2014年08月06日
書道とコミュニケーション
ここ数日、諸事情があって筆を握る時間が増えています。
書道です。
普段から週に一回、書道教室に通っていて
そこの宿題があるので、週に数時間は練習をしています。
とはいえ、平均すると一週間に3時間ぐらい。
宿題の量が少ない時は、1時間ぐらいで終わってしまいます。
それは先生のお手本を見ながら書くからです。
真似をするだけ。
もちろん、真似を通じて学んでいるわけですから
その時間も大切な練習になっているはずです。
先生と全く同じにできるのでもありません。
近づけるように頑張る。
ただ、もう5年近くやっていますし、
その間、他のどの生徒よりも先生の書き方を細かく見ていた自信と
先生の書き方を細かく真似する努力をしてきた自信がありますから、
それなりに「真似をする」のは上手くなってきた気がします。
僕の先生の指導法は、生徒の目の前でお手本を書いてくれて、
それを宿題にして生徒に書いて持ってこさせ、
生徒が書いたものに対して赤で直しを入れてくれる、というスタイル。
…もうこの繰り返しです。
ですが、良いのか悪いのか、僕が赤で直されることは滅多にありません。
多分、何カ月も赤が入っていないと思います。
その分、僕にとっての指導内容は、先生が書いているところを観察すること。
そして、自分の練習した4枚ぐらい(同じもの)の中から、
一番よくできているものを先生が選ぶところを観察すること。
つまり、良い作品を見極める審美眼を養うために、
先生の選ぶ基準を盗むのが最近の課題になっているということです。
真似をして書くのには慣れてきて時間もかからなくなってきたけれど
自分の書いたものの中でどれが良いかを判断するのは難しい。
そんな状態だといえます。
一方、ここ数日の間に筆をもつ時間が増えたのは
教室の宿題が理由ではありません。
ちょっと人から頼まれたんです。
「書いて」と。
この場合、お手本はありません。
何かを見て、真似をして書くわけではないんです、当然ですが。
ですから、「何が良いか」という自分の審美眼を使いながら
自分で構成を考えて、実際に書いてみる作業が必要になります。
書く前からイメージがあれば良いんでしょうけれど、
全体の統一感を出しながら、筆使いのバリエーションを考え、
どういう線質をどの部分に使って、どういう雰囲気を出すか…
といった沢山のことを事前に想定するのは、今の僕には厳しいです。
そのため、
色々なバリエーションで書いてみる
→ 書き上がったものを自分で判断してみる
→ どうしたら良さそうかをイメージする
→ その想定で書きなおしてみる (→)
…という繰り返しをすることになります。
この全体の感じだったら、この部分の文字はこういう形のほうが良いか、とか
やっぱりこの線のかすれ具合を、この部分に入れたほうが良さそうだ、とか
書いたものを入れ替えながらでしか検討作業ができないみたいです。
慣れてくれば頭の中でイメージするだけで進むんでしょうが
僕の現状はそのレベルではありません。
自分のパフォーマンスを客観的に見て評価するためには
一度、目で見られる形に書きあげる必要があるようです。
書いては眺め、修正しては眺め…
思いつきで書いたこっちのバランスが良さそうだと思えば、
その書き方を取り入れて書きなおし…。
そんな繰り返しをしていますから、とにかく時間がかかります。
パソコンだったら、「 CTRL + Z 」で1操作分を元に戻せますが
墨で書いているとそうはいきません。
やたらと書きなおす量が多くなります。
しかも、お手本を見ながら、という逃げ場がないため
なかなか自分の先入観の範囲を出られないんです。
先生のお手本が自分の想定と違っても、
「あぁ、こういうバランスの取り方もあるんだ」と納得して
それを真似するように書くことができます。
この場合、不自然さを感じることはありません。
ところが自分でバランスのとり方を工夫しようとすると
自分にとって当然と感じられる範囲の中でしか工夫できない。
この壁は大きいものだと実感します。
試しにあり得ないぐらいに大きくバランスを変えて試してみて、
書いている途中の気持ち悪さを抑え込んで書き上がったものを眺める。
すると案の定ヒドイのもあれば、
意外に「あぁ、こういうのもアリか…」というのも見つかります。
どうやら「どういうのが良いか」を判断する基準そのものは
これまでのなんとなくの繰り返しで少しずつ磨かれてきていたみたいです。
ただし、その判断するプログラムは、
書き上がったものを見たときにしか働かないようなので、
最初から良さそうなアイデアを出してくれるものではありません。
書くときと、書き上がったものをみるときでは
使っている判断基準(つまりプログラム)が違っているのでしょう。
書く作業の途中では、
頭の中の1つのイメージ(もしくはお手本)と近いかどうかを基準にする。
適当に書いているのではなくて、見本に近づけようとして書くわけです。
一方、書いたものを見て判断する段階では、
紙の上に載っている白と黒のバランス、形としてのバランスだけに注目して、
それが今までに知っているものと似ているかどうかとは無関係に
純粋に良いバランスかどうかを基準としているようです。
書いている間には似ているかどうかを気にしているのに、
書き終わったらバランスの良さのほうを気にするようになる。
そんな使い分けがあるんだと実感します。
一度書いたものを眺めて、「こういうバランスも良いな」と感じると
その新たなバランスのイメージが見本として設定されて、
そのイメージ見本に似ているかどうかを気にしながら書く段階に移る。
細かく自分を観察すると、そんな使い分けがあることに気づきます。
これがきっと、似ているかどうかを基準とするのではなく、
「バランスを基準にしながら書く」ということができるようになると
もっと自然に、楽に、早く書けるようになるんじゃないかと思われます。
なんだかコミュニケーションに通じるところがある気がします。
多くの人は、知らないうちに作り上げた自分の標準的なスタイルがあって、
それと同じように(似せるようにして)コミュニケーションを行います。
その標準的なスタイルから外れるのが不快なんです。
練習をするのであれば、自分にとってはあり得ないように
大袈裟なほど違うやり方でコミュニケーションをしてみるのが役立ちます。
上手くいかないこともあるでしょうが、
ちょうど書道で「あ、こんなバランスの取り方もアリか…」というのと同様に、
「へー、こんな関わり方をしても意外とスムーズに成立するんだ」と
新たな発見が生まれることもあります。
ここでは自分の取ったコミュニケーションを客観的に振り返るのが必要です。
頭の中のイメージを紙に書いてから眺めるのと似ています。
コミュニケーションでも客観性を上げたければ、ビデオ撮影も良いでしょう。
そしてコミュニケーションの最中から自分を客観的に観察できるようになると
実際に他者とかかわっている間から、相手との関係性を気にしつつ
自分のコミュニケーションの方法を工夫できるようになるわけです。
つまり…。
【書道】 自分にとっての文字の標準形とは、あえて違ったものを書いてみる
⇔【人間関係】 自分が普段しない関わり方をやってみる
↓
【書道】 自分の書いてみたものを眺めてみて、バランスを基準に判断する
→「あぁ、こういうバランスの取り方もアリだな」と感じる
⇔【人間関係】 自分がやってみた関わり方の影響を、相手の反応で調べる
→「あぁ、こういう関わり方でも大丈夫なんだ」と分かる
↓
【書道】 お手本や自分のイメージに似ているかどうかを基準とせずに
全体のバランスが良いかどうかを基準にしながら
書いている途中で柔軟に工夫できるようになる
⇔【人間関係】 自分が普段しているコミュニケーションの安心感ではなく、
相手へ与える影響を基準にしながら、
自分の振る舞いを柔軟に選べるようになる
といった関係性です。
そういえば、コミュニケーションを勉強していた時期にも、
「こういう関わり方が望ましい」という見本を教わって
それに近づけられるかどうかを基準としていたことがありました。
まるで書道で、先生のお手本にどれだけ似せられるか、のようなことでした。
ですが今、コミュニケーションにおいては、良い方法を基準とするのではなく
相手への影響を予測・観察しながら柔軟に変えていくスタイルになってきました。
書道では、全体のバランスを予測・観察しながら柔軟に書きかえる、
というのがまだ難しいんだろうと感じます。
なぜ、書道ではそちらの上達が遅かったのか?
答えはシンプルでしょう。
目的がなかったから。
コミュニケーションでは常に狙いがありました。
「この関係性をどうしたいか?」と、いつも自分に問いかけていました。
でも書道では真似しかしていなかった。
「どういう表現をしたいか?」と考えていなかったんです。
それはお手本を真似する行為ではなく
自分で何かを書いてみるということに当たります。
ちょうど今、その機会が得られたようです。
目的を持って書く理由がある。
やっと意味のある実践をし始めたところなのかもしれません。
書道です。
普段から週に一回、書道教室に通っていて
そこの宿題があるので、週に数時間は練習をしています。
とはいえ、平均すると一週間に3時間ぐらい。
宿題の量が少ない時は、1時間ぐらいで終わってしまいます。
それは先生のお手本を見ながら書くからです。
真似をするだけ。
もちろん、真似を通じて学んでいるわけですから
その時間も大切な練習になっているはずです。
先生と全く同じにできるのでもありません。
近づけるように頑張る。
ただ、もう5年近くやっていますし、
その間、他のどの生徒よりも先生の書き方を細かく見ていた自信と
先生の書き方を細かく真似する努力をしてきた自信がありますから、
それなりに「真似をする」のは上手くなってきた気がします。
僕の先生の指導法は、生徒の目の前でお手本を書いてくれて、
それを宿題にして生徒に書いて持ってこさせ、
生徒が書いたものに対して赤で直しを入れてくれる、というスタイル。
…もうこの繰り返しです。
ですが、良いのか悪いのか、僕が赤で直されることは滅多にありません。
多分、何カ月も赤が入っていないと思います。
その分、僕にとっての指導内容は、先生が書いているところを観察すること。
そして、自分の練習した4枚ぐらい(同じもの)の中から、
一番よくできているものを先生が選ぶところを観察すること。
つまり、良い作品を見極める審美眼を養うために、
先生の選ぶ基準を盗むのが最近の課題になっているということです。
真似をして書くのには慣れてきて時間もかからなくなってきたけれど
自分の書いたものの中でどれが良いかを判断するのは難しい。
そんな状態だといえます。
一方、ここ数日の間に筆をもつ時間が増えたのは
教室の宿題が理由ではありません。
ちょっと人から頼まれたんです。
「書いて」と。
この場合、お手本はありません。
何かを見て、真似をして書くわけではないんです、当然ですが。
ですから、「何が良いか」という自分の審美眼を使いながら
自分で構成を考えて、実際に書いてみる作業が必要になります。
書く前からイメージがあれば良いんでしょうけれど、
全体の統一感を出しながら、筆使いのバリエーションを考え、
どういう線質をどの部分に使って、どういう雰囲気を出すか…
といった沢山のことを事前に想定するのは、今の僕には厳しいです。
そのため、
色々なバリエーションで書いてみる
→ 書き上がったものを自分で判断してみる
→ どうしたら良さそうかをイメージする
→ その想定で書きなおしてみる (→)
…という繰り返しをすることになります。
この全体の感じだったら、この部分の文字はこういう形のほうが良いか、とか
やっぱりこの線のかすれ具合を、この部分に入れたほうが良さそうだ、とか
書いたものを入れ替えながらでしか検討作業ができないみたいです。
慣れてくれば頭の中でイメージするだけで進むんでしょうが
僕の現状はそのレベルではありません。
自分のパフォーマンスを客観的に見て評価するためには
一度、目で見られる形に書きあげる必要があるようです。
書いては眺め、修正しては眺め…
思いつきで書いたこっちのバランスが良さそうだと思えば、
その書き方を取り入れて書きなおし…。
そんな繰り返しをしていますから、とにかく時間がかかります。
パソコンだったら、「 CTRL + Z 」で1操作分を元に戻せますが
墨で書いているとそうはいきません。
やたらと書きなおす量が多くなります。
しかも、お手本を見ながら、という逃げ場がないため
なかなか自分の先入観の範囲を出られないんです。
先生のお手本が自分の想定と違っても、
「あぁ、こういうバランスの取り方もあるんだ」と納得して
それを真似するように書くことができます。
この場合、不自然さを感じることはありません。
ところが自分でバランスのとり方を工夫しようとすると
自分にとって当然と感じられる範囲の中でしか工夫できない。
この壁は大きいものだと実感します。
試しにあり得ないぐらいに大きくバランスを変えて試してみて、
書いている途中の気持ち悪さを抑え込んで書き上がったものを眺める。
すると案の定ヒドイのもあれば、
意外に「あぁ、こういうのもアリか…」というのも見つかります。
どうやら「どういうのが良いか」を判断する基準そのものは
これまでのなんとなくの繰り返しで少しずつ磨かれてきていたみたいです。
ただし、その判断するプログラムは、
書き上がったものを見たときにしか働かないようなので、
最初から良さそうなアイデアを出してくれるものではありません。
書くときと、書き上がったものをみるときでは
使っている判断基準(つまりプログラム)が違っているのでしょう。
書く作業の途中では、
頭の中の1つのイメージ(もしくはお手本)と近いかどうかを基準にする。
適当に書いているのではなくて、見本に近づけようとして書くわけです。
一方、書いたものを見て判断する段階では、
紙の上に載っている白と黒のバランス、形としてのバランスだけに注目して、
それが今までに知っているものと似ているかどうかとは無関係に
純粋に良いバランスかどうかを基準としているようです。
書いている間には似ているかどうかを気にしているのに、
書き終わったらバランスの良さのほうを気にするようになる。
そんな使い分けがあるんだと実感します。
一度書いたものを眺めて、「こういうバランスも良いな」と感じると
その新たなバランスのイメージが見本として設定されて、
そのイメージ見本に似ているかどうかを気にしながら書く段階に移る。
細かく自分を観察すると、そんな使い分けがあることに気づきます。
これがきっと、似ているかどうかを基準とするのではなく、
「バランスを基準にしながら書く」ということができるようになると
もっと自然に、楽に、早く書けるようになるんじゃないかと思われます。
なんだかコミュニケーションに通じるところがある気がします。
多くの人は、知らないうちに作り上げた自分の標準的なスタイルがあって、
それと同じように(似せるようにして)コミュニケーションを行います。
その標準的なスタイルから外れるのが不快なんです。
練習をするのであれば、自分にとってはあり得ないように
大袈裟なほど違うやり方でコミュニケーションをしてみるのが役立ちます。
上手くいかないこともあるでしょうが、
ちょうど書道で「あ、こんなバランスの取り方もアリか…」というのと同様に、
「へー、こんな関わり方をしても意外とスムーズに成立するんだ」と
新たな発見が生まれることもあります。
ここでは自分の取ったコミュニケーションを客観的に振り返るのが必要です。
頭の中のイメージを紙に書いてから眺めるのと似ています。
コミュニケーションでも客観性を上げたければ、ビデオ撮影も良いでしょう。
そしてコミュニケーションの最中から自分を客観的に観察できるようになると
実際に他者とかかわっている間から、相手との関係性を気にしつつ
自分のコミュニケーションの方法を工夫できるようになるわけです。
つまり…。
【書道】 自分にとっての文字の標準形とは、あえて違ったものを書いてみる
⇔【人間関係】 自分が普段しない関わり方をやってみる
↓
【書道】 自分の書いてみたものを眺めてみて、バランスを基準に判断する
→「あぁ、こういうバランスの取り方もアリだな」と感じる
⇔【人間関係】 自分がやってみた関わり方の影響を、相手の反応で調べる
→「あぁ、こういう関わり方でも大丈夫なんだ」と分かる
↓
【書道】 お手本や自分のイメージに似ているかどうかを基準とせずに
全体のバランスが良いかどうかを基準にしながら
書いている途中で柔軟に工夫できるようになる
⇔【人間関係】 自分が普段しているコミュニケーションの安心感ではなく、
相手へ与える影響を基準にしながら、
自分の振る舞いを柔軟に選べるようになる
といった関係性です。
そういえば、コミュニケーションを勉強していた時期にも、
「こういう関わり方が望ましい」という見本を教わって
それに近づけられるかどうかを基準としていたことがありました。
まるで書道で、先生のお手本にどれだけ似せられるか、のようなことでした。
ですが今、コミュニケーションにおいては、良い方法を基準とするのではなく
相手への影響を予測・観察しながら柔軟に変えていくスタイルになってきました。
書道では、全体のバランスを予測・観察しながら柔軟に書きかえる、
というのがまだ難しいんだろうと感じます。
なぜ、書道ではそちらの上達が遅かったのか?
答えはシンプルでしょう。
目的がなかったから。
コミュニケーションでは常に狙いがありました。
「この関係性をどうしたいか?」と、いつも自分に問いかけていました。
でも書道では真似しかしていなかった。
「どういう表現をしたいか?」と考えていなかったんです。
それはお手本を真似する行為ではなく
自分で何かを書いてみるということに当たります。
ちょうど今、その機会が得られたようです。
目的を持って書く理由がある。
やっと意味のある実践をし始めたところなのかもしれません。