2015年08月20日
引き寄せられの法則
以前、メンタリストがテレビで流行りました。
ドラマのほうではなくて、パフォーマーのほうです。
いわゆるメンタルマジックのことですが、
どれぐらいテレビ的な事情があったかは抜きにして、
マジックとしてのメンタリズムは実際に行われるものです。
特にメンタリズムで強調されるのは、「操る」という部分。
お客さんは自分の意思でやったつもりだけれども、実は操られていた、と。
例えば、何色ものペンを用意して、その中から一本だけを選ばせます。
「赤はやっぱり目立ちますよね。
意外と紫は選ばれないことが多いんですけど、どうでしょう?
あなたは紫のタイプではないですよね。
それから一本だけ飛び出ている緑は気になりますよね。
ただ、私のシャツの色が青ですから、
知らないうちに青の印象を受けているかもしれません。
もちろん、どれを選んでいただいてもいいんです。
今まで言わなかった黄色を選んでも良いですし、
最初に言った赤を選んでもいいんです。
どうぞ好きな色を選んでください。」
…なんて混乱させるようなことを伝えながら
選択をリードしていくわけです。
そして、目隠しをしている間に、お客さんは1つを選びます。
まあ、仮に赤を選んだとしましょう。
で、メンタリストはそれを当てます。
「いいですね?あなたが選んだのは…赤です!」
「えー!?なんで分かったんですか?」
こんなやりとりが起きます。
実際にはメンタリストが赤を選ばせているんです。
色々と工夫をして。
ところがお客さんのほうは、やっぱり自分が選んだと思いたい。
自分は自分の意思で選んだんだ、と。
メンタリストは心を読んで、それを当てた。
そういう風に理解しようとします。
実際に「心を読んでいる」風にマジックを進めることもありますが、
「実は、私が赤を選ばせたんです」と明かしても納得しない人がいます。
なんかタネがあるんだろう、と考えるんです。
なんとかして調べたとか、協力者がいるとか、そういう発想です。
なかには「本当に心が読めるんでしょう?」なんていう疑い方をする場合さえも。
それぐらい「操られる」というのは受け入れがたいようです。
操られるぐらいだったら、まだ心を読まれているほうがマシ。
それよりもさらに、分からないようにタネを使って騙されているほうがマシ。
どうもそんな傾向が見受けられます。
それぐらい人は、
自分がコントロールの主体であって
自分が自分の意思で結果を生み出している
と解釈したがるんです。
こういう発想はマジックだけに限定されません。
いわゆる「引き寄せ」とか「成功法則」にしても
暗黙のうちに「自分がコントロールしている」という前提になっています。
「強く願っていたら、○○を引き寄せた」とか
「具体的にイメージしたら、夢が叶う」とか。
偶然の可能性だってあります。
その観点で反論する人は少なくありません。
むしろ
「自分がコントロールされていた」
という可能性だってあるはずなんです。
「強く願ったから、○○が引き寄せられた」のではなく、
「○○を願うようにコントロールされていた」のかもしれません。
自分が引き寄せたのではなく、
引き寄せられたのではないか?と。
「具体的にイメージしたら、夢が叶った」のではなく、
「叶うことになっていることが、夢として自然とイメージに浮かんでくる」
という可能性だって否定できません。
イメージしたら夢が叶うのではなく、
叶う夢ほど自然と思い浮かぶのではないか?と。
自分が引き寄せたとか
自分が夢をかなえたと考えたいのは、
コントロールの主体としての自分を想定しているからでしょう。
果たして「自分」には、それだけのコントロールがあるのでしょうか?
現実的に、メンタリストには選択をコントロールされるんです。
知らず知らずのうちに影響を受けて
自分が選ばされていることも多々あるものです。
本当に「自分」が引き寄せたのかは定かではありません。
解釈の1つに過ぎない。
起きた結果を
「自分が願ったから」、「自分がイメージしたから」と
自分が原因として解釈するのか、
それとも
「自分が引き寄せられた」、「導かれた」と
何か別の原因を想定して解釈するのか、
捉え方はいろいろあるはずです。
自分の力では及ばない何かのようなものを想定する一方で、
それでも自分の意思でコントロールしたいというのは
なんとも人間らしいことだと思います。
自分の力を超えた何かがあるのだとしたら
それに全ては導かれていると考えたって良さそうなものです。
でもやっぱり、
自分の力を超えた何かを利用してでも
自分の思い通りにコントロールしたいみたいです。
自分の思い通りにコントロールできている時点で
自分の力を超えていないような気がしなくもないんですが…。
ドラマのほうではなくて、パフォーマーのほうです。
いわゆるメンタルマジックのことですが、
どれぐらいテレビ的な事情があったかは抜きにして、
マジックとしてのメンタリズムは実際に行われるものです。
特にメンタリズムで強調されるのは、「操る」という部分。
お客さんは自分の意思でやったつもりだけれども、実は操られていた、と。
例えば、何色ものペンを用意して、その中から一本だけを選ばせます。
「赤はやっぱり目立ちますよね。
意外と紫は選ばれないことが多いんですけど、どうでしょう?
あなたは紫のタイプではないですよね。
それから一本だけ飛び出ている緑は気になりますよね。
ただ、私のシャツの色が青ですから、
知らないうちに青の印象を受けているかもしれません。
もちろん、どれを選んでいただいてもいいんです。
今まで言わなかった黄色を選んでも良いですし、
最初に言った赤を選んでもいいんです。
どうぞ好きな色を選んでください。」
…なんて混乱させるようなことを伝えながら
選択をリードしていくわけです。
そして、目隠しをしている間に、お客さんは1つを選びます。
まあ、仮に赤を選んだとしましょう。
で、メンタリストはそれを当てます。
「いいですね?あなたが選んだのは…赤です!」
「えー!?なんで分かったんですか?」
こんなやりとりが起きます。
実際にはメンタリストが赤を選ばせているんです。
色々と工夫をして。
ところがお客さんのほうは、やっぱり自分が選んだと思いたい。
自分は自分の意思で選んだんだ、と。
メンタリストは心を読んで、それを当てた。
そういう風に理解しようとします。
実際に「心を読んでいる」風にマジックを進めることもありますが、
「実は、私が赤を選ばせたんです」と明かしても納得しない人がいます。
なんかタネがあるんだろう、と考えるんです。
なんとかして調べたとか、協力者がいるとか、そういう発想です。
なかには「本当に心が読めるんでしょう?」なんていう疑い方をする場合さえも。
それぐらい「操られる」というのは受け入れがたいようです。
操られるぐらいだったら、まだ心を読まれているほうがマシ。
それよりもさらに、分からないようにタネを使って騙されているほうがマシ。
どうもそんな傾向が見受けられます。
それぐらい人は、
自分がコントロールの主体であって
自分が自分の意思で結果を生み出している
と解釈したがるんです。
こういう発想はマジックだけに限定されません。
いわゆる「引き寄せ」とか「成功法則」にしても
暗黙のうちに「自分がコントロールしている」という前提になっています。
「強く願っていたら、○○を引き寄せた」とか
「具体的にイメージしたら、夢が叶う」とか。
偶然の可能性だってあります。
その観点で反論する人は少なくありません。
むしろ
「自分がコントロールされていた」
という可能性だってあるはずなんです。
「強く願ったから、○○が引き寄せられた」のではなく、
「○○を願うようにコントロールされていた」のかもしれません。
自分が引き寄せたのではなく、
引き寄せられたのではないか?と。
「具体的にイメージしたら、夢が叶った」のではなく、
「叶うことになっていることが、夢として自然とイメージに浮かんでくる」
という可能性だって否定できません。
イメージしたら夢が叶うのではなく、
叶う夢ほど自然と思い浮かぶのではないか?と。
自分が引き寄せたとか
自分が夢をかなえたと考えたいのは、
コントロールの主体としての自分を想定しているからでしょう。
果たして「自分」には、それだけのコントロールがあるのでしょうか?
現実的に、メンタリストには選択をコントロールされるんです。
知らず知らずのうちに影響を受けて
自分が選ばされていることも多々あるものです。
本当に「自分」が引き寄せたのかは定かではありません。
解釈の1つに過ぎない。
起きた結果を
「自分が願ったから」、「自分がイメージしたから」と
自分が原因として解釈するのか、
それとも
「自分が引き寄せられた」、「導かれた」と
何か別の原因を想定して解釈するのか、
捉え方はいろいろあるはずです。
自分の力では及ばない何かのようなものを想定する一方で、
それでも自分の意思でコントロールしたいというのは
なんとも人間らしいことだと思います。
自分の力を超えた何かがあるのだとしたら
それに全ては導かれていると考えたって良さそうなものです。
でもやっぱり、
自分の力を超えた何かを利用してでも
自分の思い通りにコントロールしたいみたいです。
自分の思い通りにコントロールできている時点で
自分の力を超えていないような気がしなくもないんですが…。