2014年09月05日
ミックス理論
心理学だとか経営学だとかの理論は、原則的に
「こうすると上手くいく」、「こうするのが効果的」、「これが原因で、こうなる」
といった一般論を述べたものです。
多くの場合、それは理論を提唱した人が観察したり経験したりしたことを
1つの流れとして説明しています。
ある人が世の中(のある側面)をどのように理解したか、
ということが理論として語られている。
そこには様々な『想定』が含まれているんです。
フロイトであれば、「意識」と「無意識」という想定や
「自我(エゴ)」、「超自我(スーパーエゴ)」、「エス(イド)」という想定、
「トラウマが原因となって、ヒステリーが起こる」という想定などです。
理論を使うということは、目の前の出来事を
その説明に当てはめて理解するということになります。
ですから例えば、「この人の心の問題は、幼少期のこのトラウマが原因だ」
といった感じの理解になる。
「トラウマの感情が抑圧されているから問題が生まれる」
「だから、抑圧された感情を解放すれば問題は解決する」
といったものも、理論の一部といえます。
あくまで、ある人が「多分、こうなんだろう」と想定して作り上げたストーリーなので
もちろん例外的に当てはまらないケースも出てくるものです。
それに対しては、さらに細かな説明が追加されることもありますし、
別の人が「当てはまらないということは理論が違うんだ」といって
別の理論を提唱する場合もあります。
別の理論が生まれるのは、個人的な考え方の違い、
世の中で起きていることを捉えるときの「物の見方」の違いによります。
シンプルにいえば、みんな意見が違う、ということ。
「誰々の理論に沿って説明すればこう言えるけれど、
ここに関して、自分はこう思う」
といった話になれば、それは別の理論を提唱しているとも解釈できます。
いわば、人それぞれ理論を持っているものなんです。
その分野に詳しくて、自分なりに理解している経験則とか
「こうすれば上手くいく」といった考えがあれば、それはもう理論と呼べます。
世間一般に「理論」として知られるためには
何かしらの手段で公表する必要があるわけですが、
公表されていない理論も沢山あるものなんです。
ただ世間的には、その分野のことを全体的に網羅しながら
一人の意見で全てがまとまっているほうが分かりやすくて一貫性があるので
有効な理論として広く認知されやすいのでしょう。
フロイトも、ユングも、アドラーも、マズローも、ロジャースも、
エリク・エリクソンも、ピアジェも、経営でいえばドラッカーも、
どれも『理論』であって、一貫性のある有効な方法として有名だということです。
ここで気をつけたいのが
理論は混ぜられない
という部分。
ユングはフロイトと考えが合わなかったんです。
フロイトの精神分析では、自分の観察した現象が説明できない。
自分はこういうことなんだろうと思う、と新たな考えを追加した。
「意識」や「無意識」という想定は引き継いだものの
「集合無意識」などの説明はフロイトとは異なる部分なんです。
だからユングはフロイトとは別の理論。
アドラーも精神分析から出発していながら
新たな想定をしていったために、アドラー理論となったわけです。
複数の理論を見ていくと、その中には共通点もあるものですし、
実際に誰かの理論を踏まえながら、新たな想定を加えることで
別の理論として形作られたものもあります。
つまり、別の想定が加わった場合には、
それはもう元の理論ではないんです。
その追加された別の想定が、自分の気づいた意見であっても、
誰かの他の理論で使われている一部の想定であっても、
何かを加えたらもう、元の理論ではありません。
「○○の理論と△△の理論を合わせています」なんていう言い方は、本来
「自分で新たな理論を作りました」と呼ぶほうが適切なわけです。
まぁ、世間的には有名人の名前のついた理論を挙げておいたほうが
説得力があるように見てもらえるのでしょうから、
「○○の理論に△△を合わせています」というアピールは
戦略として効果的なのかもしれません。
とはいえ、
何かと合わせたら、それはもう元の理論とは違う
というのが用語上の原則だと考えられます。
だからといって、「独自の理論です」と謳ってしまうと
今度は「なんだ、○○の理論と似たようなものじゃないか!」
という指摘に合いやすくなるものです。
別の部分があれば、それはもう別の呼び方をされるはずの理論ですから
自分で勝手に名前をつけたって構わないところなんですが、
一般的な見方からすると「似ている」というのは気になることなんでしょう。
別の名前がついているからには全く別のものを想像しやすいのか、
オリジナルに対して厳しい傾向があるような気がします。
元の理論と違っていることを言ってしまえば
「それは、○○理論じゃあないだろう」と指摘され、
違いを含んでいるから新しい別の理論だと名前をつければ
「それは、○○理論と同じじゃないか」と指摘される。
なんともややこしい話です。
でも、料理で喩えれば、当たり前のことに思えるんじゃないでしょうか。
「○○さんのレシピをアレンジしました」といったら
それはやっぱり、新しいレシピでしょう。
「のれん分け」なんです。
有名な○○というラーメン屋で修行して
自分の店で似たようなラーメンを出したら、
それは「○○系」のラーメンですが、別物として認識されます。
「二郎インスパイア系」は「ラーメン二郎」じゃないんです。
そしてここでも『要素の強さ』という着眼点があります。
フロイトの理論にはフロイトっぽい中核があって、
アドラーにはアドラーっぽいところがあります。
そういう影響力の強い想定が含まれています。
そこを取り入れると、一気にその「濃さ」が前面に出る。
味噌ダレを使ったら、一気に「味噌ラーメン」になって
豚骨ダシを濃いめに使ったら、一気に「〜豚骨ラーメン」になる。
「肉じゃが」だって「ポトフ」だって「ブイヤベース」だって「ボルシチ」だって
カレー粉を入れたら、もうジャンルは「カレー」になってしまいます。
心理学だとか、経営やマーケティング、営業だとか、コミュニケーションだとか、
そういった理論の中にも、影響力の強い要素があるんです。
混ぜた瞬間に一気に「カレー」になってしまうような想定が。
ちょっとでも別のものを混ぜたら、新しい理論になる。
それだけなら名前の問題ですから現実的に大差ないこともあるでしょう。
しかし、その混ぜたもののインパクトが強い場合、
インパクトの強いほうで一気に染まってしまうこともあるわけです。
カレー粉のぐらいインパクトの強い想定があるんです。
「○○に△△の発想を取り入れてやっています」と言いながら、
その△△の要素が濃過ぎて、まるっきり○○ではなくなってしまうケースです。
世の中には、様々な理論や手法が存在していますが、
中にはとても「薄味」なものもありますし、とても「濃厚」なものもあります。
「薄味」な手法は、それだけで丁寧に向き合っていくと
とても奥深い味わいを感じさせてくれるものです。
人それぞれの持ち味といった「素材」を活かしてくれます。
一方で、「濃厚な味の」手法は、インパクトが強くて分かりやすく、
瞬間的な満足感も得られやすいようです。
ただし、その中の「濃い」要素によって、
細かい部分が目立ちにくくなることもあります。
それが好きな人もいるのでしょうが、
「薄味」な手法と、「濃厚な味」の理論とを混ぜてしまったりすると、
それはもうスッカリ「濃い」ほうに変わってしまうはずです。
「混ぜる」というのは、新しい理論を作る行為なんです。
少しでもレシピが違えば、その店の味になるのと同様に、
理論を混ぜるのもアレンジするのも、新しいものを生み出す行為なんです。
美味しいものをあれこれ混ぜ合わせたって
めちゃくちゃな味になってしまうように、
混ぜる時には全体の仕上がりを気にするのが求められます。
それには、元の特徴をよく知った上で
全体の一貫性を考える必要があるのでしょう。
「こうすると上手くいく」、「こうするのが効果的」、「これが原因で、こうなる」
といった一般論を述べたものです。
多くの場合、それは理論を提唱した人が観察したり経験したりしたことを
1つの流れとして説明しています。
ある人が世の中(のある側面)をどのように理解したか、
ということが理論として語られている。
そこには様々な『想定』が含まれているんです。
フロイトであれば、「意識」と「無意識」という想定や
「自我(エゴ)」、「超自我(スーパーエゴ)」、「エス(イド)」という想定、
「トラウマが原因となって、ヒステリーが起こる」という想定などです。
理論を使うということは、目の前の出来事を
その説明に当てはめて理解するということになります。
ですから例えば、「この人の心の問題は、幼少期のこのトラウマが原因だ」
といった感じの理解になる。
「トラウマの感情が抑圧されているから問題が生まれる」
「だから、抑圧された感情を解放すれば問題は解決する」
といったものも、理論の一部といえます。
あくまで、ある人が「多分、こうなんだろう」と想定して作り上げたストーリーなので
もちろん例外的に当てはまらないケースも出てくるものです。
それに対しては、さらに細かな説明が追加されることもありますし、
別の人が「当てはまらないということは理論が違うんだ」といって
別の理論を提唱する場合もあります。
別の理論が生まれるのは、個人的な考え方の違い、
世の中で起きていることを捉えるときの「物の見方」の違いによります。
シンプルにいえば、みんな意見が違う、ということ。
「誰々の理論に沿って説明すればこう言えるけれど、
ここに関して、自分はこう思う」
といった話になれば、それは別の理論を提唱しているとも解釈できます。
いわば、人それぞれ理論を持っているものなんです。
その分野に詳しくて、自分なりに理解している経験則とか
「こうすれば上手くいく」といった考えがあれば、それはもう理論と呼べます。
世間一般に「理論」として知られるためには
何かしらの手段で公表する必要があるわけですが、
公表されていない理論も沢山あるものなんです。
ただ世間的には、その分野のことを全体的に網羅しながら
一人の意見で全てがまとまっているほうが分かりやすくて一貫性があるので
有効な理論として広く認知されやすいのでしょう。
フロイトも、ユングも、アドラーも、マズローも、ロジャースも、
エリク・エリクソンも、ピアジェも、経営でいえばドラッカーも、
どれも『理論』であって、一貫性のある有効な方法として有名だということです。
ここで気をつけたいのが
理論は混ぜられない
という部分。
ユングはフロイトと考えが合わなかったんです。
フロイトの精神分析では、自分の観察した現象が説明できない。
自分はこういうことなんだろうと思う、と新たな考えを追加した。
「意識」や「無意識」という想定は引き継いだものの
「集合無意識」などの説明はフロイトとは異なる部分なんです。
だからユングはフロイトとは別の理論。
アドラーも精神分析から出発していながら
新たな想定をしていったために、アドラー理論となったわけです。
複数の理論を見ていくと、その中には共通点もあるものですし、
実際に誰かの理論を踏まえながら、新たな想定を加えることで
別の理論として形作られたものもあります。
つまり、別の想定が加わった場合には、
それはもう元の理論ではないんです。
その追加された別の想定が、自分の気づいた意見であっても、
誰かの他の理論で使われている一部の想定であっても、
何かを加えたらもう、元の理論ではありません。
「○○の理論と△△の理論を合わせています」なんていう言い方は、本来
「自分で新たな理論を作りました」と呼ぶほうが適切なわけです。
まぁ、世間的には有名人の名前のついた理論を挙げておいたほうが
説得力があるように見てもらえるのでしょうから、
「○○の理論に△△を合わせています」というアピールは
戦略として効果的なのかもしれません。
とはいえ、
何かと合わせたら、それはもう元の理論とは違う
というのが用語上の原則だと考えられます。
だからといって、「独自の理論です」と謳ってしまうと
今度は「なんだ、○○の理論と似たようなものじゃないか!」
という指摘に合いやすくなるものです。
別の部分があれば、それはもう別の呼び方をされるはずの理論ですから
自分で勝手に名前をつけたって構わないところなんですが、
一般的な見方からすると「似ている」というのは気になることなんでしょう。
別の名前がついているからには全く別のものを想像しやすいのか、
オリジナルに対して厳しい傾向があるような気がします。
元の理論と違っていることを言ってしまえば
「それは、○○理論じゃあないだろう」と指摘され、
違いを含んでいるから新しい別の理論だと名前をつければ
「それは、○○理論と同じじゃないか」と指摘される。
なんともややこしい話です。
でも、料理で喩えれば、当たり前のことに思えるんじゃないでしょうか。
「○○さんのレシピをアレンジしました」といったら
それはやっぱり、新しいレシピでしょう。
「のれん分け」なんです。
有名な○○というラーメン屋で修行して
自分の店で似たようなラーメンを出したら、
それは「○○系」のラーメンですが、別物として認識されます。
「二郎インスパイア系」は「ラーメン二郎」じゃないんです。
そしてここでも『要素の強さ』という着眼点があります。
フロイトの理論にはフロイトっぽい中核があって、
アドラーにはアドラーっぽいところがあります。
そういう影響力の強い想定が含まれています。
そこを取り入れると、一気にその「濃さ」が前面に出る。
味噌ダレを使ったら、一気に「味噌ラーメン」になって
豚骨ダシを濃いめに使ったら、一気に「〜豚骨ラーメン」になる。
「肉じゃが」だって「ポトフ」だって「ブイヤベース」だって「ボルシチ」だって
カレー粉を入れたら、もうジャンルは「カレー」になってしまいます。
心理学だとか、経営やマーケティング、営業だとか、コミュニケーションだとか、
そういった理論の中にも、影響力の強い要素があるんです。
混ぜた瞬間に一気に「カレー」になってしまうような想定が。
ちょっとでも別のものを混ぜたら、新しい理論になる。
それだけなら名前の問題ですから現実的に大差ないこともあるでしょう。
しかし、その混ぜたもののインパクトが強い場合、
インパクトの強いほうで一気に染まってしまうこともあるわけです。
カレー粉のぐらいインパクトの強い想定があるんです。
「○○に△△の発想を取り入れてやっています」と言いながら、
その△△の要素が濃過ぎて、まるっきり○○ではなくなってしまうケースです。
世の中には、様々な理論や手法が存在していますが、
中にはとても「薄味」なものもありますし、とても「濃厚」なものもあります。
「薄味」な手法は、それだけで丁寧に向き合っていくと
とても奥深い味わいを感じさせてくれるものです。
人それぞれの持ち味といった「素材」を活かしてくれます。
一方で、「濃厚な味の」手法は、インパクトが強くて分かりやすく、
瞬間的な満足感も得られやすいようです。
ただし、その中の「濃い」要素によって、
細かい部分が目立ちにくくなることもあります。
それが好きな人もいるのでしょうが、
「薄味」な手法と、「濃厚な味」の理論とを混ぜてしまったりすると、
それはもうスッカリ「濃い」ほうに変わってしまうはずです。
「混ぜる」というのは、新しい理論を作る行為なんです。
少しでもレシピが違えば、その店の味になるのと同様に、
理論を混ぜるのもアレンジするのも、新しいものを生み出す行為なんです。
美味しいものをあれこれ混ぜ合わせたって
めちゃくちゃな味になってしまうように、
混ぜる時には全体の仕上がりを気にするのが求められます。
それには、元の特徴をよく知った上で
全体の一貫性を考える必要があるのでしょう。