2014年10月30日
沈黙の意義
寂しいときに、誰かと話をしたいと思う人は多いのではないでしょうか。
「寂しい」ということは、自分の存在を確かめたい状態とも捉えられますから、
話をすることを通じて自分の存在を実感したいのだろうと考えられます。
一般的に、自分という存在を実感するには感情の体験が使われます。
感情が動いたときに、自分という存在が生きている感じがするわけです。
多くの人にとって望ましいのは、いわゆるポジティブな感情のほうでしょう。
楽しさや嬉しさ、喜びや充実感、達成感などを体験するときは
寂しさを感じることは少ないはずです。
ポジティブな感情で存在を確かめられない境遇では、ときに人は
あえてネガティブな感情であっても体験しようとするようです。
誰かと一緒にいても無関心で何も交流がないと
自分の存在を否定されたように感じて、何でも良いから反応を得ようとする。
そういう場合には不快なコミュニケーションのパターンに陥って
結果的にネガティブな感情を体験することになる傾向が見受けられます。
それでも、無視される感じや存在を否定される状態よりはマシだとして
厄介なコミュニケーションのパターンを繰り返すことがあるみたいです。
当然ですが、ネガティブな感情で存在を実感するよりは
ポジティブな感情のほうが望ましいものなのでしょう。
寂しさが大きい場合ほど、求めるポジティブさも強くなるようです。
代表的な求められる状態は、絶対的な安心感や、承認、称賛など。
直接的に自分の存在を認めてもらえる感じに関心が向くということです。
そうなると会話の内容は、ただ楽しければ良いという感じではなくなります。
自分の大変さに共感してもらいたい。
自分の頑張りを承認してもらいたい。
自分の正しさに賛同してもらいたい。
自分の能力や成果を称賛してもらいたい。
…そういった願望を満たすための会話が増えてきます。
とはいえ、本人はそのことを自覚していないのが大半です。
自分としては普通に話がしたいだけのつもりで無自覚に承認や称賛を求める。
その人が承認や称賛を求めて話をしていると聞き手が分かっていれば
「大変でしたね」とか「スゴイですね」と言ってくれることもあるでしょうが、
何を求めて話しているかは言葉にされないために
聞き手が察せられるケースはさほど多くありません。
だから、いくら話しても承認や称賛がなかなか得られないんです。
話す本人だって何を求めているかを自覚しないで話していますから、
その無自覚な欲求が満たされるまでは「話したい」願望は収まりません。
だから沢山話す。
承認や称賛を無自覚に期待しながら話し続けるんです。
聞き手が察して言葉をかけるまで話したい気持ちは持続しますが
現実的には聞き手が速やかに察してくれることは少ないものです。
それどころか、長く続く話に嫌気がさしてきて、真剣に聞こうとしなくなる。
人によっては自慢っぽく聞こえる話を聴きたがらないこともあります。
そうして聞いてくれなくなると、余計に寂しさが強まります。
存在を認めてくれない状態になるわけですから当然でしょう。
承認や称賛を求めていると自覚していればコントロールも効くかもしれませんが
そうでない場合には、強まった寂しさを埋めるため、無自覚なままに
さらに承認や称賛を求めて話でアピールしようとします。
話が長くなるから聞いてもらえなくなる。
聞いてもらえないから、もっと聞いてもらおうとして話をする。
余計に話が長くなって、さらに聞いてもらえなくなる。
…そんな悪循環が起きます。
寂しいから、承認や称賛をしてくれるように聞いてもらいたくて、
とにかく沢山話をしたくなる、というパターンだといえます。
ところが見方を変えると
「寂しさ」は自分が自分の存在を認めていないことで起きている
ともいえるんです。
自分の中に、自分自身が認めていない部分がある。
自分で嫌いな部分とか、意図的に見ないようにしている部分とか、
すっかり無自覚に過ごしてしまって気づかなくなっている部分とか。
その部分が存在のアピールとして寂しさの感情を生み出す。
つまり、自分が自分をないがしろにしているために寂しくなる、と。
であれば、関心を外に向けることそのものが筋違いなんです。
自分の内側から生まれてくる存在への自己承認不足を
外側にいる他者に求めても、なかなか満たされることはありません。
それどころか、外からの承認を求めて外へ注意を向けるということは
自分の内側へ関心を向けないことになりますから、
さらに自分をないがしろにして逆効果になっている状態です。
他人に聞いてもらおうとするのではなく、自分で内面の声を聞く。
誰かに話をするのをやめて、一人で静かに心を落ち着ける。
そうすると自分の内面にあった寂しさに寄り添うことができます。
寂しいから誰かに話をして承認してもらおうとするのは
裏目に出ることが多いもののようです。
他人と話をすることで、自分の内面から目を背け
自分が自分の気持ちを放ったらかしにしているわけです。
沈黙して自分の内面を眺めるのは
「自分とともにいる」行為だということです。
話をするほどに、その自分は放ったらかしになるんです。
寂しいからといって誰かに話を聞いてもらおうとするのは
自分で自分を放ったらかしにして、自分で自分を一人ぼっちにして
余計に寂しさを募らせる行為でもあるのでしょう。
寂しいときこそ静かに自分と共にいる。
そういう時間も大切なはずです。
「寂しい」ということは、自分の存在を確かめたい状態とも捉えられますから、
話をすることを通じて自分の存在を実感したいのだろうと考えられます。
一般的に、自分という存在を実感するには感情の体験が使われます。
感情が動いたときに、自分という存在が生きている感じがするわけです。
多くの人にとって望ましいのは、いわゆるポジティブな感情のほうでしょう。
楽しさや嬉しさ、喜びや充実感、達成感などを体験するときは
寂しさを感じることは少ないはずです。
ポジティブな感情で存在を確かめられない境遇では、ときに人は
あえてネガティブな感情であっても体験しようとするようです。
誰かと一緒にいても無関心で何も交流がないと
自分の存在を否定されたように感じて、何でも良いから反応を得ようとする。
そういう場合には不快なコミュニケーションのパターンに陥って
結果的にネガティブな感情を体験することになる傾向が見受けられます。
それでも、無視される感じや存在を否定される状態よりはマシだとして
厄介なコミュニケーションのパターンを繰り返すことがあるみたいです。
当然ですが、ネガティブな感情で存在を実感するよりは
ポジティブな感情のほうが望ましいものなのでしょう。
寂しさが大きい場合ほど、求めるポジティブさも強くなるようです。
代表的な求められる状態は、絶対的な安心感や、承認、称賛など。
直接的に自分の存在を認めてもらえる感じに関心が向くということです。
そうなると会話の内容は、ただ楽しければ良いという感じではなくなります。
自分の大変さに共感してもらいたい。
自分の頑張りを承認してもらいたい。
自分の正しさに賛同してもらいたい。
自分の能力や成果を称賛してもらいたい。
…そういった願望を満たすための会話が増えてきます。
とはいえ、本人はそのことを自覚していないのが大半です。
自分としては普通に話がしたいだけのつもりで無自覚に承認や称賛を求める。
その人が承認や称賛を求めて話をしていると聞き手が分かっていれば
「大変でしたね」とか「スゴイですね」と言ってくれることもあるでしょうが、
何を求めて話しているかは言葉にされないために
聞き手が察せられるケースはさほど多くありません。
だから、いくら話しても承認や称賛がなかなか得られないんです。
話す本人だって何を求めているかを自覚しないで話していますから、
その無自覚な欲求が満たされるまでは「話したい」願望は収まりません。
だから沢山話す。
承認や称賛を無自覚に期待しながら話し続けるんです。
聞き手が察して言葉をかけるまで話したい気持ちは持続しますが
現実的には聞き手が速やかに察してくれることは少ないものです。
それどころか、長く続く話に嫌気がさしてきて、真剣に聞こうとしなくなる。
人によっては自慢っぽく聞こえる話を聴きたがらないこともあります。
そうして聞いてくれなくなると、余計に寂しさが強まります。
存在を認めてくれない状態になるわけですから当然でしょう。
承認や称賛を求めていると自覚していればコントロールも効くかもしれませんが
そうでない場合には、強まった寂しさを埋めるため、無自覚なままに
さらに承認や称賛を求めて話でアピールしようとします。
話が長くなるから聞いてもらえなくなる。
聞いてもらえないから、もっと聞いてもらおうとして話をする。
余計に話が長くなって、さらに聞いてもらえなくなる。
…そんな悪循環が起きます。
寂しいから、承認や称賛をしてくれるように聞いてもらいたくて、
とにかく沢山話をしたくなる、というパターンだといえます。
ところが見方を変えると
「寂しさ」は自分が自分の存在を認めていないことで起きている
ともいえるんです。
自分の中に、自分自身が認めていない部分がある。
自分で嫌いな部分とか、意図的に見ないようにしている部分とか、
すっかり無自覚に過ごしてしまって気づかなくなっている部分とか。
その部分が存在のアピールとして寂しさの感情を生み出す。
つまり、自分が自分をないがしろにしているために寂しくなる、と。
であれば、関心を外に向けることそのものが筋違いなんです。
自分の内側から生まれてくる存在への自己承認不足を
外側にいる他者に求めても、なかなか満たされることはありません。
それどころか、外からの承認を求めて外へ注意を向けるということは
自分の内側へ関心を向けないことになりますから、
さらに自分をないがしろにして逆効果になっている状態です。
他人に聞いてもらおうとするのではなく、自分で内面の声を聞く。
誰かに話をするのをやめて、一人で静かに心を落ち着ける。
そうすると自分の内面にあった寂しさに寄り添うことができます。
寂しいから誰かに話をして承認してもらおうとするのは
裏目に出ることが多いもののようです。
他人と話をすることで、自分の内面から目を背け
自分が自分の気持ちを放ったらかしにしているわけです。
沈黙して自分の内面を眺めるのは
「自分とともにいる」行為だということです。
話をするほどに、その自分は放ったらかしになるんです。
寂しいからといって誰かに話を聞いてもらおうとするのは
自分で自分を放ったらかしにして、自分で自分を一人ぼっちにして
余計に寂しさを募らせる行為でもあるのでしょう。
寂しいときこそ静かに自分と共にいる。
そういう時間も大切なはずです。





