2015年07月08日
ファシリテーションとバラエティ番組
ファシリテーションと呼ばれるコミュニケーション技法があります。
主に複数の人同士の会話(たとえば会議とか)において
全員の話し合いのプロセスを「促す」のが役割のようです。
必ずしも、全員が偏りなく話せるようにするのが目的でもないようですし、
1つの結論に導くのが目的でもないようです。
時間を短縮するとも限らず、かといって沢山話しさえすればいいわけでもない。
ファシリテーターがいると、全員で好き勝手に話をする場合よりも
効果的に話し合いが進むという役割のイメージは思い浮かびますが、
では具体的に何をすることが求められるか?と考えると
なかなか一口に答えにくいような気がします。
おそらくそれは、方向性が不明瞭だからでしょう。
話し合いのゴール設定によって、ファシリテーションの中身は異なるはずです。
家族療法において家族全員と面接をする場合にも
家族療法家はファシリテーターのような役割を担う部分があります。
ただし家族療法家のスタンスによって、
どのように面接を進めるのかには個人差があるものです。
全員から事情を聞いて、家族療法家自身が臨床像を描き、
それに基づいて指示を与えるような方針もあります。
全員から意見を聞きながら、お互いに話し合う時間を増やし、
その話し合いにおける力関係を調整することで
家族の構造から問題を解決しようとするアプローチもあります。
家族成員が言葉にしていない感情や期待を汲み取って
他のメンバーに通訳する形で、家族間の気持ちの交流を促す方法もあります。
家族で課題に取り組んでもらい、その課題の進め方を指示したり、
取り組むプロセスをサポートしたりするやり方もあります。
このあたりの違いは、家族療法の中でも流派・技法の違いでもありますし、
その家族療法家が設定するゴールによっても異なるところでしょう。
目下の問題が解決すればいいのか、
家族という機能が改善すればいいのか、
家族自身が自ら問題解決できるようにトレーニングするのがいいのか、
家族が困難にあっても乗り越えられるように絆を深めるのがいいのか…
家族療法という話し合いの場によって何を目指すのかにも違いがあるわけです。
流派として区別できる範囲であれば、家族療法家の中にも
「自分は○○派の家族療法を行います」と明言する人もいますが、
結局のところ、家族療法を受けにくる人たちにしてみたら
そんな名称の区別は知らないのですから、大きな意味を持ちません。
結局のところ、「家族療法」という曖昧なカテゴリーのまま
家族療法家それぞれによって、アプローチもスタンスも異なる
というのが現状なのかもしれません。
ファシリテーションも同様の印象を受けます。
ファシリテーターによって話し合いのゴール設定が異なっていたり、
話し合いのメンバーに対してどのような影響を及ぼそうとするのかも
人それぞれ求めるものが異なっているように見受けられます。
ファシリテーションの中に、家族療法における流派のような
違いがあるのかは知りませんが、少なくとも僕が見てきたファシリテーター達は
それぞれ違ったスタンスで関わっているように見えました。
共通していたのは話し合いのメンバーに対して質問を投げかけたり
発言内容を要約したり、言い換えたり、といった方法論の部分。
何のために質問をするのか?
要約をすることで何を期待しているのか?
ファシリテーターがとる役割によって、話し合いにどんな影響を及ぼしたいのか?
(逆に、どんな影響を及ぼすことを避けようとしているのか?)
…そのあたりには共通点が見当たっていません。
イメージでいうと、テレビのバラエティ番組での司会のような感じです。
出演者に話を振ったり、それに対してコメントを出したり、
話を促したり、全体の進行をしたり、司会者がやることは沢山あります。
そうした一連の作業を「まわす」なんて言うようですが、
その「まわし」のスタンスも人それぞれスタンスがあるみたいです。
お笑い芸人がやるのとニュースキャスターがやるのでも違いますし、
芸人の中でも個人差が大きく見てとれるところです。
それは番組として、どういう笑いを取りたいのか
といったところと関係するのかもしれませんし、
その司会者自身が目指す笑いの形と関係しているのかもしれません。
明石家さんまのような司会の仕方もファシリテーションに含まれるのでしょうが、
明石家さんまの出ている番組は全て、「明石家さんま」の番組になります。
主役は司会者というイメージ。
出演者を最大限効果的に用いて、自分が笑いを生み出していく
といった感じなのでしょうか。
逆に、もっと若手の芸人が司会をやるようなケースだと
出演者全員を好き勝手にさせながら
暴走を止めるようにして進めるような形も見受けられます。
くりーむしちゅー・上田晋也のように、
ゲストがお笑いではなく俳優やミュージシャンのような場合でも
質問の仕方によって上手くコメントを引き出して面白くしていく形もあるようです。
一口にバラエティ番組の司会者といっても色々とあるように
ファシリテーターにも色々とあるのだろうと感じます。
バラエティ番組であれば、とにかく番組が面白くなって人気が出て、それでいて
制作側の趣旨から大きく外れていなければ自由度は高いのかもしれませんが、
ファシリテーションの場合は、話し合いそのものに目的があるはずです。
さらには話し合いの一場面だけでなく、長期的に見たとき
その話し合いの参加者たちがどうなっていくか
というトレーニング的な側面も含まれるといえます。
そこまで考慮すると、ファシリテーターの振る舞いが
どのように話し合いの参加者たちに影響を及ぼすのか?
と注意しておくのは、大切なことではないかと考えられます。
ファシリテーションの進め方次第では話し合いの方向性を
ファシリテーター自身の好みに沿ってコントロールすることもできますし、
ファシリテーターが話し合いの場の中心になることもできてしまいます。
その場に求められるファシリテーターの役割を想定しながら
自分の振る舞いを変えられるのも1つのスタンスなのかもしれません。
とはいえ、自分の思い入れが強い場面でファシリテーションをするときには
どうしても自分の存在価値を表現したくなるもののようですが。
主に複数の人同士の会話(たとえば会議とか)において
全員の話し合いのプロセスを「促す」のが役割のようです。
必ずしも、全員が偏りなく話せるようにするのが目的でもないようですし、
1つの結論に導くのが目的でもないようです。
時間を短縮するとも限らず、かといって沢山話しさえすればいいわけでもない。
ファシリテーターがいると、全員で好き勝手に話をする場合よりも
効果的に話し合いが進むという役割のイメージは思い浮かびますが、
では具体的に何をすることが求められるか?と考えると
なかなか一口に答えにくいような気がします。
おそらくそれは、方向性が不明瞭だからでしょう。
話し合いのゴール設定によって、ファシリテーションの中身は異なるはずです。
家族療法において家族全員と面接をする場合にも
家族療法家はファシリテーターのような役割を担う部分があります。
ただし家族療法家のスタンスによって、
どのように面接を進めるのかには個人差があるものです。
全員から事情を聞いて、家族療法家自身が臨床像を描き、
それに基づいて指示を与えるような方針もあります。
全員から意見を聞きながら、お互いに話し合う時間を増やし、
その話し合いにおける力関係を調整することで
家族の構造から問題を解決しようとするアプローチもあります。
家族成員が言葉にしていない感情や期待を汲み取って
他のメンバーに通訳する形で、家族間の気持ちの交流を促す方法もあります。
家族で課題に取り組んでもらい、その課題の進め方を指示したり、
取り組むプロセスをサポートしたりするやり方もあります。
このあたりの違いは、家族療法の中でも流派・技法の違いでもありますし、
その家族療法家が設定するゴールによっても異なるところでしょう。
目下の問題が解決すればいいのか、
家族という機能が改善すればいいのか、
家族自身が自ら問題解決できるようにトレーニングするのがいいのか、
家族が困難にあっても乗り越えられるように絆を深めるのがいいのか…
家族療法という話し合いの場によって何を目指すのかにも違いがあるわけです。
流派として区別できる範囲であれば、家族療法家の中にも
「自分は○○派の家族療法を行います」と明言する人もいますが、
結局のところ、家族療法を受けにくる人たちにしてみたら
そんな名称の区別は知らないのですから、大きな意味を持ちません。
結局のところ、「家族療法」という曖昧なカテゴリーのまま
家族療法家それぞれによって、アプローチもスタンスも異なる
というのが現状なのかもしれません。
ファシリテーションも同様の印象を受けます。
ファシリテーターによって話し合いのゴール設定が異なっていたり、
話し合いのメンバーに対してどのような影響を及ぼそうとするのかも
人それぞれ求めるものが異なっているように見受けられます。
ファシリテーションの中に、家族療法における流派のような
違いがあるのかは知りませんが、少なくとも僕が見てきたファシリテーター達は
それぞれ違ったスタンスで関わっているように見えました。
共通していたのは話し合いのメンバーに対して質問を投げかけたり
発言内容を要約したり、言い換えたり、といった方法論の部分。
何のために質問をするのか?
要約をすることで何を期待しているのか?
ファシリテーターがとる役割によって、話し合いにどんな影響を及ぼしたいのか?
(逆に、どんな影響を及ぼすことを避けようとしているのか?)
…そのあたりには共通点が見当たっていません。
イメージでいうと、テレビのバラエティ番組での司会のような感じです。
出演者に話を振ったり、それに対してコメントを出したり、
話を促したり、全体の進行をしたり、司会者がやることは沢山あります。
そうした一連の作業を「まわす」なんて言うようですが、
その「まわし」のスタンスも人それぞれスタンスがあるみたいです。
お笑い芸人がやるのとニュースキャスターがやるのでも違いますし、
芸人の中でも個人差が大きく見てとれるところです。
それは番組として、どういう笑いを取りたいのか
といったところと関係するのかもしれませんし、
その司会者自身が目指す笑いの形と関係しているのかもしれません。
明石家さんまのような司会の仕方もファシリテーションに含まれるのでしょうが、
明石家さんまの出ている番組は全て、「明石家さんま」の番組になります。
主役は司会者というイメージ。
出演者を最大限効果的に用いて、自分が笑いを生み出していく
といった感じなのでしょうか。
逆に、もっと若手の芸人が司会をやるようなケースだと
出演者全員を好き勝手にさせながら
暴走を止めるようにして進めるような形も見受けられます。
くりーむしちゅー・上田晋也のように、
ゲストがお笑いではなく俳優やミュージシャンのような場合でも
質問の仕方によって上手くコメントを引き出して面白くしていく形もあるようです。
一口にバラエティ番組の司会者といっても色々とあるように
ファシリテーターにも色々とあるのだろうと感じます。
バラエティ番組であれば、とにかく番組が面白くなって人気が出て、それでいて
制作側の趣旨から大きく外れていなければ自由度は高いのかもしれませんが、
ファシリテーションの場合は、話し合いそのものに目的があるはずです。
さらには話し合いの一場面だけでなく、長期的に見たとき
その話し合いの参加者たちがどうなっていくか
というトレーニング的な側面も含まれるといえます。
そこまで考慮すると、ファシリテーターの振る舞いが
どのように話し合いの参加者たちに影響を及ぼすのか?
と注意しておくのは、大切なことではないかと考えられます。
ファシリテーションの進め方次第では話し合いの方向性を
ファシリテーター自身の好みに沿ってコントロールすることもできますし、
ファシリテーターが話し合いの場の中心になることもできてしまいます。
その場に求められるファシリテーターの役割を想定しながら
自分の振る舞いを変えられるのも1つのスタンスなのかもしれません。
とはいえ、自分の思い入れが強い場面でファシリテーションをするときには
どうしても自分の存在価値を表現したくなるもののようですが。