2015年08月23日
考えさせない方法
なぜだか自宅のインターネット接続がおかしくて
パソコンからのブログ更新が困難な状況です。
とりあえず運に任せて書いてみるばかりですが
どうにもならなければスマホから投稿するほうが賢明かもしれません。
それはともかく、世の中には色々なルールがあるものだと実感します。
それも法律などに限らず、一般常識やマナーとして決められたルールが沢山あります。
中にはルールとして守る根拠が不明確なのに、守るのが当然とされるようなものも。
例えば「電車の優先席付近で携帯電話やスマートフォンの電源を切る」というのも
事実上は根拠のないもののようです。
僕は気になって総務省のホームページで調べたことがありますが、
相当古いペースメーカーの中の一部に、15cm(30cmだったかもしれません)以内で電波を受けると
「誤作動を起こす可能性が否定できない」ものが含まれている
といった程度だったものです。
距離的にいえば、ペースメーカーを心臓に入れている人自身が
携帯電話で通話をしたところで問題のない範囲のようでした。
しかも、一部の製品に「誤作動を起こす恐れがある」程度ですから
誤作動を起こす可能性は非常に低いような記載でした。
ただゼロではなさそうだから念のため、という感じだったのでしょう。
その頃からするとペースメーカーそのものだって技術的に進歩しているはずです。
その一方で、街中を飛び交う電波の量や強さは増していく一方だとも考えられます。
地下鉄でも携帯の電波が届き、至るところに無線WiFiが設定されている。
優先席付近で携帯電話やスマートフォンの電源を切ることに
一体どれだけの効果があるのか?と疑問です。
むしろ、ペースメーカーを入れている人の立場を想像したら
満員電車でスマートフォンを使われるほうがずっと心配ではないでしょうか。
必ずしも優先席へ行けるわけではないのですから。
実際、最近のニュースで
今のペースメーカーで誤作動の起きる心配はない
という発表がなされたそうです。
しかしそんなことは関係ありません。
世の中には「優先席付近では携帯・スマートフォンの電源を切る」というルールを
「正しさ」として振りかざす人たちがいます。
「それはルール違反の正しくない行為だからダメだ」と注意をする人を見かけます。
先日も、音楽プレーヤーで音楽を聞いていただけの若い女性を
高齢の男性が叱りつけている場面を目撃しました。
「音楽を聞いているだけです」と説明しても聞く耳は持ちません。
結局、その女性は電車を降りていきました。
一度ルールが定着して、少なくともその人の中で正しいこととして設定されてしまったら
その内容の根拠については考えることさえなくなってしまうわけです。
厳しくいえば、
ルールを信じるということは考えるのをやめる行為だ
とも考えられます。
ルールは便利なんです。
考えなくて済みますから。
一瞬一瞬、行動と状況の意味を考えながら、結果を予測して、行動を選択するのは大変です。
「青信号は進め、赤信号は止まれ」というルールだけを覚えて
赤信号では必ず止まると決めていれば、全員がルールに従っている限り
事故は起きにくくなるでしょう。
一人一人がその場で適切な判断をしても問題は起きないでしょうが、
全ての人が常に適切な判断ができるとは限りません。
だったらルールにしてしまったほうが『効率的』です。
もしかしたら、あらゆるルールは本来、いらないものなのかもしれません。
一人一人が全ての状況と行動を丁寧に判断して、
関わる他人を思いやりながら、その場で最適な行動をとれば、
何かを決めておく必要なんてないのかもしれません。
でもそれは大変。
現実的に厳しい。
できるだけ問題が起きないように、一部の人が考えた決まりごとが
ルールとして世の中で使われています。
ルールを決める人だけが考えて、他の人たちは考えなくていいんです。
それがルールを運用する段階で起きることです。
ルールを守る人たちは、そのルールの意味なんて考える必要もなく
ただ守って従っている限り大丈夫なんです。
「正しさ」を保証してもらえます。
「自分は正しい」という存在の拠り所を得られるんです。
裏を返せば、ルールを作る権利を持った人たちは
そのルールがどんなものでも、多くの場合は疑われることもなく作ることができます。
一度信じられたルールを変えようとする反発される場合もありますが、
気づかれずに使い続けられているルールも沢山あるはずです。
そしてルールを多く作り、
「ルールに従うことを『正しさ』として尊重する」暗黙のルール
を浸透させられれば、
ほとんどの人はルールを疑うことがなくなります。
ルールについて考えることもなければ、
目の前の出来事についても深く考えなくなる。
極端にいえば
考える必要性を奪うことで
考える習慣や能力を制限している
とも考えられてしまいます。
そんな悪意があるかどうかは知りませんが、
仮に悪意があったとしても気づかなくなってしまうぐらいに
ルールを信じるというのはリスクも伴っている、ということです。
信じるのは楽ですが、ルールについて考えてみるのも意味のあることではないでしょうか。
パソコンからのブログ更新が困難な状況です。
とりあえず運に任せて書いてみるばかりですが
どうにもならなければスマホから投稿するほうが賢明かもしれません。
それはともかく、世の中には色々なルールがあるものだと実感します。
それも法律などに限らず、一般常識やマナーとして決められたルールが沢山あります。
中にはルールとして守る根拠が不明確なのに、守るのが当然とされるようなものも。
例えば「電車の優先席付近で携帯電話やスマートフォンの電源を切る」というのも
事実上は根拠のないもののようです。
僕は気になって総務省のホームページで調べたことがありますが、
相当古いペースメーカーの中の一部に、15cm(30cmだったかもしれません)以内で電波を受けると
「誤作動を起こす可能性が否定できない」ものが含まれている
といった程度だったものです。
距離的にいえば、ペースメーカーを心臓に入れている人自身が
携帯電話で通話をしたところで問題のない範囲のようでした。
しかも、一部の製品に「誤作動を起こす恐れがある」程度ですから
誤作動を起こす可能性は非常に低いような記載でした。
ただゼロではなさそうだから念のため、という感じだったのでしょう。
その頃からするとペースメーカーそのものだって技術的に進歩しているはずです。
その一方で、街中を飛び交う電波の量や強さは増していく一方だとも考えられます。
地下鉄でも携帯の電波が届き、至るところに無線WiFiが設定されている。
優先席付近で携帯電話やスマートフォンの電源を切ることに
一体どれだけの効果があるのか?と疑問です。
むしろ、ペースメーカーを入れている人の立場を想像したら
満員電車でスマートフォンを使われるほうがずっと心配ではないでしょうか。
必ずしも優先席へ行けるわけではないのですから。
実際、最近のニュースで
今のペースメーカーで誤作動の起きる心配はない
という発表がなされたそうです。
しかしそんなことは関係ありません。
世の中には「優先席付近では携帯・スマートフォンの電源を切る」というルールを
「正しさ」として振りかざす人たちがいます。
「それはルール違反の正しくない行為だからダメだ」と注意をする人を見かけます。
先日も、音楽プレーヤーで音楽を聞いていただけの若い女性を
高齢の男性が叱りつけている場面を目撃しました。
「音楽を聞いているだけです」と説明しても聞く耳は持ちません。
結局、その女性は電車を降りていきました。
一度ルールが定着して、少なくともその人の中で正しいこととして設定されてしまったら
その内容の根拠については考えることさえなくなってしまうわけです。
厳しくいえば、
ルールを信じるということは考えるのをやめる行為だ
とも考えられます。
ルールは便利なんです。
考えなくて済みますから。
一瞬一瞬、行動と状況の意味を考えながら、結果を予測して、行動を選択するのは大変です。
「青信号は進め、赤信号は止まれ」というルールだけを覚えて
赤信号では必ず止まると決めていれば、全員がルールに従っている限り
事故は起きにくくなるでしょう。
一人一人がその場で適切な判断をしても問題は起きないでしょうが、
全ての人が常に適切な判断ができるとは限りません。
だったらルールにしてしまったほうが『効率的』です。
もしかしたら、あらゆるルールは本来、いらないものなのかもしれません。
一人一人が全ての状況と行動を丁寧に判断して、
関わる他人を思いやりながら、その場で最適な行動をとれば、
何かを決めておく必要なんてないのかもしれません。
でもそれは大変。
現実的に厳しい。
できるだけ問題が起きないように、一部の人が考えた決まりごとが
ルールとして世の中で使われています。
ルールを決める人だけが考えて、他の人たちは考えなくていいんです。
それがルールを運用する段階で起きることです。
ルールを守る人たちは、そのルールの意味なんて考える必要もなく
ただ守って従っている限り大丈夫なんです。
「正しさ」を保証してもらえます。
「自分は正しい」という存在の拠り所を得られるんです。
裏を返せば、ルールを作る権利を持った人たちは
そのルールがどんなものでも、多くの場合は疑われることもなく作ることができます。
一度信じられたルールを変えようとする反発される場合もありますが、
気づかれずに使い続けられているルールも沢山あるはずです。
そしてルールを多く作り、
「ルールに従うことを『正しさ』として尊重する」暗黙のルール
を浸透させられれば、
ほとんどの人はルールを疑うことがなくなります。
ルールについて考えることもなければ、
目の前の出来事についても深く考えなくなる。
極端にいえば
考える必要性を奪うことで
考える習慣や能力を制限している
とも考えられてしまいます。
そんな悪意があるかどうかは知りませんが、
仮に悪意があったとしても気づかなくなってしまうぐらいに
ルールを信じるというのはリスクも伴っている、ということです。
信じるのは楽ですが、ルールについて考えてみるのも意味のあることではないでしょうか。
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この記事へのコメント
1. Posted by R 2015年08月28日 01:43
環境観察→思考→理解
この深さ広がり情報処理速度を担う無意識の個体差こそがあらゆる価値観を生むのでしょうか。深く理解し信頼ではなく信用すべきなのですかね。
この深さ広がり情報処理速度を担う無意識の個体差こそがあらゆる価値観を生むのでしょうか。深く理解し信頼ではなく信用すべきなのですかね。
2. Posted by 原田 2015年08月30日 16:57
Rさん
深い洞察にどう回答したらいいかと迷いますが…。
自覚できていない価値観や信念は、瞬間的に自動的な反応として表れてしまうようです。そのことについて気にすることもなく、それが当然だと思って物事が進んでいきます。人それぞれの「当然」という考え方、生き方のスタンスの違い、行動の拠り所になるものは、とても個人差の大きいところのようです。
自覚していてもしてなくても個人差が大きいところに加えて、おっしゃる通り、どれだけ広く深く考えて理解しようとするかが、さらにその個人差を大きくするのかと思います。
「信頼ではなく信用」という表現には、人の奥底にある善意を見ようとする雰囲気を感じます。
個人的には、思いやりさえあれば世の中は大丈夫な印象を持っていますが。
深い洞察にどう回答したらいいかと迷いますが…。
自覚できていない価値観や信念は、瞬間的に自動的な反応として表れてしまうようです。そのことについて気にすることもなく、それが当然だと思って物事が進んでいきます。人それぞれの「当然」という考え方、生き方のスタンスの違い、行動の拠り所になるものは、とても個人差の大きいところのようです。
自覚していてもしてなくても個人差が大きいところに加えて、おっしゃる通り、どれだけ広く深く考えて理解しようとするかが、さらにその個人差を大きくするのかと思います。
「信頼ではなく信用」という表現には、人の奥底にある善意を見ようとする雰囲気を感じます。
個人的には、思いやりさえあれば世の中は大丈夫な印象を持っていますが。