2015年08月05日
目的のための手段
催眠でよく使われる単語、「トランス」。
学術的には「変性意識状態」と呼ばれますが、
催眠の分野では日常的な親しみを引き出すためか
「トランス」という言葉が選ばれます。
普段の意識とは違って、何かに集中している、もしくは
ボーっとして意識全体が低下している状態を示します。
「普段」というのが、日常生活の中では緊張感をともなった人づきあいや
周囲の安全を警戒しながら歩いているような場面を想定していますから
トランスとは、周囲や他者への警戒心を解いて
目の前の作業に集中したり、ボーっとしたりできる状態だともいえます。
とりわけ、ボーっとするほうのトランスは安心している状態ですから
社会生活のストレスから解放されて、リラックスした体験
といった捉え方をしても良いでしょう。
その意味で、トランス状態は心身を休めて
回復させてくれるような機能を持っていると考えられます。
実際、催眠療法の効果の大きな位置づけとして
トランスを体験することそのものも含まれるはずです。
心身にストレスを抱えている人が、催眠療法家という他者との関わりの中で
リラックスしてボーっとした時間を過ごすことができる。
それだけで人と関わる上でのストレスを軽減させられる、ということです。
睡眠中に記憶の整理をするのと同様に
トランスの最中にも心身の調整がなされるのかもしれません。
瞑想もまたトランスの一種です。
瞑想には流派がありますし、目的を持った取り組み方もあるようですから
全ての瞑想を同じように語ることはできないのでしょうが、
いずれもトランス状態になっているのは確かだと思われます。
催眠は定義上、「他者の手助けを通してトランスに入るプロセス」なので、
一人で静かに行うタイプの瞑想は催眠ではありません。
しかしながら、到達する状態そのものには共通した性質があるわけです。
そして瞑想の効果は医学的、心理学的にデータとして取られています。
瞑想をするとクリエイティブになれるとか、健康度が上がるとか、
そういった「効果」が示されつつある、と。
そして最近では、
「googleの社員が瞑想を取り入れている」とか
「アメリカの企業のエグゼクティブの間では瞑想が流行っている」とか
西洋文化の中での瞑想の効果がアピールされる機会も増えているようです。
西洋文化を経て入ってくると、その手法が評判になる…
というのは日本によくある話ですが、瞑想についてもそうなんでしょう。
「アメリカで流行っているから、日本でもやろう」という話の展開です。
ただし、西洋文化の発想からすると
とかく「効果」に注目しやすくなる傾向があります。
「効果」があるから「意味がある」。
だから「価値がある」。
それゆえに「やるほうが良い」。
そういう論法です。
「やるべき」ことは、「効果のある」ものだ、という発想があって、
それは最近の日本社会でも一般的なものとして根付いているのかもしれません。
僕自身も「たまにはトランスの時間を取ってみたらどうでしょう?」と
提案することがありますが、それについて「何の役に立つのか?」と
質問を受けることは少なくありません。
「役に立つ」、「効果がある」ことだけが取り上げられがちなようです。
催眠のトランスや、瞑想が「効果がある」からやるもの、として認識されやすい。
そういう風潮のようです。
何かのために瞑想をする、何かの役に立つから瞑想をする
といったように、瞑想やトランスが手段として捉えられやすいんです。
しかし、現代人は過剰に目的を意識しているようにも思えます。
常に、「未来の何か」のために今の行動を手段としようとしているのではないか?
瞑想やトランスとは、
未来をより良くするとか、過去のトラウマを解消するとかの手段ではなく、
ただ今を丁寧に体験するというものでもあるようです。
健康になるための食事とか、痩せるための運動といった手段ではなく
食事そのものや運動そのものが喜びとして体験され得るのと同様に、
トランスや瞑想そのものが今を体験する喜びを感じさせてくれる。
そういう側面もまた含まれているはずなんです。
学術的には「変性意識状態」と呼ばれますが、
催眠の分野では日常的な親しみを引き出すためか
「トランス」という言葉が選ばれます。
普段の意識とは違って、何かに集中している、もしくは
ボーっとして意識全体が低下している状態を示します。
「普段」というのが、日常生活の中では緊張感をともなった人づきあいや
周囲の安全を警戒しながら歩いているような場面を想定していますから
トランスとは、周囲や他者への警戒心を解いて
目の前の作業に集中したり、ボーっとしたりできる状態だともいえます。
とりわけ、ボーっとするほうのトランスは安心している状態ですから
社会生活のストレスから解放されて、リラックスした体験
といった捉え方をしても良いでしょう。
その意味で、トランス状態は心身を休めて
回復させてくれるような機能を持っていると考えられます。
実際、催眠療法の効果の大きな位置づけとして
トランスを体験することそのものも含まれるはずです。
心身にストレスを抱えている人が、催眠療法家という他者との関わりの中で
リラックスしてボーっとした時間を過ごすことができる。
それだけで人と関わる上でのストレスを軽減させられる、ということです。
睡眠中に記憶の整理をするのと同様に
トランスの最中にも心身の調整がなされるのかもしれません。
瞑想もまたトランスの一種です。
瞑想には流派がありますし、目的を持った取り組み方もあるようですから
全ての瞑想を同じように語ることはできないのでしょうが、
いずれもトランス状態になっているのは確かだと思われます。
催眠は定義上、「他者の手助けを通してトランスに入るプロセス」なので、
一人で静かに行うタイプの瞑想は催眠ではありません。
しかしながら、到達する状態そのものには共通した性質があるわけです。
そして瞑想の効果は医学的、心理学的にデータとして取られています。
瞑想をするとクリエイティブになれるとか、健康度が上がるとか、
そういった「効果」が示されつつある、と。
そして最近では、
「googleの社員が瞑想を取り入れている」とか
「アメリカの企業のエグゼクティブの間では瞑想が流行っている」とか
西洋文化の中での瞑想の効果がアピールされる機会も増えているようです。
西洋文化を経て入ってくると、その手法が評判になる…
というのは日本によくある話ですが、瞑想についてもそうなんでしょう。
「アメリカで流行っているから、日本でもやろう」という話の展開です。
ただし、西洋文化の発想からすると
とかく「効果」に注目しやすくなる傾向があります。
「効果」があるから「意味がある」。
だから「価値がある」。
それゆえに「やるほうが良い」。
そういう論法です。
「やるべき」ことは、「効果のある」ものだ、という発想があって、
それは最近の日本社会でも一般的なものとして根付いているのかもしれません。
僕自身も「たまにはトランスの時間を取ってみたらどうでしょう?」と
提案することがありますが、それについて「何の役に立つのか?」と
質問を受けることは少なくありません。
「役に立つ」、「効果がある」ことだけが取り上げられがちなようです。
催眠のトランスや、瞑想が「効果がある」からやるもの、として認識されやすい。
そういう風潮のようです。
何かのために瞑想をする、何かの役に立つから瞑想をする
といったように、瞑想やトランスが手段として捉えられやすいんです。
しかし、現代人は過剰に目的を意識しているようにも思えます。
常に、「未来の何か」のために今の行動を手段としようとしているのではないか?
瞑想やトランスとは、
未来をより良くするとか、過去のトラウマを解消するとかの手段ではなく、
ただ今を丁寧に体験するというものでもあるようです。
健康になるための食事とか、痩せるための運動といった手段ではなく
食事そのものや運動そのものが喜びとして体験され得るのと同様に、
トランスや瞑想そのものが今を体験する喜びを感じさせてくれる。
そういう側面もまた含まれているはずなんです。