2015年02月24日
心のぶつかりあい
DVDで『猿の惑星:新世紀(ライジング)』を見ました。
素直に面白さを求めるなら、
このリニューアルシリーズの第一作・『創世記(ジェネシス)』とか
あるいはオリジナルのシリーズのほうが素直かもしれません。
ですが、この作品は見ごたえがあります。
色々と考えさせられたり、感じるところがあるんです。
舞台設定としては、地球が猿の惑星になる前のころ。
『創世記』では、どのようにして地球が猿の惑星となっていったかを
人間並みの知性を持つようになる一匹目の猿を中心に描いています。
ある一匹の実験用の猿が新薬の治験に使われて
それから知性を持つようになり、人間の元にいる猿たちを助け
その猿軍団を指揮する…ぐらいまでの話だったと思います。
一方、こちらの『新世紀』では、そこから10年後の世界が舞台です。
反乱を起こした猿たちは山へ入っていき、そこで集落を作っています。
人間のほうは、ウイルスだかのせいで大部分が死んでしまっている。
免疫があって生き残った人たちが集まって集落を作り、
手に入る燃料を使って、かろうじて文明を維持しながら生活している状況です。
そんな舞台で、別々の環境で生活していたはずの人間と猿が出会うんです。
その遭遇には、人間側に明確な目的がありました。
その集落の人たちが電気を使った文明生活を営むためには
猿の集団が住む山に入っていって、エネルギーの開発をしなくてはならない。
しかし、猿の集団としては人間と関わるのを避けて
独立した安心な生活を期待するところがあります。
そこで人間と猿の「関係性」が動き始めるんです。
ストーリーの大部分は、この猿と人間の「関わり」です。
「対立」や「戦闘」がメインなのではありません。
複雑な「関わり」が幾重にも進行していきます。
人間の側には猿と共存したいと考える人たちがいます。
猿と生活を尊重して、話し合いの相手として交渉をしたい、と。
中には猿を動物だというだけの理由で軽んじる人もいます。
そんな猿の集団なんて全滅させてしまえばいい、という人たち。
あるいは人間のグループの存続のために、皆のことを思って
甘いことは言っていられないと考える人もいます。
猿という自分たちとは違う存在に対して、それだけで恐怖を感じ
怖れから猿を攻撃しようとする人たちもいます。
もちろん、大部分の人たちは自分たちの安全が脅かされつつあるのを知り
混乱し、全体のムードに巻き込まれ、主流派の意見に傾いていきます。
猿のグループに目を向けても、そこには多様な考えがあります。
人間に対して好意的なのもいれば、
過去に実験動物にされていたことで人間を恨んでいるのもいる。
自分の家族を人間に襲われたと仕返しをしたいのもいる。
猿の中にも親子間の葛藤があったり、
組織化された集団における立場の争いがあったりもします。
信頼と不信。
平穏と抗争。
好意と憎しみ。
愛と不安。
…そうした様々な心の動きが対極的に描かれながら、
様々な想いをもった人間と猿が複雑に関わりあうんです。
しかし根底にあるのは、それぞれの個体が考える
「良かれと思って」の想い。
みんな自分の考える「正しさ」のために動き、
それが交錯し、ときに不慮の衝突を起こし、
状況をややこしい方向へと徐々に進めていきます。
とても自然な心の動きが、人間と猿の間の摩擦を強めていき、
同時に人間のグループ内、猿のグループ内でも軋轢を生んでいくんです。
それはまさに今の世界の縮図のようでした。
そしてまた、一人の心の中で起きている葛藤のようでもある。
とても考えさせられる内容であって、同時にそれが無理のないことに見え、
「良かれと思って」の行動が調和していない状況の切なさが感じられます。
その中で、猿を信じている一部の人間と
人間を信じようとする一部の猿とが関わっているときに、
生まれたての子猿だけが、人間と猿を区別することなく
ただ無邪気に人間へ関心を向けて、近づいていくシーンがあります。
平和というのは、このようにしてもたらされるのだろう
と思わせるような場面でした。
こうした人間社会の縮図のような切ない世界を見たことが
僕にとって『猿の惑星:新世紀』で最も印象に残っているところです。
考え方は、どのように育ってきたかで決まるところが大きいものです。
お互いの背景の違いが、考えの違いを生み出します。
そして背景が異なっている以上、
相手の考えを理解することは不可能なんでしょう。
そこに起きがちなのは、自分の考え方に基づいた勝手な期待。
考えの交換を求めて交流したところで
頭で理解し合って全てを調和させることは困難なのかもしれません。
しかし、人間でも猿でも、
(知性を持った猿なので人間と同じような感情的反応を示します)
…人間社会の中で見たとしたら、どんな人間であっても…
感情そのものは共通するところが多いようです。
感情を中心に向き合っていけば、
相手の背景や考え方を理解したり受け入れたりすることはできなくても、
ただその相手の感情だけを共感することは可能ではないでしょうか。
感情を中心としてコミュニケーションをしていく。
それこそが「分かりあう」ための手段なのかもしれません。
素直に面白さを求めるなら、
このリニューアルシリーズの第一作・『創世記(ジェネシス)』とか
あるいはオリジナルのシリーズのほうが素直かもしれません。
ですが、この作品は見ごたえがあります。
色々と考えさせられたり、感じるところがあるんです。
舞台設定としては、地球が猿の惑星になる前のころ。
『創世記』では、どのようにして地球が猿の惑星となっていったかを
人間並みの知性を持つようになる一匹目の猿を中心に描いています。
ある一匹の実験用の猿が新薬の治験に使われて
それから知性を持つようになり、人間の元にいる猿たちを助け
その猿軍団を指揮する…ぐらいまでの話だったと思います。
一方、こちらの『新世紀』では、そこから10年後の世界が舞台です。
反乱を起こした猿たちは山へ入っていき、そこで集落を作っています。
人間のほうは、ウイルスだかのせいで大部分が死んでしまっている。
免疫があって生き残った人たちが集まって集落を作り、
手に入る燃料を使って、かろうじて文明を維持しながら生活している状況です。
そんな舞台で、別々の環境で生活していたはずの人間と猿が出会うんです。
その遭遇には、人間側に明確な目的がありました。
その集落の人たちが電気を使った文明生活を営むためには
猿の集団が住む山に入っていって、エネルギーの開発をしなくてはならない。
しかし、猿の集団としては人間と関わるのを避けて
独立した安心な生活を期待するところがあります。
そこで人間と猿の「関係性」が動き始めるんです。
ストーリーの大部分は、この猿と人間の「関わり」です。
「対立」や「戦闘」がメインなのではありません。
複雑な「関わり」が幾重にも進行していきます。
人間の側には猿と共存したいと考える人たちがいます。
猿と生活を尊重して、話し合いの相手として交渉をしたい、と。
中には猿を動物だというだけの理由で軽んじる人もいます。
そんな猿の集団なんて全滅させてしまえばいい、という人たち。
あるいは人間のグループの存続のために、皆のことを思って
甘いことは言っていられないと考える人もいます。
猿という自分たちとは違う存在に対して、それだけで恐怖を感じ
怖れから猿を攻撃しようとする人たちもいます。
もちろん、大部分の人たちは自分たちの安全が脅かされつつあるのを知り
混乱し、全体のムードに巻き込まれ、主流派の意見に傾いていきます。
猿のグループに目を向けても、そこには多様な考えがあります。
人間に対して好意的なのもいれば、
過去に実験動物にされていたことで人間を恨んでいるのもいる。
自分の家族を人間に襲われたと仕返しをしたいのもいる。
猿の中にも親子間の葛藤があったり、
組織化された集団における立場の争いがあったりもします。
信頼と不信。
平穏と抗争。
好意と憎しみ。
愛と不安。
…そうした様々な心の動きが対極的に描かれながら、
様々な想いをもった人間と猿が複雑に関わりあうんです。
しかし根底にあるのは、それぞれの個体が考える
「良かれと思って」の想い。
みんな自分の考える「正しさ」のために動き、
それが交錯し、ときに不慮の衝突を起こし、
状況をややこしい方向へと徐々に進めていきます。
とても自然な心の動きが、人間と猿の間の摩擦を強めていき、
同時に人間のグループ内、猿のグループ内でも軋轢を生んでいくんです。
それはまさに今の世界の縮図のようでした。
そしてまた、一人の心の中で起きている葛藤のようでもある。
とても考えさせられる内容であって、同時にそれが無理のないことに見え、
「良かれと思って」の行動が調和していない状況の切なさが感じられます。
その中で、猿を信じている一部の人間と
人間を信じようとする一部の猿とが関わっているときに、
生まれたての子猿だけが、人間と猿を区別することなく
ただ無邪気に人間へ関心を向けて、近づいていくシーンがあります。
平和というのは、このようにしてもたらされるのだろう
と思わせるような場面でした。
こうした人間社会の縮図のような切ない世界を見たことが
僕にとって『猿の惑星:新世紀』で最も印象に残っているところです。
考え方は、どのように育ってきたかで決まるところが大きいものです。
お互いの背景の違いが、考えの違いを生み出します。
そして背景が異なっている以上、
相手の考えを理解することは不可能なんでしょう。
そこに起きがちなのは、自分の考え方に基づいた勝手な期待。
考えの交換を求めて交流したところで
頭で理解し合って全てを調和させることは困難なのかもしれません。
しかし、人間でも猿でも、
(知性を持った猿なので人間と同じような感情的反応を示します)
…人間社会の中で見たとしたら、どんな人間であっても…
感情そのものは共通するところが多いようです。
感情を中心に向き合っていけば、
相手の背景や考え方を理解したり受け入れたりすることはできなくても、
ただその相手の感情だけを共感することは可能ではないでしょうか。
感情を中心としてコミュニケーションをしていく。
それこそが「分かりあう」ための手段なのかもしれません。