2015年09月01日
元も子もない話
世の中には色々な教えがありますが、わりとよく聞くのは
全ての人は皆それぞれ素晴らしい
といった趣旨のものです。
社会的に認められる能力や成果には違いがあるのは認めた上で
人それぞれ違った素晴らしさがあって、それは比べられるものではない
と説明する感じでしょうか。
一人一人の個性には優劣がなく、
誰もが皆、唯一無二のかけがえのない存在だ、というわけです。
「ナンバーワンではなく、オンリーワン」なんていうのも同様のメッセージでしょう。
それで納得できて、気持ちが楽になれれば素晴らしいことだと思います。
しかし、そうした趣旨の言葉が暖かく響くのと同時に、
それだけで心底救われるということもまた少ないようです。
もしそのメッセージだけで誰もが心の底から納得できて
「誰もが皆、違った素晴らしさを持っているんだ。
あの人も素晴らしいし、私も素晴らしい。
だから誰かを羨むことも、誰かを憎むことも、自分をさげすむこともない。」
と自然に思えるようになるとしたら、
世の中から悩みはなくなっているはずです。
でも実情は違います。
むしろ同じようなメッセージが形を変え、発言者を変えて何度も登場する。
そして、そうしたメッセージを聞くたびに
「そうだよなぁ。なんて素晴らしい言葉だろう。その通りだ。感動する。」
などと感じる人がいるようです。
何度でも感動して納得できるということは、
まだ納得しきっていなかったということでもあります。
一時的に「その通りだ」と思える。
しかしすぐに、そう思えない状態に戻ってしまう。
あるいは、自分の心の中に、そのメッセージだけでは納得できない部分もある。
「そうだよなぁ」と思う一方で、
「でも…、そうはいってもやっぱり私なんて…」
といった気持ちが沸いてくることもあるのでしょう。
自分の心の中で、納得できる部分と、納得できない部分とが対立しているから
この種のメッセージを聞くことで、自分を言い聞かせたいのかもしれません。
「でも…、そうはいっても…」と否定したくなるほうの気持ちを抑え
「いや、やっぱり誰もが皆、素晴らしいんだ」と思えるように、
それによって「自分は大丈夫だ」と思えるように、
何度でも同じようなメッセージを繰り返す、ということです。
そのメッセージを聞いて感動している間は、
「でも…、そうはいっても…」という気持ちに流されることなく
「自分は大丈夫」という方向で気持ちをコントロールできるわけです。
もちろん、それで気持ちが楽になるのであれば結構なことですし、
そうやって自分の心を整えるのも1つの方法だといえます。
ただし、
「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」
という発想には、
その言葉の使われ方として避けがたい特徴が含まれているんです。
それは「素晴らしい」というフレーズです。
「素晴らしい」というのは、日常的に使われることもある単語で
「良い」という意味合いをもっています。
ですから良し悪しの判断が使われやすいんです。
「〜なら良い」、「〜は良くない」といった判断基準が連想されやすい。
あらゆることを無条件に「素晴らしい」と実感できる人でない限り、
「〜なのは良い」という条件つきの評価をしてしまいがちです。
「ナンバーワンでなくオンリーワン」というのも
「他人と同じでは良くない」という前提を生みやすいでしょう。
「何か特別なことがなくても、全ての人はオンリーワンだ」と思おうとしても
他の人と違うことを見つける段階で引っかかってしまえば
「やっぱり自分なんて特別ではない、大したことはない」と感じてしまいかねません。
個性の違いを動物や植物に喩える場合もありますが、
例えば、鳥とイモムシを比べれば、鳥のほうをポジティブに捉える人が多く、
バラと雑草を比べれば、バラのほうをポジティブに捉える人が多いはずです。
「イモムシだって、やがてはチョウになれる」なんていう話でも
チョウは蛾やクモやアブラムシよりも望ましいものとしてイメージされていますし、
「雑草なんてない、それぞれに名前があるんだ」と言いながらも、
道端の草よりも花屋に並んだ花のほうがポジティブに感じられやすいでしょう。
それぐらい人は、知らず知らずのうちに、物事に価値の順序をつけているんです。
チョウになるかどうかではなく、イモムシそのものの魅力を素晴らしいと感じて
どんな虫でも甲乙つけがたくて悩んでしまうほどに
「全ての虫は素晴らしい!」
と思える人は滅多にいません。
それだけ「素晴らしい」ということに、基準をつけて判断しているわけです。
「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」と思おうとしたら、自然と
「あの人は、こういうところが素晴らしい」という具合に
「素晴らしい」部分を基準に照らし合わせながら探してしまいやすいんです。
そういう癖が出てきてしまう。
これを避けるのが大変です。
言い換えるなら、「素晴らしい」ことには、「価値がある」前提が含まれます。
「別に、何かの能力に秀でいなくてもいい。
何もできなくてもいいし、特別でなくてもいい。
それでも、全ての人は生きているだけで価値があるんです。」
そんな言い方にしたとしても、結局は
価値がある=良いこと
という前提が外れません。
そして「存在そのものに価値がある」と言われても、
実社会では、価値があることを証明するために努力をしている現実があります。
価値は常に他者からも、自分からも、客観的に評価されているんです。
そして、その価値の大小を評価されて、値段をつけられている。
自分の価値を他人と比べることが、常日頃からなされているのが現状です。
それだけ積み重ねられた「どれだけの価値があるか」を判断する経験があるのに、
「いや、生きているだけで価値があるんです」と言われるぐらいでは、
染みついてしまった考えはカンタンには変わりません。
「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」という考え方に納得ができても、
長年かけて染みついてきた
「素晴らしさの度合いに応じて価値の大きさを評価する」
という発想は打ち消しきれないわけです。
だったら、いっそのこと逆転の発想にしてしまってはどうでしょうか?
「そもそも全ての物事に価値なんてない」
「全ては無意味で、無駄なものだ」
「人生に意味なんてないし、生きることに目的も価値も存在しない」
「使命だの天命だのは単なるこじつけ」
最初っから、意味も価値もないものだと考えてみるんです。
自分の人生には意味なんてないし、価値もない。
他の人の人生にだって、意味も価値もない、と。
仕事で成功するとか、夢を実現するとか、幸せな生活をするとか、
人から尊敬されるとか、誰かから大切にしてもらうとか、社会に貢献するとか、
誰かの役に立って感謝されるとか、世の中を平和にするとか…。
そんなものはそもそも何の価値もない、無意味なことだとしてみる。
だから誰かが成功していようが、活躍していようが、お金持ちになっていようが、
頑張っていようが、イキイキと楽しそうにしていようが、
全部無駄なことをやっているんだと考えてみるんです。
当然、自分がどんな状況にあっても同じです。
それもまた意味も価値もないことだと考えます。
誰が偉いということなければ、誰がスゴイということもない。
誰が優れていて、誰が劣っているということもない。
そもそも全てに価値も意味もないんだから。
最初から無意味なことで優劣を競いあっているに過ぎないんだ、と。
バカバカしい話なんだ、と。
そう考えれば、誰かを羨ましく思う必要もありません。
自分を卑下する必要もありません。
誰もが皆、もともと価値なんてないんですから。
価値の大きさの違いさえ出ません。
そもそも価値なんてものが存在しないんですから。
そして、なんの意味もない不毛なことでジタバタしている人たちを
可愛らしいものだと思って眺めてみる。
「今年、サンタさんは僕が欲しかったオモチャをくれたよ」
「えー?僕のところには百科事典しかくれなかった。サンタさんは不公平だ」
「そんなことないよ、ちゃんとサンタさんに手紙を書けば欲しいものをくれるよ」
「そうなの?知らなかった。ズルイよー。」
なんて話をしている子供たちを
「可愛いものだなぁ…」
と眺めるような感じです。
そんな風に、すべては無意味なものとして捉えようとするほうが
よっぽど悩み、苦しみ、不満がなくなるのではないでしょうか。
まぁ、そう思えれば…の話ですが。
全ての人は皆それぞれ素晴らしい
といった趣旨のものです。
社会的に認められる能力や成果には違いがあるのは認めた上で
人それぞれ違った素晴らしさがあって、それは比べられるものではない
と説明する感じでしょうか。
一人一人の個性には優劣がなく、
誰もが皆、唯一無二のかけがえのない存在だ、というわけです。
「ナンバーワンではなく、オンリーワン」なんていうのも同様のメッセージでしょう。
それで納得できて、気持ちが楽になれれば素晴らしいことだと思います。
しかし、そうした趣旨の言葉が暖かく響くのと同時に、
それだけで心底救われるということもまた少ないようです。
もしそのメッセージだけで誰もが心の底から納得できて
「誰もが皆、違った素晴らしさを持っているんだ。
あの人も素晴らしいし、私も素晴らしい。
だから誰かを羨むことも、誰かを憎むことも、自分をさげすむこともない。」
と自然に思えるようになるとしたら、
世の中から悩みはなくなっているはずです。
でも実情は違います。
むしろ同じようなメッセージが形を変え、発言者を変えて何度も登場する。
そして、そうしたメッセージを聞くたびに
「そうだよなぁ。なんて素晴らしい言葉だろう。その通りだ。感動する。」
などと感じる人がいるようです。
何度でも感動して納得できるということは、
まだ納得しきっていなかったということでもあります。
一時的に「その通りだ」と思える。
しかしすぐに、そう思えない状態に戻ってしまう。
あるいは、自分の心の中に、そのメッセージだけでは納得できない部分もある。
「そうだよなぁ」と思う一方で、
「でも…、そうはいってもやっぱり私なんて…」
といった気持ちが沸いてくることもあるのでしょう。
自分の心の中で、納得できる部分と、納得できない部分とが対立しているから
この種のメッセージを聞くことで、自分を言い聞かせたいのかもしれません。
「でも…、そうはいっても…」と否定したくなるほうの気持ちを抑え
「いや、やっぱり誰もが皆、素晴らしいんだ」と思えるように、
それによって「自分は大丈夫だ」と思えるように、
何度でも同じようなメッセージを繰り返す、ということです。
そのメッセージを聞いて感動している間は、
「でも…、そうはいっても…」という気持ちに流されることなく
「自分は大丈夫」という方向で気持ちをコントロールできるわけです。
もちろん、それで気持ちが楽になるのであれば結構なことですし、
そうやって自分の心を整えるのも1つの方法だといえます。
ただし、
「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」
という発想には、
その言葉の使われ方として避けがたい特徴が含まれているんです。
それは「素晴らしい」というフレーズです。
「素晴らしい」というのは、日常的に使われることもある単語で
「良い」という意味合いをもっています。
ですから良し悪しの判断が使われやすいんです。
「〜なら良い」、「〜は良くない」といった判断基準が連想されやすい。
あらゆることを無条件に「素晴らしい」と実感できる人でない限り、
「〜なのは良い」という条件つきの評価をしてしまいがちです。
「ナンバーワンでなくオンリーワン」というのも
「他人と同じでは良くない」という前提を生みやすいでしょう。
「何か特別なことがなくても、全ての人はオンリーワンだ」と思おうとしても
他の人と違うことを見つける段階で引っかかってしまえば
「やっぱり自分なんて特別ではない、大したことはない」と感じてしまいかねません。
個性の違いを動物や植物に喩える場合もありますが、
例えば、鳥とイモムシを比べれば、鳥のほうをポジティブに捉える人が多く、
バラと雑草を比べれば、バラのほうをポジティブに捉える人が多いはずです。
「イモムシだって、やがてはチョウになれる」なんていう話でも
チョウは蛾やクモやアブラムシよりも望ましいものとしてイメージされていますし、
「雑草なんてない、それぞれに名前があるんだ」と言いながらも、
道端の草よりも花屋に並んだ花のほうがポジティブに感じられやすいでしょう。
それぐらい人は、知らず知らずのうちに、物事に価値の順序をつけているんです。
チョウになるかどうかではなく、イモムシそのものの魅力を素晴らしいと感じて
どんな虫でも甲乙つけがたくて悩んでしまうほどに
「全ての虫は素晴らしい!」
と思える人は滅多にいません。
それだけ「素晴らしい」ということに、基準をつけて判断しているわけです。
「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」と思おうとしたら、自然と
「あの人は、こういうところが素晴らしい」という具合に
「素晴らしい」部分を基準に照らし合わせながら探してしまいやすいんです。
そういう癖が出てきてしまう。
これを避けるのが大変です。
言い換えるなら、「素晴らしい」ことには、「価値がある」前提が含まれます。
「別に、何かの能力に秀でいなくてもいい。
何もできなくてもいいし、特別でなくてもいい。
それでも、全ての人は生きているだけで価値があるんです。」
そんな言い方にしたとしても、結局は
価値がある=良いこと
という前提が外れません。
そして「存在そのものに価値がある」と言われても、
実社会では、価値があることを証明するために努力をしている現実があります。
価値は常に他者からも、自分からも、客観的に評価されているんです。
そして、その価値の大小を評価されて、値段をつけられている。
自分の価値を他人と比べることが、常日頃からなされているのが現状です。
それだけ積み重ねられた「どれだけの価値があるか」を判断する経験があるのに、
「いや、生きているだけで価値があるんです」と言われるぐらいでは、
染みついてしまった考えはカンタンには変わりません。
「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」という考え方に納得ができても、
長年かけて染みついてきた
「素晴らしさの度合いに応じて価値の大きさを評価する」
という発想は打ち消しきれないわけです。
だったら、いっそのこと逆転の発想にしてしまってはどうでしょうか?
「そもそも全ての物事に価値なんてない」
「全ては無意味で、無駄なものだ」
「人生に意味なんてないし、生きることに目的も価値も存在しない」
「使命だの天命だのは単なるこじつけ」
最初っから、意味も価値もないものだと考えてみるんです。
自分の人生には意味なんてないし、価値もない。
他の人の人生にだって、意味も価値もない、と。
仕事で成功するとか、夢を実現するとか、幸せな生活をするとか、
人から尊敬されるとか、誰かから大切にしてもらうとか、社会に貢献するとか、
誰かの役に立って感謝されるとか、世の中を平和にするとか…。
そんなものはそもそも何の価値もない、無意味なことだとしてみる。
だから誰かが成功していようが、活躍していようが、お金持ちになっていようが、
頑張っていようが、イキイキと楽しそうにしていようが、
全部無駄なことをやっているんだと考えてみるんです。
当然、自分がどんな状況にあっても同じです。
それもまた意味も価値もないことだと考えます。
誰が偉いということなければ、誰がスゴイということもない。
誰が優れていて、誰が劣っているということもない。
そもそも全てに価値も意味もないんだから。
最初から無意味なことで優劣を競いあっているに過ぎないんだ、と。
バカバカしい話なんだ、と。
そう考えれば、誰かを羨ましく思う必要もありません。
自分を卑下する必要もありません。
誰もが皆、もともと価値なんてないんですから。
価値の大きさの違いさえ出ません。
そもそも価値なんてものが存在しないんですから。
そして、なんの意味もない不毛なことでジタバタしている人たちを
可愛らしいものだと思って眺めてみる。
「今年、サンタさんは僕が欲しかったオモチャをくれたよ」
「えー?僕のところには百科事典しかくれなかった。サンタさんは不公平だ」
「そんなことないよ、ちゃんとサンタさんに手紙を書けば欲しいものをくれるよ」
「そうなの?知らなかった。ズルイよー。」
なんて話をしている子供たちを
「可愛いものだなぁ…」
と眺めるような感じです。
そんな風に、すべては無意味なものとして捉えようとするほうが
よっぽど悩み、苦しみ、不満がなくなるのではないでしょうか。
まぁ、そう思えれば…の話ですが。