2015年06月12日
心理学と心理療法と歴史
歴史を考慮に入れずに思想を理解するのは厳しいんだと痛感します。
個人の心理の形づくられ方
(つまり学習と、学習したパターンの利用のしくみ)
が掴めると、その人の心の動きは捉えやすいものです。
心を細かな部品の組み合わせとして捉え、部品に注目する。
『心理学』はまさにその流れで進んできて、個別の反応パターンを調べています。
調査の対象が、動物的反応、認知、社会的反応などと幅広くなっただけで、
やっているのは心の構成要素の探索だといえます。
だから心理学の歴史は、それ単独で調べても理解しやすいんです。
実験機器の発展や、文化背景からくるブームの影響ぐらい抑えれば
大まかな流れや心理学的知見の全体像を掴むのには十分な気がします。
それに対して『思想』の歴史は、歴史背景が大きく関わるようです。
当時の状況が人々の考え方に影響を与え、
その考え方の潮流が大きな世界情勢の動きを形作る。
この相互作用は、心の構成要素を理解するだけでは掴めません。
心の構成要素に影響を与えて、その人の心の全体像を作るのに
歴史的な背景が大きな意味を持っているはずです。
その時代、その場所に生きたからこそ持つにいたった発想があり、
それがその人の心の動きに大きな方向性を与える。
この「心の構成要素のしくみ」と「全体の方向性としての『思想』」の関係は
コンピュータの原理と応用例に少し似ているような気がします。
コンピュータの仕組みは「0か1」かのデジタル処理で
その組み合わせによって「〜だったら、…する」というルールが書かれるそうです。
しかし、コンピュータの原理を使ったものには
電卓、銀行のATM、地デジのテレビ、スマートフォン、テレビゲーム、パソコン…
などと様々な応用方法があります。
使われる状況や目的によって、同じ原理のものが違う働きをするんです。
テレビゲームが今のような形になるのに時代背景の推移が関わったように
ある思想が打ち出されるのにも、時代背景が関わっているといえます。
その時代、その環境だったから求められた思想、という可能性も大きいわけです。
状況の異なっている今の時代にも当てはまるかどうかは定かではありませんし、
今の状況と合わないからといって過去の思想を批判することもできません。
ポケットベル(=ポケベル)の流行を考えるのには
時代背景としてのバブル景気や、バブルに至るまでの戦後経済など
様々な知識が求められる、…それと同様に
思想を理解するのにも歴史の知識が必要だ、ということです。
思想にも社会、経済、政治などと色々なジャンルがありますが、共通するのは
「全体像を捉えて、全体が向かうべき方向性を示す」
というところではないでしょうか。
新たな問題を提起したり、
すでに問題視されていることの解決策を提示したり、
望ましい形を新たに提案したり。
これを「人の心」というジャンルでやる場合もあります。
「人間はこういう風に生きたらいい」
「悩みはこうやったら解決できる」
「こうしたら幸せになれる」
などと。
自己啓発という単語は、これを表すストレートな表現でしょうし、
教育やビジネスの場に身を置く人でも、結局のところ
「人として、こうするのが良い」という『思想』を示しているといえます。
(実際、本や講演で「イイ話」として語られるのは、その人の思想です)
そして心理療法もまた、『思想』だといえます。
「こうすると心の問題が解決できる」という思想です。
ところが実にややこしいことに、心理療法は「臨床心理」という形で
心理学の一部として扱われるんです。
心理療法の中でも、行動療法は
心のしくみを元に開発されたと呼べるものの1つでしょうけれど、
多くの心理療法は、創始者のアイデア(思想)によって生み出されたものです。
昨今の臨床心理は、そうした心理療法の手法を
「効果があるかどうか」
「以前の方法と比べて効果が高いかどうか」
という視点で、統計的に検証します。
統計的に優位な差があれば「エビデンスがある」ことになるんです。
そこに「どうして効果があるのか?」という仕組みの説明はありません。
仕組みが語られたとしても、それは創始者の思想です。
エビデンスは効果に対してのもので、思想については無関係なんです。
○○療法という名の思想を実践したときに効果があるかどうか?を
統計的に調べるのが学問としての臨床心理の部分だといえるでしょう。
繰り返しますが、
「こうすると心の問題が解決できる」という方向性を示すのは『思想』です。
『心理学』では心の構成要素の仕組みや、個別の性質を調べて
「人の心というのは、こういうものだ」という知見を得たいんです。
そこに「こうしたら良い」という方向性の提案はありません。
この違いは物凄く大きいと思うんですが、
臨床心理も心理学の一部のように呼ばれるのが現状です。
心理学の歴史を語るときに登場するフロイトは
心理学の土台に影響を与えた人として紹介されますし、
現在でも精神分析や精神力動的アプローチが使われることから
フロイトの提唱した理論も心理学の教科書に登場します。
それでもフロイトのやったことは、現代の『心理学』とは別物で
むしろ『思想』の分野に含まれるものだと考えられます。
そしてフロイトだけではなく、そこから始まる心理療法の系譜もまた
大部分が『思想』だといえます。
ユングもアドラーも
「ユング心理学(分析心理学)」、「アドラー心理学(個人心理学)」
という名称の理論を提唱しています。
カール・ロジャースの「来談者中心療法」も
彼個人の思想に基づいていますし、
その後も多くの心理療法が『思想』に基づいて作られています。
(前述の通り、効果のエビデンスがあっても
どういう仕組みで効果が出るのかの科学的裏づけはない)
心理療法は実態として、『心理学』とは大きく性質が異なっているんです。
さらに注意したいのは、呼び名に「心理学」という単語が含まれる
「ユング心理学」や「アドラー心理学」のほうでしょう。
心理療法は「〜療法」と呼ばれますから、
心理学という学問的側面よりも、手法的側面が強調されます。
効果があるかどうか、と。
それに対して「〜心理学」といってしまうと
心理学という学問の一種に捉えられがちではないでしょうか。
つまり学問として研究されてきたものだ、と。
ですが実際は個人の思想に基づいているものです。
思想だから研究されていないわけではないですし、
その思想を実践してきてた人たちも大勢いるはずです。
役に立ったと思っている人たちもいるでしょうから有意義なんでしょうし、
有意義だったからこそ、今もこうして語られるんだと思います。
単純に『心理学』ではなく『思想』だ、という話です。
学問ではない。
それだけ。
学問ではないことが良いとか悪いとかではありません。
むしろ、学問ではない思想のほうが役に立つことも多いと思いますし、
伝統的に語り継がれてきた思想の中にこそ
学問が検討できる範囲を超えた真理があるのかもしれません。
ただ『心理学』と『思想』は区別したほうが理解しやすいと考えられます。
区別のポイントは、
・思想は「こうするほうが良い」という方向性を示す
・思想は個人から生まれるため、そこに歴史的背景が大きな影響を及ぼす
ということ。
思想の持つ「こうしたほうが良い」という提案は
その思想を生み出した人が生きた歴史的背景を知ってこそ
その真意をつかめるのではないか。
いやむしろ、その人が生きた時代と社会の歴史的背景を無視して
その思想だけを鵜呑みにしてしまうのは危険もあるのではないか?
とさえ感じます。
特に僕のように、歴史へ興味を示してこなかった立場からすると
歴史を少しでも知るほどに、思想を分かったつもりになる怖さを痛感します。
もしかすると歴史の教科書では多少習ったのかもしれませんが、
複雑に絡み合った要素をまとめて理解するようなことはなかったものです。
「これがあった、こうなった」
「このとき、誰々がこうしたから、こういう事件に発展した」
などと出来事の羅列が歴史の勉強だった記憶があります。
しかしその裏側には、「どういう発想で、そのような行動に移ったのか?」
という心の動き、つまり思想があったはずです。
そして当時の思想を形作ったのは、それまでの時代背景と
当時の社会的、経済的、文化的、科学技術的背景でしょう。
そんなのは僕の歴史の理解において同じ土俵に上がっていませんでした。
そうした複雑な相互作用を視野に入れずに
思想を理解することは難しいようです。
フロイト、ユング、アドラーが生きたのは、大体
1800年代後半から1900年代前半のヨーロッパです。
(フロイトとアドラーはオーストリア、ユングはスイス)
第一次世界大戦が1914年ですから、
その前から社会情勢にも色々なことがあっただろうと想像できます。
それでは…、
どんな社会に生きたんでしょうか?
どんな生活をしていて、どんな苦しさがあったんでしょうか?
どんな過去の思想に影響を受け、何を大切にしたくなったんでしょうか?
どんな思想が流行っていて、それに対してどんな態度をとったんでしょうか?
そのあたりとなると、もうさっぱり見当もつきません。
とにかく色々と歴史を調べ、彼らの成育歴を調べずには情報がありません。
フロイト、ユング、アドラーが、独自の思想に辿り着いたのも
当時の状況を考えれば自然な流れだったのでしょう。
その時代、その社会では人々にとって「良い」ものだったのでしょう。
果たして、それは今の社会にどれぐらい当てはまるんでしょうか?
どの部分が今の世の中でも当てはまるところで、
どの部分が当時の社会情勢ゆえのものなんでしょうか?
歴史的背景の異なる現代に、過去の思想を適用するには
そうした分析もまた重要なのではないかと思います。
あまりにも大変で、やる人は少ないんでしょうけれど。
個人の心理の形づくられ方
(つまり学習と、学習したパターンの利用のしくみ)
が掴めると、その人の心の動きは捉えやすいものです。
心を細かな部品の組み合わせとして捉え、部品に注目する。
『心理学』はまさにその流れで進んできて、個別の反応パターンを調べています。
調査の対象が、動物的反応、認知、社会的反応などと幅広くなっただけで、
やっているのは心の構成要素の探索だといえます。
だから心理学の歴史は、それ単独で調べても理解しやすいんです。
実験機器の発展や、文化背景からくるブームの影響ぐらい抑えれば
大まかな流れや心理学的知見の全体像を掴むのには十分な気がします。
それに対して『思想』の歴史は、歴史背景が大きく関わるようです。
当時の状況が人々の考え方に影響を与え、
その考え方の潮流が大きな世界情勢の動きを形作る。
この相互作用は、心の構成要素を理解するだけでは掴めません。
心の構成要素に影響を与えて、その人の心の全体像を作るのに
歴史的な背景が大きな意味を持っているはずです。
その時代、その場所に生きたからこそ持つにいたった発想があり、
それがその人の心の動きに大きな方向性を与える。
この「心の構成要素のしくみ」と「全体の方向性としての『思想』」の関係は
コンピュータの原理と応用例に少し似ているような気がします。
コンピュータの仕組みは「0か1」かのデジタル処理で
その組み合わせによって「〜だったら、…する」というルールが書かれるそうです。
しかし、コンピュータの原理を使ったものには
電卓、銀行のATM、地デジのテレビ、スマートフォン、テレビゲーム、パソコン…
などと様々な応用方法があります。
使われる状況や目的によって、同じ原理のものが違う働きをするんです。
テレビゲームが今のような形になるのに時代背景の推移が関わったように
ある思想が打ち出されるのにも、時代背景が関わっているといえます。
その時代、その環境だったから求められた思想、という可能性も大きいわけです。
状況の異なっている今の時代にも当てはまるかどうかは定かではありませんし、
今の状況と合わないからといって過去の思想を批判することもできません。
ポケットベル(=ポケベル)の流行を考えるのには
時代背景としてのバブル景気や、バブルに至るまでの戦後経済など
様々な知識が求められる、…それと同様に
思想を理解するのにも歴史の知識が必要だ、ということです。
思想にも社会、経済、政治などと色々なジャンルがありますが、共通するのは
「全体像を捉えて、全体が向かうべき方向性を示す」
というところではないでしょうか。
新たな問題を提起したり、
すでに問題視されていることの解決策を提示したり、
望ましい形を新たに提案したり。
これを「人の心」というジャンルでやる場合もあります。
「人間はこういう風に生きたらいい」
「悩みはこうやったら解決できる」
「こうしたら幸せになれる」
などと。
自己啓発という単語は、これを表すストレートな表現でしょうし、
教育やビジネスの場に身を置く人でも、結局のところ
「人として、こうするのが良い」という『思想』を示しているといえます。
(実際、本や講演で「イイ話」として語られるのは、その人の思想です)
そして心理療法もまた、『思想』だといえます。
「こうすると心の問題が解決できる」という思想です。
ところが実にややこしいことに、心理療法は「臨床心理」という形で
心理学の一部として扱われるんです。
心理療法の中でも、行動療法は
心のしくみを元に開発されたと呼べるものの1つでしょうけれど、
多くの心理療法は、創始者のアイデア(思想)によって生み出されたものです。
昨今の臨床心理は、そうした心理療法の手法を
「効果があるかどうか」
「以前の方法と比べて効果が高いかどうか」
という視点で、統計的に検証します。
統計的に優位な差があれば「エビデンスがある」ことになるんです。
そこに「どうして効果があるのか?」という仕組みの説明はありません。
仕組みが語られたとしても、それは創始者の思想です。
エビデンスは効果に対してのもので、思想については無関係なんです。
○○療法という名の思想を実践したときに効果があるかどうか?を
統計的に調べるのが学問としての臨床心理の部分だといえるでしょう。
繰り返しますが、
「こうすると心の問題が解決できる」という方向性を示すのは『思想』です。
『心理学』では心の構成要素の仕組みや、個別の性質を調べて
「人の心というのは、こういうものだ」という知見を得たいんです。
そこに「こうしたら良い」という方向性の提案はありません。
この違いは物凄く大きいと思うんですが、
臨床心理も心理学の一部のように呼ばれるのが現状です。
心理学の歴史を語るときに登場するフロイトは
心理学の土台に影響を与えた人として紹介されますし、
現在でも精神分析や精神力動的アプローチが使われることから
フロイトの提唱した理論も心理学の教科書に登場します。
それでもフロイトのやったことは、現代の『心理学』とは別物で
むしろ『思想』の分野に含まれるものだと考えられます。
そしてフロイトだけではなく、そこから始まる心理療法の系譜もまた
大部分が『思想』だといえます。
ユングもアドラーも
「ユング心理学(分析心理学)」、「アドラー心理学(個人心理学)」
という名称の理論を提唱しています。
カール・ロジャースの「来談者中心療法」も
彼個人の思想に基づいていますし、
その後も多くの心理療法が『思想』に基づいて作られています。
(前述の通り、効果のエビデンスがあっても
どういう仕組みで効果が出るのかの科学的裏づけはない)
心理療法は実態として、『心理学』とは大きく性質が異なっているんです。
さらに注意したいのは、呼び名に「心理学」という単語が含まれる
「ユング心理学」や「アドラー心理学」のほうでしょう。
心理療法は「〜療法」と呼ばれますから、
心理学という学問的側面よりも、手法的側面が強調されます。
効果があるかどうか、と。
それに対して「〜心理学」といってしまうと
心理学という学問の一種に捉えられがちではないでしょうか。
つまり学問として研究されてきたものだ、と。
ですが実際は個人の思想に基づいているものです。
思想だから研究されていないわけではないですし、
その思想を実践してきてた人たちも大勢いるはずです。
役に立ったと思っている人たちもいるでしょうから有意義なんでしょうし、
有意義だったからこそ、今もこうして語られるんだと思います。
単純に『心理学』ではなく『思想』だ、という話です。
学問ではない。
それだけ。
学問ではないことが良いとか悪いとかではありません。
むしろ、学問ではない思想のほうが役に立つことも多いと思いますし、
伝統的に語り継がれてきた思想の中にこそ
学問が検討できる範囲を超えた真理があるのかもしれません。
ただ『心理学』と『思想』は区別したほうが理解しやすいと考えられます。
区別のポイントは、
・思想は「こうするほうが良い」という方向性を示す
・思想は個人から生まれるため、そこに歴史的背景が大きな影響を及ぼす
ということ。
思想の持つ「こうしたほうが良い」という提案は
その思想を生み出した人が生きた歴史的背景を知ってこそ
その真意をつかめるのではないか。
いやむしろ、その人が生きた時代と社会の歴史的背景を無視して
その思想だけを鵜呑みにしてしまうのは危険もあるのではないか?
とさえ感じます。
特に僕のように、歴史へ興味を示してこなかった立場からすると
歴史を少しでも知るほどに、思想を分かったつもりになる怖さを痛感します。
もしかすると歴史の教科書では多少習ったのかもしれませんが、
複雑に絡み合った要素をまとめて理解するようなことはなかったものです。
「これがあった、こうなった」
「このとき、誰々がこうしたから、こういう事件に発展した」
などと出来事の羅列が歴史の勉強だった記憶があります。
しかしその裏側には、「どういう発想で、そのような行動に移ったのか?」
という心の動き、つまり思想があったはずです。
そして当時の思想を形作ったのは、それまでの時代背景と
当時の社会的、経済的、文化的、科学技術的背景でしょう。
そんなのは僕の歴史の理解において同じ土俵に上がっていませんでした。
そうした複雑な相互作用を視野に入れずに
思想を理解することは難しいようです。
フロイト、ユング、アドラーが生きたのは、大体
1800年代後半から1900年代前半のヨーロッパです。
(フロイトとアドラーはオーストリア、ユングはスイス)
第一次世界大戦が1914年ですから、
その前から社会情勢にも色々なことがあっただろうと想像できます。
それでは…、
どんな社会に生きたんでしょうか?
どんな生活をしていて、どんな苦しさがあったんでしょうか?
どんな過去の思想に影響を受け、何を大切にしたくなったんでしょうか?
どんな思想が流行っていて、それに対してどんな態度をとったんでしょうか?
そのあたりとなると、もうさっぱり見当もつきません。
とにかく色々と歴史を調べ、彼らの成育歴を調べずには情報がありません。
フロイト、ユング、アドラーが、独自の思想に辿り着いたのも
当時の状況を考えれば自然な流れだったのでしょう。
その時代、その社会では人々にとって「良い」ものだったのでしょう。
果たして、それは今の社会にどれぐらい当てはまるんでしょうか?
どの部分が今の世の中でも当てはまるところで、
どの部分が当時の社会情勢ゆえのものなんでしょうか?
歴史的背景の異なる現代に、過去の思想を適用するには
そうした分析もまた重要なのではないかと思います。
あまりにも大変で、やる人は少ないんでしょうけれど。