2015年08月11日
世界の中心で叫ばれていること
以前、「世界の中心で、愛をさけぶ」という映画やドラマが話題になりました。
が、実際に世の中で大部分の人が「さけんでいる」のは
「もっと私を大切にしろ」
というメッセージのようです。
「私はもっと大切にされて当然だ。
だから、こんな粗末な対応をされるのは許せない。
私はもっと大切にされるに値するはずなのに
どうして世の中は私を大事に扱ってくれないんだ?
おかしいじゃないか!
私をこんな目に合わせるヤツは間違っている!」
…そんな感じで不満を述べる人も少なくないように見受けられます。
一言でまとめてしまえば、承認欲求の高いケースが多い、ということ。
程度の差こそあれ、街中で見かける会話の大半は
いかに自分を認めてもらおうかという承認欲求の表れと解釈できます。
自慢話をするのも、愚痴をこぼすのも、
相手からの承認を求めたものといえます。
誰かに対して怒りをぶちまけたり、クレームをつけたりするのも
承認欲求が満たされなかった不満を取り戻そうという怒りの反応です。
自分の正しさや自分の存在価値を他人から認めてもらいたい
という願いが表れているわけです。
それはつまり、
自分が正しいと確認して、自分の存在価値を確認して、
その結果、安心したい
という動機に基づいています。
乱されたくないんです。
期待通りに進んでもらいたい。
いつも通りの状態から外れて不快になるのが嫌なんです。
期待通りの安心できる状態を維持したい。
そのためには、
他人に期待通りの対応をしてもらいたいし、(だから期待外れに不満が沸く)
期待通りでない場合には挽回したいし、(だから怒りを使ってクレームをいう)
自分の正しさを確認したいし、(だから嫌なことがあったら愚痴をいう)
自分の素晴らしさを認めてもらいたいんです。(だから自慢する)
自分の「正しさ」の基準に沿って期待通りに対応してもらったときが
「当然だ」という体験になり、
その基準から外れると「大切にされなかった」体験になる。
自分の「価値」を実感するための基準に沿って期待通りに対応してもらうと
「大切にしてもらった」という体験になる。
このように「大切にされる」感じを人は求めがちだ、ということです。
そして「大切にされる」感じを、いつの頃からか「愛」と結びつけるようになります。
おそらく自分が誰かに好意を持ち始めた頃から、
好意を感じる相手を「大切にしたい」と思う
体験をし始めるからではないでしょうか。
「自分がこの人を大切にしたいと思うのは、『愛している』からだ」
といった解釈が始まるわけです。
どこかで知った「愛」という概念と、
「誰かを他の人よりも大切にしたい」という気持ちとを関連づける。
「大切にしたい」気持ちを「愛」の根拠とするんです。
裏を返せば、その発想は
「愛しているからには、大切にするものだ」
となって、
自分が「愛されている」かどうかの判断にも使われ始めます。
「自分のことを愛しているなら、大切にしてくれるはずだ。
自分を大切にしてくれないのは、愛していないからだ。」
という具合に。
ですから、言い換えると
「もっと私を大切にしろ」
という承認欲求のメッセージは
「私を愛してくれ」
という表現にもなります。
「自分はもっと愛されて当然だ」という自己愛性傾向ともいえるんです。
まるで自分こそが世界で最も大切にされるべき中心人物であるかのように
「私をもっと大切しろ。私が愛されないのは間違っている。もっと愛してくれ。」
と主張している。
つまり、世の中の大部分は
「自分が世界の中心であるかのように、愛してくれと叫んでいる」
ということです。
が、実際に世の中で大部分の人が「さけんでいる」のは
「もっと私を大切にしろ」
というメッセージのようです。
「私はもっと大切にされて当然だ。
だから、こんな粗末な対応をされるのは許せない。
私はもっと大切にされるに値するはずなのに
どうして世の中は私を大事に扱ってくれないんだ?
おかしいじゃないか!
私をこんな目に合わせるヤツは間違っている!」
…そんな感じで不満を述べる人も少なくないように見受けられます。
一言でまとめてしまえば、承認欲求の高いケースが多い、ということ。
程度の差こそあれ、街中で見かける会話の大半は
いかに自分を認めてもらおうかという承認欲求の表れと解釈できます。
自慢話をするのも、愚痴をこぼすのも、
相手からの承認を求めたものといえます。
誰かに対して怒りをぶちまけたり、クレームをつけたりするのも
承認欲求が満たされなかった不満を取り戻そうという怒りの反応です。
自分の正しさや自分の存在価値を他人から認めてもらいたい
という願いが表れているわけです。
それはつまり、
自分が正しいと確認して、自分の存在価値を確認して、
その結果、安心したい
という動機に基づいています。
乱されたくないんです。
期待通りに進んでもらいたい。
いつも通りの状態から外れて不快になるのが嫌なんです。
期待通りの安心できる状態を維持したい。
そのためには、
他人に期待通りの対応をしてもらいたいし、(だから期待外れに不満が沸く)
期待通りでない場合には挽回したいし、(だから怒りを使ってクレームをいう)
自分の正しさを確認したいし、(だから嫌なことがあったら愚痴をいう)
自分の素晴らしさを認めてもらいたいんです。(だから自慢する)
自分の「正しさ」の基準に沿って期待通りに対応してもらったときが
「当然だ」という体験になり、
その基準から外れると「大切にされなかった」体験になる。
自分の「価値」を実感するための基準に沿って期待通りに対応してもらうと
「大切にしてもらった」という体験になる。
このように「大切にされる」感じを人は求めがちだ、ということです。
そして「大切にされる」感じを、いつの頃からか「愛」と結びつけるようになります。
おそらく自分が誰かに好意を持ち始めた頃から、
好意を感じる相手を「大切にしたい」と思う
体験をし始めるからではないでしょうか。
「自分がこの人を大切にしたいと思うのは、『愛している』からだ」
といった解釈が始まるわけです。
どこかで知った「愛」という概念と、
「誰かを他の人よりも大切にしたい」という気持ちとを関連づける。
「大切にしたい」気持ちを「愛」の根拠とするんです。
裏を返せば、その発想は
「愛しているからには、大切にするものだ」
となって、
自分が「愛されている」かどうかの判断にも使われ始めます。
「自分のことを愛しているなら、大切にしてくれるはずだ。
自分を大切にしてくれないのは、愛していないからだ。」
という具合に。
ですから、言い換えると
「もっと私を大切にしろ」
という承認欲求のメッセージは
「私を愛してくれ」
という表現にもなります。
「自分はもっと愛されて当然だ」という自己愛性傾向ともいえるんです。
まるで自分こそが世界で最も大切にされるべき中心人物であるかのように
「私をもっと大切しろ。私が愛されないのは間違っている。もっと愛してくれ。」
と主張している。
つまり、世の中の大部分は
「自分が世界の中心であるかのように、愛してくれと叫んでいる」
ということです。