2015年02月22日
演歌の心とカウンセリング
先日、テレビ番組で演歌歌手・八代亜紀が話していました。
「演歌を歌うときには感情を込めない」と。
感情を込めてしまうと、歌は歌手その人のものになってしまう。
感情を込めずに曲の世界観だけを伝えるから、
聞いている人がそこに自分を投影して感動できる。
そんな趣旨の説明でした。
だから少し微笑むような感じで歌うんだそうです。
本人は「楽しく」という言葉を使っていましたが、表情から察するに
「良かったね」という慈しみの感じが近そうに見えました。
もちろん、歌手の中には感情を込めて歌う人もいるそうです。
それを聞いて感動する人もいるはずです。
しかしそれはコミュニケーションに喩えるなら、
自分の辛かった体験談を泣きながら語るスピーチのようなもの。
あるいは悲しいエピソードの映画を見て
「泣きました!」と言っているのに近いといえます。
聴衆・観衆はその強い感情に巻き込まれて心を動かされます。
そこには同情的な感動や、自分では体験しないフィクションの出来事を
頭の中で仮想体験して感情に浸るというプロセスが起きているのでしょう。
一方、演歌(少なくとも八代亜紀の場合)では
聞いている人が自分自身のこととして受け取れるだけの余白を残す。
「歌っている私の気持ちではないんです。
あなたはこんな気持ちなんでしょう。」
といった感じでしょうか。
実際、番組中に八代亜紀は二種類の非言語メッセージで
「つらかったね」を言い分けていました。
1つは感情を込めた「つらかったね」。
自分でも辛そうな顔をして、泣きそうな声になりながら
「…つらかったね・・・」と。
もう1つは感情を込めないほう。
優しく微笑みを浮かべながら、暖かい目と穏やかな声で
「つらかったねえ…」と、いたわるような語りかけでした。
2つ目のほうの非言語メッセージには、なんだか
「それは、つらかったろう(でも、もう大丈夫だよ)」
といった奥行きがあるようにも感じられました。
演歌はそうやって歌うんだ、という話でした。
それによって聞いている人が自分の心と向き合って
自分のこととして感動することができるようです。
ここにカウンセリングとの共通点があるんです。
カウンセリングの意図を、クライアントの気持ちが楽になる方向性とすれば
クライアントが「ああ、分かってもらえた」と感じられることが重要になります。
クライアントの「分かってもらえた」が大事なんです。
カウンセラーの「分かります!」は大事じゃないんです。
日常会話であれば、誰かの悩みや不満を聞いたとき
「あー、それ!分かる分かる!それムカつくよねー」
「でしょー?本ッ当に嫌なのよー、もうー」
というコミュニケーションも役に立つかもしれません。
不満を通じてお互いの共通点を見出し「分かりあえた」体験があると思います。
お互いに分かりあえて安心するところもあることでしょう。
ですが、一般的にカウンセリングに来る人の期待は
「分かりあう」ことではないものです。
「分かって欲しい」んです。
カウンセラー側が「分かる、分かる!」というのは
カウンセラー自身が持っている不満と同じものを持った人を見つけて
「分かりあえた」と感じるイーブン(対等)な関わりです。
クライアントとカウンセラーの双方に
「分かってくれる人がいた」という認識が生まれ、
「分かりあえた」という実感になるのかもしれませんが、
それだと『半分ずつ』になってしまいます。
別にそういうカウンセラーがいたって
そのことで不満を述べるクライアントは少ないものです。
悩んでいたって大人ですから、カウンセラーとはいえども
自分の期待通りの対応をしてくれるとは限らないのは想定内でもある。
50%ずつであっても「分かってもらえた」気分は体験できます。
だから、まぁそれで良しとする。
それでも多くのクライアントが心の奥底で期待しているのは
自分を「分かってもらえる」ことであって、
100%自分のために関わってくれることではないでしょうか。
カウンセラーと「分かりあう」ことで
50%ずつの「分かってもらう」をシェアするのではなく。
100%の自分を「分かってもらえた」という体験こそを
望んでいるのではないか、と。
また、日常会話の場合には
「あー、それ分かる!実は私もこの間…」
などと話を自分のほうに持っていく場合がありますが、
カウンセラーがそんなことをしたら、さすがにクライアントも不満だと思います。
それと似ているのが、カウンセラー側がクライアントの話を聞いて
辛くなって泣いてしまうようなケース。
泣きたいのはクライアントなんです。
それでも耐えてきて、頑張って相談にやってきたんです。
そこでカウンセラーのほうが泣いてしまっては
気持ちを表現する機会をカウンセラー側に取られてしまったようなもの。
こうなってはクライアントの気持ちへの焦点は0%になってしまいます。
歌手が感情を込めながら歌うのは、
カウンセラーがクライアントの話を聞いて泣いてしまうのに似ています。
念のために繰り返しておくと、表現者が感情を込めるのは1つのスタイルです。
それをそうやって表現したいのであれば本人の好みですし、
またそういう表現を受け取りたい人たちもいるものです。
ただし、歌手などの表現者が、自分を主役としても受け入れられるのに対し、
カウンセラーが自分を主役としてしまうのは一般的に受け入れられません。
多くのクライアントは、自分が主役として話を聞いてもらうことを
期待しながら相談にやってくるからです。
だからカウンセラーが自分の感情を込めてクライアントに接するのは
クライアントが主役の度合いを下げてしまうため、望まれないわけです。
クライアントの話を聞いて泣いてしまっては
カウンセラーの側の感情が主役の座に入れ替わってしまいかねません。
(どうしても聞いていることさえ苦しいのであれば、
「すみません。あまりにも大変な状況のお話をうかがっていて
聞いているだけでも辛くなってきてしまいました。」
といったフレーズに変えることで
主役をクライアントに戻すことはできます。技術的には。)
クライアントにとって大切なのは
自分を100%の主役として扱ってもらうこと、
そして
自分の気持ちを「分かってもらう」こと。
ここがまさに演歌の「感情を込めずに歌う」と共通する部分です。
演歌の歌詞の世界が、聞いている人にとって自分のことだと感じられて、
そこで語られている想いが自分の気持ちを代弁してくれていると思える。
だから心に響く。
同様に、
カウンセラーの言葉がけにもカウンセラー自身の感情は載せず、
内容としては相手の気持ちを代弁するんです。
「辛かったですね」を辛そうには言わない、ということです。
クライアントの辛い気持ちを慈しみながら歓迎するんです。
まさに文字通り「歓迎」です。
「あー、ようこそいらっしゃいました。
外は寒かったでしょう。
あらあら、こんなに冷たくなって…。
ねぇ、ほら、こっちへいらっしゃい。
ここのストーブの前は暖かいですよ。
今から食事を用意しますからね。
たいしたものをお出しできなくて残念ですけど
せめてお腹いっぱい召し上がってくださいね。
じゃあ、このスープでも飲みながら待っていてください。
体の内側から温まりますよ。」
…ぐらいの感じで歓迎するんです。
そういう感じで辛かった気持ちを受け入れる。
そこから出てくる「辛かったですね」には、
辛そうな感情が込められていません。
まさにテレビ番組で八代亜紀が言っていた
優しい雰囲気の「つらかったねえ」の感じ。
そうやって感情を込めずに歌った演歌が
苦しんでいる人にグッとくるのと同様に、
カウンセラーが自分の辛さを横に置いて語りかけたメッセージが
苦しんでいるクライアントの心に届く。
演歌の心はカウンセラーに近いんだと感じました。
カウンセラーが辛くなってしまったら、主役が入れ替わってしまいます。
痛いのはクライアントなのに。
クライアントとカウンセラーが一緒に辛くなったら、
「分かりあう」ことはできますが、100%の主役ではありません。
お互いが辛い気持ちなのだから、余裕もありません。
二人して痛がっていて、落ち着くのには時間がかかります。
ところが、クライアントの辛さをカウンセラーが歓迎しながら
カウンセラー自身の辛い気持ちを横へ置いておくと、
クライアントを主役としつつ、辛さが緩むだけの余裕を作り出せます。
クライアントには「分かってもらえた」という安心感が生まれます。
つまり、クライアントの「分かってもらえた」という実感は
くれぐれも「内容が伝わった」という意味合いではない、ということです。
自分の気持ちを分かった上で、それを受け入れてくれた。
…そういう状態になると、
クライアントは自分の辛さをカウンセラーに『預けられる』んです。
そこで負担が減る。
気持ちが緩む。
心が楽になる。
そして、眠っていた前に進む力に気づけるんです。
演歌を聞いて、明日を生きる力をもらうのと同じように。
「演歌を歌うときには感情を込めない」と。
感情を込めてしまうと、歌は歌手その人のものになってしまう。
感情を込めずに曲の世界観だけを伝えるから、
聞いている人がそこに自分を投影して感動できる。
そんな趣旨の説明でした。
だから少し微笑むような感じで歌うんだそうです。
本人は「楽しく」という言葉を使っていましたが、表情から察するに
「良かったね」という慈しみの感じが近そうに見えました。
もちろん、歌手の中には感情を込めて歌う人もいるそうです。
それを聞いて感動する人もいるはずです。
しかしそれはコミュニケーションに喩えるなら、
自分の辛かった体験談を泣きながら語るスピーチのようなもの。
あるいは悲しいエピソードの映画を見て
「泣きました!」と言っているのに近いといえます。
聴衆・観衆はその強い感情に巻き込まれて心を動かされます。
そこには同情的な感動や、自分では体験しないフィクションの出来事を
頭の中で仮想体験して感情に浸るというプロセスが起きているのでしょう。
一方、演歌(少なくとも八代亜紀の場合)では
聞いている人が自分自身のこととして受け取れるだけの余白を残す。
「歌っている私の気持ちではないんです。
あなたはこんな気持ちなんでしょう。」
といった感じでしょうか。
実際、番組中に八代亜紀は二種類の非言語メッセージで
「つらかったね」を言い分けていました。
1つは感情を込めた「つらかったね」。
自分でも辛そうな顔をして、泣きそうな声になりながら
「…つらかったね・・・」と。
もう1つは感情を込めないほう。
優しく微笑みを浮かべながら、暖かい目と穏やかな声で
「つらかったねえ…」と、いたわるような語りかけでした。
2つ目のほうの非言語メッセージには、なんだか
「それは、つらかったろう(でも、もう大丈夫だよ)」
といった奥行きがあるようにも感じられました。
演歌はそうやって歌うんだ、という話でした。
それによって聞いている人が自分の心と向き合って
自分のこととして感動することができるようです。
ここにカウンセリングとの共通点があるんです。
カウンセリングの意図を、クライアントの気持ちが楽になる方向性とすれば
クライアントが「ああ、分かってもらえた」と感じられることが重要になります。
クライアントの「分かってもらえた」が大事なんです。
カウンセラーの「分かります!」は大事じゃないんです。
日常会話であれば、誰かの悩みや不満を聞いたとき
「あー、それ!分かる分かる!それムカつくよねー」
「でしょー?本ッ当に嫌なのよー、もうー」
というコミュニケーションも役に立つかもしれません。
不満を通じてお互いの共通点を見出し「分かりあえた」体験があると思います。
お互いに分かりあえて安心するところもあることでしょう。
ですが、一般的にカウンセリングに来る人の期待は
「分かりあう」ことではないものです。
「分かって欲しい」んです。
カウンセラー側が「分かる、分かる!」というのは
カウンセラー自身が持っている不満と同じものを持った人を見つけて
「分かりあえた」と感じるイーブン(対等)な関わりです。
クライアントとカウンセラーの双方に
「分かってくれる人がいた」という認識が生まれ、
「分かりあえた」という実感になるのかもしれませんが、
それだと『半分ずつ』になってしまいます。
別にそういうカウンセラーがいたって
そのことで不満を述べるクライアントは少ないものです。
悩んでいたって大人ですから、カウンセラーとはいえども
自分の期待通りの対応をしてくれるとは限らないのは想定内でもある。
50%ずつであっても「分かってもらえた」気分は体験できます。
だから、まぁそれで良しとする。
それでも多くのクライアントが心の奥底で期待しているのは
自分を「分かってもらえる」ことであって、
100%自分のために関わってくれることではないでしょうか。
カウンセラーと「分かりあう」ことで
50%ずつの「分かってもらう」をシェアするのではなく。
100%の自分を「分かってもらえた」という体験こそを
望んでいるのではないか、と。
また、日常会話の場合には
「あー、それ分かる!実は私もこの間…」
などと話を自分のほうに持っていく場合がありますが、
カウンセラーがそんなことをしたら、さすがにクライアントも不満だと思います。
それと似ているのが、カウンセラー側がクライアントの話を聞いて
辛くなって泣いてしまうようなケース。
泣きたいのはクライアントなんです。
それでも耐えてきて、頑張って相談にやってきたんです。
そこでカウンセラーのほうが泣いてしまっては
気持ちを表現する機会をカウンセラー側に取られてしまったようなもの。
こうなってはクライアントの気持ちへの焦点は0%になってしまいます。
歌手が感情を込めながら歌うのは、
カウンセラーがクライアントの話を聞いて泣いてしまうのに似ています。
念のために繰り返しておくと、表現者が感情を込めるのは1つのスタイルです。
それをそうやって表現したいのであれば本人の好みですし、
またそういう表現を受け取りたい人たちもいるものです。
ただし、歌手などの表現者が、自分を主役としても受け入れられるのに対し、
カウンセラーが自分を主役としてしまうのは一般的に受け入れられません。
多くのクライアントは、自分が主役として話を聞いてもらうことを
期待しながら相談にやってくるからです。
だからカウンセラーが自分の感情を込めてクライアントに接するのは
クライアントが主役の度合いを下げてしまうため、望まれないわけです。
クライアントの話を聞いて泣いてしまっては
カウンセラーの側の感情が主役の座に入れ替わってしまいかねません。
(どうしても聞いていることさえ苦しいのであれば、
「すみません。あまりにも大変な状況のお話をうかがっていて
聞いているだけでも辛くなってきてしまいました。」
といったフレーズに変えることで
主役をクライアントに戻すことはできます。技術的には。)
クライアントにとって大切なのは
自分を100%の主役として扱ってもらうこと、
そして
自分の気持ちを「分かってもらう」こと。
ここがまさに演歌の「感情を込めずに歌う」と共通する部分です。
演歌の歌詞の世界が、聞いている人にとって自分のことだと感じられて、
そこで語られている想いが自分の気持ちを代弁してくれていると思える。
だから心に響く。
同様に、
カウンセラーの言葉がけにもカウンセラー自身の感情は載せず、
内容としては相手の気持ちを代弁するんです。
「辛かったですね」を辛そうには言わない、ということです。
クライアントの辛い気持ちを慈しみながら歓迎するんです。
まさに文字通り「歓迎」です。
「あー、ようこそいらっしゃいました。
外は寒かったでしょう。
あらあら、こんなに冷たくなって…。
ねぇ、ほら、こっちへいらっしゃい。
ここのストーブの前は暖かいですよ。
今から食事を用意しますからね。
たいしたものをお出しできなくて残念ですけど
せめてお腹いっぱい召し上がってくださいね。
じゃあ、このスープでも飲みながら待っていてください。
体の内側から温まりますよ。」
…ぐらいの感じで歓迎するんです。
そういう感じで辛かった気持ちを受け入れる。
そこから出てくる「辛かったですね」には、
辛そうな感情が込められていません。
まさにテレビ番組で八代亜紀が言っていた
優しい雰囲気の「つらかったねえ」の感じ。
そうやって感情を込めずに歌った演歌が
苦しんでいる人にグッとくるのと同様に、
カウンセラーが自分の辛さを横に置いて語りかけたメッセージが
苦しんでいるクライアントの心に届く。
演歌の心はカウンセラーに近いんだと感じました。
カウンセラーが辛くなってしまったら、主役が入れ替わってしまいます。
痛いのはクライアントなのに。
クライアントとカウンセラーが一緒に辛くなったら、
「分かりあう」ことはできますが、100%の主役ではありません。
お互いが辛い気持ちなのだから、余裕もありません。
二人して痛がっていて、落ち着くのには時間がかかります。
ところが、クライアントの辛さをカウンセラーが歓迎しながら
カウンセラー自身の辛い気持ちを横へ置いておくと、
クライアントを主役としつつ、辛さが緩むだけの余裕を作り出せます。
クライアントには「分かってもらえた」という安心感が生まれます。
つまり、クライアントの「分かってもらえた」という実感は
くれぐれも「内容が伝わった」という意味合いではない、ということです。
自分の気持ちを分かった上で、それを受け入れてくれた。
…そういう状態になると、
クライアントは自分の辛さをカウンセラーに『預けられる』んです。
そこで負担が減る。
気持ちが緩む。
心が楽になる。
そして、眠っていた前に進む力に気づけるんです。
演歌を聞いて、明日を生きる力をもらうのと同じように。