2014年03月07日
速読のはなし
すごく丁寧に、心を込めて作ってくれた料理を食べる機会があったとします。
どれだけ気持ちの入ったものかも分かっていて、
しかも滅多に食べることのできないものだと知っている。
それはもう焦がれるように待ちわびていた料理。
そんな料理を食べるとき、どのような食べ方をするでしょうか?
きっと食べる側も心をこめて、全身全霊で食べるんじゃないかと思います。
食べるスピードは噛む回数や一口のサイズとかもあるでしょうから
一概には言えませんが、それでも普段よりはゆっくりになりそうです。
僕なら、一品ずつ丁寧に味わい、その見た目にも気を配りながら、
どれだけの手間をかけてくれたのかを察するように食べるでしょう。
もう二度と食べられないかもしれない…ぐらいの覚悟で
いつまでも記憶に留めておけるように、集中して食べます。
もしかすると、普段よりも作法にも気を配り、
食べ方の見た目としても美しくなるように心がけるかもしれません。
あたかも、そうした食べ方が、心を込めた料理へのお返しであるかのように。
少なくとも、新聞やマンガを読みながら食べたりはしない気がします。
急いで食事を済ませて、作業に戻るなんてこともないと思うんです。
また、自分の一番好きな映画を見るとき、大好きな音楽を聞くときには
2倍速で時間を節約したりはしないものでしょう。
2時間の映画なら、2時間かけて見ることで感じられるものがあります。
あらすじを知りたいだけなら早送りでもダイジェストでも良いでしょうが、
好きなものだったら、何度でも2時間かけて見るんじゃないでしょうか。
好きな音楽を聞くときだってそうです。
音楽には、そのテンポだからこその魅力があるはずです。
テンポが違えば、曲の雰囲気は別物になってしまいます。
ましてその映画に自分の好きな俳優が出ていたり、
その映画が、好きな映画監督の作った作品だったり、
自分の親友が初出演している映画だったりした場合には、
もうそれは食い入るように映画を見ると思います。
売れない頃からずーっと応援していたミュージシャンのデビュー曲だったら
姿勢を正して深呼吸をしてから聴き始めるぐらいするかもしれません。
『フランダースの犬』の最終回で、主人公・ネロが
ずっと見たかったルーベンスの絵を見られたときのように、
憧れの名画をやっと見られたとしたら、
そこに立ち止まって眺めていたい衝動に駆られることでしょう。
間違ってもパッと一瞥して前を通り過ぎることはないはずです。
注意されるまでずっと留まって絵を眺めたいでしょうし、
何度でも美術館を訪れて絵を見ようとすると思います。
大切な人から送られてきた手紙だって同様です。
とても丁寧に、一単語ずつ噛みしめるように読むものでしょう。
文章の意味を誤解しないように注意深く読みながら、
同時に行間に込められた気持ちにも想いを馳せる。
紙を傷めないように丁寧に扱って、
折り目さえも価値のあるものに感じられて…。
何度も何度も読み返しては、箱にしまって大切に保存する。
読まないときだって、その手紙の保管してある場所を眺めては
手紙を送ってくれた人のことを想ったりもするかもしれません。
大切な人が心を込めて作ってくれた物には
誠心誠意、丁寧に関わりたくなるものだと思うんです。
適当に流して、何かのついでに体験したりはしないでしょう。
全力で、じっくり時間をかけて正面から向き合うものじゃないでしょうか。
速読や速聴は、目的によっては役立つ技術だと思います。
そして多くの場合、
「できるかどうか?」、「使えるかどうか?」の議論になるようです。
しかし、「できる」としても、目的を明確にして「役立てられる」としても、
そこには決定的に欠けているものがあります。
捨てているものがあるんです。
以前に YouTube の動画で見たCMだったと思いますが、
こんなエピソードが描かれていました。
高齢の男性が語学学校のようなところに通うんです。
英語を話せても、読み書きができない人のようでした。
小さな子供や外国人に混ざって、ABCから習い始め
少しずつ文章を読めるようになっていく。
最初は子供向けの絵本を読み、そこから徐々に難しい内容へと進む。
ついに、一冊の厚い本を読破するんです。
そしてある日、その本をもって酒場へ足を運ぶ。
そこには友達と酒を酌み交わす若い男性がいます。
その人は、読破したその本を持って、その若者に話しかける。
「読んだよ」と。
酒場にいた若者は、その人の息子で
本を出版したようでした。
その男性は、自分の息子が書いた本を読むために
イチから読み書きを習い始め、その本を読破するんです。
一冊の本のために、どれだけの時間と労力が割かれたことか。
作品には作者の想いが込められています。
多くの時間をかけ、何度も推敲を重ね、やっと形になるんです。
その作者が自分にとって大切な相手だったら、
仮に興味のない分野だったとしても、時間をかけて堪能しようとするでしょう。
絵を鑑賞するのは、何が描かれているかを認識するのとは別物です。
一本の映画を見るのは、あらすじを読むのとは意味が違います。
料理を味わうのは、空腹を満たすのとは異なる体験です。
本を読むのは、情報収集のためだけではないはずです。
理想的には、大切な人間関係における手紙のような意味もある。
大切な相手を想って手紙を書き、大切な人からの手紙を心をこめて読む。
…そんなやり取りに近いものが、本にも含まれる可能性があります。
速読は『それ』を捨てている。
情報収集のためと割り切って、読むスピードを上げるとき、
僕は「大事なものを捨てている」ことを心に留めておきたいと思っています。
どれだけ気持ちの入ったものかも分かっていて、
しかも滅多に食べることのできないものだと知っている。
それはもう焦がれるように待ちわびていた料理。
そんな料理を食べるとき、どのような食べ方をするでしょうか?
きっと食べる側も心をこめて、全身全霊で食べるんじゃないかと思います。
食べるスピードは噛む回数や一口のサイズとかもあるでしょうから
一概には言えませんが、それでも普段よりはゆっくりになりそうです。
僕なら、一品ずつ丁寧に味わい、その見た目にも気を配りながら、
どれだけの手間をかけてくれたのかを察するように食べるでしょう。
もう二度と食べられないかもしれない…ぐらいの覚悟で
いつまでも記憶に留めておけるように、集中して食べます。
もしかすると、普段よりも作法にも気を配り、
食べ方の見た目としても美しくなるように心がけるかもしれません。
あたかも、そうした食べ方が、心を込めた料理へのお返しであるかのように。
少なくとも、新聞やマンガを読みながら食べたりはしない気がします。
急いで食事を済ませて、作業に戻るなんてこともないと思うんです。
また、自分の一番好きな映画を見るとき、大好きな音楽を聞くときには
2倍速で時間を節約したりはしないものでしょう。
2時間の映画なら、2時間かけて見ることで感じられるものがあります。
あらすじを知りたいだけなら早送りでもダイジェストでも良いでしょうが、
好きなものだったら、何度でも2時間かけて見るんじゃないでしょうか。
好きな音楽を聞くときだってそうです。
音楽には、そのテンポだからこその魅力があるはずです。
テンポが違えば、曲の雰囲気は別物になってしまいます。
ましてその映画に自分の好きな俳優が出ていたり、
その映画が、好きな映画監督の作った作品だったり、
自分の親友が初出演している映画だったりした場合には、
もうそれは食い入るように映画を見ると思います。
売れない頃からずーっと応援していたミュージシャンのデビュー曲だったら
姿勢を正して深呼吸をしてから聴き始めるぐらいするかもしれません。
『フランダースの犬』の最終回で、主人公・ネロが
ずっと見たかったルーベンスの絵を見られたときのように、
憧れの名画をやっと見られたとしたら、
そこに立ち止まって眺めていたい衝動に駆られることでしょう。
間違ってもパッと一瞥して前を通り過ぎることはないはずです。
注意されるまでずっと留まって絵を眺めたいでしょうし、
何度でも美術館を訪れて絵を見ようとすると思います。
大切な人から送られてきた手紙だって同様です。
とても丁寧に、一単語ずつ噛みしめるように読むものでしょう。
文章の意味を誤解しないように注意深く読みながら、
同時に行間に込められた気持ちにも想いを馳せる。
紙を傷めないように丁寧に扱って、
折り目さえも価値のあるものに感じられて…。
何度も何度も読み返しては、箱にしまって大切に保存する。
読まないときだって、その手紙の保管してある場所を眺めては
手紙を送ってくれた人のことを想ったりもするかもしれません。
大切な人が心を込めて作ってくれた物には
誠心誠意、丁寧に関わりたくなるものだと思うんです。
適当に流して、何かのついでに体験したりはしないでしょう。
全力で、じっくり時間をかけて正面から向き合うものじゃないでしょうか。
速読や速聴は、目的によっては役立つ技術だと思います。
そして多くの場合、
「できるかどうか?」、「使えるかどうか?」の議論になるようです。
しかし、「できる」としても、目的を明確にして「役立てられる」としても、
そこには決定的に欠けているものがあります。
捨てているものがあるんです。
以前に YouTube の動画で見たCMだったと思いますが、
こんなエピソードが描かれていました。
高齢の男性が語学学校のようなところに通うんです。
英語を話せても、読み書きができない人のようでした。
小さな子供や外国人に混ざって、ABCから習い始め
少しずつ文章を読めるようになっていく。
最初は子供向けの絵本を読み、そこから徐々に難しい内容へと進む。
ついに、一冊の厚い本を読破するんです。
そしてある日、その本をもって酒場へ足を運ぶ。
そこには友達と酒を酌み交わす若い男性がいます。
その人は、読破したその本を持って、その若者に話しかける。
「読んだよ」と。
酒場にいた若者は、その人の息子で
本を出版したようでした。
その男性は、自分の息子が書いた本を読むために
イチから読み書きを習い始め、その本を読破するんです。
一冊の本のために、どれだけの時間と労力が割かれたことか。
作品には作者の想いが込められています。
多くの時間をかけ、何度も推敲を重ね、やっと形になるんです。
その作者が自分にとって大切な相手だったら、
仮に興味のない分野だったとしても、時間をかけて堪能しようとするでしょう。
絵を鑑賞するのは、何が描かれているかを認識するのとは別物です。
一本の映画を見るのは、あらすじを読むのとは意味が違います。
料理を味わうのは、空腹を満たすのとは異なる体験です。
本を読むのは、情報収集のためだけではないはずです。
理想的には、大切な人間関係における手紙のような意味もある。
大切な相手を想って手紙を書き、大切な人からの手紙を心をこめて読む。
…そんなやり取りに近いものが、本にも含まれる可能性があります。
速読は『それ』を捨てている。
情報収集のためと割り切って、読むスピードを上げるとき、
僕は「大事なものを捨てている」ことを心に留めておきたいと思っています。