2015年03月17日
健康に『戻る』
「健康」というのが「良いもの」と認識されている限り
健康にはなれないような気がします。
「健康になる」とか「健康を手に入れる」のように
「今とは違う状態」という目標として設定してしまうと、
その健康な状態に辿り着くために望ましいこと
を生活に取り入れようとするようです。
巷にあふれる健康に関しての情報は
ほとんどがこの
健康という望ましい状態を手に入れるために効果的なこと
になっているはずです。
そうすると、
「○○は体にいい」
とか
「△△すると××になりにくい」
とか
「◇◇という栄養素には、〜の効果がある」
とか、
そういった話が増えてくる。
しかしながら考えてみれば
生物には「適した条件」があるだけであって
「もっと良くなるための条件」は存在しません。
基準から逸れると問題が起こるのですから
「基準に合っている」か「基準に合っていない」かの間で
どのぐらい基準に近いかが評価されているんです。
つまり100%に近いかどうかの話で、
高得点を競っているわけではない、と。
ところが巷の健康情報は
「これをすれば健康度数が上がっていきます」
とでも言わんかのように、「良いこと」を勧めます。
まるで
「あなたの今の健康度が40だとしても120だとしても、
この栄養素が含まれた食品をとれば健康度は50上がります」
という感じ。
だから「健康に良い」とされることを沢山組み合わせるほど
健康度数は上限なく上がり続けていって、
いくらでも「もっと健康」になれるかのように情報や商品が氾濫する。
そして健康を「良いもの」として目標に据える人は
もっともっと健康な状態を追い求めたくなり、
「健康に良い」はずの知識を集め、実践をするのかもしれません。
しかし、繰り返しになりますが、
生物の仕組みに目をやれば
あるのは「健康から外れていく条件」だけであって、
その視点からすると
「健康に戻る」ために「基準に近づける」
ための手段を
不足なく満たしていくことこそ求められていると考えられます。
言い換えるなら
「健康にいいこと」や「○○に効果的な栄養素」があるのではなく、
「不足すると健康でなくなること」や
「不足すると××になってしまう栄養素」がある
ということ。
例えば、
ビタミンB1が足りていない人と足りている人とを比べて
足りている人のほうが何かの病気になる頻度が低かったら、
それは「ビタミンB1が、その病気を予防する」のではなく、
「ビタミンB1が不足すると、その病気のリスクが上がる(かもしれない)」
という意味でしょう。
「アミノ酸を取ると筋肉になる」というよりも
「筋肉を再生するのに必要なアミノ酸が不足すると、筋肉が減る」
といったほうが実際の現象には近いんじゃないでしょうか。
「この運動をすると肩こりが治る」ではなく
「このように肩周りを動かす量が足りないと肩がこる」。
ですから、
健康とは目標とされる「良いもの」ではなく
生物にとっての基準・ニュートラルな状態だと捉えて、
元に戻すためのことをすると考えたほうが
100%の健康に近づけられるだろう、
という話です。
健康を「良いもの」と捉える状態は
ニュートラルから外れた現状をコンフォートゾーンに設定していて、
健康な状態を目標やゴールにしているわけです。
本来の生物的に適した状態から外れた現状というコンフォートゾーンが
普段の状態と認識されるようになって、そこが「いつも通り」のように
勘違いされてしまうんでしょう。
本来は不健康であるはずの「いつも通り」が当然のことになって
そこから上限のない「もっと健康な状態」という仮想のゴールを目指す。
「健康にいい」とされることは沢山ありますから
色々と組み合わせることになるんでしょうが、
そこには「自分には何が不足しているか」という発想がありません。
そうではなく、むしろ
「健康」という生物的なニュートラルをコンフォートゾーンに設定して
普段の状態がいかに「不健康」なほうにズレてしまっているかを自覚すると、
健康に戻るために足りないものを気づけるようになる。
そうやって健康を当たり前の状態と認識して
健康からズレてしまっている状態に不快感を自覚し
不足しているものを補って基準に戻そうとする
…ということを常にやっていれば
その人は「健康な人」ということになるんだと考えられます。
残念ながら、多くの人は自分の健康な状態を忘れて久しいはずですから
戻すべき基準さえ思い出せず、
「上限のない健康」のような仮想目標を目指すことになるのでしょう。
僕も常日頃から「生物的ニュートラルとしての健康」を思い出して
健康に戻すためのことをしていたいと思います。
…ただ、一気に基準から大きくズレてしまうと
基準が分からなくなってしまいやすいのが悩ましいところ。
健康にはなれないような気がします。
「健康になる」とか「健康を手に入れる」のように
「今とは違う状態」という目標として設定してしまうと、
その健康な状態に辿り着くために望ましいこと
を生活に取り入れようとするようです。
巷にあふれる健康に関しての情報は
ほとんどがこの
健康という望ましい状態を手に入れるために効果的なこと
になっているはずです。
そうすると、
「○○は体にいい」
とか
「△△すると××になりにくい」
とか
「◇◇という栄養素には、〜の効果がある」
とか、
そういった話が増えてくる。
しかしながら考えてみれば
生物には「適した条件」があるだけであって
「もっと良くなるための条件」は存在しません。
基準から逸れると問題が起こるのですから
「基準に合っている」か「基準に合っていない」かの間で
どのぐらい基準に近いかが評価されているんです。
つまり100%に近いかどうかの話で、
高得点を競っているわけではない、と。
ところが巷の健康情報は
「これをすれば健康度数が上がっていきます」
とでも言わんかのように、「良いこと」を勧めます。
まるで
「あなたの今の健康度が40だとしても120だとしても、
この栄養素が含まれた食品をとれば健康度は50上がります」
という感じ。
だから「健康に良い」とされることを沢山組み合わせるほど
健康度数は上限なく上がり続けていって、
いくらでも「もっと健康」になれるかのように情報や商品が氾濫する。
そして健康を「良いもの」として目標に据える人は
もっともっと健康な状態を追い求めたくなり、
「健康に良い」はずの知識を集め、実践をするのかもしれません。
しかし、繰り返しになりますが、
生物の仕組みに目をやれば
あるのは「健康から外れていく条件」だけであって、
その視点からすると
「健康に戻る」ために「基準に近づける」
ための手段を
不足なく満たしていくことこそ求められていると考えられます。
言い換えるなら
「健康にいいこと」や「○○に効果的な栄養素」があるのではなく、
「不足すると健康でなくなること」や
「不足すると××になってしまう栄養素」がある
ということ。
例えば、
ビタミンB1が足りていない人と足りている人とを比べて
足りている人のほうが何かの病気になる頻度が低かったら、
それは「ビタミンB1が、その病気を予防する」のではなく、
「ビタミンB1が不足すると、その病気のリスクが上がる(かもしれない)」
という意味でしょう。
「アミノ酸を取ると筋肉になる」というよりも
「筋肉を再生するのに必要なアミノ酸が不足すると、筋肉が減る」
といったほうが実際の現象には近いんじゃないでしょうか。
「この運動をすると肩こりが治る」ではなく
「このように肩周りを動かす量が足りないと肩がこる」。
ですから、
健康とは目標とされる「良いもの」ではなく
生物にとっての基準・ニュートラルな状態だと捉えて、
元に戻すためのことをすると考えたほうが
100%の健康に近づけられるだろう、
という話です。
健康を「良いもの」と捉える状態は
ニュートラルから外れた現状をコンフォートゾーンに設定していて、
健康な状態を目標やゴールにしているわけです。
本来の生物的に適した状態から外れた現状というコンフォートゾーンが
普段の状態と認識されるようになって、そこが「いつも通り」のように
勘違いされてしまうんでしょう。
本来は不健康であるはずの「いつも通り」が当然のことになって
そこから上限のない「もっと健康な状態」という仮想のゴールを目指す。
「健康にいい」とされることは沢山ありますから
色々と組み合わせることになるんでしょうが、
そこには「自分には何が不足しているか」という発想がありません。
そうではなく、むしろ
「健康」という生物的なニュートラルをコンフォートゾーンに設定して
普段の状態がいかに「不健康」なほうにズレてしまっているかを自覚すると、
健康に戻るために足りないものを気づけるようになる。
そうやって健康を当たり前の状態と認識して
健康からズレてしまっている状態に不快感を自覚し
不足しているものを補って基準に戻そうとする
…ということを常にやっていれば
その人は「健康な人」ということになるんだと考えられます。
残念ながら、多くの人は自分の健康な状態を忘れて久しいはずですから
戻すべき基準さえ思い出せず、
「上限のない健康」のような仮想目標を目指すことになるのでしょう。
僕も常日頃から「生物的ニュートラルとしての健康」を思い出して
健康に戻すためのことをしていたいと思います。
…ただ、一気に基準から大きくズレてしまうと
基準が分からなくなってしまいやすいのが悩ましいところ。