるんでしょう。
いつからか、僕には驚きさえも減ってきて
「伝えたい」という強い想いや、「伝えるのが楽しい」という気持ちも
感じられなくなっていたようです。
まぁ、反面、プロとしてのお手伝いの精度は向上したと思いますし、
当たり前に使えるようになってきた多くの技術を駆使して
『効果』を高められていたと自負はしています。
しかし、それは目的が「伝える」じゃないんです。
「伝道者」は、その”伝えたいもの”を
「素晴らしい」と思っている必要があると感じられるんです。
今と比べたら全然分かっておらず、技術も乏しかった駆け出しの頃。
実は、その頃のほうが「伝道者」としては想いを持っていたかもしれません。
「伝える」ことそのものの喜びを発していたのは
あの頃の自分のほうだったんじゃないか、と。
魅力を伝えられていたのは、以前の自分のほうだろうと思います。
「伝道者」から、徐々に「トレーナー」や「セラピスト」へと移っていった感じ。
「技術のトレーニングをする人」としてのトレーナーに。
裏で「セミナーを通じたグループセラピーをする」セラピストに。
それだと、「スゴイものを教わった」という印象は薄くなりやすいと考えられます。
講師には伝道者として「これスゴイでしょ!」という想いがあったほうが
受講生側には満足感が高まりやすいでしょう。
「伝道者」をやれる人は、世の中にとって大切なんだと思います。
僕は、ジワジワと変わり続けていったようです。
当たり前がシフトしていった。
その結果、驚きや衝撃が減ってきたみたいです。
だからできることもあります。
が、驚きや衝撃が強く印象に残っている人のほうが
「スゴイもの」として伝えることができる、という側面もあるんです。
僕も10年前に、今の体験の仕方と急に遭遇していたら
その衝撃の大きさから「伝道者」になっていたかもしれません。
実際は違いましたが。
僕はジワジワのほう。
広める人よりも、少数にトレーニングする人に近い。
そういうことみたいです。
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この記事へのコメント
1. Posted by よしお 2013年10月02日 12:24
先生は「感激」が薄くなってしまったかもしれないけれど、私は先生から受けたカウンセリングで非常に楽になった自分に「驚き」を感じましたよ。
NLPやカウンセリングに対する知識の無さのせいで、先生のカウンセリングのどの部分が自分にどのような影響をもたらしたのかが理解&認識できない為、「驚き」という感覚になったのだと思いますが。
どのような形(広める人、トレーナー)であっても、先生は多くの方の心を救って(サポートという言い方が好まれそうですが)くれているような気がします。
NLPやカウンセリングに対する知識の無さのせいで、先生のカウンセリングのどの部分が自分にどのような影響をもたらしたのかが理解&認識できない為、「驚き」という感覚になったのだと思いますが。
どのような形(広める人、トレーナー)であっても、先生は多くの方の心を救って(サポートという言い方が好まれそうですが)くれているような気がします。