2015年06月27日
論理の練習
以前テレビで、とある速読教室が取り上げられていました。
そこの速読教室に通うと、野球の素人でも
150km/hのボールが打てるようになる
…というのが番組として注目したところのようでした。
小学生でも主婦でもお年寄りでも、簡単に打ててしまうとして
教室の生徒たちがボールを打っている姿も放送されていました。
どうしてこんなことが可能になるのか?
速読のトレーニングとして目を早く動かす練習をすると
速く飛んでくるボールにも反応できる。
そんな趣旨でした。
それで実際に、運動が苦手なお笑い芸人をサンプルとして
本当に自足150kmのボールを打てるようになるか?
という「実験」らしきものをやっていたんです。
まぁ、結論としては、おおよそ「実験」と呼べる形ではなかったわけですが。
流れはこんな感じです。
まず、運動の苦手なお笑い芸人を数人選び、
彼らをバッティングセンターに連れて行きます。
そして手始めに90km/hに設定されたマシーンの打席に立たせる。
野球をやったことのない人たちですから、みんな空振りです。
ボールに当たりもしません。
トレーニング前だとこんな感じだ、と見せた後で
速読のトレーニングをします。
主に目の使い方のトレーニングのようでした。
それから今度は150km/hに設定されたマシーンの打席に立たせる。
剛速球が飛んできます。
もちろん素人ですから、フルスイングをして打てるはずもありません。
だからなのでしょう。
バットを短く持たせ、小さく構えて、
とにかくバットを出すだけの打ち方をさせていました。
ボールが飛んできたら、そのボールの軌道にバットを出すだけ。
するとボールがバットに当たります。
はじき返されたボールは飛んでいく。
90kmでも空振りをしていたのに、速読のトレーニングをしたら
150kmのボールを打てるようになった!という結果でした。
この主張には論理的に色々と欠けている部分があります。
実験としても何も示せていません。
このようなデータを出して論文を書いたら
どの分野でも学術論文としては受理されないでしょう。
まず『定義』が曖昧で、定義に沿ったデータの取り方をしていません。
具体的には「打てる」という部分です。
最終的には「バットにボールが当たる」ことを「打てる」と表現したようですが
まぁ、それは世間的に言って「打てる」の範疇ではないでしょう。
ただ、主張者が
ここでは、バットにボールを当てられることを「打てる」と呼ぶことにする
と定義してしまえば、それで通る話ではあります。
問題は、実験として定義した「打てる」の概念が
実験から離れた実際の場面(たとえば野球の技術として捉えたとき)とは
大きくかけ離れているところです。
こういうときには
実験が実際に応用されるケースを反映していない
という指摘を受ける可能性が高いはずです。
さらに実験レベルで問題なのは、
「打てる」として定義した作業を、同じ内容で繰り返していない
ことです。
「バットがボールに当たる」ことを「打てる」と呼ぶとして
では「どんなやり方でバットをボールに当てるように試みるのか?」
という視点が統一されていません。
これは実験上の問題です。
作業は統一して行うことで、条件の違いの影響だけを比較できます。
比較したい2つの条件(トレーニング前とトレーニング後)で
「バットをボールに当てる作業」を変えてしまったら、
トレーニングの効果なのか、作業を変えた効果なのかが不明瞭です。
トレーニング前のときには、本人なりのフルスイングをさせていたのに、
トレーニング後には小さく構えてバットを出すだけにさせている。
この違いが大きすぎます。
もしかしたら、トレーニング前にも
小さく構えてバットを出すだけの作業で「打つ」ことを試みてもらっていたら
ボールに当てられていた(=「打てていた」)かもしれません。
次は、もっと致命的な『条件の比較』の問題です。
比べたい条件は「トレーニングの前とトレーニング後」のみであるはずなのに
トレーニング前は90km/h、トレーニング後は150km/hとなっています。
一般的なイメージからすると、
90kmよりも150kmのほうが速いのだから
150kmのほうが打つのが大変だ
と思われがちかとは推測できます。
90kmを打てないのだから、150kmはもっと打てないはずだ、と。
しかし実態はそうでない可能性があります。
むしろ150kmのほうが「打ちやすい」のではないでしょうか。
この「打てる」の定義であれば。
つまり、
バットを出して、飛んでくるボールに当てるだけなら
ボールの飛ぶ軌道が直線に近い150km/hのほうが
軌道を予測できる分だけ当てやすい
という可能性です。
90km/hのボールの軌道は山なりです。
野球初心者には軌道を捉えるのも大変でしょう。
しかもバッティングセンターのボールは同じようなところに飛んできます。
大きくコースがズレないものです。
タイミングに関しても、ランプが光ったり、投げる瞬間の音がしたりと
キッカケがつかみやすいはずです。
150kmのボールであれば、一度コースが掴めたら
あとはタイミングに合わせて、そこにバットを差し出すだけ。
例えば、ランプが光ったら「1、2、3」でバットを出すとか、
ボールが放たれる音を聞いたら、すぐにバットを出すとか。
音を基準にしたら、もしかすると目をつぶっていても当たる可能性がある。
バッティングセンターの条件は、そんなものかもしれません。
「バットにボールを当てられる」ことを「打てる」と定義するなら、
150km/hのほうが「打ちやすい」のではないか、という指摘です。
ですから、本当にトレーニングの影響だけを比べたいのであれば
トレーニング前後ともに150km/hのマシーンでやる必要があります。
(「速読のトレーニングをすると、150km/hが打てるようになる」が主張なので
90km/hの条件で比較をすることはできません。)
ところが、
トレーニング前後ともに150km/hのマシーンを使い
同じ打ち方(バットの出し方)をさせて、
バットとボールが当たる確率を比較する
という実験をしたとしても、
その結果から結論を導くのは最適ではありません。
実験としては認められるレベルでしょうが、まだ問題点を指摘されるはずです。
それは『作業への慣れ』の問題です。
仮にトレーニング後のほうが当たる(=「打てる」)確率が上がったとしても、
それは150km/hのボールに当てる作業そのものを繰り返したため
慣れてきたからではないか?
と指摘されると反論ができないんです。
ですから、こういうケースでは一般的に
同じ人物を使ってトレーニング前後の比較をしないと考えられます。
つまり、野球の技術レベルが同等の人たちを大勢集めて、
トレーニングをするグループと
トレーニングをしないグループとに分け、
両方のグループの結果で比較をする、と。
当然、事前に両方のグループで150km/hの打席に立ってもらいます。
そして同じだけの球数で、当たる確率を事前計測する。
(ここの時点で、平均的に両方のグループが同じぐらいだと望ましいでしょう。)
それから
トレーニングをするグループには速読のトレーニングを受けてもらい、
しないグループには、無関係な作業(例えば、普通に読書をしてもらうとか)で
同じだけの時間を過ごしてもらいます。
その後、両方のグループに再び150km/hのボールを同様に打ってもらう。
これで2つのグループを比較したとき、
バットに当たる(=「打てる」)確率が
トレーニングをしたほうのグループで高ければ、
速読のトレーニングをすると、150kmのボールが打てるようになる
という主張は実験的にサポートされたことになります。
もちろん、こうしたデータはグループの人数、打った球数として
統計的な手法を用いて比較される必要があります。
得られた差が、偶然ではなく、条件の違いによるものだ
と統計的に言えることが求められるわけです。
このように、
「〜すると…になる」
という「〜」の効果を検証するには、
それなりの流儀が求められるんです。
とはいえ、
「速読のトレーニングをすると150km/hのボールが打てるようになる」
という主張が
上に提案したような形で示されたとしても、
それはあくまで
「トレーニングをしないよりは、したほうがボールに当たる確立が上がる」
という程度の結果であって、
どれぐらいの効果があるかについては議論できないものでもあります。
2つのグループには「違いがある」というのが結論ですから。
そのため、実社会へのメッセージとしては
あまり意味が大きくないようにも感じられます。
まあ、もっと言ってしまえば
速読の練習として目を動かすトレーニングをやって
150km/hのボールが打てるようになるからといっても
それが早く本が読めることとの関係は不明瞭だ
という部分も残ってしまうんですが。
そこの速読教室に通うと、野球の素人でも
150km/hのボールが打てるようになる
…というのが番組として注目したところのようでした。
小学生でも主婦でもお年寄りでも、簡単に打ててしまうとして
教室の生徒たちがボールを打っている姿も放送されていました。
どうしてこんなことが可能になるのか?
速読のトレーニングとして目を早く動かす練習をすると
速く飛んでくるボールにも反応できる。
そんな趣旨でした。
それで実際に、運動が苦手なお笑い芸人をサンプルとして
本当に自足150kmのボールを打てるようになるか?
という「実験」らしきものをやっていたんです。
まぁ、結論としては、おおよそ「実験」と呼べる形ではなかったわけですが。
流れはこんな感じです。
まず、運動の苦手なお笑い芸人を数人選び、
彼らをバッティングセンターに連れて行きます。
そして手始めに90km/hに設定されたマシーンの打席に立たせる。
野球をやったことのない人たちですから、みんな空振りです。
ボールに当たりもしません。
トレーニング前だとこんな感じだ、と見せた後で
速読のトレーニングをします。
主に目の使い方のトレーニングのようでした。
それから今度は150km/hに設定されたマシーンの打席に立たせる。
剛速球が飛んできます。
もちろん素人ですから、フルスイングをして打てるはずもありません。
だからなのでしょう。
バットを短く持たせ、小さく構えて、
とにかくバットを出すだけの打ち方をさせていました。
ボールが飛んできたら、そのボールの軌道にバットを出すだけ。
するとボールがバットに当たります。
はじき返されたボールは飛んでいく。
90kmでも空振りをしていたのに、速読のトレーニングをしたら
150kmのボールを打てるようになった!という結果でした。
この主張には論理的に色々と欠けている部分があります。
実験としても何も示せていません。
このようなデータを出して論文を書いたら
どの分野でも学術論文としては受理されないでしょう。
まず『定義』が曖昧で、定義に沿ったデータの取り方をしていません。
具体的には「打てる」という部分です。
最終的には「バットにボールが当たる」ことを「打てる」と表現したようですが
まぁ、それは世間的に言って「打てる」の範疇ではないでしょう。
ただ、主張者が
ここでは、バットにボールを当てられることを「打てる」と呼ぶことにする
と定義してしまえば、それで通る話ではあります。
問題は、実験として定義した「打てる」の概念が
実験から離れた実際の場面(たとえば野球の技術として捉えたとき)とは
大きくかけ離れているところです。
こういうときには
実験が実際に応用されるケースを反映していない
という指摘を受ける可能性が高いはずです。
さらに実験レベルで問題なのは、
「打てる」として定義した作業を、同じ内容で繰り返していない
ことです。
「バットがボールに当たる」ことを「打てる」と呼ぶとして
では「どんなやり方でバットをボールに当てるように試みるのか?」
という視点が統一されていません。
これは実験上の問題です。
作業は統一して行うことで、条件の違いの影響だけを比較できます。
比較したい2つの条件(トレーニング前とトレーニング後)で
「バットをボールに当てる作業」を変えてしまったら、
トレーニングの効果なのか、作業を変えた効果なのかが不明瞭です。
トレーニング前のときには、本人なりのフルスイングをさせていたのに、
トレーニング後には小さく構えてバットを出すだけにさせている。
この違いが大きすぎます。
もしかしたら、トレーニング前にも
小さく構えてバットを出すだけの作業で「打つ」ことを試みてもらっていたら
ボールに当てられていた(=「打てていた」)かもしれません。
次は、もっと致命的な『条件の比較』の問題です。
比べたい条件は「トレーニングの前とトレーニング後」のみであるはずなのに
トレーニング前は90km/h、トレーニング後は150km/hとなっています。
一般的なイメージからすると、
90kmよりも150kmのほうが速いのだから
150kmのほうが打つのが大変だ
と思われがちかとは推測できます。
90kmを打てないのだから、150kmはもっと打てないはずだ、と。
しかし実態はそうでない可能性があります。
むしろ150kmのほうが「打ちやすい」のではないでしょうか。
この「打てる」の定義であれば。
つまり、
バットを出して、飛んでくるボールに当てるだけなら
ボールの飛ぶ軌道が直線に近い150km/hのほうが
軌道を予測できる分だけ当てやすい
という可能性です。
90km/hのボールの軌道は山なりです。
野球初心者には軌道を捉えるのも大変でしょう。
しかもバッティングセンターのボールは同じようなところに飛んできます。
大きくコースがズレないものです。
タイミングに関しても、ランプが光ったり、投げる瞬間の音がしたりと
キッカケがつかみやすいはずです。
150kmのボールであれば、一度コースが掴めたら
あとはタイミングに合わせて、そこにバットを差し出すだけ。
例えば、ランプが光ったら「1、2、3」でバットを出すとか、
ボールが放たれる音を聞いたら、すぐにバットを出すとか。
音を基準にしたら、もしかすると目をつぶっていても当たる可能性がある。
バッティングセンターの条件は、そんなものかもしれません。
「バットにボールを当てられる」ことを「打てる」と定義するなら、
150km/hのほうが「打ちやすい」のではないか、という指摘です。
ですから、本当にトレーニングの影響だけを比べたいのであれば
トレーニング前後ともに150km/hのマシーンでやる必要があります。
(「速読のトレーニングをすると、150km/hが打てるようになる」が主張なので
90km/hの条件で比較をすることはできません。)
ところが、
トレーニング前後ともに150km/hのマシーンを使い
同じ打ち方(バットの出し方)をさせて、
バットとボールが当たる確率を比較する
という実験をしたとしても、
その結果から結論を導くのは最適ではありません。
実験としては認められるレベルでしょうが、まだ問題点を指摘されるはずです。
それは『作業への慣れ』の問題です。
仮にトレーニング後のほうが当たる(=「打てる」)確率が上がったとしても、
それは150km/hのボールに当てる作業そのものを繰り返したため
慣れてきたからではないか?
と指摘されると反論ができないんです。
ですから、こういうケースでは一般的に
同じ人物を使ってトレーニング前後の比較をしないと考えられます。
つまり、野球の技術レベルが同等の人たちを大勢集めて、
トレーニングをするグループと
トレーニングをしないグループとに分け、
両方のグループの結果で比較をする、と。
当然、事前に両方のグループで150km/hの打席に立ってもらいます。
そして同じだけの球数で、当たる確率を事前計測する。
(ここの時点で、平均的に両方のグループが同じぐらいだと望ましいでしょう。)
それから
トレーニングをするグループには速読のトレーニングを受けてもらい、
しないグループには、無関係な作業(例えば、普通に読書をしてもらうとか)で
同じだけの時間を過ごしてもらいます。
その後、両方のグループに再び150km/hのボールを同様に打ってもらう。
これで2つのグループを比較したとき、
バットに当たる(=「打てる」)確率が
トレーニングをしたほうのグループで高ければ、
速読のトレーニングをすると、150kmのボールが打てるようになる
という主張は実験的にサポートされたことになります。
もちろん、こうしたデータはグループの人数、打った球数として
統計的な手法を用いて比較される必要があります。
得られた差が、偶然ではなく、条件の違いによるものだ
と統計的に言えることが求められるわけです。
このように、
「〜すると…になる」
という「〜」の効果を検証するには、
それなりの流儀が求められるんです。
とはいえ、
「速読のトレーニングをすると150km/hのボールが打てるようになる」
という主張が
上に提案したような形で示されたとしても、
それはあくまで
「トレーニングをしないよりは、したほうがボールに当たる確立が上がる」
という程度の結果であって、
どれぐらいの効果があるかについては議論できないものでもあります。
2つのグループには「違いがある」というのが結論ですから。
そのため、実社会へのメッセージとしては
あまり意味が大きくないようにも感じられます。
まあ、もっと言ってしまえば
速読の練習として目を動かすトレーニングをやって
150km/hのボールが打てるようになるからといっても
それが早く本が読めることとの関係は不明瞭だ
という部分も残ってしまうんですが。