2015年03月27日
私語
セミナーや講座、授業、講演のような形では
講師・インストラクター側が説明をする時間があります。
何かの実習をやる場合にも、当然
その実習時間の終わるタイミングがあって、
そこから先は再び説明の時間に戻ります。
そうした説明の時間に、受講生、生徒、聴衆が
近くの人と話をしていた場合、それは一般に「私語」と呼ばれます。
実際には説明の内容と関係があるもので
意味のある質問かもしれませんが、それでも
その場の設定からすると、私語とみなされます。
同じ質問や発言を全体に対して(つまり講師に向かって)した場合は
「質問」として受け取られますが、近くの人だけと話すと私語と捉えられる。
この「私語」を好ましく思わない人は多いようです。
うるさいから。
迷惑だから。
気になるから。
失礼だから。
ルール違反だから。
邪魔されている感じがするから。
…など。
嫌だと感じる理由は様々でしょうが、
その理由の大部分は映画館でも共通するところだと考えられます。
映画館でも隣の人と話をしている(私語をしている)人は
他の観客からすれば「迷惑だ」とか「うるさい」と嫌がられるでしょうし、
製作者からすれば「自分の作品を邪魔された」と嫌がるかもしれません。
ところが、セミナーや講座、授業では、私語の持つ意味は少し異なります。
上記以外の側面があるんです。
それは一言でいうと
「見くびっている」
ということです。
講師やインストラクターを、ではありません。
本人の価値を、です。
私語をすることで、自分の価値を見くびっている。
そういう側面が含まれます。
もちろんそんなことには無自覚にやっているはずですし
それが最大の理由ではないことでしょう。
しかし、自分の価値を尊重していたら
全体には聞こえないような声で隣の人とだけ話をする
なんてことはできません。
なぜなら、全体に対して発言するのではなく近くの人とだけ話をするのは
「こうしておけば自分の話は無視して、講師は話を進めるだろう」
という想定が含まれるからです。
「どうぞ私の私語は無視して先に進めてください」
と言っているようなもの。
「自分は無視してください」という前提です。
自分は無視されても構わない、と。
もしかすると
「無視されるぐらいでは自分の価値は揺るがない」
という絶対的な自信があるのでは?
と考えるかもしれません。
それに関しては、おそらく
本当にそれだけの自信があったとしたら
わざわざ近くの人になんて話さないことでしょう。
質問したければ説明を中断してでも聞けばいい。
意見があるなら講師の話に挟みこめばいい。
「気になることがあるけれど講師に聞くほどじゃない」
と思うのだとしたら、そこには何らかの遠慮があります。
「そこまでの価値はない」ということじゃないでしょうか。
あるいは、誰かに聞いてもらいたい意見があるのなら
それは聞いてもらうことで尊重されたいという願望を含みます。
本当に自信があれば、聞いてもらう必要なんてありません。
知的活動としてディスカッションしたいのであれば
休憩時間にしたって良いわけですから。
そこまでの自信がないからこそ近くの人に話しかけ、
そのうえで、無視されることを期待している。
だから
自分の価値を見くびっている
ということなんです。
たしかに講師・インストラクター側の対応は様々です。
無視して話を続ける人もいるでしょう。
しかし、
注意するにせよ
私語が終わるまで待つにせよ
あえて話しかけるにせよ
放ったらかしにはしていないんです。
気にかけている。
関心を向けているんです。
私語を無視しない人は沢山いるんです。
にもかかわらず、あたかも
「自分が全体と関係ない話をしているのは気にしないでください」
とでも言わんばかり。
そこには、自ら自分の価値を見くびる側面が含まれています。
自分を見くびり続けたいなら、それでも構いませんが
僕はそうはしません。
僕はトレーナー、インストラクターとして
受講生を無視しません。
本人がどれだけ自分自身のことを見くびっているとしても
僕はできるだけ多くの声を聞こうとしています。
僕は見くびっていないからです。
講師・インストラクター側が説明をする時間があります。
何かの実習をやる場合にも、当然
その実習時間の終わるタイミングがあって、
そこから先は再び説明の時間に戻ります。
そうした説明の時間に、受講生、生徒、聴衆が
近くの人と話をしていた場合、それは一般に「私語」と呼ばれます。
実際には説明の内容と関係があるもので
意味のある質問かもしれませんが、それでも
その場の設定からすると、私語とみなされます。
同じ質問や発言を全体に対して(つまり講師に向かって)した場合は
「質問」として受け取られますが、近くの人だけと話すと私語と捉えられる。
この「私語」を好ましく思わない人は多いようです。
うるさいから。
迷惑だから。
気になるから。
失礼だから。
ルール違反だから。
邪魔されている感じがするから。
…など。
嫌だと感じる理由は様々でしょうが、
その理由の大部分は映画館でも共通するところだと考えられます。
映画館でも隣の人と話をしている(私語をしている)人は
他の観客からすれば「迷惑だ」とか「うるさい」と嫌がられるでしょうし、
製作者からすれば「自分の作品を邪魔された」と嫌がるかもしれません。
ところが、セミナーや講座、授業では、私語の持つ意味は少し異なります。
上記以外の側面があるんです。
それは一言でいうと
「見くびっている」
ということです。
講師やインストラクターを、ではありません。
本人の価値を、です。
私語をすることで、自分の価値を見くびっている。
そういう側面が含まれます。
もちろんそんなことには無自覚にやっているはずですし
それが最大の理由ではないことでしょう。
しかし、自分の価値を尊重していたら
全体には聞こえないような声で隣の人とだけ話をする
なんてことはできません。
なぜなら、全体に対して発言するのではなく近くの人とだけ話をするのは
「こうしておけば自分の話は無視して、講師は話を進めるだろう」
という想定が含まれるからです。
「どうぞ私の私語は無視して先に進めてください」
と言っているようなもの。
「自分は無視してください」という前提です。
自分は無視されても構わない、と。
もしかすると
「無視されるぐらいでは自分の価値は揺るがない」
という絶対的な自信があるのでは?
と考えるかもしれません。
それに関しては、おそらく
本当にそれだけの自信があったとしたら
わざわざ近くの人になんて話さないことでしょう。
質問したければ説明を中断してでも聞けばいい。
意見があるなら講師の話に挟みこめばいい。
「気になることがあるけれど講師に聞くほどじゃない」
と思うのだとしたら、そこには何らかの遠慮があります。
「そこまでの価値はない」ということじゃないでしょうか。
あるいは、誰かに聞いてもらいたい意見があるのなら
それは聞いてもらうことで尊重されたいという願望を含みます。
本当に自信があれば、聞いてもらう必要なんてありません。
知的活動としてディスカッションしたいのであれば
休憩時間にしたって良いわけですから。
そこまでの自信がないからこそ近くの人に話しかけ、
そのうえで、無視されることを期待している。
だから
自分の価値を見くびっている
ということなんです。
たしかに講師・インストラクター側の対応は様々です。
無視して話を続ける人もいるでしょう。
しかし、
注意するにせよ
私語が終わるまで待つにせよ
あえて話しかけるにせよ
放ったらかしにはしていないんです。
気にかけている。
関心を向けているんです。
私語を無視しない人は沢山いるんです。
にもかかわらず、あたかも
「自分が全体と関係ない話をしているのは気にしないでください」
とでも言わんばかり。
そこには、自ら自分の価値を見くびる側面が含まれています。
自分を見くびり続けたいなら、それでも構いませんが
僕はそうはしません。
僕はトレーナー、インストラクターとして
受講生を無視しません。
本人がどれだけ自分自身のことを見くびっているとしても
僕はできるだけ多くの声を聞こうとしています。
僕は見くびっていないからです。